豊大先生流・陸上競技のミカタ

陸上競技を見続けて半世紀。「かけっこ」をこよなく愛するオヤジの長文日記です。 (2016年6月9日開設)

佐々木吉蔵

元陸上競技王者の、いま<第4弾>



前回予告のとおり、TBSテレビ『消えた天才』に登場したもう一人の陸上選手・飯島秀雄さんについて、ご紹介します。
実を言うと、飯島さんについては現在連載休止中(?)の『100m競走を語ろう』の第19回に取り上げるつもりでいたのですが、事実関係の確認などに手間取っているうちに時間が経過してしまい、現在に至っていました。番組の内容からいくつか新しい情報も得られたので、ここでまとめてみようと思います。

近年未曽有の盛り上がりを見せている男子短距離界の歴史において、先にご紹介した藤井實、吉岡隆徳、人見絹枝といった大先達と並んで欠かすことのできない存在、それが飯島秀雄選手です。
戦前に「世界タイ記録」として記録された吉岡の日本記録を29年ぶりに更新し、世界中のスプリンターが目標とした「100m10秒の壁(手動計時)」に日本人として唯一、挑み続けた男。
1964年東京、68年メキシコシティと2度のオリンピックに出場し、これまた吉岡以来のファイナリストへあと一歩のところまで迫った男。
突如として陸上界からプロ野球界へと転身し、華やかなスポットライトとプロの辛酸という両極端の世界を味わった男。
自身が引き起こした交通人身事故のためにいったんは社会から消え去り、そして再び、陸上の世界に帰ってきたスプリントのレジェンド。
まさしく波乱万丈の人生を歩んできた飯島さんは、現在故郷・水戸市で小さな運動具店を経営しつつ、明るく過去の自分を笑い飛ばし、また将来の大きな夢について語ってくれました。
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飯島さんが短距離選手を志したのは、県立水戸農高に入学してからです。素質を見出されて東京の目黒高に転校し、やがて当時実業団日本一だったリッカーミシンの吉岡隆徳コーチの指導を仰ぐようになります。早稲田大進学後も、練習は主にリッカーのグラウンドに出向いて英才教育を施されました。
「日本記録は自分の育てた弟子に破らせたい」と情熱を注ぐ吉岡にとって、飯島と女子の依田郁子は秘蔵っ子とも呼べる存在となり、二人はともに64年東京オリンピックの短距離最大のホープとして注目を浴びることとなるのです。
東京五輪の年を迎えた4月、飯島は国内で10秒3をマークして師・吉岡の日本記録に並ぶと、6月にはベルリンの競技会で10秒1の日本新記録を叩き出しました。日本記録を一気に0.2秒更新するとともに、当時世界ではアルミン・ハリー(GER=ローマ五輪を制しすでに引退)とハリー・ジェローム(CAN)だけが持っていた10秒0に次ぐ、世界歴代3位タイの記録でした。一躍、東京オリンピックの金メダル候補の一角に名乗り出たのです。

飯島の最大の武器は、吉岡から伝授された鋭いスタートダッシュでした。加えて飯島には吉岡が恵まれなかった176㎝の上背と骨太の体格がありました。筋力を活かしてスタートラインの手前で大きく両手を開き、「用意」で前方にぐいと体重を預ける構えから低い姿勢で飛び出すそのフォームは「ロケットスタート」と命名され、吉岡の代名詞だった「暁の超特急」にあやかって、飯島には「暁のロケット」というニックネームがマスコミによって奉られました。
飯島のスタートは、国際舞台でも前半は確実に海外のスプリンターたちをリードする卓越したものでしたが、その反面、吉岡が1932年のロス五輪で味わったのと同様、後半に伸びを欠いて失速するという弱点をも引き継いでいました。東京、メキシコシティともに危なげなく準決勝まで進出しながら、ファイナルの壁はあくまでも高く厳しく、飯島の前に立ちはだかったのです。
思えば、「あの飯島が超えられなかった壁」が、その後半世紀以上にもわたって日本のスプリント界を呪縛し続けている、そう言っても言い過ぎではないでしょう。

