前回の続きです。
藤井實の活躍の舞台となった、「東京帝国大学運動会」の歴史を調べていくと、資料によってさまざまな見解の相違や事実関係の若干の食い違いなどが見つかってきて、どれを「正史」とするかは本論の主旨ではないとはいえ、いささか気にかかります。
紛らわしいのは、「運動会」という名称が、現在も連綿と続いている「一般財団法人東京大学運動会」(発足当初は「社団法人帝国大学運動会」)と混同されやすい点です。この場合の「運動会」とは、他の大学では「体育会」と称されることが多い、学内運動部の統括組織の名称なのです。イベント名称の「運動会」を言う場合は、「陸上運動会」とするのが適切なようです。
このあたりを踏まえて、資料に記載された出来事を、時系列的に少し整理しておきたいと思います。
- 1883年(明治16年)6月16日、イギリス人ストレンジ教師らの尽力により「東京帝国大学運動会」開催
※「論文」6ページに記載も出典不明。ただ当時の名称は「東京大学」であり、「帝国大学」は1886年から、「東京帝国大学」は1897年からの名称なので、疑問符あり。
- 1885年(明治18年)6月6日、いわゆる「御殿下グラウンド」にて「大学・予備門合同の陸上運動会」開催
※「論文」11ページ記載。出典は「スポーツ八十年史」(1958年・日本体育協会)下記の「120年史」に「運動会は帝大発足前にも2回神田一ツ橋で行われた」とあるため、1883年を「(帝大発足前の)第1回」としても事実関係は矛盾しない。
- 1886年(明治19年)10月21日、陸上運動会開催
※「東京大学陸上運動倶楽部(いわゆる東大陸上部)120年史」に記載。同史によればこれを「第1回帝大運動会」とするも、同じ文書に1887年を「第1回」とする記述も混在しており、真偽不明。この年、組織改正により「帝国大学」設立とともに、「社団法人帝国大学運動会」が発足。
- 1887年(明治20年)、春の「水上運動会」(漕艇大会)開催。秋(日程不明)の「陸上運動会」と2大行事に。
※「論文」11ページ。
- 1902年(明治35年)11月8日、100m優勝者競走で藤井實が電気計時10秒24を記録
※「論文」14ページ。本人の手記「思い出」によれば「1904年11月8日」。
- 1904年(明治37年)11月12日、藤井實200mを25秒74で制す
※「論文」13ページ。これにより、電気計時が少なくとも3年がかりで試行されていたのか、100mの「10秒24」もこの年の出来事だったのか、事実認定が難しくなる。
- 1905年(明治38年)11月11日、藤井實、棒高跳で3m66の世界最高記録
※「論文」14ページ。15ページに「思い出」抜粋記事。
- 1906年(明治39年)11月10日、藤井實(OBとして参加)、棒高跳で3m90の世界最高記録
※同上。なお、これら数年の記録より、「陸上運動会」が11月第2土曜日に開催が定着していたことが知れる。藤井の「思い出」で10秒24が「1904年11月8日」とあるのは、年号か日付かどちらかの記憶違いであろう。
と、まあ東大に残る資料からしても当初は記憶頼りのところもあったでしょうし、「事実」を確定するのはなかなか難しいことです。もしこの先、時間がありましたら古い新聞なども調べて、この分野の研究を進めてみたいところです。
◆スプリンターとしての藤井實
「10秒24」という途轍もないレコードが一人歩きするような状況で、スプリンターとしての藤井の実像は幻影に包まれてしまいがちですが、論文「夏目漱石『三四郎』の比較文化的研究」(2011年・土屋知子)の中には、小説『三四郎』の中に突如現れた藤井(がモデルと思われる人物)が1着を占めた競走について、次のように語られていることが紹介されています。
一番に到着したものが、紫の猿股を穿いて婦人席の方を向いて立ってゐる。能く見ると昨夜の親睦会で演説をした学生に似てゐる。あゝ背が高くては一番になる筈である。計測掛が黒板に二十五秒七四と書いた。書き終わつて、余りの白墨を向へ抛(な)げて、此方をむいた所を見ると野々宮さんであった。・・・
※「野々宮さん」のモデルは、電気計時装置の開発で田中舘教授の助手を務めた寺田寅彦。漱石の文学上の弟子格でもあった。
『三四郎』に描かれる「帝大運動会」の模様は1907年(明治40年)の設定なのですが、執筆にあたって漱石が取材をしたのは、1903年から06年にかけての何回かの大会であったと考えられます。(1902年12月まで漱石はロンドン在住)
特に冒頭に三四郎が感想を述べる「大きな日の丸と英吉利の国旗が交叉してある」という光景は、1902年に締結された日英同盟の記念と、イギリスから伝えられた陸上競技の象徴と、2つの意味を持ったアイキャッチャーだったと思われます。
藤井が200mを25秒74で制したのは1904年の大会で、これは記録に残っているようです。いっぽう、100mの10秒24というのは「優勝者競走」(短距離走の優勝者と2着、または優勝者のみで行う記録挑戦のための再レース)で出された記録のため、前述のように1902年のことか04年のことかが判然としない、となってしまっているわけです。
この10秒24を別にすると、100mにおける藤井の数年間の優勝タイムは11秒台後半から12秒台というもので、1912年に日本のオリンピック選手第1号となった、5年ほど後輩の三島弥彦の記録とだいたい同程度だったのではないか、と推測されます。そして、この水準の100mのタイムであれば、200mの25秒74というのはまずまず順当なところ、ということにもなります。
手動計時で1回でも10秒台の記録を残しているのなら「あるいは?」と考えることも可能でしょうが、ただ一度の「10秒24」が突出しすぎているのですね。とはいえ、この「10秒24」という数字の迫力は、現代の日本での100m競走を見慣れている私たちだからこそ感じられる絶妙のもので、そこに測り知れないほどのロマンを感じてしまいますよね。
