豊大先生流・陸上競技のミカタ

陸上競技を見続けて半世紀。「かけっこ」をこよなく愛するオヤジの長文日記です。 (2016年6月9日開設)

東京帝国大学

<連載>100m競走を語ろう ⑯~藤井實とその時代(後篇)



前回の続きです。

藤井實の活躍の舞台となった、「東京帝国大学運動会」の歴史を調べていくと、資料によってさまざまな見解の相違や事実関係の若干の食い違いなどが見つかってきて、どれを「正史」とするかは本論の主旨ではないとはいえ、いささか気にかかります。
紛らわしいのは、「運動会」という名称が、現在も連綿と続いている「一般財団法人東京大学運動会」(発足当初は「社団法人帝国大学運動会」)と混同されやすい点です。この場合の「運動会」とは、他の大学では「体育会」と称されることが多い、学内運動部の統括組織の名称なのです。イベント名称の「運動会」を言う場合は、「陸上運動会」とするのが適切なようです。
このあたりを踏まえて、資料に記載された出来事を、時系列的に少し整理しておきたいと思います。

- 1883年(明治16年)6月16日、イギリス人ストレンジ教師らの尽力により「東京帝国大学運動会」開催
※「論文」6ページに記載も出典不明。ただ当時の名称は「東京大学」であり、「帝国大学」は1886年から、「東京帝国大学」は1897年からの名称なので、疑問符あり。

- 1885年(明治18年)6月6日、いわゆる「御殿下グラウンド」にて「大学・予備門合同の陸上運動会」開催
※「論文」11ページ記載。出典は「スポーツ八十年史」(1958年・日本体育協会)下記の「120年史」に「運動会は帝大発足前にも2回神田一ツ橋で行われた」とあるため、1883年を「(帝大発足前の)第1回」としても事実関係は矛盾しない。

- 1886年(明治19年)10月21日、陸上運動会開催
※「東京大学陸上運動倶楽部(いわゆる東大陸上部)120年史」に記載。同史によればこれを「第1回帝大運動会」とするも、同じ文書に1887年を「第1回」とする記述も混在しており、真偽不明。この年、組織改正により「帝国大学」設立とともに、「社団法人帝国大学運動会」が発足。

- 1887年(明治20年)、春の「水上運動会」(漕艇大会)開催。秋(日程不明)の「陸上運動会」と2大行事に。
※「論文」11ページ。

- 1902年(明治35年)11月8日、100m優勝者競走で藤井實が電気計時10秒24を記録
※「論文」14ページ。本人の手記「思い出」によれば「1904年11月8日」。

- 1904年(明治37年)11月12日、藤井實200mを25秒74で制す
※「論文」13ページ。これにより、電気計時が少なくとも3年がかりで試行されていたのか、100mの「10秒24」もこの年の出来事だったのか、事実認定が難しくなる。

- 1905年(明治38年)11月11日、藤井實、棒高跳で3m66の世界最高記録
※「論文」14ページ。15ページに「思い出」抜粋記事。

- 1906年(明治39年)11月10日、藤井實(OBとして参加)、棒高跳で3m90の世界最高記録

※同上。なお、これら数年の記録より、「陸上運動会」が11月第2土曜日に開催が定着していたことが知れる。藤井の「思い出」で10秒24が「1904年11月8日」とあるのは、年号か日付かどちらかの記憶違いであろう。

と、まあ東大に残る資料からしても当初は記憶頼りのところもあったでしょうし、「事実」を確定するのはなかなか難しいことです。もしこの先、時間がありましたら古い新聞なども調べて、この分野の研究を進めてみたいところです。


◆スプリンターとしての藤井實
「10秒24」という途轍もないレコードが一人歩きするような状況で、スプリンターとしての藤井の実像は幻影に包まれてしまいがちですが、論文「夏目漱石『三四郎』の比較文化的研究」(2011年・土屋知子)の中には、小説『三四郎』の中に突如現れた藤井(がモデルと思われる人物)が1着を占めた競走について、次のように語られていることが紹介されています。

 一番に到着したものが、紫の猿股を穿いて婦人席の方を向いて立ってゐる。能く見ると昨夜の親睦会で演説をした学生に似てゐる。あゝ背が高くては一番になる筈である。計測掛が黒板に二十五秒七四と書いた。書き終わつて、余りの白墨を向へ抛(な)げて、此方をむいた所を見ると野々宮さんであった。・・・
 ※「野々宮さん」のモデルは、電気計時装置の開発で田中舘教授の助手を務めた寺田寅彦。漱石の文学上の弟子格でもあった。

