豊大先生流・陸上競技のミカタ

陸上競技を見続けて半世紀。「かけっこ」をこよなく愛するオヤジの長文日記です。 (2016年6月9日開設)

吉岡隆徳

元陸上競技王者の、いま<第4弾>



前回予告のとおり、TBSテレビ『消えた天才』に登場したもう一人の陸上選手・飯島秀雄さんについて、ご紹介します。
実を言うと、飯島さんについては現在連載休止中(?)の『100m競走を語ろう』の第19回に取り上げるつもりでいたのですが、事実関係の確認などに手間取っているうちに時間が経過してしまい、現在に至っていました。番組の内容からいくつか新しい情報も得られたので、ここでまとめてみようと思います。

近年未曽有の盛り上がりを見せている男子短距離界の歴史において、先にご紹介した藤井實、吉岡隆徳、人見絹枝といった大先達と並んで欠かすことのできない存在、それが飯島秀雄選手です。
戦前に「世界タイ記録」として記録された吉岡の日本記録を29年ぶりに更新し、世界中のスプリンターが目標とした「100m10秒の壁(手動計時)」に日本人として唯一、挑み続けた男。
1964年東京、68年メキシコシティと2度のオリンピックに出場し、これまた吉岡以来のファイナリストへあと一歩のところまで迫った男。
突如として陸上界からプロ野球界へと転身し、華やかなスポットライトとプロの辛酸という両極端の世界を味わった男。
自身が引き起こした交通人身事故のためにいったんは社会から消え去り、そして再び、陸上の世界に帰ってきたスプリントのレジェンド。
まさしく波乱万丈の人生を歩んできた飯島さんは、現在故郷・水戸市で小さな運動具店を経営しつつ、明るく過去の自分を笑い飛ばし、また将来の大きな夢について語ってくれました。
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飯島さんが短距離選手を志したのは、県立水戸農高に入学してからです。素質を見出されて東京の目黒高に転校し、やがて当時実業団日本一だったリッカーミシンの吉岡隆徳コーチの指導を仰ぐようになります。早稲田大進学後も、練習は主にリッカーのグラウンドに出向いて英才教育を施されました。
「日本記録は自分の育てた弟子に破らせたい」と情熱を注ぐ吉岡にとって、飯島と女子の依田郁子は秘蔵っ子とも呼べる存在となり、二人はともに64年東京オリンピックの短距離最大のホープとして注目を浴びることとなるのです。
東京五輪の年を迎えた4月、飯島は国内で10秒3をマークして師・吉岡の日本記録に並ぶと、6月にはベルリンの競技会で10秒1の日本新記録を叩き出しました。日本記録を一気に0.2秒更新するとともに、当時世界ではアルミン・ハリー(GER=ローマ五輪を制しすでに引退)とハリー・ジェローム(CAN)だけが持っていた10秒0に次ぐ、世界歴代3位タイの記録でした。一躍、東京オリンピックの金メダル候補の一角に名乗り出たのです。

飯島の最大の武器は、吉岡から伝授された鋭いスタートダッシュでした。加えて飯島には吉岡が恵まれなかった176㎝の上背と骨太の体格がありました。筋力を活かしてスタートラインの手前で大きく両手を開き、「用意」で前方にぐいと体重を預ける構えから低い姿勢で飛び出すそのフォームは「ロケットスタート」と命名され、吉岡の代名詞だった「暁の超特急」にあやかって、飯島には「暁のロケット」というニックネームがマスコミによって奉られました。
飯島のスタートは、国際舞台でも前半は確実に海外のスプリンターたちをリードする卓越したものでしたが、その反面、吉岡が1932年のロス五輪で味わったのと同様、後半に伸びを欠いて失速するという弱点をも引き継いでいました。東京、メキシコシティともに危なげなく準決勝まで進出しながら、ファイナルの壁はあくまでも高く厳しく、飯島の前に立ちはだかったのです。
思えば、「あの飯島が超えられなかった壁」が、その後半世紀以上にもわたって日本のスプリント界を呪縛し続けている、そう言っても言い過ぎではないでしょう。

