豊大先生流・陸上競技のミカタ

陸上競技を見続けて半世紀。「かけっこ」をこよなく愛するオヤジの長文日記です。 (2016年6月9日開設)

依田郁子

<連載>100m競走を語ろう ⑰~“暁の超特急”吉岡隆徳



日本のスプリンター列伝を語る上で、藤井實と同じく決して外すことができないレジェンドが、日本の陸上競技史上唯一のオリンピック・100mファイナリストであり、またやはり唯一の男子100m公認世界記録保持者であった、吉岡隆徳(たかよし…「りゅうとく」と通称された 1909-1984)さんです。(以降敬称略)

1932年のロサンゼルス・オリンピック男子100mで、当時23歳の吉岡は1次予選を10秒9の1着、2次予選を10秒8の2着で勝ち上がると、準決勝ではディフェンディング・チャンピオンのパーシー・ウィリアムズ(CAN)を僅差で抑えて10秒8の3着で決勝に進出しました。
当時の陸上競技はセパレート・レーンが6レーンしかなく、入賞扱いもまた6着まで。つまり吉岡の成績は、世界の「トップ6」という偉業でした。(決勝が8レーンで行われるのは1964年東京大会から、また入賞が8位までとなるのは1984年ロサンゼルス大会から)
決勝に進出した吉岡は、得意のスタートダッシュで序盤明らかにトップを疾走したものの、中盤から次々に抜かれて最下位の6着、タイムは10秒8…それでも堂々、オリンピックでの男子全トラック種目を通じて初の入賞となり、また100m競走においては現在に至るまで、唯一無二のファイナリスト・入賞者となっているのです。
母親の手縫いという白い鉢巻をきりりと締めた小さな日本人のスーパー・ダッシュは、現地の大観衆にも大きな印象を残しました。


この3年後、吉岡は6月9日(南甲子園運動場)と15日(明治神宮外苑競技場)、1週間の間に立て続けに、当時の世界記録であった10秒3で走り、先のロス五輪優勝者のエディ・トーランや2位のラルフ・メトカーフ(ともにUSA)らとともに、IAAFのレコードブックに世界記録保持者として名を連ねました。
大きな期待を負って出場した1936年ベルリン・オリンピックでは2次予選敗退に終わっています。それとともにジェシー・オーエンス(USA)というスーパースターの登場によって世界記録保持者の座も失ってしまいましたが、その後も日本のエースとして、戦火が激しさを増す時代を走り続けました。

◆「暁の超特急」と呼ばれて
このセンセーショナルなキャッチフレーズは、当時讀賣新聞の記者だった川本信正氏によって、32年のロス五輪で優勝したエディ・トーランが学生時代に「ミッドナイト・エキスプレス」という異名をとっていたことにヒントを得て命名されたと言われます。
川本氏は、戦後も長らくスポーツ・ジャーナリストとして活躍し、いわゆる競技出身者ではないスポーツ・コメンテーターとして私が成人してからもTVでよくお見かけした方で、幻の大会となった1940年東京オリンピックの招致決定に際して、「オリンピック」の訳語である「五輪」という言葉を考案された方としても有名です。短いフレーズの名手だったと言えるでしょう。

トーランのニックネームのイメージは、彼がメトカーフとともに黒人スプリンターの草分け的存在だったところから、おそらく半ばそれを揶揄された意味合いのものではなかったでしょうか?…しかしそんなこととは関係なく、Expressを単に「急行電車」ではなく「特急」、さらに1930年に運行開始した東海道本線「燕号」の通称にあやかって「超特急」という言葉に昇華させた言葉のセンスは光ります。
そしてこの「超特急」が吉岡の二ツ名に転用されたのも、単に「速い日本人」というだけでなく、彼が独自に開発したスタート技術とそれによる世界屈指のダッシュ力のイメージをよく表していると言えます。
彼のスタート技術はその後、“愛弟子”の一人であった飯島秀雄に伝授されて進化を遂げ、「ロケットスタート」と呼ばれるようになりました。このため飯島には「暁のロケット」という新たな通り名が捧げられたものです。

