豊大先生流・陸上競技のミカタ

陸上競技を見続けて半世紀。「かけっこ」をこよなく愛するオヤジの長文日記です。 (2016年6月9日開設)

君原健二

オニツカタイガーよ、永遠なれ



少し前のことになってしまいましたが、先週土曜日にTBSテレビで『ものづくり日本の奇跡 日の丸テクノロジーがオリンピックを変えた』という番組が放送されました。パーソナリティは安住紳一郎アナと綾瀬はるか、そしてビートたけし、ゲストはバドミントンのタカマツペアです。
最初のコーナーでは、陸上競技の長距離走に「革命」をもたらした、鬼塚喜八郎さんのエピソードが紹介されました。
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今では「asics(アシックス)」という社名で知られますが、私たちが現役の陸上部員だったン十年前の昔は、「オニツカタイガー」。当時すでに、アディダス、プーマ(いずれも西ドイツのメーカーで、それぞれの創業者は実の兄弟)と並んで「世界3大スポーツ・シューズ・メーカー」と呼ばれていました。
私たちが学校の部活動として陸上競技を始めるにあたって、先輩に学校指定のスポーツ用具店へ連れて行かれ、当然のように「これを買え」と言われたのが、オニツカタイガーのスパイクシューズとトレーニングシューズでした。まるで、陸上競技には他のメーカーが存在しないかのようでしたが、その前にちょっとだけサッカー部に在籍していた私は、サッカーでは同じようにアディダス一辺倒だったものですから、そんなもんかな、と妙に納得していました。
そのオニツカタイガーを敗戦後の裸一貫から創業し、世界のトップブランドへと育て上げたのが、鬼塚喜八郎さんです。

番組では、「すぐに足裏にマメができてしまうので、長い距離を走り込めない」という悩みを抱える若き長距離ランナー・君原健二さんに、「絶対にマメができないシューズを作る」と請け合って試行錯誤の末にこれを実現、君原選手の愛用シューズとなった「マジックランナー」というブランドの開発秘話をドラマ仕立てで紹介。(いかにドラマとはいえ、君原さんのイメージ違い過ぎです)
スタジオには、マジックランナーとともに前後して走りやすさを追求して開発され、円谷幸吉さんの愛用シューズとなった「マラップ」などが展示されていました。(円谷さんの伝記を見ると、彼が自身の“標語”としていた「青春は 汗と涙と マラップで」という川柳?があります)
マジックランナーのテーマだった「マメのできないシューズ」の最大の特徴は、シューズの内部にこもる熱を逃がすための細かい穴と「ベロ」の部分に施した細工。現代のシューズは素材そのものが通気性の高いトップ、衝撃を吸収するソールになっていますが、当時としてはまさに革命的なアイディアでした。

オニツカタイガーが、「たかがシューズ」にもたらした数々のアイディアは、今も至る所にその名残を見ることができます。代表的なものとして知られるのが、アシックス社のCIともなっている側面のラインです。
二股に分かれる流線形と交差する短い2本の直線…あのラインというのは、単なるブランド・マークではなく、シューズの形状を安定させ、しなやかな変化を実現するための重要な「パーツ」です。後年トップメーカーとなるNIKEをはじめ、プーマやミズノなど、多くのシューズのラインが共通した特徴を持っているのは、偶然ではないのです。1968年のメキシコシティ・オリンピックを見据えて開発されたこのオニツカのラインは当時「メキシコ・ライン」と呼ばれていました。
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下段が「マジックランナー」、中段が「マラップ」、上段が今と同じ「メキシコライン」のシューズ。(たぶん「マラソンソーティ」?)

私が現役陸上部員だった頃は、まあお金がないこともありまして、あまり使う機会のなかったスパイクシューズは最初に買った一品を最後まで使い倒しました。カンガルー皮革のトップに、着脱可能な6本ピンのもので、確か「ランスパーク」というブランド名だったと思います。私は試合にもほとんど出ることがないほどのトホホな中長距離要員でしたから、レースで1回だけ、6ミリの短ピンを付けて国立霞ヶ丘競技場を走ったことがあるくらいです。(もちろん、短距離の練習も同じシューズでやっていました)
トレーニングシューズのほうは、何足目かに当時のトップブランドだった「マラップ」を買い、その後ブランド名は忘れましたが最新鋭の真っ赤なマラソンシューズに買い替えたのですが、いくらも使わないうちに盗まれてしまい、悔しい思いをしたものです。普段の練習で履くトレーニングシューズと、ロードレースで履くマラソンシューズを分けて使う、などということも経済的な都合で考えられない時代でした。

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ちなみに、当時は「スニーカー」という言葉はまだありません。
運動などに関係なく普段履いているスポーツ用シューズは、バスケットシューズかテニスシューズが主流で、一般名称としては「運動靴」。私が成人するくらいの年代からファッション・アイテムとしての「スニーカー」が登場し、これで一気に業績を拡大したスポーツメーカーも少なくありませんでした。そうした中で、アシックス(ちょうどその頃に社名変更したと思います)のブランド・イメージは、タウン・スニーカーのデザインとしては少々そぐわないものだったかもしれません。

また、私が現役だった頃には「ジョギング」という言葉もありませんでした。
準備運動として行うゆったりとしたランニングや、長い距離をゆっくりと走るトレーニングは「ジョッグ」と呼んでいました。日本全国どこでもそうだったかは分かりませんが、ジョギングという言葉も、スニーカーと同じ頃に「ジョギング・シューズ」「ジョギング・パンツ」といったアイテムとともに登場したファッション用語だったように思います。
ですから、私と同じくらいかそれ以前に学校で陸上をやっていた人間は今でも「ジョッグ」と言い、それ以外の人たちは「ジョグ」と言う。陸上を専門にやった人であれば、伝統として「ジョッグ」という言い方が続いていたでしょうから、年代だけでは分かりませんけどね。たった「ッ」一つがあるかないかで、その人の陸上への関わり方が、少しは見えてしまうというのは確かです。

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陸上競技をする者が、唯一といっていいほど頼りとする用具、それがシューズです。
今では、オリンピックの陸上シーンを見ればわかるように、世界の趨勢はNIKEの圧倒的優勢。続いてボルトの登場で息を吹き返したプーマと、アディダス。日本人以外で日本のメーカーを利用している選手は、残念ながらあまり多くはありません。
もちろんそれは品質への評価云々よりも、営業やマーケティング、広報など、企業の総合的パワーの結果であり、日本の選手ですらご覧のように、契約メーカーは個々で異なります。
けれども、私は(今ではしがない市民ランナーのはしくれとなっておりますが)アシックスのシューズが好きですねえ!
特にロード・ランニングの分野で一時期は世界的にも圧倒的なシェアを誇っていたアシックスは、今でも最高品質の製品でランナーたちをサポートし続けている…そんな「アシックス信者」、もとい「オニツカタイガー信者」が多いのも、私たち古い世代の特徴なのかもしれませんね。 