大学3年で迎えた東京オリンピックで、1次予選10秒3(全選手中1位)で1着、2次予選10秒5で3着の後、準決勝はスタート直後から精彩なく10秒6の7着。
その後1966年に2度にわたって10秒1の日本タイ記録で走り、68年のオリンピック(当時は茨城県庁所属)では1次予選10秒24(追風参考・全選手中5位)、2次予選10秒31(追風参考)で3着、準決勝はスタート直後トップに立つも10秒34で8着と敗退しました。このタイムは手動計時であれば10秒1から2に相当するもので、飯島は2度目のオリンピックの舞台で実力を十分に発揮したと言ってよいのですが、電子計時でも9秒台に突入した世界の急速なレベルアップには置いて行かれた形となったものです。
3度にわたって記録した10秒1は、結局そのまま「最後の手動計時日本記録」として、複数の選手にタイ記録で並ばれはしたものの永遠のものとなりました。またメキシコで記録した10秒34は、その後電子計時のみが正式採用されて数年が経過した1984年に至って、改めて「日本記録」として公認されていますが、それまでの間は「10秒3」として扱われていました。

飯島の人生は、メキシコから帰国して間もなく、その年のプロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)から9位指名を受けて「代走専門選手」としてプロ野球入りしたところで急転回を迎えます。
陸上に見切りをつけた理由が「自分の走りでは、新素材のトラックに対応できない」というものだったというのは今回初めて聞いた事情で、驚きました。
今ではスタンダードになっている陸上トラックのゴム・合成樹脂素材は、メキシコシティ・オリンピックで初めて世に出たものです。私が陸上競技を始めたのが1971年で、当時東京では世田谷総合運動場と東京体育館(300m)の2箇所しかタータントラックはありませんでした。世界中のトラックがやがてそうした全天候型舗装に取って代わられることになるとは想像もできなかったのですが、飯島はたった1回オリンピックで走っただけで、自身の将来に見切りを付けたというのです。

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さて、飯島ストーリーの第2章…中学時代は野球部に所属していたとはいえ、いわば「ど素人」がプロの世界で何ができるのか…注目を集めた飯島はプロ初試合となった東京スタジアム(現在は消滅)での南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)との2回戦で、同点の9回裏に一塁代走として起用されました。
南海のキャッチャーは、あの「ノムさん」こと野村克也。プロ野球史上ナンバーワンとも評される当時の名捕手です。「野球はど素人」そのままに、リードもせず、投手が投球動作に入ってよほど経ってからスタートを切った飯島はその“変則スタート”ゆえにかえって南海守備陣の度肝を抜き、野村の二塁暴投を招いて一気に三塁へ。次々打者のヒットでサヨナラのホームを踏むという、最高のデビューを飾りました。

デビューこそ華々しく、また飯島見たさに閑古鳥が鳴いていたパ・リーグのスタンドには多くのファンが詰めかけるようになりましたが、その後の成績は振るいませんでした。
結局プロ3年間で盗塁23、盗塁死17、牽制死5、得点46。ひたすら前を見て直線を走ることだけに磨きをかけてきた飯島にとって、投手のモーションを盗み、牽制をかいくぐり、「カニみたいに」横向きにスタートを切ってベースにスライディングするという「プロの走り屋」の世界はあまりに厳しい現実を突きつけたのです。実直な性格の彼が、トリックプレーや口先の騙しに簡単に引っ掛かったというのも、さもありなんという感じがします。とはいえ、3年の間にそうしたプロの技術をほとんど吸収することなく終わったというのも、本人はもとより当時のプロ野球界の悠長さが伺えて、面白さを感じてしまいます。

