豊大先生流・陸上競技のミカタ

陸上競技を見続けて半世紀。「かけっこ」をこよなく愛するオヤジの長文日記です。 (2016年6月9日開設)

円谷幸吉

オニツカタイガーよ、永遠なれ



少し前のことになってしまいましたが、先週土曜日にTBSテレビで『ものづくり日本の奇跡 日の丸テクノロジーがオリンピックを変えた』という番組が放送されました。パーソナリティは安住紳一郎アナと綾瀬はるか、そしてビートたけし、ゲストはバドミントンのタカマツペアです。
最初のコーナーでは、陸上競技の長距離走に「革命」をもたらした、鬼塚喜八郎さんのエピソードが紹介されました。
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今では「asics(アシックス)」という社名で知られますが、私たちが現役の陸上部員だったン十年前の昔は、「オニツカタイガー」。当時すでに、アディダス、プーマ(いずれも西ドイツのメーカーで、それぞれの創業者は実の兄弟)と並んで「世界3大スポーツ・シューズ・メーカー」と呼ばれていました。
私たちが学校の部活動として陸上競技を始めるにあたって、先輩に学校指定のスポーツ用具店へ連れて行かれ、当然のように「これを買え」と言われたのが、オニツカタイガーのスパイクシューズとトレーニングシューズでした。まるで、陸上競技には他のメーカーが存在しないかのようでしたが、その前にちょっとだけサッカー部に在籍していた私は、サッカーでは同じようにアディダス一辺倒だったものですから、そんなもんかな、と妙に納得していました。
そのオニツカタイガーを敗戦後の裸一貫から創業し、世界のトップブランドへと育て上げたのが、鬼塚喜八郎さんです。

番組では、「すぐに足裏にマメができてしまうので、長い距離を走り込めない」という悩みを抱える若き長距離ランナー・君原健二さんに、「絶対にマメができないシューズを作る」と請け合って試行錯誤の末にこれを実現、君原選手の愛用シューズとなった「マジックランナー」というブランドの開発秘話をドラマ仕立てで紹介。(いかにドラマとはいえ、君原さんのイメージ違い過ぎです)
スタジオには、マジックランナーとともに前後して走りやすさを追求して開発され、円谷幸吉さんの愛用シューズとなった「マラップ」などが展示されていました。(円谷さんの伝記を見ると、彼が自身の“標語”としていた「青春は 汗と涙と マラップで」という川柳?があります)
マジックランナーのテーマだった「マメのできないシューズ」の最大の特徴は、シューズの内部にこもる熱を逃がすための細かい穴と「ベロ」の部分に施した細工。現代のシューズは素材そのものが通気性の高いトップ、衝撃を吸収するソールになっていますが、当時としてはまさに革命的なアイディアでした。

オニツカタイガーが、「たかがシューズ」にもたらした数々のアイディアは、今も至る所にその名残を見ることができます。代表的なものとして知られるのが、アシックス社のCIともなっている側面のラインです。
二股に分かれる流線形と交差する短い2本の直線…あのラインというのは、単なるブランド・マークではなく、シューズの形状を安定させ、しなやかな変化を実現するための重要な「パーツ」です。後年トップメーカーとなるNIKEをはじめ、プーマやミズノなど、多くのシューズのラインが共通した特徴を持っているのは、偶然ではないのです。1968年のメキシコシティ・オリンピックを見据えて開発されたこのオニツカのラインは当時「メキシコ・ライン」と呼ばれていました。
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下段が「マジックランナー」、中段が「マラップ」、上段が今と同じ「メキシコライン」のシューズ。(たぶん「マラソンソーティ」?)

私が現役陸上部員だった頃は、まあお金がないこともありまして、あまり使う機会のなかったスパイクシューズは最初に買った一品を最後まで使い倒しました。カンガルー皮革のトップに、着脱可能な6本ピンのもので、確か「ランスパーク」というブランド名だったと思います。私は試合にもほとんど出ることがないほどのトホホな中長距離要員でしたから、レースで1回だけ、6ミリの短ピンを付けて国立霞ヶ丘競技場を走ったことがあるくらいです。(もちろん、短距離の練習も同じシューズでやっていました)
トレーニングシューズのほうは、何足目かに当時のトップブランドだった「マラップ」を買い、その後ブランド名は忘れましたが最新鋭の真っ赤なマラソンシューズに買い替えたのですが、いくらも使わないうちに盗まれてしまい、悔しい思いをしたものです。普段の練習で履くトレーニングシューズと、ロードレースで履くマラソンシューズを分けて使う、などということも経済的な都合で考えられない時代でした。