ロス五輪の時の吉岡は、実は国内予選を勝ち残るのに大変な苦労をしていました。

島根県・現在の出雲市出身の吉岡は、165㎝という目立たない体格ながら島根県師範学校時代に1924年パリ・オリンピック代表の谷三三五(ささご)によってスプリンターの素質を見出されると、東京高等師範学校(現・筑波大学)に進学してから一気に国内ナンバーワン・スプリンターの位置に昇りつめ、1930年に10秒7の日本タイ記録、翌31年には10秒5と世界レベルの実力を身に付けます。
押しも押されもせぬオリンピック代表候補、どころか有力なメダル候補ともなっていた吉岡でしたが、この31年シーズンの終盤、腎臓結石の手術を行うハメになって、数カ月の療養生活を余儀なくされてしまいます。当時の医療技術ではメスを入れた傷口の回復に数カ月を要するとあって、代表選考会の1か月ほど前まで、まったくトレーニングのできない状態に追い込まれたのです。
入院・療養による体力の低下に焦燥する吉岡を支えていた人は少なくありませんが、中でも献身的に心身の介助を惜しまなかったのが、同じ高等師範のスプリンター、佐々木吉蔵(きちぞう・1912-1983)でした。

◆親友・佐々木吉蔵
吉岡&佐々木
吉岡から佐々木へのバトンパス(佐々木吉蔵著『競技に生きる あるオリムピック選手の記』より)

佐々木は秋田県小坂町の貧しい炭鉱夫の家庭出身で、大舘中学時代にその才を認められて周囲の支援を受け、1年間炭鉱での社会人生活を経て東京高師に入学してきました。
同期生ながら3つ年長の吉岡はすでに短距離界のトップに君臨していて、極東選手権日本人初優勝、世界学生選手権6位入賞などの実績を上げており、佐々木はこれを間近に憧れと尊敬の念をもって見守りながら、自身も国内では2番手・3番手を競う位置へと力を蓄えていきます。
1932年のオリンピックでは、日本の短距離陣になかなかの逸材が揃うことになり、吉岡を筆頭に佐々木、そして慶應義塾大学の阿武厳夫(あんの・いずお/1909-1939)といった代表有力候補がいました。専門は走幅跳・三段跳ながら、100mでも10秒6の日本記録を作った(翌月吉岡が10秒5に更新)南部忠平もいます。ロス五輪では、100mはもとより、この4人で組むことになる400mリレーにも、おそらく今回のリオ五輪以上の大きな期待がかかっていたのです。

ロス五輪の代表選考会、病後十分に回復していない吉岡が決勝進出すら危ぶまれる一方で、好調の佐々木は代表を確実視されていました。何とか吉岡も勝ち上がってきた決勝レースは、佐々木が終始リードする展開ながら、終盤に堅くなって走りが崩れたところを執念の追い込みを見せた吉岡が接戦を制し、みごとに劣勢を挽回することに成功しました。
吉岡の発病以来、早期の治療を勧め診察に立ち会うなどして常にその傍らにいた佐々木にとっては、自分自身のこと以上に吉岡の回復が嬉しいことだったようです。ところが今度はその佐々木が、五輪本番を目前にして右足首を故障し、夢の舞台に立つことを諦めなければならなくなったのは、何とも皮肉な結果でした。
100mのエントリーを直前で見合わせた佐々木は、最終日の400mリレー出場に望みをつなぐも、試走の結果これも断念。決勝に進出した日本チームは、5位入賞でした。1位のアメリカは別格(40秒1WR)としても、2位以下はドイツ(40秒9)、イタリア(41秒2)、カナダ(41秒3)、日本(41秒3)、イギリス(41秒4)と大接戦で、佐々木が健在ならばその後日本の「悲願」となったオリンピックでの初メダルは、この時にもたらされていたかもしれません。

4年後のベルリン・オリンピックに晴れて出場を果たした(100m2次予選敗退)佐々木は、金メダルの期待がかかっていた吉岡が同じく2次予選で敗れ去ったことに意気消沈しているのを気にかけ、帰りの船中もずっと目を離しませんでした。案の定、船からの投身を図った吉岡を必死に抱き留め一命をとりとめさせたことは、知られざるエピソードです。
スプリンター・佐々木吉蔵の名は、それ自体は常に吉岡や南部(ロス大会・三段跳優勝、走幅跳3位)の陰に隠れて日本選手権優勝も200mの1回のみという地味な存在に終わりましたが、現役中は吉岡のかけがえのないパートナーとして、また後年、1964年東京オリンピックの男子100mでピストルを撃った名スターターとして、陸上競技史にその名を燦然と残しています。



