豊大先生流・陸上競技のミカタ

陸上競技を見続けて半世紀。「かけっこ」をこよなく愛するオヤジの長文日記です。 (2016年6月9日開設)

モハメド・ガムーディ

【短期集中連載】オリンピック回想 ②~1968年メキシコシティ大会



小学校1年生で地元開催のオリンピックに巡り会ってしまった私は、その4年後のメキシコシティ大会でさらに深くのめり込んでいくことになります。
私たちは「当たり前」のように受け止めていましたが、実は衛星中継で海外の生映像が見られるというのは、ほとんど初めてのことと言ってよかったのです。我が家はまだ白黒テレビだったとはいえ、時差の関係で連日朝のテレビに釘付けになり、後ろ髪を引かれる思いで学校に行き、先生を拝み倒して教室のテレビ(滅多に使われない一斉授業や緊急放送用のもの)で少しだけ競技の模様を見せてもらったりしていました。
いま振り返れば、財政事情の厳しいメキシコという国で、よく開催したもんだなと思わされますが、特に陸上競技においては非常に特異な、また時代の変わり目に位置付けられた大会だったと感慨深いものがあります。


◆各種目金メダリストと主な日本選手の成績
*URS=ソビエト連邦、GDR=東ドイツ、GER=西ドイツ、CZS=チェコスロバキア
<男子>
   100m ジム・ハインズ(USA) 9"95(WR)  ※飯島秀雄:準決勝敗退
   200m  トミー・スミス(USA) 19"83(WR)
   400m リー・エバンス(USA) 43"86(WR)
   800m ラルフ・ドーベル(AUS) 1'44"40(OR)
  1500m キプチョゲ・ケイノ(KEN) 3'34"91(OR)
  5000m モハメド・ガムーディ(TUN) 14'05"01 ※澤木啓祐:予選敗退
 10000m ナフタリ・テム(KEN) 29'27"40 ※鈴木従道:19位 澤木啓祐:27位
 110mH ウィリー・ダヴェンポート(USA) 13"33(OR)
 400mH デーヴィッド・ヘメリー(GBR) 48"12(WR)
 3000mSC アモス・ビウォット(KEN) 8'51"02
 4×100mR アメリカ 38"24(WR) ※日本:予選敗退(日本新)
 4×400mR アメリカ 2'56"16(WR)
 マラソン マモ・ウォルデ(ETH) 2:20'27 ※
君原健二:銀メダル 宇佐美彰朗:9位 佐々木精一郎:DNF
 20kmW ウラディミル・ゴルブニチー(URS) 1:33'59"
 50kmW クリストフ・ヘーネ(GDR) 4:20'14"
 HJ ディック・フォスベリー(USA) 2m24(OR)
 PV ボブ・シーグレン(USA) 5m40(OR) ※丹羽清:決勝11位(五輪新)
 LJ ボブ・ビーモン(USA) 8m90(WR) ※山田宏臣:決勝10位
 TJ ヴィクトル・サネイエフ(URS) 17m39(WR)
 SP ランディ・マトソン(USA) 20m54(OR)
 DT アル・オーター(USA) 64m78(OR)
 HT ジュラ・ジボツキー(HUN) 73m36(OR) ※菅原武男:4位入賞
 JT ヤニス・ルーシス(URS) 90m10(OR)
 DEC ビル・トゥーミー(USA) 8193p.(OR)



<女子>
   100m ワイオミア・タイアス(USA) 11"08(WR)
   200m  イレーナ・シェビンスカ(POL) 22"58(WR)
   400m コレット・ベッソン(FRA) 52"03(=OR)
   800m マデリン・マニング(USA) 2'00"92(WR)
  80mH モーリーン・ケアード(AUS) 10"39(WR)
 4×100mR アメリカ 42"88(WR)
  HJ ミロスラヴァ・レスコヴァ(CZS) 1m82
  LJ ヴィオリカ・ヴィスコポレアヌ(ROU) 6m82(WR)
  SP マルギッタ・ギュンメル(GDR) 19m61(WR)
  DT リア・マノリウ(ROU) 58m28(OR)
  JT アンゲラ・ネメト(HUN) 60m36
  PEN イングリット・ベッカー(GER) 5098p.