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感想(1件)


ちなみに、当時は「スニーカー」という言葉はまだありません。
運動などに関係なく普段履いているスポーツ用シューズは、バスケットシューズかテニスシューズが主流で、一般名称としては「運動靴」。私が成人するくらいの年代からファッション・アイテムとしての「スニーカー」が登場し、これで一気に業績を拡大したスポーツメーカーも少なくありませんでした。そうした中で、アシックス(ちょうどその頃に社名変更したと思います)のブランド・イメージは、タウン・スニーカーのデザインとしては少々そぐわないものだったかもしれません。

また、私が現役だった頃には「ジョギング」という言葉もありませんでした。
準備運動として行うゆったりとしたランニングや、長い距離をゆっくりと走るトレーニングは「ジョッグ」と呼んでいました。日本全国どこでもそうだったかは分かりませんが、ジョギングという言葉も、スニーカーと同じ頃に「ジョギング・シューズ」「ジョギング・パンツ」といったアイテムとともに登場したファッション用語だったように思います。
ですから、私と同じくらいかそれ以前に学校で陸上をやっていた人間は今でも「ジョッグ」と言い、それ以外の人たちは「ジョグ」と言う。陸上を専門にやった人であれば、伝統として「ジョッグ」という言い方が続いていたでしょうから、年代だけでは分かりませんけどね。たった「ッ」一つがあるかないかで、その人の陸上への関わり方が、少しは見えてしまうというのは確かです。

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陸上競技をする者が、唯一といっていいほど頼りとする用具、それがシューズです。
今では、オリンピックの陸上シーンを見ればわかるように、世界の趨勢はNIKEの圧倒的優勢。続いてボルトの登場で息を吹き返したプーマと、アディダス。日本人以外で日本のメーカーを利用している選手は、残念ながらあまり多くはありません。
もちろんそれは品質への評価云々よりも、営業やマーケティング、広報など、企業の総合的パワーの結果であり、日本の選手ですらご覧のように、契約メーカーは個々で異なります。
けれども、私は(今ではしがない市民ランナーのはしくれとなっておりますが)アシックスのシューズが好きですねえ!
特にロード・ランニングの分野で一時期は世界的にも圧倒的なシェアを誇っていたアシックスは、今でも最高品質の製品でランナーたちをサポートし続けている…そんな「アシックス信者」、もとい「オニツカタイガー信者」が多いのも、私たち古い世代の特徴なのかもしれませんね。 

 

日本マラソン界への提案



◆リオの惨敗に想う
正直に言って、リオ・オリンピックの男子マラソン、日本選手の活躍については何の期待も持っていませんでした。
低迷が続く日本の男子マラソンにあって、多少は上位進出の夢を託せそうな実力者や期待の若手は代表になることができず、落ちたりとは言いつつもここ数回のオリンピックでは最低1人はいた6分台、7分台のタイムを持つ選手すらいない、30代にして“世界”初体験の3人に望むことといったら、自身の走りを存分に全うしてくれることだけでした。
もちろん代表の各選手を責めるなんてつもりは毛頭ありませんし、佐々木選手と石川選手は、十分実力を出し尽くした結果だったと思います。しかし、この結果が4年後に地元開催を控えた日本マラソン界の「現実」であることには、事実として向き合わなければいけません。
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世界のマラソン界、と言っても、現状はケニアとエチオピアのマラソン界と言い換えてもいいほどに、記録ランクや主要シティ大会の優勝者はほとんどこの両国の選手たちによって占められます。現在の日本選手が彼らと対等に、2時間3分、4分といった高速レースで勝負することが不可能なことは、毎年東京マラソンで繰り広げられる光景を見るだけでも、一目瞭然です。
ところが、彼らにしてみたところで決して、夏場の、ペースメーカー不在のレースまで常勝しているわけではありません。ケニア選手がオリンピックの金メダルを獲ったのは女子が史上初めて、男子もたかだか2回目です。エチオピアも、かつてアベベ、マモによる3連覇の時代がありましたが、2000年のゲザハネ・アベラ以来優勝はありません。暑さと序盤からの細かい駆け引きがつきものとなるオリンピックのレースでは、意外にケニア・エチオピアの選手たちも苦労しているのです。
ケニアは今回でオリンピック・マラソン7つ目のメダルを獲得したことになりますが、最初の4つ目まではダグラス・ワキウリ、エリック・ワイナイナ、サム・ワンジルという日本の実業団を拠点とした選手たちによってもたらされています。残り3つのメダルがもたらされたロンドンとリオのマラソンは、猛暑のレースとはなりませんでした。 