◆名コーチ・吉岡隆徳
1940年に決まっていた東京オリンピックが返上されて目標を失った吉岡は、それでも39年に日本選手権6回目の100m優勝(当時最多記録)を果たすまで、いや、その後もさらにずっと、走り続けました。
終戦後は、広島県での国体誘致など体育行政に関わる期間を経て、実業団の強豪リッカーミシンにコーチとして招かれ、飯島秀雄(所属は早稲田大学)、依田郁子という男女の逸材を指導することになりました。
当時、吉岡はまだ100mの日本記録ホルダーであり、「自分の記録を破るのは自分が育てた選手で」という強い信念をもって熱血指導に励み、遂に東京オリンピックの年、その飯島がドイツで10秒1の日本新記録を叩き出して「吉岡超え」を達成します。依田もまた100mで11秒6の日本記録を作り、80mHでは世界記録に0.1秒と迫る10秒6の記録を携えて東京オリンピックでは5位入賞を果たしました。

吉岡は「100mは私の一生の友」と自身も走り続け、その年代、年代での「自己記録」「世代記録」に挑むことにこだわり続けました。70歳にして15秒1という当時の年代別世界記録に迫るタイムを出し、その更新に執念を燃やしていたといいます。
ある有望な高校生への指導中に熱が入り、自身でスタートダッシュのお手本を見せようとして走り出した時、アキレス腱を切る重傷を負ってその夢とも決別。「ウォーミングアップをしないで走り出したこと」を後悔しました。
入院中の検査で胃潰瘍の診断を受け、やがてそれが胃癌であることが発覚して、闘病生活の末に74歳で永眠。

現役を引退して30歳を過ぎてから、それまで見向きもしなかった酒や煙草に「こんなにも旨いものだったのか」とハマってしまったと、闘病中の吉岡は苦笑しながら述懐していたそうです。
文字どおり「100mひとすじに命を賭けた人生」を送った稀代の名スプリンターが、僅かに覗かせた人間臭い一面を物語るエピソードです。

 

【短期集中連載】オリンピック回想 ①~1964年東京大会



リオ・オリンピックの陸上競技開始まで、あと2週間。
そこで、私がTVを通してリアルタイムで見た過去のオリンピックの思い出話を、古い順にご紹介したいと思います。
1964年の東京オリンピックは、ちょうど私が小学生になった年に開催されました。
スポーツ競技というものも、陸上競技というものもまったく知らずにいきなり出くわしたこの“世紀の祭典”にすっかり魅せられた私は、以後半世紀以上にわたって無類の「オリンピックおたく」「陸上競技マニア」という人生を送るハメになるのですが、そうした年齢的な巡り合せのせいか、私の世代にはオリンピックが大好きだという人が少なくないように思われます。また、国際的なスポーツ大会など見たことがなかったという意味では、当時の大人たちも似たり寄ったりでしたから、日本人のオリンピック好きはここに原点がある、と言ってもよいのではないでしょうか。


◆種目別金メダリストと記録、主な日本選手成績
*URSは「ソビエト連邦」、GERは「東西統一ドイツ」。当時入賞は6位まで。
<男子>
   100m ボブ・ヘイズ(USA) 10"0(=WR/OR) ※飯島秀雄:準決勝敗退
   200m  ヘンリー・カー(USA) 20"3(OR)
   400m マイク・ララビー(USA) 45"1
   800m ピーター・スネル(NZL) 1'45"1(OR) ※森本葵:準決勝敗退
  1500m ピーター・スネル(NZL) 3'38"1
  5000m ボブ・シュール(USA) 13'48"8
 10000m ビリー・ミルズ(USA) 28'24"4(OR) ※円谷幸吉:6位入賞
 110mH ヘイズ・ジョーンズ(USA) 13"6
 400mH ウォーレン・コーリー(USA) 49"6
 3000mSC ガストン・ローランツ(BEL) 8'30"8(OR)
 4×100mR アメリカ 39"0 ※日本:準決勝敗退
 4×400mR アメリカ 3'00"7
 マラソン アベベ・ビキラ(ETH) 2:12'11"2(WR) ※円谷幸吉:銅メダル 君原健二:8位 寺沢徹:15位
 20kmW ケネス・マシューズ(GBR) 1:29'34"(OR)
 50kmW アブドン・パミッチ(ITA) 4:11'12"4(WR)
 HJ ワレリー・ブルメル(URS) 2m18(OR)
 PV フレッド・ハンセン(USA) 5m10(OR)
 LJ リン・デーヴィス(GBR) 8m07 ※山田宏臣:決勝9位
 TJ ヨーゼフ・シュミット(POL) 16m85(OR) ※岡崎高之:決勝10位
 SP ダラス・ロング(USA) 20m33(OR)
 DT アル・オーター(USA) 61m00(OR)
 HT ロムアルト・クリム(URS) 69m74(OR) ※菅原武男:決勝13位
 JT パウリ・ネバラ(FIN) 82m66
 DEC ヴィリー・ホルドルフ(GER) 7887p.