1971年シーズンを最後にプロ野球界を去ってからしばらくの期間のことについて、今回の放送では何も言及しませんでした。
故郷の水戸に戻って運動具店を開業していた飯島は、1983年、国立霞ヶ丘競技場で行われる陸上競技会に出場する娘の応援に自ら運転してきたクルマで、幼い少女を撥ねて死亡させる人身事故を起こし、交通刑務所に服役しています。事故があった現場はJR四ツ谷駅前の信号で、実は当時私が通っていた会社へ向かう通り道でした。その後何年にもわたって小さな献花が絶えることなく続いていたのを覚えています。その事故の当事者があの飯島であったことを知ったのは、だいぶ後になってからのことです。
スプリンターからプロスポーツへの転身、そして罪を犯しての服役…ちょうど、東京オリンピックの男子100m金メダリスト、ボブ・ヘイズ(USA)が辿ったのと同じような波乱の人生を、飯島は歩んでいました。

その飯島の名前が再び大きく浮上してきたのは、水戸市の陸協に籍を置き、短距離競走の出発係(スターター)として実績を積み重ねた末に、1991年の東京世界選手権で男子100mのスターターを務めるという栄誉に浴した時です。
かつての名スプリンターが名スターターに…それは、かつて師と仰いだ吉岡隆徳の無二の親友でありライバルだった佐々木吉蔵が、飯島も出場した東京オリンピックの100m決勝のスターターとして名を馳せたのと、同じプロセスでした。吉岡と佐々木、戦前を代表する2人のスプリンターの系譜を、飯島はともに受け継いだことになります。

今回の番組と同じような企画のものを、私はこの東京世界選手権の少し前、つまり服役を終えてしばらく経った頃にもTVで見た記憶があります。やはり「あの人は今」的な趣旨のもと、運動具店の奥から現れる演出までそっくり同じでしたが、その頃の飯島さんはまだ壮年のがっしりした体形で、おぐしもフサフサとしていたように覚えています。
今年73歳となった飯島さんは、それでも「3年後の東京オリンピックでスターターをやって、陸上界に恩返ししたい」と、大きな夢を語ってくれました。
日本人初めての100m9秒台。戦後初のオリンピック・ファイナリスト。
その野望を最初に抱いた伝説のスプリンターは、自らの手で打ち鳴らした号砲で飛び出した選手が、己の果たせなかった夢をかなえる瞬間を待ち望んでいるに違いありません。それほど、陸上界に置き忘れてきたものは大きかったということなのでしょう。

※関連投稿
<連載>100m競走を語ろう
http://www.hohdaisense-athletics.com/archives/cat_172993.html

第101回日本選手権の見どころ ① ~男子スプリント


お陰様で、当ブログも開設1周年を迎えました。いつもご愛読いただいて、ありがとうございます。
しかしながらここんとこ、生活がちょっと多忙につきブログの更新がままならず、ご訪問いただいた方々にはご迷惑をおかけしましてすんません。
今週末もDLローマ大会に始まって、個人インカレ、日本選手権混成競技と陸上競技のイベントは盛りだくさん、好況の男子スプリントを中心に話題のネタは尽きません。本来なら、競技の結果速報を含めて大車輪で戦評をお伝えしたかったところですが、無念なことに混成のライブ配信すら、ほとんど見る時間がありませんでした。

何はともあれ、『第101回日本選手権』を2週間後に控えて、ロンドン世界選手権を目指す有力選手たちのスケジュールが一段落し、あとは代表権争いの本番までの調整期間ということになります。参加標準記録到達者が思いのほか少ないのが気がかりではあるものの、そこは本番で大挙して突破~上位入賞というシーンを期待して、再来週を待つことにしましょう。
そこで、今回からはしばらく、『日本選手権』の展望という形で、今シーズンここまでの状況を確認してみたいと思います。

10206-2
 日本陸連HPより

◆男子100mは激戦模様
10日に行われた『日本学生陸上競技個人選手権』男子100m決勝で、多田修平(関西学院大3)が10秒08(+1.9)を叩き出したことで、安泰と見られていた「3強」(桐生祥秀・山縣亮太・ケンブリッジ飛鳥)による100m代表独占が、俄かに風雲急を告げる展開となってきました。
男子で現在最も「標準」到達者が多い激戦区が、この100mです。