これらの事実は、3分台、4分台とは行かずともある程度の実力を備えたランナーならば、オリンピックのマラソンで勝負できる余地が十分に残されていること、日本式のトレーニング環境、試合環境にあっても世界と戦える力はつけられることを物語っているように思われます。
では、なにが日本選手の障壁となっているのでしょうか?…
私ごとき素人がマラソン界を論評するなどおこがましい限りではありますが、一人の陸上ファンの意見として、お読みいただければ幸いです。

◆民間資本の功罪
日本人は昔からマラソンというスポーツが大好きでしたが、その中興の祖となった瀬古利彦の時代、マラソン界に民間資本が続々と参入し、単なるスポーツ大会が一大商業イベントへと変貌することになりました。
瀬古らの活躍によって言うなれば「銭になるスポーツ」と目されたマラソンおよび駅伝などのロードレースは、格好の広告素材として注目され、それまでNHKによる独占放送だったテレビ中継に、従来から主催・後援していた新聞社系列の民放各局が争うように参入し、また新たなレースの創設に取り掛かったのです。
このことは、日本のマラソン・長距離の裾野を拡げ、一般の認知度の大幅なアップやひいてはこんにちの市民マラソン大隆盛へとつながり、また非営利団体である日本陸連が資金の心配なく大会を開催できるなど、喜ばしい効果をたくさんもたらしました。
その一方で、大資本にオンブに抱っこの形とならざるを得なくなった実施側の陸連は、次第に足枷をはめられたような状態になります。
すなわち、毎回オリンピックのたびに繰り返される代表選考のスッタモンダの原因となっている、複数の代表選考レース方式という、世界に類を見ない悪しき風習です。

現在、日本のマラソン・トップランナーたちのライフ・スケジュールは、オリンピック代表という目的を軸に組み立てられます。
そのためには3つの国内代表選考会のどれかで好成績を上げるか、前年の世界選手権で代表内定条件を満たす、そのためにさらに前の選手権選考会で代表になることを目指す、あるいは更に前のアジア大会からその路線に乗るといった、2年がかり、3年がかりのロードマップが描かれます。マラソン界全体を見渡してみれば、男子も女子も、その繰り返しと言ってもよいくらいです。
この秋からマラソンシーズンが始まれば、もうテレビの画面には「2020東京への道」といった字幕やナレーションが踊り始めることでしょう。

なんと、マラソン界は狭苦しい空間になってしまったことでしょうか!
もちろん、オリンピックがマラソンランナーたちの究極の目標であることは昔から変わりありませんし、それは日本だけの事情でもないでしょう。しかし、そこにつきまとう閉塞感は、やがて選手たちを疲れ果てさせ、選考会を勝ち抜くことが最終目的のようになって、オリンピック本番には抜け殻のようになった選手がスタートラインに姿を現す、そんな光景が繰り返されてきたような気がします。
その「元凶」が、日本マラソン界興隆のベースとなって来た「3大マラソン」(福岡・東京・びわ湖)にあると言ったら、言い過ぎでしょうか? 