 

時よとまれ、君は美しい



オリンピック・フィーバーにあやかってか、いまCS日本映画専門チャンネルでは、1972年ミュンヘン・オリンピックの記録映画である『時よとまれ、君は美しい/ミュンヘンの17日』を放送しています。
従来の記録映画とは趣を異にし、世界各国から選ばれた8人の著名な映像作家にテーマの選定から一任したショート・ムーヴィーを組み合わせたオムニバス作品になっていて、8人の中には記録映画『東京オリンピック』(これも絶賛放送中)を手掛けた市川崑氏や、1968年グルノーブル冬季オリンピックの記録映画『白い恋人たち』の監督クロード・ルルーシュ氏らも含まれています。

私はこの映画、公開を待ちきれないとばかりに陸上部仲間と一緒に劇場へ観に行った記憶があります。
その後、リバイバルされたりテレビで放送されることはまずなかったと思いますので、約43年ぶりの再見、ということになりますね。記憶に残っていたシーンはほとんどなくて、スローモーションで描かれた男子100m決勝(ここが市川監督の担当パート)で、1人の黒人選手が脚を傷めて止まってしまったシーンだけが微かに見た覚えがあるな、というくらいです。(ちなみにこの選手はトリニダードトバゴのヘイズリー・クロウフォード選手で、4年後のモントリオール大会の金メダリストです)
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男子100m決勝。“世紀の大遅刻”をやらかしたアメリカ選手は1人しか決勝に進めず、
優勝はワレリー・ボルゾフ(URS)


8人の監督が取り上げるテーマは、同じものが重ならないくらいの調整はされたのでしょうが、基本的には自由だったらしく、全編の半分以上が陸上競技のシーンで占められるというありがたい構成になっています。当時は、オリンピックといったら陸上競技、でしたからね。

「THE FASTEST」と題された市川監督のパートのほか、「THE HIGHEST」(アーサー・ペン監督)は男子棒高跳の熱戦を延々とこれまたスローモーションばかりで(どうも、今見るとこの手法は陳腐なところがありますね)、「THE DECATHLON」(ミロス・フォアマン監督)はその名のとおり十種競技を、「THE WOMAN」(ミヒャエル・フレガール監督)では何人かの女子選手を取り上げた中で女子走幅跳のハイデ・ローゼンダールとハイディ・シュラーの2大アイドル対決や16歳で女子走高跳に優勝したウルリケ・マイファルトを、さらにラスト・パートとしてマラソンの模様を描いた「THE LONGEST」(ジョン・シュレジンジャー監督)、といった具合です。

数多登場する選手たちの中で、いの一番で映画に顔を出すアスリートは、我らが君原健二選手。東京大会8位、メキシコシティ大会銀メダル、この大会でも5位入賞を果たすことになる、日本マラソン界のレジェンドです。今年のボストンマラソンに、1966年の優勝者として50年ぶりに招待され完走したことでも話題になりました。
以前「【短期集中連載】オリンピック回想」でも書きましたように、この大会の開会式での聖火点灯セレモニーは、地元西ドイツの無名のアスリートであるギュンター・ツァーン青年を最終点火者に、その後をアジア・アフリカ・オセアニア・アメリカの各大陸を代表する4人のランナーが付き従うようにしてトラックを走ったのです。その4人が、君原選手のほか、先のリオ五輪開会式で感動的なプレゼンテーションを行ったキプチョゲ・ケイノ(ケニアオリンピック委員会会長。メキシコシティ大会1500mおよびミュンヘン大会3000mSC金メダリスト)、世界初のマラソン・サブテン・ランナーのデレク・クレイトン(AUS)、そして最強のマイラーとして絶大な人気を誇ったジム・ライアン(USA)でした。
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ゲートから聖火入場。右から君原(眼鏡着用)、ツァーン、クレイトン、ケイノ。
(ライアンのみ映らず!)


ハイデ・ローゼンダールは「回想」でもご紹介しましたように、当時の西ドイツの、というより世界の陸上界のスーパーヒロイン。そして同じチームで練習していたハイディ・シュラーは開会式で女性アスリートとしては史上初の選手宣誓を務めた、こちらも人気の美人選手。2人が揃って決勝に進出した走幅跳では、ローゼンダールが国民の期待に応えてみごと金メダル、シュラーは5位でした。
ローゼンダールは五種競技でも銀メダルを獲得、さらに最終日に400mリレーのアンカーとして、スプリント女王のレナーテ・シュテッヘルをアンカーに擁する東ドイツとデッドヒートを繰り広げて金メダルのテープを切り、スタジアムを熱狂の渦に叩き込んだものですが、そのシーンは映画には出てきません。

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男子(当時女子はありません)棒高跳では、前回まで無敗の16連勝を続けてきていたアメリカの期待を一身に担って出場したボブ・シーグレンの表情がたっぷりと堪能できます。
メキシコシティ大会で5m40の同記録ながら東西ドイツの2選手を辛うじて振り切って金メダルに輝いたシーグレンは、自身の連覇と王国アメリカの17連勝を狙うこの年、5m63という当時としては破格の世界新記録を出していました。
ところが、シーグレンの使用していた最新鋭のカーボンファイバー樹脂製ポールがIAAFの認定を受けられず、世界記録も非公認、ミュンヘンには旧式のグラスファイバー・ポールでの出場を余儀なくされたのです。
その結果、シーグレンはメキシコ大会と同じ5m40を跳んだところまでで東ドイツのヴォルフガンク・ノルトウィヒに競り負け、さらにノルトウィヒに「公認」世界新記録の5m50を目の前で跳ばれてしまいました。
競技が終わった後、自分の使っていたポールを役員に差し出し、
「ほら、あんたらのお気に入りの旧式ポールだ。プレゼントするよ」
と皮肉を浴びせたシーンが、描かれています。
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「THE LONGEST」は、選手村を襲ったテロリズム事件のためにレースが1日延期になり、選手村で無聊をかこつ一人のイギリス人ランナーの視点で始まります。
彼、ロン・ヒルは、東京オリンピックにも出場し、1970年にはボストンマラソンをコースレコードで制したのに続いて、コモンウェルズ大会(英連邦大会)で史上2人目の2時間9分台で走ったことで、一躍有力な優勝候補の一人に挙げられるようになっていました。
この大会のマラソンは群雄割拠の様相を呈し、「大本命」には過去2度にわたってサブテンを達成しているデレク・クレイトン、続いて前回メキシコシティの覇者マモ・ウォルデ(ETH)、70年に「世界基準」の2時間10分台に到達していた宇佐美彰朗、そしてヒルらの名前が挙がっており、また日本では前年の福岡に突然現れて宇佐美を破ったフランク・ショーターへの警戒が高まっていました。