<女子>
   100m ワイオミア・タイアス(USA) 11"4
   200m  エディス・マガイアー(USA) 23"0(OR)
   400m ベティ・カスバート(AUS) 52"0(OR)
   800m アン・パッカー(GBR) 2'01"1(WR)
  80mH カリン・バルツァー(GER) 10"5(=WR/OR) ※依田郁子:5位入賞
 4×100mR ポーランド 43"6(WR)
  HJ イオランダ・バラシュ(HUN) 1m90(OR)
  LJ メアリー・ランド(GBR) 6m76(WR)
  SP タマラ・プレス(URS) 18m14(OR)
  DT タマラ・プレス(URS) 57m27(OR)
  JT ミハエラ・ペネス(ROU) 60m54 ※佐藤弘子:決勝7位 片山美佐子:決勝11位
  PEN イリーナ・プレス(URS) 5246p.(WR)


◆スター選手たちの光と影
この大会のハイライトは、何といっても序盤のボブ・ヘイズ、最終盤のアベベ・ビキラという2人のスーパースターだったでしょう。
ヘイズについては別の稿でも触れましたように、100m準決勝で9秒9を記録しながら追風参考、決勝ではこの大会で初めて採用された電子計時のために10秒0の世界タイ記録に留まりましたが、バックアップの手動計時では9秒9。いわば2度にわたって史上初の「幻の9秒台」をマークしたことになります。
男子100mではこの年のWLになる10秒1の日本新記録を出していた飯島秀雄選手に期待が集まりましたが、雨中の1次予選、2次予選は順調に通過したものの、準決勝ではタイムを落として7着。師匠である吉岡隆徳さん以来の決勝進出はなりませんでした。

アベベ・ビキラは、まったく無名だった4年前のローマ大会で、裸足で出場して世界最高記録での優勝を飾り、現在のマラソン王国エチオピアのパイオニアとなった選手です。ところが東京大会の直前に盲腸炎の手術をするという緊急事態に、「裸足の王様」の物語とともに動向が注目されていました。
レースはオーストラリアのロン・クラークが驚異的なハイペースを作り、折り返し手前でこれを振り切ったアベベの独走となり、ローマの記録を3分以上も縮める驚異的記録で優勝、ゴール直後にはフィールドで柔軟体操をする余裕を見せました。
日本勢は、2年前にアベベの世界記録を破った寺沢徹、前年のプレオリンピックで2位に入り、選考会で優勝した君原健二にメダルの期待が集まり、3月にトラックから転向したばかりのスピードランナー円谷幸吉も10000mで入賞した余勢を駆っての活躍が期待されました。結果は、円谷がアベベに次ぐ2位で競技場に現れ、惜しくもB.ヒートリー(GBR)に抜かれはしたもののみごと3位銅メダルを獲得した、あまりにも有名なシーンとなりました。

日本勢で入賞を果たしたのは、この円谷の2種目と、女子80mハードルの依田郁子のみ。依田は予選・準決勝をともに2位で通過し、世界記録に0.1秒と迫る10秒6の持ちタイムからもメダルが期待され、スタートよく最初のハードルをトップで越えたところで場内の興奮は上がりましたが、結局5位となりました。
スタート前に、自分のレーンを竹ぼうきで掃き清め、ジャージを脱ぐとでんぐり返し、逆立ち。こめかみと首筋にサロメチール軟膏をベッタリと塗り付け、レモンをガブリと齧ってレーン表示台に置く…こうした一連の“儀式”は「依田劇場」と呼ばれ、当時では珍しい個性的なパフォーマンスでした。