大学3年で迎えた東京オリンピックで、1次予選10秒3(全選手中1位)で1着、2次予選10秒5で3着の後、準決勝はスタート直後から精彩なく10秒6の7着。
その後1966年に2度にわたって10秒1の日本タイ記録で走り、68年のオリンピック(当時は茨城県庁所属)では1次予選10秒24(追風参考・全選手中5位)、2次予選10秒31(追風参考)で3着、準決勝はスタート直後トップに立つも10秒34で8着と敗退しました。このタイムは手動計時であれば10秒1から2に相当するもので、飯島は2度目のオリンピックの舞台で実力を十分に発揮したと言ってよいのですが、電子計時でも9秒台に突入した世界の急速なレベルアップには置いて行かれた形となったものです。
3度にわたって記録した10秒1は、結局そのまま「最後の手動計時日本記録」として、複数の選手にタイ記録で並ばれはしたものの永遠のものとなりました。またメキシコで記録した10秒34は、その後電子計時のみが正式採用されて数年が経過した1984年に至って、改めて「日本記録」として公認されていますが、それまでの間は「10秒3」として扱われていました。

飯島の人生は、メキシコから帰国して間もなく、その年のプロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)から9位指名を受けて「代走専門選手」としてプロ野球入りしたところで急転回を迎えます。
陸上に見切りをつけた理由が「自分の走りでは、新素材のトラックに対応できない」というものだったというのは今回初めて聞いた事情で、驚きました。
今ではスタンダードになっている陸上トラックのゴム・合成樹脂素材は、メキシコシティ・オリンピックで初めて世に出たものです。私が陸上競技を始めたのが1971年で、当時東京では世田谷総合運動場と東京体育館(300m)の2箇所しかタータントラックはありませんでした。世界中のトラックがやがてそうした全天候型舗装に取って代わられることになるとは想像もできなかったのですが、飯島はたった1回オリンピックで走っただけで、自身の将来に見切りを付けたというのです。

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さて、飯島ストーリーの第2章…中学時代は野球部に所属していたとはいえ、いわば「ど素人」がプロの世界で何ができるのか…注目を集めた飯島はプロ初試合となった東京スタジアム(現在は消滅)での南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)との2回戦で、同点の9回裏に一塁代走として起用されました。
南海のキャッチャーは、あの「ノムさん」こと野村克也。プロ野球史上ナンバーワンとも評される当時の名捕手です。「野球はど素人」そのままに、リードもせず、投手が投球動作に入ってよほど経ってからスタートを切った飯島はその“変則スタート”ゆえにかえって南海守備陣の度肝を抜き、野村の二塁暴投を招いて一気に三塁へ。次々打者のヒットでサヨナラのホームを踏むという、最高のデビューを飾りました。

デビューこそ華々しく、また飯島見たさに閑古鳥が鳴いていたパ・リーグのスタンドには多くのファンが詰めかけるようになりましたが、その後の成績は振るいませんでした。
結局プロ3年間で盗塁23、盗塁死17、牽制死5、得点46。ひたすら前を見て直線を走ることだけに磨きをかけてきた飯島にとって、投手のモーションを盗み、牽制をかいくぐり、「カニみたいに」横向きにスタートを切ってベースにスライディングするという「プロの走り屋」の世界はあまりに厳しい現実を突きつけたのです。実直な性格の彼が、トリックプレーや口先の騙しに簡単に引っ掛かったというのも、さもありなんという感じがします。とはいえ、3年の間にそうしたプロの技術をほとんど吸収することなく終わったというのも、本人はもとより当時のプロ野球界の悠長さが伺えて、面白さを感じてしまいます。

1971年シーズンを最後にプロ野球界を去ってからしばらくの期間のことについて、今回の放送では何も言及しませんでした。
故郷の水戸に戻って運動具店を開業していた飯島は、1983年、国立霞ヶ丘競技場で行われる陸上競技会に出場する娘の応援に自ら運転してきたクルマで、幼い少女を撥ねて死亡させる人身事故を起こし、交通刑務所に服役しています。事故があった現場はJR四ツ谷駅前の信号で、実は当時私が通っていた会社へ向かう通り道でした。その後何年にもわたって小さな献花が絶えることなく続いていたのを覚えています。その事故の当事者があの飯島であったことを知ったのは、だいぶ後になってからのことです。
スプリンターからプロスポーツへの転身、そして罪を犯しての服役…ちょうど、東京オリンピックの男子100m金メダリスト、ボブ・ヘイズ(USA)が辿ったのと同じような波乱の人生を、飯島は歩んでいました。

