◆「イチニツイテ」「ヨーイ!」

短距離競走では、号砲によるスタート合図の前に、発走の合図をする「スターター(正しくは出発係)」という競技役員によって発せられる、「位置について=On your marks」と「用意=Set」という、二段階の「コール」があります。スタンディングスタートの中長距離走では、「位置について」の一回のみです。(陸上競技にあまり詳しくないと、これを知らない方が
意外に多くて、市井のマラソン大会などで「位置について……ヨーイ!」とやってしまいランナーをずっこけさせる、ということがあります)
以前はこのスタートコールは、「開催国の言語で行う」というルールだったのですが、2007年のルール改正で英語の「On your marks」「Set」に統一され、日本国内でも日本陸連が関与する規模の大会では、すべて英語でコールされることになっています。
スターター
  ※「セイコー陸上競技システム総合カタログ」より

短距離走で「位置について」のコールを受けたら、選手はスタートラインの手前ぎりぎりの所に(ラインに触れないように)両手を着き、あらかじめセットしたスターティングブロックに足を乗せて構えます。この構えで静止した状態が、「位置についた」と判断される体勢です。
スターターは、選手全員が「位置についた」ことを確認した上で、「用意」のコールをします。この合図で選手は腰を上げて体の重心を前に移動させることによって、すぐに全力ダッシュが始められる体勢をとります。
この姿勢を長時間続けることは体力的にも精神的にも困難で、1964年東京オリンピックの男子100m決勝でスターターを務めた故・佐々木吉蔵さんによれば、「『用意のヨ』から『ドン!』までは1.6秒から1.8秒が理想」とのことで、選手によっては「2秒を超えると眠くなる」と言う人もいるそうです。選手はそれほどに極限にまで張り詰めた精神状態に置かれるわけですが、近年はより正確で公平なスタートを期するあまりに少々この「間」が長くなる傾向があるように見受けられます。いずれにしろ、短距離走のスタートを取り仕切るスターターの仕事は、極めて繊細で熟練を要するものであることは確かです。

「位置について」の構えは、「用意」で腰を上げた時に最大限の爆発力が得られるよう、体格や体の使い方に合せた姿勢をそれぞれの選手が身に着けていて、それを実現するための手の開き具合と足の位置を決める必要があります。スタートの準備をする選手たちをよく観察していると、スタブロ本体を置く位置、左右の足を置く位置などを慎重に測りながら決めていく人もいれば、大ざっぱに位置決めしてから足を乗せてみて微調整していく人もいるなど、いろいろな流儀があるようです。

たとえば、往年の日本のエース・飯島秀雄さんやドーピングで偉業を台無しにしたベン・ジョンソンが得意にしていた「ロケットスタート」と呼ばれるスタイルでは、両手を大きく開き、足もできるだけ遠めに置いて、まるで地面に這いつくばるような低い体勢からスタートします。よほどの筋力と速いピッチがないと前には進めず倒れてしまったり空転してしまう、極端な前傾スタートです。通常は両手は「肩幅より少し広く」、前足は「ラインから1.5~2足長(「足長」は靴のサイズ)」、後ろ足は「前足から1~1.5足長」といったあたりが標準でしょうか。100m競走のスタート位置に並んだ全選手のスタブロの位置を見比べてみると、人によってかなり足の位置が異なることに驚かれるかもしれません。

エバニュー(Evernew) スターティングブロック 平行連結式スタブロRST EGA017
エバニュー(Evernew) スターティングブロック 平行連結式スタブロRST EGA017

ジョンソン
  ベン・ジョンソンのロケットスタートの構え。

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細かいルールになりますが、「位置について」では「少なくとも片方の膝が地面に着いていること」を規定しています。このルールを曲解した審判員によって、2003年のパリ世界選手権でちょっとした「事件」がありました。
この大会で日本人として初めて短距離種目(ハードルを除く)のメダルを獲得することになる末續慎吾選手が、その200m決勝のスタートの際に、「位置についての姿勢がルールに抵触する」と指摘されて注意を受けたのです。末續選手の「位置について」は、左右の足の前後間隔が極端に少ない(つまり前足を極端に後ろに引いている)独特の構えで、このため「位置について」では両脚の膝が地面に着く体勢になります。前記のルールを生半可に理解していた審判が「両膝を着いてはいけない」と勘違いして注意を与えたというアクシデントでした。幸い末續選手は動ずることなく言われたとおりに姿勢を修正し、その慣れないスタートにも関わらず3着に食い込んで銅メダルを獲得しましたが、結果が悪ければ大問題にもなりかねない審判のミステークでした。
末次慎吾
  「なんば」と言われる末續慎吾選手のスタート独特の構え

◆永遠の課題「フライング」の判定
スタートのピストル音(「号砲」と言います)が鳴る前に走者がスタート動作を開始してしまうと、不正スタートとなる……これは常識ですね。
こうした不正スタートは通常「フライング」と呼ばれて、日常会話の中でも、ちょっと逸って行動を起こしたりする場合などに使われる言葉です。ただしこれは和製英語で、自転車競技やモータースポーツ、ヨット競技などの「助走をつけてスタートラインを通過するスタート方式」を表す「フライング・スタート」に由来しています。英語では「false start(フォールス・スタート)」と言うのが一般的で、これにはいわゆるフライング以外の不正スタートの意味も含まれます。

次回はこのフライング=不正スタートについて、ちょっと掘り下げてみましょう。