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◆複雑怪奇な選考会事情の改革

国内選考会が3回あり、加えて世界選手権がそこに加わってくるということは、選手を束縛する「代表選考期間」がそれだけあるということです。前年の世界選手権がスタートだとしても、その期間は半年以上にも及び、その間、選手たちは順繰りに「選考試験」に参加しながら結果を待たされる、ということになるのです。
これでは、その期間中は本番を見据えたトレーニングなど、まともにできるはずがありません。
なぜ、選考会を一本化できないのか?…その答えは簡単です。巨大資本にオンブに抱っこで選考会を開催している陸連は、たとえば男子の場合に朝日系、讀賣系、毎日系とそれぞれに異なる新聞社系列により主催され、したがって参加資本の異なる3つの選考会のどれか一つだけを、「選考会」に指定することなど到底できないからです。
世界選手権についてはどうか…ここに何らかの「ご褒美」がないと、選考会を控えたトップランナーたちは誰も真夏のマラソンに出たがらなくなります。事実、この「ご褒美」がなかった1983年、87年の世界選手権に、当時世界最強を誇っていた日本のトップランナーは、誰一人として出場していません。そこで「世界選手権での成績優秀者は代表内定」とのご褒美が設定され、それを目指してまたその前の選考会が盛り上がる、という図式になっているのです。
もし選考会を一本化してしまったら、その選に漏れた大会は広告価値を失い、また前年、前々年の3大マラソンはまったく盛り上がらないものになってしまう、その危惧があるから、できないのです。
しかし、本当にそうでしょうか?

そうした事情もあって、マラソンには「日本一決定戦」というものが存在しません。これは、考えてみればとてもおかしなことです。
3大マラソンがシーズンごと順番に「日本選手権」の指定を受けており、いちおう各年度の「日本選手権者」は存在します。昨年の福岡国際で日本人1位となった佐々木悟が「第99回日本選手権マラソン優勝者」で、順番でいくと「第100回」の選手権は来年3月のびわ湖ということになると思われます。
一般には誰もそんなこと知りませんし、当の選手も表彰されて初めて知る、という感じではないでしょうか。まさに、有名無実です。

独立した「日本選手権マラソン」の創設…ペースメーカーも外国人ランナーも排除した、資格を持った日本のトップだけが集結する、高額賞金のかかった日本一決定戦。それが、「代表選考の煩雑さ」を排除する一つの解決策になるのではないでしょうか?
では、3大マラソンや世界選手権はどうなるのか?それは、「日本一決定戦」への出場資格を得るための大会と位置付ければ、有力選手=大会としての看板選手の回避を防ぐことも十分可能でしょう。世界選手権の場合は、結果次第で選考に際してのアドバンテージを与えるなどのオプションを付加することは可能だと思います。(つまり、「選手権」での上位3人をそのまま代表に、という決まり事にする必要はありません)
あるいは、今のまま3大レース持ち回りの「日本選手権」でもよいと思います。4年ごとに、3つのレースが順繰りに「オリンピック選考レース」となりますから、不公平はないでしょう。ただし、「日本選手権」のタイトルと参加資格を明確に、必ず3大レースのラストがその大会でなければなりません。つまり、毎年各レースの開催時期もレースの特色も変わることになります。(そうしないと、たとえば福岡が選考レースの時、後から行われる2大会は開催意義を失ってしまいますから)
どちらの形で行うにせよ、実施時期の見直しなど、現行の因習的なスケジュールは抜本から改革していかなければなりません。3大会と別途に「日本選手権」を行うならば、その開催時期は3月か4月、3大会は11月から1月くらいの間に間隔を縮めて行う必要があります。
そしてもう一つ、選手の側にも大きな意識改革を求めなければならないでしょう。

◆レースへの取り組み方の改革
「3大マラソンの商業化が日本マラソン界の隆盛を生み出し、それがいま、日本のマラソンランナーを弱体化させる元凶となっている」
というのが、私の大まかな観測です。
いちばんの問題は、選手がどのレースにも真っ向過ぎるほど真っ向から取り組むあまり、レース経験そのものが極端に少なくなってしまっていることです。つまり、「すべてが本番」なために、遊びの、というと語弊がありますが、気楽に足慣らしや練習の一環、試合慣れといった感覚で出るレースがないのです。
トラック&フィールドに関する「観戦記」でもたびたび言及しましたが、日本人陸上競技選手の抱える最大の課題は、「試合での経験不足」です。あまりにオリンピックや世界選手権、そのための代表選考会といったビッグゲームばかりにフォーカスするために、レースの現場で揉まれるという経験が極端に少なく、持っている抽斗に貯め込むものが限られている。ために大事なところで実力が発揮できないという、ほぼ全選手に共通の課題です。
これはそのまま、マラソン選手たちにも当てはまると思います。