ヒルは、東京大会で円谷幸吉と激しいメダル争いを繰り広げたベージル・ヒートリーやブライアン・キルビーといった英国勢の中では目立たない存在でしたが、30歳を過ぎたころから急速に頭角を顕し、当時としては画期的だったメッシュのシャツやサイドスリットが大きく割れたランパンなどの斬新な暑さ対策の出で立ちが少々下品なものと見なされたりして、何かと話題になっていたのを覚えています。


レースは15㎞手前から我が道を行くという感じで集団から抜け出したショーターの独走劇となり、そのまま悠然とゴールまでの独り旅を続けました。2位にカレル・リスモン(BEL)、3位にマモ。序盤で一時先頭にも立った様子が映画の1シーンになっている宇佐美はその後調子が上がらず、後方集団から追い上げた君原が5位に食い込む健闘で、見事に連続入賞を果たしました。当時の感覚で言うと31歳の君原は「盛りを過ぎた大ベテラン」でしたが、3位のマモは36歳、君原に追い抜かれながらも懸命に踏みとどまって同僚ドナルド・マグレガーとの入賞争い(当時は入賞は6位まで)を制したヒルは、34歳でした。

エース宇佐美は結局12位。クレイトンは13位で、メキシコでの7位に続いて遂にオリンピックで栄光の「五大陸代表」の実力を発揮することはできませんでした。
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 5位の君原を追うヒルとマグレガー

映画『時よとまれ、君は美しい』は、私的には作品としてはちょっとどうかな?と思わされるところがありますが、残っている映像資料の少ないミュンヘン大会の雰囲気を、特に陸上競技の様子を知るには貴重なものだと思います。今月5日・17時をはじめ、何度か再放送予定がありますので、未見の陸上ファンには必見ということでご案内する次第です。


日本マラソン界への提案



◆リオの惨敗に想う
正直に言って、リオ・オリンピックの男子マラソン、日本選手の活躍については何の期待も持っていませんでした。
低迷が続く日本の男子マラソンにあって、多少は上位進出の夢を託せそうな実力者や期待の若手は代表になることができず、落ちたりとは言いつつもここ数回のオリンピックでは最低1人はいた6分台、7分台のタイムを持つ選手すらいない、30代にして“世界”初体験の3人に望むことといったら、自身の走りを存分に全うしてくれることだけでした。
もちろん代表の各選手を責めるなんてつもりは毛頭ありませんし、佐々木選手と石川選手は、十分実力を出し尽くした結果だったと思います。しかし、この結果が4年後に地元開催を控えた日本マラソン界の「現実」であることには、事実として向き合わなければいけません。
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世界のマラソン界、と言っても、現状はケニアとエチオピアのマラソン界と言い換えてもいいほどに、記録ランクや主要シティ大会の優勝者はほとんどこの両国の選手たちによって占められます。現在の日本選手が彼らと対等に、2時間3分、4分といった高速レースで勝負することが不可能なことは、毎年東京マラソンで繰り広げられる光景を見るだけでも、一目瞭然です。
ところが、彼らにしてみたところで決して、夏場の、ペースメーカー不在のレースまで常勝しているわけではありません。ケニア選手がオリンピックの金メダルを獲ったのは女子が史上初めて、男子もたかだか2回目です。エチオピアも、かつてアベベ、マモによる3連覇の時代がありましたが、2000年のゲザハネ・アベラ以来優勝はありません。暑さと序盤からの細かい駆け引きがつきものとなるオリンピックのレースでは、意外にケニア・エチオピアの選手たちも苦労しているのです。
ケニアは今回でオリンピック・マラソン7つ目のメダルを獲得したことになりますが、最初の4つ目まではダグラス・ワキウリ、エリック・ワイナイナ、サム・ワンジルという日本の実業団を拠点とした選手たちによってもたらされています。残り3つのメダルがもたらされたロンドンとリオのマラソンは、猛暑のレースとはなりませんでした。 

これらの事実は、3分台、4分台とは行かずともある程度の実力を備えたランナーならば、オリンピックのマラソンで勝負できる余地が十分に残されていること、日本式のトレーニング環境、試合環境にあっても世界と戦える力はつけられることを物語っているように思われます。
では、なにが日本選手の障壁となっているのでしょうか?…
私ごとき素人がマラソン界を論評するなどおこがましい限りではありますが、一人の陸上ファンの意見として、お読みいただければ幸いです。

◆民間資本の功罪
日本人は昔からマラソンというスポーツが大好きでしたが、その中興の祖となった瀬古利彦の時代、マラソン界に民間資本が続々と参入し、単なるスポーツ大会が一大商業イベントへと変貌することになりました。
瀬古らの活躍によって言うなれば「銭になるスポーツ」と目されたマラソンおよび駅伝などのロードレースは、格好の広告素材として注目され、それまでNHKによる独占放送だったテレビ中継に、従来から主催・後援していた新聞社系列の民放各局が争うように参入し、また新たなレースの創設に取り掛かったのです。
このことは、日本のマラソン・長距離の裾野を拡げ、一般の認知度の大幅なアップやひいてはこんにちの市民マラソン大隆盛へとつながり、また非営利団体である日本陸連が資金の心配なく大会を開催できるなど、喜ばしい効果をたくさんもたらしました。
その一方で、大資本にオンブに抱っこの形とならざるを得なくなった実施側の陸連は、次第に足枷をはめられたような状態になります。
すなわち、毎回オリンピックのたびに繰り返される代表選考のスッタモンダの原因となっている、複数の代表選考レース方式という、世界に類を見ない悪しき風習です。

現在、日本のマラソン・トップランナーたちのライフ・スケジュールは、オリンピック代表という目的を軸に組み立てられます。
そのためには3つの国内代表選考会のどれかで好成績を上げるか、前年の世界選手権で代表内定条件を満たす、そのためにさらに前の選手権選考会で代表になることを目指す、あるいは更に前のアジア大会からその路線に乗るといった、2年がかり、3年がかりのロードマップが描かれます。マラソン界全体を見渡してみれば、男子も女子も、その繰り返しと言ってもよいくらいです。
この秋からマラソンシーズンが始まれば、もうテレビの画面には「2020東京への道」といった字幕やナレーションが踊り始めることでしょう。

なんと、マラソン界は狭苦しい空間になってしまったことでしょうか!
もちろん、オリンピックがマラソンランナーたちの究極の目標であることは昔から変わりありませんし、それは日本だけの事情でもないでしょう。しかし、そこにつきまとう閉塞感は、やがて選手たちを疲れ果てさせ、選考会を勝ち抜くことが最終目的のようになって、オリンピック本番には抜け殻のようになった選手がスタートラインに姿を現す、そんな光景が繰り返されてきたような気がします。
その「元凶」が、日本マラソン界興隆のベースとなって来た「3大マラソン」(福岡・東京・びわ湖)にあると言ったら、言い過ぎでしょうか? 