その飯島の名前が再び大きく浮上してきたのは、水戸市の陸協に籍を置き、短距離競走の出発係(スターター)として実績を積み重ねた末に、1991年の東京世界選手権で男子100mのスターターを務めるという栄誉に浴した時です。
かつての名スプリンターが名スターターに…それは、かつて師と仰いだ吉岡隆徳の無二の親友でありライバルだった佐々木吉蔵が、飯島も出場した東京オリンピックの100m決勝のスターターとして名を馳せたのと、同じプロセスでした。吉岡と佐々木、戦前を代表する2人のスプリンターの系譜を、飯島はともに受け継いだことになります。

今回の番組と同じような企画のものを、私はこの東京世界選手権の少し前、つまり服役を終えてしばらく経った頃にもTVで見た記憶があります。やはり「あの人は今」的な趣旨のもと、運動具店の奥から現れる演出までそっくり同じでしたが、その頃の飯島さんはまだ壮年のがっしりした体形で、おぐしもフサフサとしていたように覚えています。
今年73歳となった飯島さんは、それでも「3年後の東京オリンピックでスターターをやって、陸上界に恩返ししたい」と、大きな夢を語ってくれました。
日本人初めての100m9秒台。戦後初のオリンピック・ファイナリスト。
その野望を最初に抱いた伝説のスプリンターは、自らの手で打ち鳴らした号砲で飛び出した選手が、己の果たせなかった夢をかなえる瞬間を待ち望んでいるに違いありません。それほど、陸上界に置き忘れてきたものは大きかったということなのでしょう。

※関連投稿
<連載>100m競走を語ろう
http://www.hohdaisense-athletics.com/archives/cat_172993.html

<連載>100m競走を語ろう ⑰~“暁の超特急”吉岡隆徳



日本のスプリンター列伝を語る上で、藤井實と同じく決して外すことができないレジェンドが、日本の陸上競技史上唯一のオリンピック・100mファイナリストであり、またやはり唯一の男子100m公認世界記録保持者であった、吉岡隆徳(たかよし…「りゅうとく」と通称された 1909-1984)さんです。(以降敬称略)

1932年のロサンゼルス・オリンピック男子100mで、当時23歳の吉岡は1次予選を10秒9の1着、2次予選を10秒8の2着で勝ち上がると、準決勝ではディフェンディング・チャンピオンのパーシー・ウィリアムズ(CAN)を僅差で抑えて10秒8の3着で決勝に進出しました。
当時の陸上競技はセパレート・レーンが6レーンしかなく、入賞扱いもまた6着まで。つまり吉岡の成績は、世界の「トップ6」という偉業でした。(決勝が8レーンで行われるのは1964年東京大会から、また入賞が8位までとなるのは1984年ロサンゼルス大会から)
決勝に進出した吉岡は、得意のスタートダッシュで序盤明らかにトップを疾走したものの、中盤から次々に抜かれて最下位の6着、タイムは10秒8…それでも堂々、オリンピックでの男子全トラック種目を通じて初の入賞となり、また100m競走においては現在に至るまで、唯一無二のファイナリスト・入賞者となっているのです。
母親の手縫いという白い鉢巻をきりりと締めた小さな日本人のスーパー・ダッシュは、現地の大観衆にも大きな印象を残しました。


この3年後、吉岡は6月9日(南甲子園運動場)と15日(明治神宮外苑競技場)、1週間の間に立て続けに、当時の世界記録であった10秒3で走り、先のロス五輪優勝者のエディ・トーランや2位のラルフ・メトカーフ(ともにUSA)らとともに、IAAFのレコードブックに世界記録保持者として名を連ねました。
大きな期待を負って出場した1936年ベルリン・オリンピックでは2次予選敗退に終わっています。それとともにジェシー・オーエンス(USA)というスーパースターの登場によって世界記録保持者の座も失ってしまいましたが、その後も日本のエースとして、戦火が激しさを増す時代を走り続けました。

◆「暁の超特急」と呼ばれて
このセンセーショナルなキャッチフレーズは、当時讀賣新聞の記者だった川本信正氏によって、32年のロス五輪で優勝したエディ・トーランが学生時代に「ミッドナイト・エキスプレス」という異名をとっていたことにヒントを得て命名されたと言われます。
川本氏は、戦後も長らくスポーツ・ジャーナリストとして活躍し、いわゆる競技出身者ではないスポーツ・コメンテーターとして私が成人してからもTVでよくお見かけした方で、幻の大会となった1940年東京オリンピックの招致決定に際して、「オリンピック」の訳語である「五輪」という言葉を考案された方としても有名です。短いフレーズの名手だったと言えるでしょう。