むろん、多田は昨年来関西学生スプリント界の旗手として名のある選手であり、決してぽっと出の“新星”などではありませんが、1年前の段階では桐生の前にまったく歯が立たなかった(桐生10秒10、多田3着10秒36)ことを思えばその躍進ぶりは確かなものがあります。もっとも、桐生にしてみればローマまで遠征してまたもや向い風に祟られ、「個人インカレに出ていれば9秒台が出ていた」と、臍を噛む思いもあるかもしれません。
「標準」に到達済みの選手が4人(100mにエントリーのない飯塚翔太は含まず)。加えて、多田とともに「4番手」の位置を競い合ってきた大瀬戸一馬(安川電機)、長田拓也(富士通)、竹田一平(中央大)、さらに忘れちゃならないサニブラウン・ハキーム(東京陸協)と、9秒台一番乗りを虎視眈々と狙っているスプリンターはまだまだいます。今季いま一つの状態ながら、高瀬慧(富士通)もエントリーしています。
誰が優勝するかの前に、決勝進出することが一苦労という、大変なトーナメントになりそうです。

現状、「9秒台」に最も早くたどり着く実力を有しているのは山縣だと考えている私ですが、3月の海外初戦以来、足首の故障で戦線を離れている間の動向が気になるところです。先日放送されたNHK『“栄光なき天才たち”からの物語』(アニメの吉岡隆徳物語に山縣の近況を重ね合わせたドキュメンタリー番組)によれば、少なくとも5月下旬までは順調に練習を積んでいる様子が伝えられており、『布施スプリント』の欠場も大事をとってのことと思われ、日本選手権にはきっちりと仕上げてくるものと見ています。
そうは言ってもやはり、「ガラスの脚」が最大の懸念材料ということになるでしょうか。

潜在能力随一の桐生にはスタートの課題(完全に修復されたとは思えません)から来るメンタル面の不安、抜群の勝負強さを誇るディフェンディング・チャンピオン、ケンブリッジにはやや連戦の疲労もしくは実戦を重ねる中での競走への迷いが感じられ、飯塚に先着を許した布施スプリントのレースは、どこか中途半端なものでした。
このように「3強」それぞれに不安材料があり、ここに割って入ろうとするのが多田そしてサニブラウン、ということになるでしょう。
100m代表の「3枠」だけではなく、200mと併せたリレーメンバーの「6枠」争いもまた、熾烈なものになります。100mのスペシャリストである多田はこの点、日本選手権で3位以内に入って100mの代表権を得ておかないと「補欠」の芽はなくなるのではないでしょうか。(400mリレーには200mの走力が必要、という私の持論は下記に紹介する以前の投稿をご参照ください)

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◆さらに混戦?男子200m
飯塚が布施スプリントで「絶好調」を証明したことで、日本選手権では予選から「標準」突破を余裕で果たして代表に名乗りを挙げることが予想されます。
現在唯一の標準到達者であるサニブラウンは、その後レース出場がないようですが、100、200ともに3位以内を狙ってくるでしょう。海外での修行の成果が非常に楽しみです。
もう一人、好調なのが原翔太(スズキ浜松AC)。飯塚が10秒08(+1.9)を出した布施スプリントでは2着のケンブリッジに0.01秒差の10秒13でPBを更新しています。昨年僅かのところでオリンピック代表を逃した無念を、今度こそ晴らすことが出来るでしょうか。
こちらの「3強」のうち、藤光謙司(ゼンリン)は同じ布施のレースでPBを0.01秒更新する10秒23で走っており復調気配ですが、今季200mの実績がないのが気がかり。また高瀬の低迷ぶりは日本選手権に間に合うかどうか、かなり疑問です。
予選で規定内の風で「標準」を突破し、精神的に余裕を持った選手が決勝では優位に立つような気がしています。