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◆複雑怪奇な選考会事情の改革

国内選考会が3回あり、加えて世界選手権がそこに加わってくるということは、選手を束縛する「代表選考期間」がそれだけあるということです。前年の世界選手権がスタートだとしても、その期間は半年以上にも及び、その間、選手たちは順繰りに「選考試験」に参加しながら結果を待たされる、ということになるのです。
これでは、その期間中は本番を見据えたトレーニングなど、まともにできるはずがありません。
なぜ、選考会を一本化できないのか?…その答えは簡単です。巨大資本にオンブに抱っこで選考会を開催している陸連は、たとえば男子の場合に朝日系、讀賣系、毎日系とそれぞれに異なる新聞社系列により主催され、したがって参加資本の異なる3つの選考会のどれか一つだけを、「選考会」に指定することなど到底できないからです。
世界選手権についてはどうか…ここに何らかの「ご褒美」がないと、選考会を控えたトップランナーたちは誰も真夏のマラソンに出たがらなくなります。事実、この「ご褒美」がなかった1983年、87年の世界選手権に、当時世界最強を誇っていた日本のトップランナーは、誰一人として出場していません。そこで「世界選手権での成績優秀者は代表内定」とのご褒美が設定され、それを目指してまたその前の選考会が盛り上がる、という図式になっているのです。
もし選考会を一本化してしまったら、その選に漏れた大会は広告価値を失い、また前年、前々年の3大マラソンはまったく盛り上がらないものになってしまう、その危惧があるから、できないのです。
しかし、本当にそうでしょうか?

そうした事情もあって、マラソンには「日本一決定戦」というものが存在しません。これは、考えてみればとてもおかしなことです。
3大マラソンがシーズンごと順番に「日本選手権」の指定を受けており、いちおう各年度の「日本選手権者」は存在します。昨年の福岡国際で日本人1位となった佐々木悟が「第99回日本選手権マラソン優勝者」で、順番でいくと「第100回」の選手権は来年3月のびわ湖ということになると思われます。
一般には誰もそんなこと知りませんし、当の選手も表彰されて初めて知る、という感じではないでしょうか。まさに、有名無実です。

独立した「日本選手権マラソン」の創設…ペースメーカーも外国人ランナーも排除した、資格を持った日本のトップだけが集結する、高額賞金のかかった日本一決定戦。それが、「代表選考の煩雑さ」を排除する一つの解決策になるのではないでしょうか?
では、3大マラソンや世界選手権はどうなるのか?それは、「日本一決定戦」への出場資格を得るための大会と位置付ければ、有力選手=大会としての看板選手の回避を防ぐことも十分可能でしょう。世界選手権の場合は、結果次第で選考に際してのアドバンテージを与えるなどのオプションを付加することは可能だと思います。(つまり、「選手権」での上位3人をそのまま代表に、という決まり事にする必要はありません)
あるいは、今のまま3大レース持ち回りの「日本選手権」でもよいと思います。4年ごとに、3つのレースが順繰りに「オリンピック選考レース」となりますから、不公平はないでしょう。ただし、「日本選手権」のタイトルと参加資格を明確に、必ず3大レースのラストがその大会でなければなりません。つまり、毎年各レースの開催時期もレースの特色も変わることになります。(そうしないと、たとえば福岡が選考レースの時、後から行われる2大会は開催意義を失ってしまいますから)
どちらの形で行うにせよ、実施時期の見直しなど、現行の因習的なスケジュールは抜本から改革していかなければなりません。3大会と別途に「日本選手権」を行うならば、その開催時期は3月か4月、3大会は11月から1月くらいの間に間隔を縮めて行う必要があります。
そしてもう一つ、選手の側にも大きな意識改革を求めなければならないでしょう。

◆レースへの取り組み方の改革
「3大マラソンの商業化が日本マラソン界の隆盛を生み出し、それがいま、日本のマラソンランナーを弱体化させる元凶となっている」
というのが、私の大まかな観測です。
いちばんの問題は、選手がどのレースにも真っ向過ぎるほど真っ向から取り組むあまり、レース経験そのものが極端に少なくなってしまっていることです。つまり、「すべてが本番」なために、遊びの、というと語弊がありますが、気楽に足慣らしや練習の一環、試合慣れといった感覚で出るレースがないのです。
トラック&フィールドに関する「観戦記」でもたびたび言及しましたが、日本人陸上競技選手の抱える最大の課題は、「試合での経験不足」です。あまりにオリンピックや世界選手権、そのための代表選考会といったビッグゲームばかりにフォーカスするために、レースの現場で揉まれるという経験が極端に少なく、持っている抽斗に貯め込むものが限られている。ために大事なところで実力が発揮できないという、ほぼ全選手に共通の課題です。
これはそのまま、マラソン選手たちにも当てはまると思います。

昔の(というと、また若い方々に笑われそうですが)マラソン選手は、とにかく数多くのレースに出場したものです。
オリンピック代表選考会に「3大レース」(当時は東京がなくて別府毎日=今の別府大分毎日が3つのうちの1つでした)が指定されていたのは今と同じですが、「3つとも出場するのが当たり前」みたいな雰囲気さえありました。1968年メキシコシティ大会で銀メダルを勝ちとった君原健二選手などは、年間6回レースに出たこともありますし、64年東京・銅メダルの円谷幸吉選手、君原選手ともに、オリンピックの「本番」がその年4回目のフルマラソン・レースでした。
また、円谷選手や68年優勝者マモ・ウォルデ選手、72年ミュンヘン大会の優勝者フランク・ショーター選手のように、オリンピックで10000mとマラソンの両方に出場するのもごく普通のことでした。円谷選手が6位になった東京大会の10000mでは、入賞者6人のうち4人がマラソンにも出場しています。
少し時代が下って瀬古選手や中山竹通選手などの時代は、マラソンの出場回数こそ減少傾向にありましたが、トラックレースには精力的に出場し、夏場はヨーロッパ遠征に出て10000mの日本記録を出したりしています。
こうした「本番」ではない実戦経験は、ふだんの練習と相まって彼らの実力を育む原動力になっていたに違いない、と思うわけです。
もちろん現代のランナーや関係者にはこうした発想はほとんどなくなっていて、それはそれなりの理由があってのことですが、「マラソンは年に1回」という染みついた固定観念は、川内優輝選手の事例を特殊なものとして切り捨てるのではなく、一度じっくりと考え直してみる必要があると考えます。

日本の選手たちがもっと楽な気持で「3大マラソン」や海外のゴールド・レースに出場し、その成果を持ち寄る形で「日本選手権」に集結するトップランナーたちの中から世界選手権やオリンピックの代表を決めていく…そうした大改革を実現するためには、巨大資本に支配されたマラソン界の構造を変えていく必要があります。それはまったく困難な道のりではありますが、それをやらなければ、マラソン界のどん底状態は、4年やそこいらで抜け出せるものではないように思えます。

このテーマについては、今後もいろいろな角度から、評論を試みていきたいと思います。

 

