短距離走、特に100m競走について語る時、フライング(正しくはフォールス・スタート)について避けて通ることはできません。人はなぜフライングを犯してしまうのか、それを摘発・防止するためにどんな工夫や技術の歩みがあったのか、そのあたりを考えてみたいと思います。


◆フライング判定の仕組み
陸上競技短距離走の場合、号砲の前に「スタート動作を起こす」だけではなく、スタート動作に直接関係のない体の動きがあった場合も不正と見なされることがあります。
さらに厳密に言うと、号砲が鳴らされてから0.1秒未満の間にこれらの動きがあった場合も、不正スタートとなります。これは、現在の生理科学的知見では、「人間の反射神経では合図の音を聞いて動作を起こすのに少なくとも0.1秒以上の時間を要する」とされているためで、すなわち0.1秒より前に動作を起こした場合は「音を聞く前に脳が動作を開始する指令を発した」と解釈されるからです。
この微細な反応時間をチェックするために、スターティングブロックの使用が義務付けられているわけです。スタブロはスタートピストルと計時装置にケーブルで接続されていて、号砲が鳴って選手がスタートを切る、すなわちスタブロに選手の動きが伝わると瞬時に選手ごとの「号砲から動作開始までの時間」を計測し、コンピューターの画面に表示させます。この時間が0.1秒未満だった場合、即座に2度目の号砲音と警告音が鳴って不正スタートを報せるので、選手も即座にスタートのやり直しを知ってレースを中断することができるのです。
スターティングブロックは、スタート動作のために強く蹴られる圧力はもちろんのこと、ちょっとした体の動きがあってもそれが足にまで伝われば、その動きを感知して反応時間として計測します。「動きかけたけどやめた」くらいのピクリとした動作など、簡単に検知してしまいます。

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https://www.seiko-sts.co.jp/products/sports/cat02/002.html
(セイコータイムシステム株式会社HP)より


ちなみに、スタートピストルは一種の電子機器で、ピストルそのものから音が出ているわけではありません。
日本の代表的メーカーであるSEIKOのシステムの場合、ピストルを操作することによって選手のすぐ近くにある「サブピストル」と呼ばれる装置で雷管を爆発させて音を出しています。
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SEIKOのスタートピストルとサブピストル(黄色いボックス状の機器)
「セイコー陸上競技システム総合カタログ」より


いっぽう、オリンピックやダイヤモンドリーグなどの公式計時を担当するOMEGAでは、個々のスターティングブロックに装着されたスピーカーから電子音を出しています。
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OMEGA社製のスターティングブロックとスタートピストル
https://www.omegawatches.jp/ja/planet-omega/sport/our-sports/athletics/ より



0.0何秒かを競う競技では、スターターのピストルと選手との間にある距離は音の伝達時間が問題になりますし、また選手のスタート位置によって音が到達する時間が微妙に異なってしまいます。これらはそういった問題を解消するための装置です。

手動計時の時代には、雷管を爆発させて大きな音と炎を出す仕組みのピストルが使われていました。電子機器のスタートピストルもそれに似せた形状や音になっています。
もちろん、現在でもこうした計時システムを使えない規模の大会では雷管のピストルを使い、フライングの判定もスターターおよび出発審判員の目視によるものです。走者の動きを外から見ているこれらの役員も、号砲を聞いてから選手の始動を認識しますので、フライングの判定は意外に正確にできるものです。


ただ、電子機器のなかった時代には、いわゆる「見切り発進」を試みる走者がいました。俗に言う「引っかけてやる」という行為で、号砲のタイミングをあらかじめ予測してジャストミートのスタートを狙うというものです。
号砲とまったく同時ではさすがにフライングを取られますが、今では機械が反応してしまう0.0何秒かでのスタートならば、見逃されるチャンスがあります。たとえフライングを取られたとしても、当時は一発で失格になることはありませんでしたから、1回目のスタートでは「狙ったフライング」が後を絶たないような状況でした。優秀なスターターほど「用意」から「ドン!」までの間隔が一定しているので狙われやすかったというのが、皮肉です。

トップクラスのスプリンターの反応時間は、早い人で0.12秒から0.13秒くらい、スタートが苦手とされる人の場合はバラつきが大きく、0.15~0.18秒くらいです。0.2秒かかってしまっては、完全に「失敗スタート」と言えます。前章で述べたように、100m走における100分の何秒かは、走者にとって大変重要です。スタートで0.0何秒かを稼ぐということは距離にして数十センチを稼ぐことになり、それができれば極めて有利にレースを展開することができるのですから、ついついよからぬことを考える人が出てくるわけですね。
今でも小中学校レベルや地区大会などの規模で電子機器を使わずフライングも1回は許されるローカルルールが適用されているレースでは、そういうことを試みる輩がいるかもしれません。しかしそうして勝ち進んだところで、上のレベルの大会へ行ってつい悪い癖を出してしまうとレースをしないうちに失格してしまいます。「絶対にフライングをしない」心構えと習慣は、競技を始めた当初から徹底して身に着けるべき、スプリンターの第一歩と言ってよいでしょう。

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2015年北京世界選手権における男子100m決勝のリザルト。右端の「リアクションタイム」が、号砲が鳴って動作を起こすまでの時間です。スタートに難のあるボルトにしては好スタート、逆にスタート得意のはずのガトリンはやや失敗気味。これがフィニッシュの0.01秒の明暗を分けました。

フライングにまつわるお話は、まだまだ続きます。