昔の(というと、また若い方々に笑われそうですが)マラソン選手は、とにかく数多くのレースに出場したものです。
オリンピック代表選考会に「3大レース」(当時は東京がなくて別府毎日=今の別府大分毎日が3つのうちの1つでした)が指定されていたのは今と同じですが、「3つとも出場するのが当たり前」みたいな雰囲気さえありました。1968年メキシコシティ大会で銀メダルを勝ちとった君原健二選手などは、年間6回レースに出たこともありますし、64年東京・銅メダルの円谷幸吉選手、君原選手ともに、オリンピックの「本番」がその年4回目のフルマラソン・レースでした。
また、円谷選手や68年優勝者マモ・ウォルデ選手、72年ミュンヘン大会の優勝者フランク・ショーター選手のように、オリンピックで10000mとマラソンの両方に出場するのもごく普通のことでした。円谷選手が6位になった東京大会の10000mでは、入賞者6人のうち4人がマラソンにも出場しています。
少し時代が下って瀬古選手や中山竹通選手などの時代は、マラソンの出場回数こそ減少傾向にありましたが、トラックレースには精力的に出場し、夏場はヨーロッパ遠征に出て10000mの日本記録を出したりしています。
こうした「本番」ではない実戦経験は、ふだんの練習と相まって彼らの実力を育む原動力になっていたに違いない、と思うわけです。
もちろん現代のランナーや関係者にはこうした発想はほとんどなくなっていて、それはそれなりの理由があってのことですが、「マラソンは年に1回」という染みついた固定観念は、川内優輝選手の事例を特殊なものとして切り捨てるのではなく、一度じっくりと考え直してみる必要があると考えます。

日本の選手たちがもっと楽な気持で「3大マラソン」や海外のゴールド・レースに出場し、その成果を持ち寄る形で「日本選手権」に集結するトップランナーたちの中から世界選手権やオリンピックの代表を決めていく…そうした大改革を実現するためには、巨大資本に支配されたマラソン界の構造を変えていく必要があります。それはまったく困難な道のりではありますが、それをやらなければ、マラソン界のどん底状態は、4年やそこいらで抜け出せるものではないように思えます。

このテーマについては、今後もいろいろな角度から、評論を試みていきたいと思います。

 

【短期集中連載】オリンピック回想 ①~1964年東京大会



リオ・オリンピックの陸上競技開始まで、あと2週間。
そこで、私がTVを通してリアルタイムで見た過去のオリンピックの思い出話を、古い順にご紹介したいと思います。
1964年の東京オリンピックは、ちょうど私が小学生になった年に開催されました。
スポーツ競技というものも、陸上競技というものもまったく知らずにいきなり出くわしたこの“世紀の祭典”にすっかり魅せられた私は、以後半世紀以上にわたって無類の「オリンピックおたく」「陸上競技マニア」という人生を送るハメになるのですが、そうした年齢的な巡り合せのせいか、私の世代にはオリンピックが大好きだという人が少なくないように思われます。また、国際的なスポーツ大会など見たことがなかったという意味では、当時の大人たちも似たり寄ったりでしたから、日本人のオリンピック好きはここに原点がある、と言ってもよいのではないでしょうか。


◆種目別金メダリストと記録、主な日本選手成績
*URSは「ソビエト連邦」、GERは「東西統一ドイツ」。当時入賞は6位まで。
<男子>
   100m ボブ・ヘイズ(USA) 10"0(=WR/OR) ※飯島秀雄:準決勝敗退
   200m  ヘンリー・カー(USA) 20"3(OR)
   400m マイク・ララビー(USA) 45"1
   800m ピーター・スネル(NZL) 1'45"1(OR) ※森本葵:準決勝敗退
  1500m ピーター・スネル(NZL) 3'38"1
  5000m ボブ・シュール(USA) 13'48"8
 10000m ビリー・ミルズ(USA) 28'24"4(OR) ※円谷幸吉:6位入賞
 110mH ヘイズ・ジョーンズ(USA) 13"6
 400mH ウォーレン・コーリー(USA) 49"6
 3000mSC ガストン・ローランツ(BEL) 8'30"8(OR)
 4×100mR アメリカ 39"0 ※日本:準決勝敗退
 4×400mR アメリカ 3'00"7
 マラソン アベベ・ビキラ(ETH) 2:12'11"2(WR) ※円谷幸吉:銅メダル 君原健二:8位 寺沢徹:15位
 20kmW ケネス・マシューズ(GBR) 1:29'34"(OR)
 50kmW アブドン・パミッチ(ITA) 4:11'12"4(WR)
 HJ ワレリー・ブルメル(URS) 2m18(OR)
 PV フレッド・ハンセン(USA) 5m10(OR)
 LJ リン・デーヴィス(GBR) 8m07 ※山田宏臣:決勝9位
 TJ ヨーゼフ・シュミット(POL) 16m85(OR) ※岡崎高之:決勝10位
 SP ダラス・ロング(USA) 20m33(OR)
 DT アル・オーター(USA) 61m00(OR)
 HT ロムアルト・クリム(URS) 69m74(OR) ※菅原武男:決勝13位
 JT パウリ・ネバラ(FIN) 82m66
 DEC ヴィリー・ホルドルフ(GER) 7887p.