【短期集中連載】オリンピック回想 ③~1972年ミュンヘン大会



1972年といえば、私は中学3年生。自身も部活で陸上競技に取り組んでおり、また都内近郊で行われる大会には足しげく観戦に訪れていました。
当時はまだ、日本選手権などのビッグゲームはほとんど国立霞ヶ丘競技場で開催されていました。国立が全天候型トラックに改装されるのは翌年のことで、まだ鮮やかな色彩のアンツーカー・トラックでした。そのため、都内に唯一存在した全天候トラックの世田谷総合運動場で時折陸連主催の「記録会」が開催されていて、私はこれにも渋谷から長時間バスに揺られて出かけて行ったものです。
72年のオリンピック最終選考会となった日本選手権も、最終日は雨の中の試合となり、2年前に走幅跳で日本人初の8mジャンプを達成した山田宏臣選手が泥田のような走路に苦渋の表情を浮かべながら敗れ去っていった光景を、よく覚えています。私が大好きだった女子走幅跳の香丸恵美子さん(岡山沙英子選手の母親)も、この試合を最後に引退しました。

さて、ミュンヘン大会の競技を振り返る前に、この大会の開会式での素晴らしい光景をご紹介しましょう。
当時「聖火点灯」と言えば、どちらかと言えば未来を嘱望される無名の若いアスリートが一人で粛々と場内を一周して聖火台に向かう、というセレモニーでした。話題になるのはその人選にまつわるエピソードなどで、たとえば東京大会では原爆投下の日に広島県で誕生した坂井義則選手、メキシコシティ大会では史上初の女性最終ランナーというエンリケタ・バシリオ選手、さかのぼって56年のメルボルン大会では後に長距離王の名を欲しいままにするロン・クラーク、52年のヘルシンキ大会ではかつての長距離王パーボ・ヌルミ、といった具合です。
ミュンヘン大会では、やはり無名のギュンター・ツァーンという青年が最終ランナーに選ばれたのですが、彼が聖火を掲げて入場してくると、その後に4人のランナーが四角形の隊形を作って伴走してくる光景に、目を奪われました。純白のランニングウエアをまとった4人は、アメリカ最強のマイラー、ジム・ライアン、そのライアンを破ってメキシコシティ大会1500mの金メダリストになったキプチョゲ・ケイノ(KEN)、世界で初めてマラソンのサブテン・ランナーとなったデレク・クレイトン(AUS)、そして3大会連続してマラソン代表となった我らが君原健二。
つまり、ツァーン青年を含め、5つの大陸を代表するランナーたちが隊列を組んで聖火をゴール地点の聖火台へ送り込むという、今にしてみれば素朴ながらまことに粋な演出でした。
現在のように、コンピューター仕掛けの大仰な特殊効果に何人もの地元のヒーローが次々にトーチをリレーしていく、といった過剰演出ではありませんけれども、個人的な感想として感動は数倍上だったように思えます。

また、ミュンヘン大会は開催中にパレスチナの過激組織ブラック・セプテンバーによるイスラエル選手団襲撃事件が発生し、陸上競技のコーチ1人を含む11名が殺害されるという痛ましい出来事が語り継がれます。
「オリンピックはテロリズムに屈しない」として1日の中断を経て大会再開を決めたエイヴァリー・ブランデージIOC会長の英断は評価されますが、スポーツ大会の政治的利用がこの頃から暗い影を落とすことになっていきます。

◆各種目の金メダリストと主な日本選手の成績
*URS=ソビエト連邦 GDR=東ドイツ GER=西ドイツ CZS=チェコスロバキア

<男子>
   100m ワレリー・ボルゾフ(URS) 10"14
   200m  ワレリー・ボルゾフ(URS) 20"00
   400m ヴィンセント・マシューズ(USA) 44"66
   800m デーヴィッド・ウォトル(USA) 1'45"86
  1500m ペッカ・ヴァサラ(FIN) 3'36"33
  5000m ラッセ・ヴィレン(FIN) 13'26"42(OR)
 10000m ラッセ・ヴィレン(FIN) 27'38"35(WR) ※澤木啓祐・宇佐美彰朗:予選敗退
 110mH ロッド・ミルバーン(USA) 13"24(WR)
 400mH ジョン・アキー=ブア(UGA) 47"82(WR)
 3000mSC キプチョゲ・ケイノ(KEN) 8'23"64(OR) ※小山隆治:決勝9位
 4×100mR アメリカ 38"19(WR)
 4×400mR ケニア 2'59"83
 マラソン フランク・ショーター(USA) 2:12'19"8 ※
君原健二:5位入賞 宇佐美彰朗:12位 采谷義秋:36位
 20kmW ペーター・フレンケル(GDR) 1:26'42"4(OR)
 50kmW ベルント・カンネンベルク(GER) 3:56'11"6(OR)
 HJ ユーリ・タルマク(URS) 2m23 ※冨澤英彦:決勝19位
 PV ヴォルフガンク・ノルトヴィク(GDR) 5m50(OR)
 LJ ランディ・ウィリアムズ(USA) 8m24
 TJ ヴィクトル・サネイエフ(URS) 17m35 ※井上敏明:決勝12位
 SP ウラディスラフ・コマール(POL) 21m18(OR)
 DT ルドウィク・ダネク(CZS) 64m40
 HT アナトリー・ボンダルチュク(URS) 75m50(OR) ※室伏重信:決勝8位
 JT クラウス・ヴォルファーマン(GER) 90m48(OR)
 DEC ニコライ・アヴィロフ(URS) 8454p.(WR)

  

<女子>
   100m レナーテ・シュテッヘル(GDR) 11"07(WR)
   200m  レナーテ・シュテッヘル(GDR) 22"40(=WR)
   400m モニカ・ツェールト(GDR) 51"08(OR)
   800m ヒルデガルト・ファルク(GER)  1'58"55(OR)
 1500m リュドミラ・ブラギナ(URS) 4'01"38(WR) ※新種目
 100mH アンネリー・エアハルト(GDR) 12"59(WR) ※80mHから変更
 4×100mR 西ドイツ 42"81(WR)
 4×400mR 東ドイツ 3'22"95(WR) ※新種目
  HJ ウルリケ・マイファルト(GER) 1m92(=WR) ※稲岡美千代・山三保子:予選敗退
  LJ ハイデマリー・ローゼンダール(GER) 6m78 ※山下博子:予選敗退
  SP ナゼジデ・チジョワ(URS) 21m03(WR)
  DT ファイナ・メルニク(URS) 66m62(OR)
  JT ルート・フックス(GDR) 63m88(OR)
  PEN メアリー・ピータース(GBR) 4801p.(WR) ※80mH→100mHに変更


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◆世紀の大遅刻
全般にソ連をはじめとする“東側諸国”の躍進が目立ち始めた大会で、金メダル数ではソ連9個に対して王者アメリカは女子で1つも獲れなかったことも響いて6個に留まり、また東西に分かれたドイツ勢の活躍が目立ちました。