◆マイル代表争いも熾烈
400mでは、本来ならば大本命となるウォルシュ・ジュリアン(東洋大3)が『ワールドリレーズ』でパンクしたきりインカレ戦線にも戻って来れませんでした。非常に心配なところですが、7月の『アジア選手権』代表に名を連ねたことで、復帰の態勢は整ったものと見てよさそうです。
同じリオ代表の加藤修也(早稲田大4)もインカレ欠場。この2人の状態如何で、マイルリレー代表争いはどう転がるかまったく分かりません。
『ワールドリレーズ』で初代表となった藤原武(ユメオミライ)、関東インカレを制した北川貴理(順天堂大3)、また小林直己(HULFT)、田村朋也(住友電工)、佐藤拳太郎(富士通)、堀井浩介(住友電工)ら、初優勝を狙う面々の誰が上位4人に入るか、何人が45秒台の声を聞かせられるか…。現状、ウォルシュ以外に標準突破の期待がかけにくいのが残念なところではありますが。
言うまでもなく、昨年連覇を途絶えさせられた金丸祐三(大塚製薬)の巻き返しにも期待です。ただ、近況は芳しいものではないようで、予選の走りに注目したいところです。

※参考記事
<連載>100m競走を語ろう

http://www.hohdaisense-athletics.com/archives/cat_172993.html
日本リレーチームはなぜ37秒60で走れたのか
http://www.hohdaisense-athletics.com/archives/6261252.html

<連載>100m競走を語ろう ⑰~“暁の超特急”吉岡隆徳



日本のスプリンター列伝を語る上で、藤井實と同じく決して外すことができないレジェンドが、日本の陸上競技史上唯一のオリンピック・100mファイナリストであり、またやはり唯一の男子100m公認世界記録保持者であった、吉岡隆徳(たかよし…「りゅうとく」と通称された 1909-1984)さんです。(以降敬称略)

1932年のロサンゼルス・オリンピック男子100mで、当時23歳の吉岡は1次予選を10秒9の1着、2次予選を10秒8の2着で勝ち上がると、準決勝ではディフェンディング・チャンピオンのパーシー・ウィリアムズ(CAN)を僅差で抑えて10秒8の3着で決勝に進出しました。
当時の陸上競技はセパレート・レーンが6レーンしかなく、入賞扱いもまた6着まで。つまり吉岡の成績は、世界の「トップ6」という偉業でした。(決勝が8レーンで行われるのは1964年東京大会から、また入賞が8位までとなるのは1984年ロサンゼルス大会から)
決勝に進出した吉岡は、得意のスタートダッシュで序盤明らかにトップを疾走したものの、中盤から次々に抜かれて最下位の6着、タイムは10秒8…それでも堂々、オリンピックでの男子全トラック種目を通じて初の入賞となり、また100m競走においては現在に至るまで、唯一無二のファイナリスト・入賞者となっているのです。
母親の手縫いという白い鉢巻をきりりと締めた小さな日本人のスーパー・ダッシュは、現地の大観衆にも大きな印象を残しました。


この3年後、吉岡は6月9日(南甲子園運動場)と15日(明治神宮外苑競技場)、1週間の間に立て続けに、当時の世界記録であった10秒3で走り、先のロス五輪優勝者のエディ・トーランや2位のラルフ・メトカーフ(ともにUSA)らとともに、IAAFのレコードブックに世界記録保持者として名を連ねました。
大きな期待を負って出場した1936年ベルリン・オリンピックでは2次予選敗退に終わっています。それとともにジェシー・オーエンス(USA)というスーパースターの登場によって世界記録保持者の座も失ってしまいましたが、その後も日本のエースとして、戦火が激しさを増す時代を走り続けました。