◆記録ラッシュを生んだ「高地」と「タータン」
前回の東京大会まで、陸上競技は「土のグラウンドで行うのが当たり前」なものでしたが、この大会で初めて導入されたのが合成樹脂製の全天候型走路―その商品名から「タータン・トラック」と呼ばれたサーフェイスのものです。
雨でぬかるむことも度重なるレースで踏み荒らされることもなく、選手はいつでも万全の状態の走路を走ることができるようになりました。
しかも、開催地のメキシコシティは標高2240mの高地で、空気が薄く、それまであまり意識されてこなかった空気抵抗というものがいかに大きいものだったかが、次々と打ち破られる記録によって示されたのです。
短距離や跳躍では、ほとんどすべての種目で世界記録が更新されるという事態になりました。前回から一部種目に導入されていた電子計時が全種目で正式採用され、これによって若干手動計時よりも「損をする」状態だったにも関わらず、です。
(なお、電子計時による100分の1秒単位の記録は当時は公表されず、10分の1秒単位の記録が「公式記録」として採用されていましたが、後年手動計時の廃止とともに、後追い式に電子計時による記録が認定されました)
男子のスプリント種目では、100m10秒、200m20秒、400m44秒というそれぞれの「壁」が、いともあっさりと突き破られてしまいました。

とりわけ世界を驚かせたのは、男子走幅跳でダークホースと目されていたボブ・ビーモンが最初の跳躍で跳んだ「8m90」という大記録でした。
表示された記録を見てその場に泣き崩れたビーモンは、2回目の8m04の後はもう跳ぶことを辞めてしまい、他の選手は毒気を抜かれたといったていでまるで記録を伸ばせず、2位との差は何と71センチもついてしまいました。
「21世紀まで破られない」と言われたビーモンの大記録はしかし、1991年の東京世界選手権で、マイク・パウエル(USA)によって5センチ更新されることになります。とは言っても、現在でも8m30を超えるあたりがビッグゲームの優勝ラインとなっていることからすると、いかに驚異的な記録だったかが偲ばれます。

男子三段跳でも、予選から17m03の世界記録が破られ、決勝ではさらに3度にわたって更新された挙句、ソ連のヴィクトル・サネイエフが6回目に17m39を叩き出して逆転、オリンピック3連覇へのスタートを切ることになりました。最終的には6位までが17mをオーバーし、これには世界記録保持者で3連覇を狙っていたヨーゼフ・シュミット(POL)も、自身のオリンピック記録は超えたものの7位に終わり、お手上げの状態でした。

棒高跳では東京大会の前からポールの材質研究が急速に進み、釣り竿メーカーが参入して開発されたグラスファイバー・ポールの普及によって記録が飛躍的に向上していました。前回フレッド・ハンセン(USA)が死闘の末に記録した5m10のオリンピック記録を11位の丹羽清(法大)までが更新し、優勝争いは5m40をクリアするところまで進んだのです。僅かに試技数の差でボブ・シーグレンが優勝し、アメリカのオリンピック不敗・16連覇を死守しました。




◆「高地民族」見参!

標高の高い場所で開催されたメキシコシティ・オリンピックでは、一転して中長距離走では全く異なる様相の戦いが繰り広げられました。ケニア、エチオピアという東アフリカの高原で暮らすアスリートたちが、突如として世界の頂点に躍り出てきたのです。

初日に行われた男子10000m決勝では、多くの選手が少ない酸素にもがき苦しむ中、最後の1周ではナフタリ・テム(KEN)とマモ・ウォルデ(ETH)が400mレースのようなスパート合戦を演じ、短距離や跳躍の記録ラッシュとはまた違った意味で、世界中を驚かせました。
オーストラリアの長距離王ロン・クラークをはじめ、ゴールした後に倒れ込んで酸素吸入を受ける選手が続出。クラークは5000mにも出場して5位となりましたが、高山病を発症し選手生命を絶たれることになってしまいます。(余談ですが、クラークは晩年ゴールドコーストの市長として活躍し、昨年世を去りました)