トーランのニックネームのイメージは、彼がメトカーフとともに黒人スプリンターの草分け的存在だったところから、おそらく半ばそれを揶揄された意味合いのものではなかったでしょうか?…しかしそんなこととは関係なく、Expressを単に「急行電車」ではなく「特急」、さらに1930年に運行開始した東海道本線「燕号」の通称にあやかって「超特急」という言葉に昇華させた言葉のセンスは光ります。
そしてこの「超特急」が吉岡の二ツ名に転用されたのも、単に「速い日本人」というだけでなく、彼が独自に開発したスタート技術とそれによる世界屈指のダッシュ力のイメージをよく表していると言えます。
彼のスタート技術はその後、“愛弟子”の一人であった飯島秀雄に伝授されて進化を遂げ、「ロケットスタート」と呼ばれるようになりました。このため飯島には「暁のロケット」という新たな通り名が捧げられたものです。

ロス五輪の時の吉岡は、実は国内予選を勝ち残るのに大変な苦労をしていました。

島根県・現在の出雲市出身の吉岡は、165㎝という目立たない体格ながら島根県師範学校時代に1924年パリ・オリンピック代表の谷三三五(ささご)によってスプリンターの素質を見出されると、東京高等師範学校(現・筑波大学)に進学してから一気に国内ナンバーワン・スプリンターの位置に昇りつめ、1930年に10秒7の日本タイ記録、翌31年には10秒5と世界レベルの実力を身に付けます。
押しも押されもせぬオリンピック代表候補、どころか有力なメダル候補ともなっていた吉岡でしたが、この31年シーズンの終盤、腎臓結石の手術を行うハメになって、数カ月の療養生活を余儀なくされてしまいます。当時の医療技術ではメスを入れた傷口の回復に数カ月を要するとあって、代表選考会の1か月ほど前まで、まったくトレーニングのできない状態に追い込まれたのです。
入院・療養による体力の低下に焦燥する吉岡を支えていた人は少なくありませんが、中でも献身的に心身の介助を惜しまなかったのが、同じ高等師範のスプリンター、佐々木吉蔵(きちぞう・1912-1983)でした。

◆親友・佐々木吉蔵
吉岡&佐々木
吉岡から佐々木へのバトンパス(佐々木吉蔵著『競技に生きる あるオリムピック選手の記』より)

佐々木は秋田県小坂町の貧しい炭鉱夫の家庭出身で、大舘中学時代にその才を認められて周囲の支援を受け、1年間炭鉱での社会人生活を経て東京高師に入学してきました。
同期生ながら3つ年長の吉岡はすでに短距離界のトップに君臨していて、極東選手権日本人初優勝、世界学生選手権6位入賞などの実績を上げており、佐々木はこれを間近に憧れと尊敬の念をもって見守りながら、自身も国内では2番手・3番手を競う位置へと力を蓄えていきます。
1932年のオリンピックでは、日本の短距離陣になかなかの逸材が揃うことになり、吉岡を筆頭に佐々木、そして慶應義塾大学の阿武厳夫(あんの・いずお/1909-1939)といった代表有力候補がいました。専門は走幅跳・三段跳ながら、100mでも10秒6の日本記録を作った(翌月吉岡が10秒5に更新)南部忠平もいます。ロス五輪では、100mはもとより、この4人で組むことになる400mリレーにも、おそらく今回のリオ五輪以上の大きな期待がかかっていたのです。

ロス五輪の代表選考会、病後十分に回復していない吉岡が決勝進出すら危ぶまれる一方で、好調の佐々木は代表を確実視されていました。何とか吉岡も勝ち上がってきた決勝レースは、佐々木が終始リードする展開ながら、終盤に堅くなって走りが崩れたところを執念の追い込みを見せた吉岡が接戦を制し、みごとに劣勢を挽回することに成功しました。
吉岡の発病以来、早期の治療を勧め診察に立ち会うなどして常にその傍らにいた佐々木にとっては、自分自身のこと以上に吉岡の回復が嬉しいことだったようです。ところが今度はその佐々木が、五輪本番を目前にして右足首を故障し、夢の舞台に立つことを諦めなければならなくなったのは、何とも皮肉な結果でした。
100mのエントリーを直前で見合わせた佐々木は、最終日の400mリレー出場に望みをつなぐも、試走の結果これも断念。決勝に進出した日本チームは、5位入賞でした。1位のアメリカは別格(40秒1WR)としても、2位以下はドイツ(40秒9)、イタリア(41秒2)、カナダ(41秒3)、日本(41秒3)、イギリス(41秒4)と大接戦で、佐々木が健在ならばその後日本の「悲願」となったオリンピックでの初メダルは、この時にもたらされていたかもしれません。