◆「暁の超特急」と呼ばれて
このセンセーショナルなキャッチフレーズは、当時讀賣新聞の記者だった川本信正氏によって、32年のロス五輪で優勝したエディ・トーランが学生時代に「ミッドナイト・エキスプレス」という異名をとっていたことにヒントを得て命名されたと言われます。
川本氏は、戦後も長らくスポーツ・ジャーナリストとして活躍し、いわゆる競技出身者ではないスポーツ・コメンテーターとして私が成人してからもTVでよくお見かけした方で、幻の大会となった1940年東京オリンピックの招致決定に際して、「オリンピック」の訳語である「五輪」という言葉を考案された方としても有名です。短いフレーズの名手だったと言えるでしょう。

トーランのニックネームのイメージは、彼がメトカーフとともに黒人スプリンターの草分け的存在だったところから、おそらく半ばそれを揶揄された意味合いのものではなかったでしょうか?…しかしそんなこととは関係なく、Expressを単に「急行電車」ではなく「特急」、さらに1930年に運行開始した東海道本線「燕号」の通称にあやかって「超特急」という言葉に昇華させた言葉のセンスは光ります。
そしてこの「超特急」が吉岡の二ツ名に転用されたのも、単に「速い日本人」というだけでなく、彼が独自に開発したスタート技術とそれによる世界屈指のダッシュ力のイメージをよく表していると言えます。
彼のスタート技術はその後、“愛弟子”の一人であった飯島秀雄に伝授されて進化を遂げ、「ロケットスタート」と呼ばれるようになりました。このため飯島には「暁のロケット」という新たな通り名が捧げられたものです。

ロス五輪の時の吉岡は、実は国内予選を勝ち残るのに大変な苦労をしていました。

島根県・現在の出雲市出身の吉岡は、165㎝という目立たない体格ながら島根県師範学校時代に1924年パリ・オリンピック代表の谷三三五(ささご)によってスプリンターの素質を見出されると、東京高等師範学校(現・筑波大学)に進学してから一気に国内ナンバーワン・スプリンターの位置に昇りつめ、1930年に10秒7の日本タイ記録、翌31年には10秒5と世界レベルの実力を身に付けます。
押しも押されもせぬオリンピック代表候補、どころか有力なメダル候補ともなっていた吉岡でしたが、この31年シーズンの終盤、腎臓結石の手術を行うハメになって、数カ月の療養生活を余儀なくされてしまいます。当時の医療技術ではメスを入れた傷口の回復に数カ月を要するとあって、代表選考会の1か月ほど前まで、まったくトレーニングのできない状態に追い込まれたのです。
入院・療養による体力の低下に焦燥する吉岡を支えていた人は少なくありませんが、中でも献身的に心身の介助を惜しまなかったのが、同じ高等師範のスプリンター、佐々木吉蔵(きちぞう・1912-1983)でした。

◆親友・佐々木吉蔵
吉岡&佐々木
吉岡から佐々木へのバトンパス(佐々木吉蔵著『競技に生きる あるオリムピック選手の記』より)

佐々木は秋田県小坂町の貧しい炭鉱夫の家庭出身で、大舘中学時代にその才を認められて周囲の支援を受け、1年間炭鉱での社会人生活を経て東京高師に入学してきました。
同期生ながら3つ年長の吉岡はすでに短距離界のトップに君臨していて、極東選手権日本人初優勝、世界学生選手権6位入賞などの実績を上げており、佐々木はこれを間近に憧れと尊敬の念をもって見守りながら、自身も国内では2番手・3番手を競う位置へと力を蓄えていきます。
1932年のオリンピックでは、日本の短距離陣になかなかの逸材が揃うことになり、吉岡を筆頭に佐々木、そして慶應義塾大学の阿武厳夫(あんの・いずお/1909-1939)といった代表有力候補がいました。専門は走幅跳・三段跳ながら、100mでも10秒6の日本記録を作った(翌月吉岡が10秒5に更新)南部忠平もいます。ロス五輪では、100mはもとより、この4人で組むことになる400mリレーにも、おそらく今回のリオ五輪以上の大きな期待がかかっていたのです。