そのクラークと東京大会で激しいデッドヒートを繰り広げたモハメド・ガムーディ(TUN)は、10000mで少し遅れた3位に食い込むと、5000mではキプチョゲ・ケイノ(KEN)との接戦をものにして念願の金メダルに輝きました。チュニジアは決して高地と呼べる場所ではなく、ガムーディ自身も東京以降はヨーロッパを活動拠点にしていましたが、前回の悔しさをバネに持ち前のスプリントに磨きをかけた結果、と言えるでしょう。

そのガムーディをガチンコのラスト勝負で破ったこともある澤木啓祐が、この大会では最も期待された日本勢の一人でしたが、高地への対応ができず、またスタート直後の密集の中でスパイクされたこともあって、いいところなく惨敗しました。同じ10000mのレースを走っていたのが、後にダイハツ女子陸上部監督や競歩の山崎勇喜のコーチとして名を挙げる鈴木従道でした。

10000mでラスト1周まで同僚・テムのペースメーカーとして集団を引っ張り、5000mでは僅差の銀メダルを獲得したケイノは、アフリカ勢の中では唯一と言ってよいほど、平地でも実績を積み上げてきた優勝候補の一角でした。ケイノはさらに、終盤に行われた1500mにも登場し、大本命とされていたジム・ライアン(USA)を破って金メダルを獲得しました。4年後のミュンヘン大会では3000mSCに優勝し、ケニア陸上界最大の英雄として長く人気を誇ったケイノは、現在のケニア・オリンピック委員会の会長であり、その名は同国のナショナルスタジアムに冠されているほどです。

最も驚かされたのは、3000mSCでした。ビウォット、コーゴという2人のケニア人選手が、水壕障害を軽々と跳び越え、足を濡らすことなくグングンと他を引き離してワン・ツーを決めたのです。「ケニアのお家芸」となる、伝説の始まりでした。
思えば、高地で開催という恩恵も確かにあったのでしょうが、ちょうど時を同じくして、ケニアという特異な国のアスリートが掛け値なしにその真価を発揮し始めたのがこの大会だった、と言えるのではないでしょうか。

そして、高地勢のトリを務めたのがエチオピアにマラソン3連覇をもたらしたマモ・ウォルデでした。10000mの再現とばかりにテムとのデッドヒートの末にこれを振り切ったマモは、17km地点で故障のため棄権したアベベの代わりに独走態勢を築き、2位の君原健二に3分の大差をつけて優勝したのです。
日本国内の代表選考ですったもんだがあった君原でしたが、この年の1月に突如自ら命を絶った円谷幸吉の遺影に固く誓った「日の丸」の約束を、堂々と果たしてみせました。選考会の成績では明らかに上位だった采谷義秋を措いてまで、君原の耐久力と精神力を買って代表にした陸連の判断もまた、報われたというわけです。


◆初めて「背面跳び」をやった男

男子走高跳は、自ら開発した「フォスベリー・フロップ=背面跳び」を駆使するディック・フォスベリーがオリンピック新記録で優勝しました。
当時HJの主流跳躍法は「ベリーロール」という跳び方でしたが、これを苦手としていたフォスベリーは、昔ながらの「正面跳び(シザース・ジャンプ)」で跳ぶ平凡なジャンパーでした。ある日、シザースの形が崩れて背中から跳ぶような体勢になったことに閃きを得て、この跳び方を考案し、ブラッシュアップしたのだそうです。
背面跳びは用具(着地用マット)の進歩とともに瞬く間に世界中に広まり、その運動力学的優位性が確かなものになると、やがて他の跳び方を駆逐してしまいました。
いま私たちが目にしているハイジャンプのフォームは、こうして半世紀前に生み出されたものだったのです。