<女子>
   100m ワイオミア・タイアス(USA) 11"4
   200m  エディス・マガイアー(USA) 23"0(OR)
   400m ベティ・カスバート(AUS) 52"0(OR)
   800m アン・パッカー(GBR) 2'01"1(WR)
  80mH カリン・バルツァー(GER) 10"5(=WR/OR) ※依田郁子:5位入賞
 4×100mR ポーランド 43"6(WR)
  HJ イオランダ・バラシュ(HUN) 1m90(OR)
  LJ メアリー・ランド(GBR) 6m76(WR)
  SP タマラ・プレス(URS) 18m14(OR)
  DT タマラ・プレス(URS) 57m27(OR)
  JT ミハエラ・ペネス(ROU) 60m54 ※佐藤弘子:決勝7位 片山美佐子:決勝11位
  PEN イリーナ・プレス(URS) 5246p.(WR)


◆スター選手たちの光と影
この大会のハイライトは、何といっても序盤のボブ・ヘイズ、最終盤のアベベ・ビキラという2人のスーパースターだったでしょう。
ヘイズについては別の稿でも触れましたように、100m準決勝で9秒9を記録しながら追風参考、決勝ではこの大会で初めて採用された電子計時のために10秒0の世界タイ記録に留まりましたが、バックアップの手動計時では9秒9。いわば2度にわたって史上初の「幻の9秒台」をマークしたことになります。
男子100mではこの年のWLになる10秒1の日本新記録を出していた飯島秀雄選手に期待が集まりましたが、雨中の1次予選、2次予選は順調に通過したものの、準決勝ではタイムを落として7着。師匠である吉岡隆徳さん以来の決勝進出はなりませんでした。

アベベ・ビキラは、まったく無名だった4年前のローマ大会で、裸足で出場して世界最高記録での優勝を飾り、現在のマラソン王国エチオピアのパイオニアとなった選手です。ところが東京大会の直前に盲腸炎の手術をするという緊急事態に、「裸足の王様」の物語とともに動向が注目されていました。
レースはオーストラリアのロン・クラークが驚異的なハイペースを作り、折り返し手前でこれを振り切ったアベベの独走となり、ローマの記録を3分以上も縮める驚異的記録で優勝、ゴール直後にはフィールドで柔軟体操をする余裕を見せました。
日本勢は、2年前にアベベの世界記録を破った寺沢徹、前年のプレオリンピックで2位に入り、選考会で優勝した君原健二にメダルの期待が集まり、3月にトラックから転向したばかりのスピードランナー円谷幸吉も10000mで入賞した余勢を駆っての活躍が期待されました。結果は、円谷がアベベに次ぐ2位で競技場に現れ、惜しくもB.ヒートリー(GBR)に抜かれはしたもののみごと3位銅メダルを獲得した、あまりにも有名なシーンとなりました。

日本勢で入賞を果たしたのは、この円谷の2種目と、女子80mハードルの依田郁子のみ。依田は予選・準決勝をともに2位で通過し、世界記録に0.1秒と迫る10秒6の持ちタイムからもメダルが期待され、スタートよく最初のハードルをトップで越えたところで場内の興奮は上がりましたが、結局5位となりました。
スタート前に、自分のレーンを竹ぼうきで掃き清め、ジャージを脱ぐとでんぐり返し、逆立ち。こめかみと首筋にサロメチール軟膏をベッタリと塗り付け、レモンをガブリと齧ってレーン表示台に置く…こうした一連の“儀式”は「依田劇場」と呼ばれ、当時では珍しい個性的なパフォーマンスでした。