『三四郎』に描かれる「帝大運動会」の模様は1907年(明治40年)の設定なのですが、執筆にあたって漱石が取材をしたのは、1903年から06年にかけての何回かの大会であったと考えられます。(1902年12月まで漱石はロンドン在住)
特に冒頭に三四郎が感想を述べる「
大きな日の丸と英吉利の国旗が交叉してある」という光景は、1902年に締結された日英同盟の記念と、イギリスから伝えられた陸上競技の象徴と、2つの意味を持ったアイキャッチャーだったと思われます。
藤井が200mを25秒74で制したのは1904年の大会で、これは記録に残っているようです。いっぽう、100mの10秒24というのは「優勝者競走」(短距離走の優勝者と2着、または優勝者のみで行う記録挑戦のための再レース)で出された記録のため、前述のように1902年のことか04年のことかが判然としない、となってしまっているわけです。

この10秒24を別にすると、100mにおける藤井の数年間の優勝タイムは11秒台後半から12秒台というもので、1912年に日本のオリンピック選手第1号となった、5年ほど後輩の三島弥彦の記録とだいたい同程度だったのではないか、と推測されます。そして、この水準の100mのタイムであれば、200mの25秒74というのはまずまず順当なところ、ということにもなります。
手動計時で1回でも10秒台の記録を残しているのなら「あるいは?」と考えることも可能でしょうが、ただ一度の「10秒24」が突出しすぎているのですね。とはいえ、この「10秒24」という数字の迫力は、現代の日本での100m競走を見慣れている私たちだからこそ感じられる絶妙のもので、そこに測り知れないほどのロマンを感じてしまいますよね。

結論として、スプリンターとしての藤井實は、創成期の日本陸上界にあっては傑出した存在だったとはいえ、「世界」と比べた場合にはすでに10秒台に突入していた100m、1904年セントルイス・オリンピックの優勝記録が21秒6だった200m、ともにやや見劣りがする、そんな水準だったのではないか、と判断されます。



◆ヴォールターとしての藤井實

藤井實02
3m66の世界最高記録を跳び「絵葉書にもなった」という写真。
(「論文」14ページ、出典は「日本スポーツ八十年史」)


前述のように、藤井は大学4年の運動会で3m66、卒業して外務省に入省しOBとしての参加となった1906年には3m90という高さをクリアしています。こちらのほうは、若干の計測精度の不備があったとしても大きな「間違い」とはなりようがなく、掛け値なしの「世界最高記録」だったと思われます。

国際陸連が発足する1912年より以前のため「世界記録」というものは公式に存在していませんが、1905年時点ではアメリカのマックラナンという選手が跳んだ「12フィート(3.6576m)」が最高記録らしいということで、藤井の3m66は僅差で世界最高、またはタイ記録。その後サムスという選手が12フィート487(3.806m)を跳んだのを藤井の3m90が上回ったわけです。ちなみに1904年のオリンピック優勝記録は3m50、1908年でも3m71に過ぎません。

短距離走に抜きんでた実力を持っていた藤井は、跳躍・投擲などにも大活躍したマルチ・アスリートだったに違いなく、中でも設備や用具の点から取っ掛かりの難しい棒高跳という特殊な種目にこれほどまでの情熱を傾けて取り組んでいたことは、瞠目すべき事実だと思います。
その世界的記録の裏付けになったものは、類まれな身体能力とともに、前回ご紹介した「竹製ポール」というオリジナルの用具開発が大きかったでしょう。
3m66を跳んだ1905年より前の3年間の記録が3m075、3m103、3m255だったことから推測して、この1905年に、藤井自ら開発・製作した竹製ポールが3年という乾燥期間を経て投入されたのではないか、と思います。だとすれば、フジイ・オリジナルの竹製ポールが活用されたのは、この年と翌年の、たった2年間…藤井がその後も競技を続けていたならば、どこまで記録が伸びたものか、とうぜん世界初の4mヴォールターの栄誉や、史実より1開催早い1908年での日本人オリンピック初出場・初優勝もあり得たのではないかと、こちらもロマンは限りなく溢れています。

◆藤井實の生きた時代
藤井は1906年の陸上運動会出場、棒高跳での世界最高記録樹立を置き土産に、陸上競技とはすっぱりと縁を絶ち、日本陸連の誕生や後進の指導に携わることもなく、以後は外務官僚として激動の時代を生き抜くことになります。