4年後のベルリン・オリンピックに晴れて出場を果たした(100m2次予選敗退)佐々木は、金メダルの期待がかかっていた吉岡が同じく2次予選で敗れ去ったことに意気消沈しているのを気にかけ、帰りの船中もずっと目を離しませんでした。案の定、船からの投身を図った吉岡を必死に抱き留め一命をとりとめさせたことは、知られざるエピソードです。
スプリンター・佐々木吉蔵の名は、それ自体は常に吉岡や南部(ロス大会・三段跳優勝、走幅跳3位)の陰に隠れて日本選手権優勝も200mの1回のみという地味な存在に終わりましたが、現役中は吉岡のかけがえのないパートナーとして、また後年、1964年東京オリンピックの男子100mでピストルを撃った名スターターとして、陸上競技史にその名を燦然と残しています。



◆名コーチ・吉岡隆徳
1940年に決まっていた東京オリンピックが返上されて目標を失った吉岡は、それでも39年に日本選手権6回目の100m優勝(当時最多記録)を果たすまで、いや、その後もさらにずっと、走り続けました。
終戦後は、広島県での国体誘致など体育行政に関わる期間を経て、実業団の強豪リッカーミシンにコーチとして招かれ、飯島秀雄(所属は早稲田大学)、依田郁子という男女の逸材を指導することになりました。
当時、吉岡はまだ100mの日本記録ホルダーであり、「自分の記録を破るのは自分が育てた選手で」という強い信念をもって熱血指導に励み、遂に東京オリンピックの年、その飯島がドイツで10秒1の日本新記録を叩き出して「吉岡超え」を達成します。依田もまた100mで11秒6の日本記録を作り、80mHでは世界記録に0.1秒と迫る10秒6の記録を携えて東京オリンピックでは5位入賞を果たしました。

吉岡は「100mは私の一生の友」と自身も走り続け、その年代、年代での「自己記録」「世代記録」に挑むことにこだわり続けました。70歳にして15秒1という当時の年代別世界記録に迫るタイムを出し、その更新に執念を燃やしていたといいます。
ある有望な高校生への指導中に熱が入り、自身でスタートダッシュのお手本を見せようとして走り出した時、アキレス腱を切る重傷を負ってその夢とも決別。「ウォーミングアップをしないで走り出したこと」を後悔しました。
入院中の検査で胃潰瘍の診断を受け、やがてそれが胃癌であることが発覚して、闘病生活の末に74歳で永眠。

現役を引退して30歳を過ぎてから、それまで見向きもしなかった酒や煙草に「こんなにも旨いものだったのか」とハマってしまったと、闘病中の吉岡は苦笑しながら述懐していたそうです。
文字どおり「100mひとすじに命を賭けた人生」を送った稀代の名スプリンターが、僅かに覗かせた人間臭い一面を物語るエピソードです。

 

<連載>100m競走を語ろう ⑤~ドッキドキのスタート・アクション



◆「イチニツイテ」「ヨーイ!」

短距離競走では、号砲によるスタート合図の前に、発走の合図をする「スターター(正しくは出発係)」という競技役員によって発せられる、「位置について=On your marks」と「用意=Set」という、二段階の「コール」があります。スタンディングスタートの中長距離走では、「位置について」の一回のみです。(陸上競技にあまり詳しくないと、これを知らない方が
意外に多くて、市井のマラソン大会などで「位置について……ヨーイ!」とやってしまいランナーをずっこけさせる、ということがあります)
以前はこのスタートコールは、「開催国の言語で行う」というルールだったのですが、2007年のルール改正で英語の「On your marks」「Set」に統一され、日本国内でも日本陸連が関与する規模の大会では、すべて英語でコールされることになっています。
スターター
  ※「セイコー陸上競技システム総合カタログ」より