さて、ここに挙げた、東京大会の陸上競技を象徴するかのような内外のスター選手たちが、その後たどった人生には何やら運命共同体のようなものを感じてしまいます。
ヘイズはプロフットボウラーに転向して快速WRとしてスーパーボウルにも出場するなど相当の活躍をしましたが、麻薬取締法違反で逮捕・服役。同じ100mを走った飯島は、メキシコシティ大会の後にプロ野球入りして代走専門選手として活躍。引退後に交通人身事故を起こしてやはり服役しました。
マラソンの王者・アベベは3連覇に挑んだメキシコシティ大会で途中棄権に終わった直後、交通事故で半身不随となり、それでもパラリンピックなどに元気な姿を見せていた時期もありましたが、1973年に病死。
円谷選手は現役中の1968年、依田選手は引退して幸せな結婚生活を送っていたかに見えた83年、ともに自殺を遂げています。


◆名勝負・名選手・偉大な記録・・・

円谷選手が健闘した男子10000mは、最初の決勝種目であり、私がテレビを通して初めて「陸上競技」というものに接したレースでした。

当時世界記録を持っていたロン・クラークは「オーストラリアの長距離王」と呼ばれ、この後を含め3000m、5000m、10000mの世界記録を何度も更新し、10000mでは史上初の27分台ランナーとなった選手ですが、速いペースで突っ走ることは得意でもラスト勝負のスプリント力に難があるため、大きな大会ではなかなか勝つことができませんでした。そのクラークが、当時の世界記録にも迫ろうかという速い展開に持ち込み「してやったり」と考えたというこのレース、しかし最後まで食らいついて離れなかったのがモハメド・ガムーディ(TUN)とビリー・ミルズ。いずれも、レース前は決して下馬評に上るような存在ではありませんでした。
この3者が演じたラスト1周のデッドヒートは、陸上競技のオープニングを飾るにふさわしい名勝負となり、2度にわたって外に弾き飛ばされかけながら逆転したミルズの走りは、アメリカ・インディアンゆえにいわれのない差別を受け続けたそれまでの経緯などを絡めて、後年映画にもなったほどです。
私にとっても、「陸上マニア」への道を決定づけた、はじめての名勝負でした。

棒高跳の9時間超に及ぶ「死闘」は、決勝進出者が19名もいたことと時間制限がより悠長だった当時のルールゆえですが、最後の跳躍で逆転優勝を決めたハンセンは、これでオリンピック棒高跳でのアメリカの不敗記録(15大会すべてで優勝)を守ったことになります。この熱戦の様子を実況アナウンサーだった羽佐間正雄氏が記したエッセイは、学校の教科書にも採用されたほどに、ドラマチックなゲームとして語り継がれたものです。

女子の種目は当時、ずいぶんと少なかったことが分かります。
この中でも、400mはこの大会から採用された新種目で、800mも前大会から復活したばかりでした。(戦前、人見絹江さんが銀メダルを獲得したレースで「800mは女性にとってあまりにも過酷」ということになり、長い間廃止されていたのです)
その400mで大本命のアン・パッカーを破って優勝したベティ・カスバートは、8年前の地元メルボルン大会で100m、200mの2冠を制しており、「短距離個人3種目制覇」というオリンピック陸上競技史上後にも先にもない偉大な記録を、8年越しで達成しました。
なお敗れたパッカーは、「専門外」の800mでこれまた見事に優勝し、ゴールを駆け抜けたその脚で招集所付近で見守っていた婚約者の胸に飛び込むという、微笑ましい姿で話題になりました。

大記録と言えば、男子円盤投を制したアル・オーターはこれで陸上競技では初となるオリンピック3連覇。次のメキシコシティで、前人未到の偉業に挑むことになります。

その他では、女子砲丸投と円盤投の2冠を制し「女大鵬」と呼ばれたタマラ・プレスと、小柄ながら五種競技(当時は七種ではなかったんですね)に優勝し80mHと砲丸投でも入賞したイリーナ・プレスのプレス姉妹、当時中長距離界に旋風を起こしていたニュージーランド式指導法の申し子だったピーター・スネル、膝の手術を克服して三段跳連覇を達成したヨーゼフ・シュミットなどが話題を集めました。


 
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