日本のスプリンター列伝を語る上で、藤井實と同じく決して外すことができないレジェンドが、日本の陸上競技史上唯一のオリンピック・100mファイナリストであり、またやはり唯一の男子100m公認世界記録保持者であった、吉岡隆徳(たかよし…「りゅうとく」と通称された 1909-1984)さんです。(以降敬称略)

1932年のロサンゼルス・オリンピック男子100mで、当時23歳の吉岡は1次予選を10秒9の1着、2次予選を10秒8の2着で勝ち上がると、準決勝ではディフェンディング・チャンピオンのパーシー・ウィリアムズ(CAN)を僅差で抑えて10秒8の3着で決勝に進出しました。
当時の陸上競技はセパレート・レーンが6レーンしかなく、入賞扱いもまた6着まで。つまり吉岡の成績は、世界の「トップ6」という偉業でした。(決勝が8レーンで行われるのは1964年東京大会から、また入賞が8位までとなるのは1984年ロサンゼルス大会から)
決勝に進出した吉岡は、得意のスタートダッシュで序盤明らかにトップを疾走したものの、中盤から次々に抜かれて最下位の6着、タイムは10秒8…それでも堂々、オリンピックでの男子全トラック種目を通じて初の入賞となり、また100m競走においては現在に至るまで、唯一無二のファイナリスト・入賞者となっているのです。
母親の手縫いという白い鉢巻をきりりと締めた小さな日本人のスーパー・ダッシュは、現地の大観衆にも大きな印象を残しました。


この3年後、吉岡は6月9日(南甲子園運動場)と15日(明治神宮外苑競技場)、1週間の間に立て続けに、当時の世界記録であった10秒3で走り、先のロス五輪優勝者のエディ・トーランや2位のラルフ・メトカーフ(ともにUSA)らとともに、IAAFのレコードブックに世界記録保持者として名を連ねました。
大きな期待を負って出場した1936年ベルリン・オリンピックでは2次予選敗退に終わっています。それとともにジェシー・オーエンス(USA)というスーパースターの登場によって世界記録保持者の座も失ってしまいましたが、その後も日本のエースとして、戦火が激しさを増す時代を走り続けました。

◆「暁の超特急」と呼ばれて
このセンセーショナルなキャッチフレーズは、当時讀賣新聞の記者だった川本信正氏によって、32年のロス五輪で優勝したエディ・トーランが学生時代に「ミッドナイト・エキスプレス」という異名をとっていたことにヒントを得て命名されたと言われます。
川本氏は、戦後も長らくスポーツ・ジャーナリストとして活躍し、いわゆる競技出身者ではないスポーツ・コメンテーターとして私が成人してからもTVでよくお見かけした方で、幻の大会となった1940年東京オリンピックの招致決定に際して、「オリンピック」の訳語である「五輪」という言葉を考案された方としても有名です。短いフレーズの名手だったと言えるでしょう。

トーランのニックネームのイメージは、彼がメトカーフとともに黒人スプリンターの草分け的存在だったところから、おそらく半ばそれを揶揄された意味合いのものではなかったでしょうか?…しかしそんなこととは関係なく、Expressを単に「急行電車」ではなく「特急」、さらに1930年に運行開始した東海道本線「燕号」の通称にあやかって「超特急」という言葉に昇華させた言葉のセンスは光ります。
そしてこの「超特急」が吉岡の二ツ名に転用されたのも、単に「速い日本人」というだけでなく、彼が独自に開発したスタート技術とそれによる世界屈指のダッシュ力のイメージをよく表していると言えます。
彼のスタート技術はその後、“愛弟子”の一人であった飯島秀雄に伝授されて進化を遂げ、「ロケットスタート」と呼ばれるようになりました。このため飯島には「暁のロケット」という新たな通り名が捧げられたものです。

ロス五輪の時の吉岡は、実は国内予選を勝ち残るのに大変な苦労をしていました。

島根県・現在の出雲市出身の吉岡は、165㎝という目立たない体格ながら島根県師範学校時代に1924年パリ・オリンピック代表の谷三三五(ささご)によってスプリンターの素質を見出されると、東京高等師範学校(現・筑波大学)に進学してから一気に国内ナンバーワン・スプリンターの位置に昇りつめ、1930年に10秒7の日本タイ記録、翌31年には10秒5と世界レベルの実力を身に付けます。
押しも押されもせぬオリンピック代表候補、どころか有力なメダル候補ともなっていた吉岡でしたが、この31年シーズンの終盤、腎臓結石の手術を行うハメになって、数カ月の療養生活を余儀なくされてしまいます。当時の医療技術ではメスを入れた傷口の回復に数カ月を要するとあって、代表選考会の1か月ほど前まで、まったくトレーニングのできない状態に追い込まれたのです。
入院・療養による体力の低下に焦燥する吉岡を支えていた人は少なくありませんが、中でも献身的に心身の介助を惜しまなかったのが、同じ高等師範のスプリンター、佐々木吉蔵(きちぞう・1912-1983)でした。

◆親友・佐々木吉蔵
吉岡&佐々木
吉岡から佐々木へのバトンパス(佐々木吉蔵著『競技に生きる あるオリムピック選手の記』より)