漱石が目撃し200mの模様を『三四郎』にも書き記した陸上運動会の開催された1904年といえば、歴史好きの方であればすぐにピンと来るでしょうが、日露戦争が開戦したまさにその年です。
夏目漱石、日露戦争、東京帝大というキーワードからは、日本海海戦大勝利の立役者であった秋山真之の名がすぐに連想されます。司馬遼太郎の『坂の上の雲』に描かれたこの時代は、日本にとって深刻な大転換期でもあり、「貧困とひたむきな明るさ」のイメージに彩られた明治期のハイライト的な一時代だったと言えるでしょう。まして陸上運動会の行われた11月は、戦史に名高い旅順要塞の攻防戦が佳境を迎えつつあるという、長閑に運動会で駆けまわったり、女性観客をナンパしたりというには、あまりにも重大な世相が絡んできているはずです。
そうした大変な時代の真っただ中にあって、誰にも邪魔されることもなくスポーツマンとしての活動に没頭し、3年かけて棒高跳のポールを作るような作業に取り組んでいた藤井が、
「こういうことをいつまでもやっているなんて許されない。競技生活は学生のうち限り」
と決意していた心情は、察するに余りあるものがあります。僅かに棒高跳でやり残したことをOB1年目の秋に3m90という大記録で「完遂」した後は、また並々ならぬ決意で外交の世界へと身を投じたものに違いありません。


藤井は、各地の大使館勤務、大使などを歴任した後、1928年(昭和5年)に日本陸軍の対中国強硬姿勢に反発して外務省を退官、以後は日本外交協会理事として民間の立場から、非戦・対英米協調の姿勢を貫きつつ外交折衝に尽力します。特に陸上競技発祥の地・イギリスでは「世界で最も速く100mを走った人物」としてVIP級の処遇を受け、太平洋戦争開戦時には「あなたの国とこういうことになって非常に残念だ」と言われたということです。

藤井の後年の有名なエピソードとして、1909年のエプソム・ダービー(イギリスのエプソム競馬場で開催される、世界中の「ダービー」の起源となった競馬レース)に優勝した英国王エドワード7世の持ち馬(実際は部下の将校からの借り馬)・ミノルが、藤井の大記録にあやかって命名された、というものがあります。
本当のところは、ミノルが生まれた牧場に働く日本人造園師の息子の名前から採られた、というのが事実らしいのですが、そうだったとしても、「ミノルというのは強い(速い)日本人の名前」という先入観があってのことだったかもしれない、という想像は許されるでしょう。それほどに、藤井實の名はヨーロッパやアメリカのスポーツ界には轟いていたのです。 

藤井は1964年に開催が決まっていた東京オリンピックを心待ちにしていたそうですが、前年の1963年に他界しました。
今後とも、「日本の陸上競技の父」である彼の事績がより詳らかになるよう、私はいろいろと文献や記録を漁ってみるつもりでいます。

 

<連載>100m競走を語ろう ⑮~藤井實とその時代(前篇)



この<連載>も少々不定期な形で続けさせていただいていますが、ここからしばらくは、100m競走を彩ったさまざまな名選手や名勝負を軸に、その歴史を紐解いていこうかと思います。
その皮切りとして、この<連載>の⑪で「余談」としてご紹介した、日本陸上競技史・創成期の偉大なアスリート、藤井實さんについて、より詳しく語ってみましょう。

なお記述に当たり参考にした文献は、保阪正康著『100メートルに命を賭けた男たち』(1984年・朝日新聞社)と、WEB上にある土屋知子著『2011年度大手前大学博士論文『夏目漱石「三四郎」の比較文化的研究』です。前者については刊行当時に何度も何度も読み返した書籍ながら、現在手元に現物がないため記憶に頼るところがありますが、後者ともども多くの資料が『スポーツ八十年史』(1958年・公益財団法人日本体育協会)を原典としていると考えられますので、両者の整合性はとれているように思います。Wikipediaの該当記事も、この両著作を原典としているようです。
また写真も、後者の論文に掲載されているものを借用しています。前者の書籍にも、いくつか同じ写真が掲載されていたと記憶しています。
このほか藤井(以下敬称略)の事績についてはWEB上にいくつかの記事が散見されるものの、多くは事実の一片だけを誇張して記述したものですので、参考とするには値しませんでした。
100mだけでなく日本の陸上史を語る上では決して除外できないほどのアスリートであり、後には吉田茂と「俺、お前」で呼び合う仲の名外務官僚だったのですが、その実像に迫る資料があまり多くないのが不思議です。

藤井實
藤井實(1880または81-1963) ※上記「論文」13ページより)