ソ連vsアメリカの象徴的な結果となったのが、男子100m。
2次予選に出場するはずのアメリカ3選手が、コーチに間違った時間を伝えられていたことから自分の出るべきレースに「遅刻」してしまい、優勝候補筆頭のエディ・ハートとレイ・ロビンソンが「DNS」の扱いになってしまったのです。ロバート・テイラーを含めた3人は選手村で寛ぎながらテレビを視ていましたが、突然「おい、これ(1次予選の)ビデオじゃないぜ。俺たちのレースだ!」と気付いてスタジアムに駆けつけたものの時すでに遅し…3組のテイラーだけが辛うじて間に合って決勝まで進みましたが、ロシアのボルゾフの前に屈辱の銀メダルに終わりました。
白人選手として1960年ローマ大会のアルミン・ハリー(GER)以来の100m金メダリストとなったボルゾフは、その勢いのままに200mも制して短距離2冠に輝きました。

アメリカvs東ドイツという図式で典型的だったのが、棒高跳。オリンピック不敗を続けてきたアメリカの、16連覇目を前回自らの手で勝ち取ったボブ・シーグレンが遂に東ドイツのノルトヴィックに敗れ、その輝かしい歴史に幕を下ろす役割をも引き受けてしまったのでした…。



◆地元のヒロイン

1960年代後半あたりから、西ドイツの美人アスリートとして人気を博していた“赤毛のハイディ”ことハイデ・ローゼンダールが、熱狂的な応援をバックに大活躍しました。
最初に出場した走幅跳では1回目に6m78を跳んでリードを奪うと、4回目でブルガリアのヨルゴワに1センチ差まで詰め寄られましたが、そのまま逃げ切って金メダルを獲得。

続く五種競技では、2種目めの砲丸投で“本職”のメアリー・ピータースに大差をつけられ、走高跳でも17センチも上を跳ばれて、初日を終わったところで301点差の5位という絶望的な状況…しかし2日目の2種目、得意の走幅跳では自己記録に1センチと迫る6m83、200mではトップのピータースに1秒以上の大差をつける22秒96、最後は10点差まで詰め寄る猛烈な追い上げで銀メダルを獲得しました。

スタンドを最高潮に盛り上げたのが、アンカーとして出場した400mリレーでした。
3走からトップでバトンをもらったものの、追走する東ドイツとの差は僅かに1メートルほど。東ドイツのアンカーは、圧倒的なスプリント力で短距離2冠のシュテッヘル…誰もが逆転劇を思い描いたのですが、ローゼンダールは終始1メートルの差を守ったまま大歓声に引っ張られるようにして、金メダルのゴールを駆け抜けました。

ローゼンダールはこの大会を最後に引退しましたが、西ドイツの国民的ヒロインとしてテレビのコメンテーターなどでも人気は高く、2000年代に入って男子棒高跳の6mヴォルター、ダニー・エッカーの母親として再びその名が取り沙汰されました。
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切手にもなったローゼンダール

男子1、女子5つの金メダルを獲得した西ドイツ勢の中で、もう一人ヒロインを挙げるとすれば、16歳で走高跳に1m92の世界タイ記録を跳んで優勝したウルリケ・マイファルトでしょう。
4年前にフォスベリーが初めて披露した背面跳びをいち早く取り入れ、右手を先行させて送り込むスタイルで綺麗な弧を描くフォームは、まだ十分に普及しきっていなかった背面跳びの、既にして“完成型”を思わせるほどのものでした。(この大会の頃はまだまだベリーロールが主流でした)
「天才少女」の名を得たマイファルトでしたがその後は紆余曲折の競技人生を送り、12年後のロサンゼルス・オリンピックで再び世界の頂点に立つことになります。

◆マラソンに怪物ランナー現る
円谷幸吉・君原健二によって2大会連続マラソンのメダルを得た日本では、1970年に宇佐美彰朗が2時間10分台の日本最高記録で福岡国際マラソンに優勝して「世界と戦うエース」の座を不動のものにしていましたが、翌年の福岡でその宇佐美の前に突如立ちはだかったのが、長髪にヘアバンド、口ひげを蓄えたヒッピー(当時の自由放埓な若者風俗)のような風貌のフロリダ大学生、フランク・ショーターでした。

マラソン・レースは東京大会で全行程完全TV中継が実現していましたが、これは日本ならではの優れた中継技術あってのもの、このミュンヘン大会では数か所の定点カメラからの中継が時間を置いて送られてくるというものでした。序盤からショーターの独り旅、期待の宇佐美は遅れているという実況が伝えられ、やがて宇佐美に代わって君原が追い上げてきた、とのレポートに僅かな期待を込めてテレビに見入ったものでした。

いよいよショーターが競技場に近づいたところの実況が始まり、映像がスタジアムに切り替わった時、ハプニングが…マラソンゲートを通って“凱旋”してきたのは、明らかにショーターとは別人。どうやら地元ファンによる人騒がせなジョークだったようで、一瞬スタンドは完全に引っ掛かってこの闖入者に大歓声を送ってしまったのでした。この男が係員に取り押さえられたところで現れた「本物」が、2位のカレル・リスモン(BEL)に2分以上の差をつけてマラソン実力世界一の座に躍り出たのです。 

ショーターはその年の暮れにも福岡にやって来て日本選手を寄せ付けず優勝すると、翌年春には毎日マラソン(現・びわ湖毎日マラソン)に参戦。このレースで復活を期する佐々木精一郎とのトップ争いのさなかに突如沿道の観客から小旗をもぎ取ってコースを離れ、草むらに駆け込んで「大」の用事を済ませると素知らぬ顔でレースに復帰、そのままぶっちぎりで優勝をさらうという怪物ぶりを発揮しました。(折しも、競馬界が「怪物ハイセイコー・ブーム」に沸いていた頃の話です)
さらにショーターは福岡国際での連覇を4にまで伸ばし、76年モントリオール大会での五輪連覇は確実と見られていましたが、なぜかオリンピックのレースだけ快走するワルデマール・チェルピンスキー(GDR)の前に敗れてしまいました。

ショーターが日本のレースにやって来た72年の福岡の後だったでしょうか、私は東京の代々木第二体育館で室内跳躍競技会を観戦していました。そのスタンドにいた私の目の前に、オリンピックのマラソン・チャンピオンが突然姿を現したのです。夢中で手元にあったノートを取り出し、サインを貰った時の信じられないような気持ちは忘れられません。長じて多くの芸能人や著名人と仕事上でお会いする職業に就いた私ですが、そうした方々に私的にサインをねだったことはただの一度もありません。この時の、ショーターのちょっと朴訥な直筆だけが、私の宝物です。
(実はこの大会で、多くの日本の棒高跳・走高跳トップアスリートの皆さんのサインを収集してたんですけどね)
IMG_20160730_0001_NEW
これが「家宝」F.ショーターの直筆本物サイン。2・10・30は72年の福岡でマークした自己最高記録。