結論として、スプリンターとしての藤井實は、創成期の日本陸上界にあっては傑出した存在だったとはいえ、「世界」と比べた場合にはすでに10秒台に突入していた100m、1904年セントルイス・オリンピックの優勝記録が21秒6だった200m、ともにやや見劣りがする、そんな水準だったのではないか、と判断されます。
◆ヴォールターとしての藤井實
3m66の世界最高記録を跳び「絵葉書にもなった」という写真。
(「論文」14ページ、出典は「日本スポーツ八十年史」)
前述のように、藤井は大学4年の運動会で3m66、卒業して外務省に入省しOBとしての参加となった1906年には3m90という高さをクリアしています。こちらのほうは、若干の計測精度の不備があったとしても大きな「間違い」とはなりようがなく、掛け値なしの「世界最高記録」だったと思われます。
国際陸連が発足する1912年より以前のため「世界記録」というものは公式に存在していませんが、1905年時点ではアメリカのマックラナンという選手が跳んだ「12フィート(3.6576m)」が最高記録らしいということで、藤井の3m66は僅差で世界最高、またはタイ記録。その後サムスという選手が12フィート487(3.806m)を跳んだのを藤井の3m90が上回ったわけです。ちなみに1904年のオリンピック優勝記録は3m50、1908年でも3m71に過ぎません。
短距離走に抜きんでた実力を持っていた藤井は、跳躍・投擲などにも大活躍したマルチ・アスリートだったに違いなく、中でも設備や用具の点から取っ掛かりの難しい棒高跳という特殊な種目にこれほどまでの情熱を傾けて取り組んでいたことは、瞠目すべき事実だと思います。
その世界的記録の裏付けになったものは、類まれな身体能力とともに、前回ご紹介した「竹製ポール」というオリジナルの用具開発が大きかったでしょう。
3m66を跳んだ1905年より前の3年間の記録が3m075、3m103、3m255だったことから推測して、この1905年に、藤井自ら開発・製作した竹製ポールが3年という乾燥期間を経て投入されたのではないか、と思います。だとすれば、フジイ・オリジナルの竹製ポールが活用されたのは、この年と翌年の、たった2年間…藤井がその後も競技を続けていたならば、どこまで記録が伸びたものか、とうぜん世界初の4mヴォールターの栄誉や、史実より1開催早い1908年での日本人オリンピック初出場・初優勝もあり得たのではないかと、こちらもロマンは限りなく溢れています。
◆藤井實の生きた時代
藤井は1906年の陸上運動会出場、棒高跳での世界最高記録樹立を置き土産に、陸上競技とはすっぱりと縁を絶ち、日本陸連の誕生や後進の指導に携わることもなく、以後は外務官僚として激動の時代を生き抜くことになります。
漱石が目撃し200mの模様を『三四郎』にも書き記した陸上運動会の開催された1904年といえば、歴史好きの方であればすぐにピンと来るでしょうが、日露戦争が開戦したまさにその年です。
夏目漱石、日露戦争、東京帝大というキーワードからは、日本海海戦大勝利の立役者であった秋山真之の名がすぐに連想されます。司馬遼太郎の『坂の上の雲』に描かれたこの時代は、日本にとって深刻な大転換期でもあり、「貧困とひたむきな明るさ」のイメージに彩られた明治期のハイライト的な一時代だったと言えるでしょう。まして陸上運動会の行われた11月は、戦史に名高い旅順要塞の攻防戦が佳境を迎えつつあるという、長閑に運動会で駆けまわったり、女性観客をナンパしたりというには、あまりにも重大な世相が絡んできているはずです。
そうした大変な時代の真っただ中にあって、誰にも邪魔されることもなくスポーツマンとしての活動に没頭し、3年かけて棒高跳のポールを作るような作業に取り組んでいた藤井が、
「こういうことをいつまでもやっているなんて許されない。競技生活は学生のうち限り」
と決意していた心情は、察するに余りあるものがあります。僅かに棒高跳でやり残したことをOB1年目の秋に3m90という大記録で「完遂」した後は、また並々ならぬ決意で外交の世界へと身を投じたものに違いありません。
藤井は、各地の大使館勤務、大使などを歴任した後、1928年(昭和5年)に日本陸軍の対中国強硬姿勢に反発して外務省を退官、以後は日本外交協会理事として民間の立場から、非戦・対英米協調の姿勢を貫きつつ外交折衝に尽力します。特に陸上競技発祥の地・イギリスでは「世界で最も速く100mを走った人物」としてVIP級の処遇を受け、太平洋戦争開戦時には「あなたの国とこういうことになって非常に残念だ」と言われたということです。
藤井の後年の有名なエピソードとして、1909年のエプソム・ダービー(イギリスのエプソム競馬場で開催される、世界中の「ダービー」の起源となった競馬レース)に優勝した英国王エドワード7世の持ち馬(実際は部下の将校からの借り馬)・ミノルが、藤井の大記録にあやかって命名された、というものがあります。
本当のところは、ミノルが生まれた牧場に働く日本人造園師の息子の名前から採られた、というのが事実らしいのですが、そうだったとしても、「ミノルというのは強い(速い)日本人の名前」という先入観があってのことだったかもしれない、という想像は許されるでしょう。それほどに、藤井實の名はヨーロッパやアメリカのスポーツ界には轟いていたのです。
藤井は1964年に開催が決まっていた東京オリンピックを心待ちにしていたそうですが、前年の1963年に他界しました。
今後とも、「日本の陸上競技の父」である彼の事績がより詳らかになるよう、私はいろいろと文献や記録を漁ってみるつもりでいます。