◆偉大な女性スプリンター
快記録や高地勢の活躍に沸いた男子に比べ、女子は少々印象が薄い感がありますが、それでもかなりの世界新記録が誕生しています。
前回の東京大会で「スプリント個人3冠」を唯一達成したベティ・カスバート(AUS)を紹介しましたが、これに匹敵する偉業に挑む選手が現れました。200mを世界新で制したポーランドのイレーナ・シェビンスカです。
18歳で出場した東京大会では旧姓のイレーナ・キルシェンシュタインとして、200mと走幅跳で銀メダル、400mリレーで金メダルのメンバーとなっていた彼女は、メキシコシティでは100mで銅メダル、200mで金メダル。さらにミュンヘン大会では200mで銅メダルを獲りましたが100mは準決勝で敗れ、年齢的な衰えを指摘されるようになります。しかし30歳になったモントリオール大会では400mに出場して見事金メダル。
結局、5つの種目で金3、銀2、銅2というメダル・コレクターぶりは、カスバートや往年のファニー・ブランカース・クン(NED)にも勝るオリンピック史上の名スプリンターと言って間違いないでしょう。


【短期集中連載】オリンピック回想 ①~1964年東京大会



リオ・オリンピックの陸上競技開始まで、あと2週間。
そこで、私がTVを通してリアルタイムで見た過去のオリンピックの思い出話を、古い順にご紹介したいと思います。
1964年の東京オリンピックは、ちょうど私が小学生になった年に開催されました。
スポーツ競技というものも、陸上競技というものもまったく知らずにいきなり出くわしたこの“世紀の祭典”にすっかり魅せられた私は、以後半世紀以上にわたって無類の「オリンピックおたく」「陸上競技マニア」という人生を送るハメになるのですが、そうした年齢的な巡り合せのせいか、私の世代にはオリンピックが大好きだという人が少なくないように思われます。また、国際的なスポーツ大会など見たことがなかったという意味では、当時の大人たちも似たり寄ったりでしたから、日本人のオリンピック好きはここに原点がある、と言ってもよいのではないでしょうか。


◆種目別金メダリストと記録、主な日本選手成績
*URSは「ソビエト連邦」、GERは「東西統一ドイツ」。当時入賞は6位まで。
<男子>
   100m ボブ・ヘイズ(USA) 10"0(=WR/OR) ※飯島秀雄:準決勝敗退
   200m  ヘンリー・カー(USA) 20"3(OR)
   400m マイク・ララビー(USA) 45"1
   800m ピーター・スネル(NZL) 1'45"1(OR) ※森本葵:準決勝敗退
  1500m ピーター・スネル(NZL) 3'38"1
  5000m ボブ・シュール(USA) 13'48"8
 10000m ビリー・ミルズ(USA) 28'24"4(OR) ※円谷幸吉:6位入賞
 110mH ヘイズ・ジョーンズ(USA) 13"6
 400mH ウォーレン・コーリー(USA) 49"6
 3000mSC ガストン・ローランツ(BEL) 8'30"8(OR)
 4×100mR アメリカ 39"0 ※日本:準決勝敗退
 4×400mR アメリカ 3'00"7
 マラソン アベベ・ビキラ(ETH) 2:12'11"2(WR) ※円谷幸吉:銅メダル 君原健二:8位 寺沢徹:15位
 20kmW ケネス・マシューズ(GBR) 1:29'34"(OR)
 50kmW アブドン・パミッチ(ITA) 4:11'12"4(WR)
 HJ ワレリー・ブルメル(URS) 2m18(OR)
 PV フレッド・ハンセン(USA) 5m10(OR)
 LJ リン・デーヴィス(GBR) 8m07 ※山田宏臣:決勝9位
 TJ ヨーゼフ・シュミット(POL) 16m85(OR) ※岡崎高之:決勝10位
 SP ダラス・ロング(USA) 20m33(OR)
 DT アル・オーター(USA) 61m00(OR)
 HT ロムアルト・クリム(URS) 69m74(OR) ※菅原武男:決勝13位
 JT パウリ・ネバラ(FIN) 82m66
 DEC ヴィリー・ホルドルフ(GER) 7887p.