◆陸上競技大会の始まり
スポーツの伝来については、競技ごとにその来歴がそこそこ明らかに記録されており、たとえば野球の場合は1871年(明治4年)に来日したアメリカ人によって東京開成学校予科(東京大学の前身)に伝えられ、73年頃に初の試合形式で行われた後、78年に最初の本格的球団「新橋アスレチック倶楽部」が誕生…といった具合で、日本におけるメジャーなスポーツは、おおむね明治の初期~中期に諸外国のさまざまな職業にある人々から伝播され、現在の大学にあたる学校の課外活動として歴史の第一歩を刻んでいることが伝えられています。

そこへ行くと、陸上競技の「第一歩」はどこに源流を求めればいいのかが、今一つ判然としません。
それは、イギリスから「陸上競技」として伝来するよりも前から、「駆けっこ」「投げ比べ」程度のゲームが自然発生的に行われていたのは間違いなかろうという推定があるためでしょう。
日本陸連のHPに紹介されている「競技史」も、端緒は初めてオリンピックに2人の代表を派遣した1912年(大正元年)ストックホルム大会からの記述となっており、それ以前については触れられていないのです。

で、おそらくはの推量となるのですが、形式からして「陸上競技大会」の体をなしているものとしては、1883年(明治16年)6月16日にイギリス人英語教師、フレデリック・ストレンジの肝煎りで開催された「東京帝国大学運動会」が、最も古く確かな記録かと考えられます。
「運動会」と称されるイベントはそれ以前にも存在していた可能性は高いと思われますが、ほぼ現代の陸上競技に特化した種目構成や、外部からの観客を多く集めて開催されたことなどを勘案すると、これ以前には「陸上競技大会」の痕跡は見つからないのです。
参考文献として挙げた「論文」は、表題からも分かるように夏目漱石の『三四郎』についての研究をまとめた文学論で、この小説の中に東京帝大の学生である主人公・小川三四郎が、20世紀初めごろの「運動会」を観戦に出かけている描写について、歴史的事実関係と照合したかなり詳細な考察を行っています。
(つまり、著者の土屋さんは、文学研究者でありながら、この描写の対象となった「運動会」の実態がとても気になったらしく、論文の主旨からすると脱線とも言うべき記述に大きく紙数を割いているのです。陸上競技ファンとしては、これがとても有益な資料となっているのは、ありがたいことです)

三四郎にとっては「運動会」の内容にはまったく興味がない様子で、実はこれを観戦に来ているはずのある女性が目当てです。こうした三四郎の思惑や行動に象徴されるように、当時の「帝大運動会」は、将来を約束された文武両道のヒーローを見たさに若い女性たちが観戦に詰めかけ、それをまた目当てに男たちも群がる、という社交サロンのような役割を果たしていたらしいのです。(美術展やコンサート、ダンスホールのように)
ゴール間近の観客席に目当ての女性を発見した三四郎は、そちらを凝視しているうちに数人の“男ども”がゴールに駆け込んでいくところをたまたま視界にとらえます。三四郎は、突然視線を邪魔するように過った“男ども”について、「どうして、あゝ無分別に走(か)ける気になれたものだろうと」思うくらいに、競走には何の関心も示しません。
この“男ども”の先頭にいた「紫の猿股を穿いた」選手が、(小説の中では明かされていませんが)ヒーローの中のスーパーヒーロー、藤井實だったと考えられています。つまり、漱石が実際に観覧した運動会の模様をそのまま、三四郎という架空の人物の視点から小説の一場面として描写しているわけです。

『三四郎』の時代から遡って、1886年(明治19年)から「東京帝大運動会」は秋の開催が恒例となり、翌87年に始まる漕艇大会(東大と一橋大の対抗戦「東商レガッタ」の前身)とともに、「春のボート/秋の陸上運動会」の2大看板イベントが成立、上に記したように、若い男女の社交場として人気を博していったということです。



◆藤井實の人物

生まれは1880年とも81年ともされ、定かではありません。東京・本郷の出身で、父親は昌平黌(江戸幕府によって設立された、儒学・漢学などの教育機関)の漢学教師だったそうですが、昌平黌は1870年に廃止されていますので、藤井の誕生当時は別の教育機関に何らかの形で関わっていたのではないでしょうか。
いずれにしろ、厳格かつそこそこに裕福な家庭の生まれ育ちと思われ、生家・父の職場・そして實の進路と、東京のあの辺り一帯を「庭」として成長したことは間違いないようです。

第一高等学校(現在の東京大学教養学部に相当)から東京帝大法科へと進んだのが1902年(明治35年)のこと。一高時代から並ぶもののないスーパー・アスリートだった藤井は、この年の秋に行われた「帝大運動会」で、例の「10秒24」という電気計時による快記録を樹立した、ということになっています。