ショーターはミュンヘン大会で陸上王国の座をソ連に明け渡してしまったアメリカを救う存在となったわけですが、もう一人、長距離で忘れることのできないアメリカ人選手がいました。5000mで4位になったスティーヴ・プレフォンテインです。
オレゴンの学生だったプレフォンテインは、常に先頭を引っ張り押し切るレース・スタイルで地元のユージーンでカリスマ的な人気を誇っていた選手で、ミュンヘンでも持ち味を遺憾なく発揮したものの僅かにメダルには及びませんでした。
ミュンヘンの3年後、彼は自ら運転する車をクラッシュさせて24歳で夭折します。その名前は、現在のダイヤモンドリーグ・ユージーン大会の固有タイトルである「プレフォンテイン・クラシック」という大会名として残り、3年後にはこの地で世界選手権が開催される予定になっています。

 

【短期集中連載】オリンピック回想 ②~1968年メキシコシティ大会



小学校1年生で地元開催のオリンピックに巡り会ってしまった私は、その4年後のメキシコシティ大会でさらに深くのめり込んでいくことになります。
私たちは「当たり前」のように受け止めていましたが、実は衛星中継で海外の生映像が見られるというのは、ほとんど初めてのことと言ってよかったのです。我が家はまだ白黒テレビだったとはいえ、時差の関係で連日朝のテレビに釘付けになり、後ろ髪を引かれる思いで学校に行き、先生を拝み倒して教室のテレビ(滅多に使われない一斉授業や緊急放送用のもの)で少しだけ競技の模様を見せてもらったりしていました。
いま振り返れば、財政事情の厳しいメキシコという国で、よく開催したもんだなと思わされますが、特に陸上競技においては非常に特異な、また時代の変わり目に位置付けられた大会だったと感慨深いものがあります。


◆各種目金メダリストと主な日本選手の成績
*URS=ソビエト連邦、GDR=東ドイツ、GER=西ドイツ、CZS=チェコスロバキア
<男子>
   100m ジム・ハインズ(USA) 9"95(WR)  ※飯島秀雄:準決勝敗退
   200m  トミー・スミス(USA) 19"83(WR)
   400m リー・エバンス(USA) 43"86(WR)
   800m ラルフ・ドーベル(AUS) 1'44"40(OR)
  1500m キプチョゲ・ケイノ(KEN) 3'34"91(OR)
  5000m モハメド・ガムーディ(TUN) 14'05"01 ※澤木啓祐:予選敗退
 10000m ナフタリ・テム(KEN) 29'27"40 ※鈴木従道:19位 澤木啓祐:27位
 110mH ウィリー・ダヴェンポート(USA) 13"33(OR)
 400mH デーヴィッド・ヘメリー(GBR) 48"12(WR)
 3000mSC アモス・ビウォット(KEN) 8'51"02
 4×100mR アメリカ 38"24(WR) ※日本:予選敗退(日本新)
 4×400mR アメリカ 2'56"16(WR)
 マラソン マモ・ウォルデ(ETH) 2:20'27 ※
君原健二:銀メダル 宇佐美彰朗:9位 佐々木精一郎:DNF
 20kmW ウラディミル・ゴルブニチー(URS) 1:33'59"
 50kmW クリストフ・ヘーネ(GDR) 4:20'14"
 HJ ディック・フォスベリー(USA) 2m24(OR)
 PV ボブ・シーグレン(USA) 5m40(OR) ※丹羽清:決勝11位(五輪新)
 LJ ボブ・ビーモン(USA) 8m90(WR) ※山田宏臣:決勝10位
 TJ ヴィクトル・サネイエフ(URS) 17m39(WR)
 SP ランディ・マトソン(USA) 20m54(OR)
 DT アル・オーター(USA) 64m78(OR)
 HT ジュラ・ジボツキー(HUN) 73m36(OR) ※菅原武男:4位入賞
 JT ヤニス・ルーシス(URS) 90m10(OR)
 DEC ビル・トゥーミー(USA) 8193p.(OR)



<女子>
   100m ワイオミア・タイアス(USA) 11"08(WR)
   200m  イレーナ・シェビンスカ(POL) 22"58(WR)
   400m コレット・ベッソン(FRA) 52"03(=OR)
   800m マデリン・マニング(USA) 2'00"92(WR)
  80mH モーリーン・ケアード(AUS) 10"39(WR)
 4×100mR アメリカ 42"88(WR)
  HJ ミロスラヴァ・レスコヴァ(CZS) 1m82
  LJ ヴィオリカ・ヴィスコポレアヌ(ROU) 6m82(WR)
  SP マルギッタ・ギュンメル(GDR) 19m61(WR)
  DT リア・マノリウ(ROU) 58m28(OR)
  JT アンゲラ・ネメト(HUN) 60m36
  PEN イングリット・ベッカー(GER) 5098p.


◆記録ラッシュを生んだ「高地」と「タータン」
前回の東京大会まで、陸上競技は「土のグラウンドで行うのが当たり前」なものでしたが、この大会で初めて導入されたのが合成樹脂製の全天候型走路―その商品名から「タータン・トラック」と呼ばれたサーフェイスのものです。
雨でぬかるむことも度重なるレースで踏み荒らされることもなく、選手はいつでも万全の状態の走路を走ることができるようになりました。
しかも、開催地のメキシコシティは標高2240mの高地で、空気が薄く、それまであまり意識されてこなかった空気抵抗というものがいかに大きいものだったかが、次々と打ち破られる記録によって示されたのです。
短距離や跳躍では、ほとんどすべての種目で世界記録が更新されるという事態になりました。前回から一部種目に導入されていた電子計時が全種目で正式採用され、これによって若干手動計時よりも「損をする」状態だったにも関わらず、です。
(なお、電子計時による100分の1秒単位の記録は当時は公表されず、10分の1秒単位の記録が「公式記録」として採用されていましたが、後年手動計時の廃止とともに、後追い式に電子計時による記録が認定されました)
男子のスプリント種目では、100m10秒、200m20秒、400m44秒というそれぞれの「壁」が、いともあっさりと突き破られてしまいました。

とりわけ世界を驚かせたのは、男子走幅跳でダークホースと目されていたボブ・ビーモンが最初の跳躍で跳んだ「8m90」という大記録でした。
表示された記録を見てその場に泣き崩れたビーモンは、2回目の8m04の後はもう跳ぶことを辞めてしまい、他の選手は毒気を抜かれたといったていでまるで記録を伸ばせず、2位との差は何と71センチもついてしまいました。
「21世紀まで破られない」と言われたビーモンの大記録はしかし、1991年の東京世界選手権で、マイク・パウエル(USA)によって5センチ更新されることになります。とは言っても、現在でも8m30を超えるあたりがビッグゲームの優勝ラインとなっていることからすると、いかに驚異的な記録だったかが偲ばれます。