<女子>
   100m ワイオミア・タイアス(USA) 11"4
   200m  エディス・マガイアー(USA) 23"0(OR)
   400m ベティ・カスバート(AUS) 52"0(OR)
   800m アン・パッカー(GBR) 2'01"1(WR)
  80mH カリン・バルツァー(GER) 10"5(=WR/OR) ※依田郁子:5位入賞
 4×100mR ポーランド 43"6(WR)
  HJ イオランダ・バラシュ(HUN) 1m90(OR)
  LJ メアリー・ランド(GBR) 6m76(WR)
  SP タマラ・プレス(URS) 18m14(OR)
  DT タマラ・プレス(URS) 57m27(OR)
  JT ミハエラ・ペネス(ROU) 60m54 ※佐藤弘子:決勝7位 片山美佐子:決勝11位
  PEN イリーナ・プレス(URS) 5246p.(WR)


◆スター選手たちの光と影
この大会のハイライトは、何といっても序盤のボブ・ヘイズ、最終盤のアベベ・ビキラという2人のスーパースターだったでしょう。
ヘイズについては別の稿でも触れましたように、100m準決勝で9秒9を記録しながら追風参考、決勝ではこの大会で初めて採用された電子計時のために10秒0の世界タイ記録に留まりましたが、バックアップの手動計時では9秒9。いわば2度にわたって史上初の「幻の9秒台」をマークしたことになります。
男子100mではこの年のWLになる10秒1の日本新記録を出していた飯島秀雄選手に期待が集まりましたが、雨中の1次予選、2次予選は順調に通過したものの、準決勝ではタイムを落として7着。師匠である吉岡隆徳さん以来の決勝進出はなりませんでした。

アベベ・ビキラは、まったく無名だった4年前のローマ大会で、裸足で出場して世界最高記録での優勝を飾り、現在のマラソン王国エチオピアのパイオニアとなった選手です。ところが東京大会の直前に盲腸炎の手術をするという緊急事態に、「裸足の王様」の物語とともに動向が注目されていました。
レースはオーストラリアのロン・クラークが驚異的なハイペースを作り、折り返し手前でこれを振り切ったアベベの独走となり、ローマの記録を3分以上も縮める驚異的記録で優勝、ゴール直後にはフィールドで柔軟体操をする余裕を見せました。
日本勢は、2年前にアベベの世界記録を破った寺沢徹、前年のプレオリンピックで2位に入り、選考会で優勝した君原健二にメダルの期待が集まり、3月にトラックから転向したばかりのスピードランナー円谷幸吉も10000mで入賞した余勢を駆っての活躍が期待されました。結果は、円谷がアベベに次ぐ2位で競技場に現れ、惜しくもB.ヒートリー(GBR)に抜かれはしたもののみごと3位銅メダルを獲得した、あまりにも有名なシーンとなりました。

日本勢で入賞を果たしたのは、この円谷の2種目と、女子80mハードルの依田郁子のみ。依田は予選・準決勝をともに2位で通過し、世界記録に0.1秒と迫る10秒6の持ちタイムからもメダルが期待され、スタートよく最初のハードルをトップで越えたところで場内の興奮は上がりましたが、結局5位となりました。
スタート前に、自分のレーンを竹ぼうきで掃き清め、ジャージを脱ぐとでんぐり返し、逆立ち。こめかみと首筋にサロメチール軟膏をベッタリと塗り付け、レモンをガブリと齧ってレーン表示台に置く…こうした一連の“儀式”は「依田劇場」と呼ばれ、当時では珍しい個性的なパフォーマンスでした。