さて、ここに挙げた、東京大会の陸上競技を象徴するかのような内外のスター選手たちが、その後たどった人生には何やら運命共同体のようなものを感じてしまいます。
ヘイズはプロフットボウラーに転向して快速WRとしてスーパーボウルにも出場するなど相当の活躍をしましたが、麻薬取締法違反で逮捕・服役。同じ100mを走った飯島は、メキシコシティ大会の後にプロ野球入りして代走専門選手として活躍。引退後に交通人身事故を起こしてやはり服役しました。
マラソンの王者・アベベは3連覇に挑んだメキシコシティ大会で途中棄権に終わった直後、交通事故で半身不随となり、それでもパラリンピックなどに元気な姿を見せていた時期もありましたが、1973年に病死。
円谷選手は現役中の1968年、依田選手は引退して幸せな結婚生活を送っていたかに見えた83年、ともに自殺を遂げています。


◆名勝負・名選手・偉大な記録・・・

円谷選手が健闘した男子10000mは、最初の決勝種目であり、私がテレビを通して初めて「陸上競技」というものに接したレースでした。

当時世界記録を持っていたロン・クラークは「オーストラリアの長距離王」と呼ばれ、この後を含め3000m、5000m、10000mの世界記録を何度も更新し、10000mでは史上初の27分台ランナーとなった選手ですが、速いペースで突っ走ることは得意でもラスト勝負のスプリント力に難があるため、大きな大会ではなかなか勝つことができませんでした。そのクラークが、当時の世界記録にも迫ろうかという速い展開に持ち込み「してやったり」と考えたというこのレース、しかし最後まで食らいついて離れなかったのがモハメド・ガムーディ(TUN)とビリー・ミルズ。いずれも、レース前は決して下馬評に上るような存在ではありませんでした。
この3者が演じたラスト1周のデッドヒートは、陸上競技のオープニングを飾るにふさわしい名勝負となり、2度にわたって外に弾き飛ばされかけながら逆転したミルズの走りは、アメリカ・インディアンゆえにいわれのない差別を受け続けたそれまでの経緯などを絡めて、後年映画にもなったほどです。
私にとっても、「陸上マニア」への道を決定づけた、はじめての名勝負でした。

棒高跳の9時間超に及ぶ「死闘」は、決勝進出者が19名もいたことと時間制限がより悠長だった当時のルールゆえですが、最後の跳躍で逆転優勝を決めたハンセンは、これでオリンピック棒高跳でのアメリカの不敗記録(15大会すべてで優勝)を守ったことになります。この熱戦の様子を実況アナウンサーだった羽佐間正雄氏が記したエッセイは、学校の教科書にも採用されたほどに、ドラマチックなゲームとして語り継がれたものです。

女子の種目は当時、ずいぶんと少なかったことが分かります。
この中でも、400mはこの大会から採用された新種目で、800mも前大会から復活したばかりでした。(戦前、人見絹江さんが銀メダルを獲得したレースで「800mは女性にとってあまりにも過酷」ということになり、長い間廃止されていたのです)
その400mで大本命のアン・パッカーを破って優勝したベティ・カスバートは、8年前の地元メルボルン大会で100m、200mの2冠を制しており、「短距離個人3種目制覇」というオリンピック陸上競技史上後にも先にもない偉大な記録を、8年越しで達成しました。
なお敗れたパッカーは、「専門外」の800mでこれまた見事に優勝し、ゴールを駆け抜けたその脚で招集所付近で見守っていた婚約者の胸に飛び込むという、微笑ましい姿で話題になりました。

大記録と言えば、男子円盤投を制したアル・オーターはこれで陸上競技では初となるオリンピック3連覇。次のメキシコシティで、前人未到の偉業に挑むことになります。

その他では、女子砲丸投と円盤投の2冠を制し「女大鵬」と呼ばれたタマラ・プレスと、小柄ながら五種競技(当時は七種ではなかったんですね)に優勝し80mHと砲丸投でも入賞したイリーナ・プレスのプレス姉妹、当時中長距離界に旋風を起こしていたニュージーランド式指導法の申し子だったピーター・スネル、膝の手術を克服して三段跳連覇を達成したヨーゼフ・シュミットなどが話題を集めました。


 
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