前の記事と重複しますが、この記録の真偽を問うことは、藤井自身の後年の事績や計時装置を開発した田中舘愛橘教授の信望からして、一種のエチケット違反とする考え方が定着しています。心の中で「そんなわきゃーない!」と思っていても、口には出さず、というのが落としどころなのです。(と、思いっきり書いちゃってますが…)
藤井はその前後、つまり一高時代から法科卒業後はOBとして、毎回のように運動会に参加して、短距離走と棒高跳には無類の強さを発揮しました。
自身の述懐によれば、現役時代の体格は「身長5尺9寸5分(約180.3㎝)、体重18貫500匁(約69.4㎏)」とのことで、冒頭の写真からも伺えるように、当時としては並外れてスポーツの資質に恵まれた“巨漢”だったと言えるでしょう。後年、初老に差し掛かった頃に同窓生の吉田茂と並んで写っている写真が前記の『100メートルに命を賭けた男たち』に掲載されていたと思いますが、体つきは吉田より優に二回りは大きく、長い顔が特徴的だったのを覚えています。
もう一度、写真を見てください。ふくらはぎの筋肉の発達ぶりは、素質だけで抜きんでた存在に居座っていたのではないことを、明瞭に物語っています。


写真で身に着けているのが、三四郎が目に留めた「紫色の猿股」でしょうか。
当時はもちろん、スポーツ用品店でランパンを買って、などということはあるはずもなく、軽くて着心地のいい生地を見繕って自作したもののようです。母親の着古した着物の生地を利用して手縫いで作った(あるいは母親が作ってくれたかもしれませんが、藤井自身が作った可能性もあります)ものだそうです。
ちなみに、短パンというよりは現代のバスケットボールやサッカーの選手が穿くハーフパンツのような長さですが、これは運動会の規定で「膝丈よりも短くてはいけない」ことによるものです。

ランパンを自作するのは、藤井に限らず当時の陸上選手にとって当たり前のことだったはずです。一方で藤井は、海外のスポーツ雑誌を読み漁り、そこに掲載されていた広告のメーカーからスパイクシューズを取り寄せ(もちろん輸入です)、日本で初めてスパイクを履いてレースに出たアスリートとしても歴史に名を刻んでいます。(このあたりから、「そこそこ裕福な家庭」と想像するわけです)

さらに推測を推し進めれば、日本で初めてクラウチングスタートを行った選手でもあるのではないでしょうか?…世界で初めてクラウチングスタートをした選手は、第1回オリンピック(1896年)の優勝者トーマス・バークだと言われており、研究熱心な上にそうした海外の情報をいち早くキャッチする術に長けていた藤井が、真っ先にこれを模倣した可能性は高いと思います。


もう一つ、得意とした棒高跳では、日本のどこにでも生えている竹のしなりに目をつけ、これをポールにすることを考えつきました。それまで、ポールの素材としてはアメリカンパインという木材が使われていましたが、ほとんど曲がりのない、折れにくい丈夫さ、軽さが取り柄のものでした。
竹の柔軟性と軽さ、強さこそはポールに最適と考えた藤井は、周到・仔細に最適な竹の品種や収穫時期を検討してから自ら竹林に入って手ごろな竹を何本も切り、まず節を抜いて真っ直ぐに成形した後、バランスのいいもの3本だけを選んで、大学の柔剣道場の天井にぶら下げ、虫食いや亀裂が起こらないよう管理しながら3年間乾燥させ、遂に競技に耐えるバンブー・ポールを作り上げることに成功した…いやはや、気の遠くなるような作業を、誰の手も借りずに自分で行っていたわけですね。

この一件からも、藤井がいかに創成期の陸上競技に熱意を傾けて取り組んでいたか、また秀才としての資質を如何なく発揮して創意工夫を凝らしていたか、それだけでも「日本の陸上競技の父」と呼ぶにふさわしい、偉大なパイオニアであったことが知れようというものでしょう。

今さら言うまでもなく、竹製のポールはまず金属製、続いてグラスファイバーやカーボンファイバーなどの新素材の登場によって、戦後まもなく駆逐されてしまいます。けれども、私が中学・高校の陸上競技部に在籍していた当時(1970年代)は、練習用に短めの竹のポールが、ちゃんと倉庫にありましたよ。私は棒高跳は怖くてできませんでしたが、その竹ポールを使って遊びのような跳躍をしてみたことは何度もあります。全然曲がりませんでしたけど。(笑)
こうして19世紀に産声をあげた日本の陸上界では、20世紀に入って藤井が開発したこのポールを使うことで、まず藤井自身が世界記録を樹立し、そしてその後の1932年・36年のオリンピックでは通算3つのメダルを獲得しているのです。

(後篇へ続く)


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