さて、ここに挙げた、東京大会の陸上競技を象徴するかのような内外のスター選手たちが、その後たどった人生には何やら運命共同体のようなものを感じてしまいます。
ヘイズはプロフットボウラーに転向して快速WRとしてスーパーボウルにも出場するなど相当の活躍をしましたが、麻薬取締法違反で逮捕・服役。同じ100mを走った飯島は、メキシコシティ大会の後にプロ野球入りして代走専門選手として活躍。引退後に交通人身事故を起こしてやはり服役しました。
マラソンの王者・アベベは3連覇に挑んだメキシコシティ大会で途中棄権に終わった直後、交通事故で半身不随となり、それでもパラリンピックなどに元気な姿を見せていた時期もありましたが、1973年に病死。
円谷選手は現役中の1968年、依田選手は引退して幸せな結婚生活を送っていたかに見えた83年、ともに自殺を遂げています。


◆名勝負・名選手・偉大な記録・・・

円谷選手が健闘した男子10000mは、最初の決勝種目であり、私がテレビを通して初めて「陸上競技」というものに接したレースでした。

当時世界記録を持っていたロン・クラークは「オーストラリアの長距離王」と呼ばれ、この後を含め3000m、5000m、10000mの世界記録を何度も更新し、10000mでは史上初の27分台ランナーとなった選手ですが、速いペースで突っ走ることは得意でもラスト勝負のスプリント力に難があるため、大きな大会ではなかなか勝つことができませんでした。そのクラークが、当時の世界記録にも迫ろうかという速い展開に持ち込み「してやったり」と考えたというこのレース、しかし最後まで食らいついて離れなかったのがモハメド・ガムーディ(TUN)とビリー・ミルズ。いずれも、レース前は決して下馬評に上るような存在ではありませんでした。
この3者が演じたラスト1周のデッドヒートは、陸上競技のオープニングを飾るにふさわしい名勝負となり、2度にわたって外に弾き飛ばされかけながら逆転したミルズの走りは、アメリカ・インディアンゆえにいわれのない差別を受け続けたそれまでの経緯などを絡めて、後年映画にもなったほどです。
私にとっても、「陸上マニア」への道を決定づけた、はじめての名勝負でした。

棒高跳の9時間超に及ぶ「死闘」は、決勝進出者が19名もいたことと時間制限がより悠長だった当時のルールゆえですが、最後の跳躍で逆転優勝を決めたハンセンは、これでオリンピック棒高跳でのアメリカの不敗記録(15大会すべてで優勝)を守ったことになります。この熱戦の様子を実況アナウンサーだった羽佐間正雄氏が記したエッセイは、学校の教科書にも採用されたほどに、ドラマチックなゲームとして語り継がれたものです。

女子の種目は当時、ずいぶんと少なかったことが分かります。
この中でも、400mはこの大会から採用された新種目で、800mも前大会から復活したばかりでした。(戦前、人見絹江さんが銀メダルを獲得したレースで「800mは女性にとってあまりにも過酷」ということになり、長い間廃止されていたのです)
その400mで大本命のアン・パッカーを破って優勝したベティ・カスバートは、8年前の地元メルボルン大会で100m、200mの2冠を制しており、「短距離個人3種目制覇」というオリンピック陸上競技史上後にも先にもない偉大な記録を、8年越しで達成しました。
なお敗れたパッカーは、「専門外」の800mでこれまた見事に優勝し、ゴールを駆け抜けたその脚で招集所付近で見守っていた婚約者の胸に飛び込むという、微笑ましい姿で話題になりました。

大記録と言えば、男子円盤投を制したアル・オーターはこれで陸上競技では初となるオリンピック3連覇。次のメキシコシティで、前人未到の偉業に挑むことになります。

その他では、女子砲丸投と円盤投の2冠を制し「女大鵬」と呼ばれたタマラ・プレスと、小柄ながら五種競技(当時は七種ではなかったんですね)に優勝し80mHと砲丸投でも入賞したイリーナ・プレスのプレス姉妹、当時中長距離界に旋風を起こしていたニュージーランド式指導法の申し子だったピーター・スネル、膝の手術を克服して三段跳連覇を達成したヨーゼフ・シュミットなどが話題を集めました。


 
ギャラリー
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