男子三段跳でも、予選から17m03の世界記録が破られ、決勝ではさらに3度にわたって更新された挙句、ソ連のヴィクトル・サネイエフが6回目に17m39を叩き出して逆転、オリンピック3連覇へのスタートを切ることになりました。最終的には6位までが17mをオーバーし、これには世界記録保持者で3連覇を狙っていたヨーゼフ・シュミット(POL)も、自身のオリンピック記録は超えたものの7位に終わり、お手上げの状態でした。

棒高跳では東京大会の前からポールの材質研究が急速に進み、釣り竿メーカーが参入して開発されたグラスファイバー・ポールの普及によって記録が飛躍的に向上していました。前回フレッド・ハンセン(USA)が死闘の末に記録した5m10のオリンピック記録を11位の丹羽清(法大)までが更新し、優勝争いは5m40をクリアするところまで進んだのです。僅かに試技数の差でボブ・シーグレンが優勝し、アメリカのオリンピック不敗・16連覇を死守しました。




◆「高地民族」見参!

標高の高い場所で開催されたメキシコシティ・オリンピックでは、一転して中長距離走では全く異なる様相の戦いが繰り広げられました。ケニア、エチオピアという東アフリカの高原で暮らすアスリートたちが、突如として世界の頂点に躍り出てきたのです。

初日に行われた男子10000m決勝では、多くの選手が少ない酸素にもがき苦しむ中、最後の1周ではナフタリ・テム(KEN)とマモ・ウォルデ(ETH)が400mレースのようなスパート合戦を演じ、短距離や跳躍の記録ラッシュとはまた違った意味で、世界中を驚かせました。
オーストラリアの長距離王ロン・クラークをはじめ、ゴールした後に倒れ込んで酸素吸入を受ける選手が続出。クラークは5000mにも出場して5位となりましたが、高山病を発症し選手生命を絶たれることになってしまいます。(余談ですが、クラークは晩年ゴールドコーストの市長として活躍し、昨年世を去りました)

そのクラークと東京大会で激しいデッドヒートを繰り広げたモハメド・ガムーディ(TUN)は、10000mで少し遅れた3位に食い込むと、5000mではキプチョゲ・ケイノ(KEN)との接戦をものにして念願の金メダルに輝きました。チュニジアは決して高地と呼べる場所ではなく、ガムーディ自身も東京以降はヨーロッパを活動拠点にしていましたが、前回の悔しさをバネに持ち前のスプリントに磨きをかけた結果、と言えるでしょう。

そのガムーディをガチンコのラスト勝負で破ったこともある澤木啓祐が、この大会では最も期待された日本勢の一人でしたが、高地への対応ができず、またスタート直後の密集の中でスパイクされたこともあって、いいところなく惨敗しました。同じ10000mのレースを走っていたのが、後にダイハツ女子陸上部監督や競歩の山崎勇喜のコーチとして名を挙げる鈴木従道でした。

10000mでラスト1周まで同僚・テムのペースメーカーとして集団を引っ張り、5000mでは僅差の銀メダルを獲得したケイノは、アフリカ勢の中では唯一と言ってよいほど、平地でも実績を積み上げてきた優勝候補の一角でした。ケイノはさらに、終盤に行われた1500mにも登場し、大本命とされていたジム・ライアン(USA)を破って金メダルを獲得しました。4年後のミュンヘン大会では3000mSCに優勝し、ケニア陸上界最大の英雄として長く人気を誇ったケイノは、現在のケニア・オリンピック委員会の会長であり、その名は同国のナショナルスタジアムに冠されているほどです。

最も驚かされたのは、3000mSCでした。ビウォット、コーゴという2人のケニア人選手が、水壕障害を軽々と跳び越え、足を濡らすことなくグングンと他を引き離してワン・ツーを決めたのです。「ケニアのお家芸」となる、伝説の始まりでした。
思えば、高地で開催という恩恵も確かにあったのでしょうが、ちょうど時を同じくして、ケニアという特異な国のアスリートが掛け値なしにその真価を発揮し始めたのがこの大会だった、と言えるのではないでしょうか。

そして、高地勢のトリを務めたのがエチオピアにマラソン3連覇をもたらしたマモ・ウォルデでした。10000mの再現とばかりにテムとのデッドヒートの末にこれを振り切ったマモは、17km地点で故障のため棄権したアベベの代わりに独走態勢を築き、2位の君原健二に3分の大差をつけて優勝したのです。
日本国内の代表選考ですったもんだがあった君原でしたが、この年の1月に突如自ら命を絶った円谷幸吉の遺影に固く誓った「日の丸」の約束を、堂々と果たしてみせました。選考会の成績では明らかに上位だった采谷義秋を措いてまで、君原の耐久力と精神力を買って代表にした陸連の判断もまた、報われたというわけです。


◆初めて「背面跳び」をやった男

男子走高跳は、自ら開発した「フォスベリー・フロップ=背面跳び」を駆使するディック・フォスベリーがオリンピック新記録で優勝しました。
当時HJの主流跳躍法は「ベリーロール」という跳び方でしたが、これを苦手としていたフォスベリーは、昔ながらの「正面跳び(シザース・ジャンプ)」で跳ぶ平凡なジャンパーでした。ある日、シザースの形が崩れて背中から跳ぶような体勢になったことに閃きを得て、この跳び方を考案し、ブラッシュアップしたのだそうです。
背面跳びは用具(着地用マット)の進歩とともに瞬く間に世界中に広まり、その運動力学的優位性が確かなものになると、やがて他の跳び方を駆逐してしまいました。
いま私たちが目にしているハイジャンプのフォームは、こうして半世紀前に生み出されたものだったのです。


◆偉大な女性スプリンター
快記録や高地勢の活躍に沸いた男子に比べ、女子は少々印象が薄い感がありますが、それでもかなりの世界新記録が誕生しています。
前回の東京大会で「スプリント個人3冠」を唯一達成したベティ・カスバート(AUS)を紹介しましたが、これに匹敵する偉業に挑む選手が現れました。200mを世界新で制したポーランドのイレーナ・シェビンスカです。
18歳で出場した東京大会では旧姓のイレーナ・キルシェンシュタインとして、200mと走幅跳で銀メダル、400mリレーで金メダルのメンバーとなっていた彼女は、メキシコシティでは100mで銅メダル、200mで金メダル。さらにミュンヘン大会では200mで銅メダルを獲りましたが100mは準決勝で敗れ、年齢的な衰えを指摘されるようになります。しかし30歳になったモントリオール大会では400mに出場して見事金メダル。
結局、5つの種目で金3、銀2、銅2というメダル・コレクターぶりは、カスバートや往年のファニー・ブランカース・クン(NED)にも勝るオリンピック史上の名スプリンターと言って間違いないでしょう。


ギャラリー
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