佐々木は秋田県小坂町の貧しい炭鉱夫の家庭出身で、大舘中学時代にその才を認められて周囲の支援を受け、1年間炭鉱での社会人生活を経て東京高師に入学してきました。
同期生ながら3つ年長の吉岡はすでに短距離界のトップに君臨していて、極東選手権日本人初優勝、世界学生選手権6位入賞などの実績を上げており、佐々木はこれを間近に憧れと尊敬の念をもって見守りながら、自身も国内では2番手・3番手を競う位置へと力を蓄えていきます。
1932年のオリンピックでは、日本の短距離陣になかなかの逸材が揃うことになり、吉岡を筆頭に佐々木、そして慶應義塾大学の阿武厳夫(あんの・いずお/1909-1939)といった代表有力候補がいました。専門は走幅跳・三段跳ながら、100mでも10秒6の日本記録を作った(翌月吉岡が10秒5に更新)南部忠平もいます。ロス五輪では、100mはもとより、この4人で組むことになる400mリレーにも、おそらく今回のリオ五輪以上の大きな期待がかかっていたのです。

ロス五輪の代表選考会、病後十分に回復していない吉岡が決勝進出すら危ぶまれる一方で、好調の佐々木は代表を確実視されていました。何とか吉岡も勝ち上がってきた決勝レースは、佐々木が終始リードする展開ながら、終盤に堅くなって走りが崩れたところを執念の追い込みを見せた吉岡が接戦を制し、みごとに劣勢を挽回することに成功しました。
吉岡の発病以来、早期の治療を勧め診察に立ち会うなどして常にその傍らにいた佐々木にとっては、自分自身のこと以上に吉岡の回復が嬉しいことだったようです。ところが今度はその佐々木が、五輪本番を目前にして右足首を故障し、夢の舞台に立つことを諦めなければならなくなったのは、何とも皮肉な結果でした。
100mのエントリーを直前で見合わせた佐々木は、最終日の400mリレー出場に望みをつなぐも、試走の結果これも断念。決勝に進出した日本チームは、5位入賞でした。1位のアメリカは別格(40秒1WR)としても、2位以下はドイツ(40秒9)、イタリア(41秒2)、カナダ(41秒3)、日本(41秒3)、イギリス(41秒4)と大接戦で、佐々木が健在ならばその後日本の「悲願」となったオリンピックでの初メダルは、この時にもたらされていたかもしれません。

4年後のベルリン・オリンピックに晴れて出場を果たした(100m2次予選敗退)佐々木は、金メダルの期待がかかっていた吉岡が同じく2次予選で敗れ去ったことに意気消沈しているのを気にかけ、帰りの船中もずっと目を離しませんでした。案の定、船からの投身を図った吉岡を必死に抱き留め一命をとりとめさせたことは、知られざるエピソードです。
スプリンター・佐々木吉蔵の名は、それ自体は常に吉岡や南部(ロス大会・三段跳優勝、走幅跳3位)の陰に隠れて日本選手権優勝も200mの1回のみという地味な存在に終わりましたが、現役中は吉岡のかけがえのないパートナーとして、また後年、1964年東京オリンピックの男子100mでピストルを撃った名スターターとして、陸上競技史にその名を燦然と残しています。



◆名コーチ・吉岡隆徳
1940年に決まっていた東京オリンピックが返上されて目標を失った吉岡は、それでも39年に日本選手権6回目の100m優勝(当時最多記録)を果たすまで、いや、その後もさらにずっと、走り続けました。
終戦後は、広島県での国体誘致など体育行政に関わる期間を経て、実業団の強豪リッカーミシンにコーチとして招かれ、飯島秀雄(所属は早稲田大学)、依田郁子という男女の逸材を指導することになりました。
当時、吉岡はまだ100mの日本記録ホルダーであり、「自分の記録を破るのは自分が育てた選手で」という強い信念をもって熱血指導に励み、遂に東京オリンピックの年、その飯島がドイツで10秒1の日本新記録を叩き出して「吉岡超え」を達成します。依田もまた100mで11秒6の日本記録を作り、80mHでは世界記録に0.1秒と迫る10秒6の記録を携えて東京オリンピックでは5位入賞を果たしました。

吉岡は「100mは私の一生の友」と自身も走り続け、その年代、年代での「自己記録」「世代記録」に挑むことにこだわり続けました。70歳にして15秒1という当時の年代別世界記録に迫るタイムを出し、その更新に執念を燃やしていたといいます。
ある有望な高校生への指導中に熱が入り、自身でスタートダッシュのお手本を見せようとして走り出した時、アキレス腱を切る重傷を負ってその夢とも決別。「ウォーミングアップをしないで走り出したこと」を後悔しました。
入院中の検査で胃潰瘍の診断を受け、やがてそれが胃癌であることが発覚して、闘病生活の末に74歳で永眠。

現役を引退して30歳を過ぎてから、それまで見向きもしなかった酒や煙草に「こんなにも旨いものだったのか」とハマってしまったと、闘病中の吉岡は苦笑しながら述懐していたそうです。
文字どおり「100mひとすじに命を賭けた人生」を送った稀代の名スプリンターが、僅かに覗かせた人間臭い一面を物語るエピソードです。