ロス五輪の代表選考会、病後十分に回復していない吉岡が決勝進出すら危ぶまれる一方で、好調の佐々木は代表を確実視されていました。何とか吉岡も勝ち上がってきた決勝レースは、佐々木が終始リードする展開ながら、終盤に堅くなって走りが崩れたところを執念の追い込みを見せた吉岡が接戦を制し、みごとに劣勢を挽回することに成功しました。
吉岡の発病以来、早期の治療を勧め診察に立ち会うなどして常にその傍らにいた佐々木にとっては、自分自身のこと以上に吉岡の回復が嬉しいことだったようです。ところが今度はその佐々木が、五輪本番を目前にして右足首を故障し、夢の舞台に立つことを諦めなければならなくなったのは、何とも皮肉な結果でした。
100mのエントリーを直前で見合わせた佐々木は、最終日の400mリレー出場に望みをつなぐも、試走の結果これも断念。決勝に進出した日本チームは、5位入賞でした。1位のアメリカは別格(40秒1WR)としても、2位以下はドイツ(40秒9)、イタリア(41秒2)、カナダ(41秒3)、日本(41秒3)、イギリス(41秒4)と大接戦で、佐々木が健在ならばその後日本の「悲願」となったオリンピックでの初メダルは、この時にもたらされていたかもしれません。

4年後のベルリン・オリンピックに晴れて出場を果たした(100m2次予選敗退)佐々木は、金メダルの期待がかかっていた吉岡が同じく2次予選で敗れ去ったことに意気消沈しているのを気にかけ、帰りの船中もずっと目を離しませんでした。案の定、船からの投身を図った吉岡を必死に抱き留め一命をとりとめさせたことは、知られざるエピソードです。
スプリンター・佐々木吉蔵の名は、それ自体は常に吉岡や南部(ロス大会・三段跳優勝、走幅跳3位)の陰に隠れて日本選手権優勝も200mの1回のみという地味な存在に終わりましたが、現役中は吉岡のかけがえのないパートナーとして、また後年、1964年東京オリンピックの男子100mでピストルを撃った名スターターとして、陸上競技史にその名を燦然と残しています。



◆名コーチ・吉岡隆徳
1940年に決まっていた東京オリンピックが返上されて目標を失った吉岡は、それでも39年に日本選手権6回目の100m優勝(当時最多記録)を果たすまで、いや、その後もさらにずっと、走り続けました。
終戦後は、広島県での国体誘致など体育行政に関わる期間を経て、実業団の強豪リッカーミシンにコーチとして招かれ、飯島秀雄(所属は早稲田大学)、依田郁子という男女の逸材を指導することになりました。
当時、吉岡はまだ100mの日本記録ホルダーであり、「自分の記録を破るのは自分が育てた選手で」という強い信念をもって熱血指導に励み、遂に東京オリンピックの年、その飯島がドイツで10秒1の日本新記録を叩き出して「吉岡超え」を達成します。依田もまた100mで11秒6の日本記録を作り、80mHでは世界記録に0.1秒と迫る10秒6の記録を携えて東京オリンピックでは5位入賞を果たしました。

吉岡は「100mは私の一生の友」と自身も走り続け、その年代、年代での「自己記録」「世代記録」に挑むことにこだわり続けました。70歳にして15秒1という当時の年代別世界記録に迫るタイムを出し、その更新に執念を燃やしていたといいます。
ある有望な高校生への指導中に熱が入り、自身でスタートダッシュのお手本を見せようとして走り出した時、アキレス腱を切る重傷を負ってその夢とも決別。「ウォーミングアップをしないで走り出したこと」を後悔しました。
入院中の検査で胃潰瘍の診断を受け、やがてそれが胃癌であることが発覚して、闘病生活の末に74歳で永眠。

現役を引退して30歳を過ぎてから、それまで見向きもしなかった酒や煙草に「こんなにも旨いものだったのか」とハマってしまったと、闘病中の吉岡は苦笑しながら述懐していたそうです。
文字どおり「100mひとすじに命を賭けた人生」を送った稀代の名スプリンターが、僅かに覗かせた人間臭い一面を物語るエピソードです。

 
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