短距離走で「位置について」のコールを受けたら、選手はスタートラインの手前ぎりぎりの所に(ラインに触れないように)両手を着き、あらかじめセットしたスターティングブロックに足を乗せて構えます。この構えで静止した状態が、「位置についた」と判断される体勢です。
スターターは、選手全員が「位置についた」ことを確認した上で、「用意」のコールをします。この合図で選手は腰を上げて体の重心を前に移動させることによって、すぐに全力ダッシュが始められる体勢をとります。
この姿勢を長時間続けることは体力的にも精神的にも困難で、1964年東京オリンピックの男子100m決勝でスターターを務めた故・佐々木吉蔵さんによれば、「『用意のヨ』から『ドン!』までは1.6秒から1.8秒が理想」とのことで、選手によっては「2秒を超えると眠くなる」と言う人もいるそうです。選手はそれほどに極限にまで張り詰めた精神状態に置かれるわけですが、近年はより正確で公平なスタートを期するあまりに少々この「間」が長くなる傾向があるように見受けられます。いずれにしろ、短距離走のスタートを取り仕切るスターターの仕事は、極めて繊細で熟練を要するものであることは確かです。

「位置について」の構えは、「用意」で腰を上げた時に最大限の爆発力が得られるよう、体格や体の使い方に合せた姿勢をそれぞれの選手が身に着けていて、それを実現するための手の開き具合と足の位置を決める必要があります。スタートの準備をする選手たちをよく観察していると、スタブロ本体を置く位置、左右の足を置く位置などを慎重に測りながら決めていく人もいれば、大ざっぱに位置決めしてから足を乗せてみて微調整していく人もいるなど、いろいろな流儀があるようです。

たとえば、往年の日本のエース・飯島秀雄さんやドーピングで偉業を台無しにしたベン・ジョンソンが得意にしていた「ロケットスタート」と呼ばれるスタイルでは、両手を大きく開き、足もできるだけ遠めに置いて、まるで地面に這いつくばるような低い体勢からスタートします。よほどの筋力と速いピッチがないと前には進めず倒れてしまったり空転してしまう、極端な前傾スタートです。通常は両手は「肩幅より少し広く」、前足は「ラインから1.5~2足長(「足長」は靴のサイズ)」、後ろ足は「前足から1~1.5足長」といったあたりが標準でしょうか。100m競走のスタート位置に並んだ全選手のスタブロの位置を見比べてみると、人によってかなり足の位置が異なることに驚かれるかもしれません。

エバニュー(Evernew) スターティングブロック 平行連結式スタブロRST EGA017
エバニュー(Evernew) スターティングブロック 平行連結式スタブロRST EGA017

ジョンソン
  ベン・ジョンソンのロケットスタートの構え。

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細かいルールになりますが、「位置について」では「少なくとも片方の膝が地面に着いていること」を規定しています。このルールを曲解した審判員によって、2003年のパリ世界選手権でちょっとした「事件」がありました。
この大会で日本人として初めて短距離種目(ハードルを除く)のメダルを獲得することになる末續慎吾選手が、その200m決勝のスタートの際に、「位置についての姿勢がルールに抵触する」と指摘されて注意を受けたのです。末續選手の「位置について」は、左右の足の前後間隔が極端に少ない(つまり前足を極端に後ろに引いている)独特の構えで、このため「位置について」では両脚の膝が地面に着く体勢になります。前記のルールを生半可に理解していた審判が「両膝を着いてはいけない」と勘違いして注意を与えたというアクシデントでした。幸い末續選手は動ずることなく言われたとおりに姿勢を修正し、その慣れないスタートにも関わらず3着に食い込んで銅メダルを獲得しましたが、結果が悪ければ大問題にもなりかねない審判のミステークでした。
末次慎吾
  「なんば」と言われる末續慎吾選手のスタート独特の構え

◆永遠の課題「フライング」の判定
スタートのピストル音(「号砲」と言います)が鳴る前に走者がスタート動作を開始してしまうと、不正スタートとなる……これは常識ですね。
こうした不正スタートは通常「フライング」と呼ばれて、日常会話の中でも、ちょっと逸って行動を起こしたりする場合などに使われる言葉です。ただしこれは和製英語で、自転車競技やモータースポーツ、ヨット競技などの「助走をつけてスタートラインを通過するスタート方式」を表す「フライング・スタート」に由来しています。英語では「false start(フォールス・スタート)」と言うのが一般的で、これにはいわゆるフライング以外の不正スタートの意味も含まれます。

次回はこのフライング=不正スタートについて、ちょっと掘り下げてみましょう。

 
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