豊大先生流・陸上競技のミカタ

陸上競技を見続けて半世紀。「かけっこ」をこよなく愛するオヤジの長文日記です。 (2016年6月9日開設)

メアリー・デッカー

田中希実とメアリー・デッカー…37年の時空を想う



改めて。
田中希実選手(豊田自動織機TC)が『ホクレン・ディスタンスチャレンジ2020』
7月4日、第1戦士別大会1500mで日本歴代2位の4分08秒68、
7月8日、第2戦深川大会3000mでは18年ぶりの日本新記録となる8分41秒35で、
在日外国人選手有数の強豪ヘレン・エカラレ(豊田自動織機)を破って連勝を飾りました。
加えて、12日には兵庫選手権の800mに出場して2分04秒66の兵庫新記録。その前日には豪雨のため中止とはなったものの、1500mの出場も予定していました。これで、15日にはホクレン第3戦の5000mで14分台の自己記録を狙い、18日には3000mで再度の日本新を目論むというのですから、そのハードワークには驚きます。

連戦と種目のマルチぶりについてはさて置き、しばし「1500mと3000m」という話題で、たまたま本ブログにちょっとした偶然の暗合があったものですから、それについて書いてみます。

7月7日に投稿したばかりの『1983年世界陸上競技選手権ヘルシンキ大会』の記事で、大会のヒロインの一人となったメアリー・デッカー選手(USA)について紹介しました。
http://www.hohdaisense-athletics.com/archives/35487640.html
1983HELSINKI09
デッカーはこの大会で、当時のトラック女子最長距離種目だった3000m、続いて1500mを制して2冠女王となり、一躍世界のスター選手として脚光を浴びました。そのレース・スタイルは、徹底した先行逃げ粘り。「私の前を走るのは許さない!」絶対に先頭を渡してなるものかという強気なレースぶりが、人気の理由でもありました。
その優勝タイムは、
1500m 4分00秒90
3000m 8分34秒62
これが37年前の現実です。田中選手の大活躍に水を差すつもりはないのですが、いやー、まだまだ世界は遥か彼方ですね。
いま、2020年の時点で眺めてみると、現在の日本記録がこの大会の優勝記録を上回っている種目は、女子ではマラソンを除き、残念ながら1つもありません。5000m・10000mといった種目があれままた、話は違ってくるでしょうが、前述のように3000mがトラックの最長距離種目でした。銅メダル、というところへハードルを下げてみても、上回るのは走高跳1種目のみ、その走高跳も2001年にようやく83年の銅メダル記録を1㎝上回った後、日本記録の方はまったく更新の気配が見られません。

一方の男子はというと、規格の変わったやり投を除く23種目中、15種目で現在の日本記録が上回っています。
象徴的なのが、長年「世界との距離」を思い知らされてきたスプリント種目で、100mではカール・ルイスの優勝タイムが10秒07(-0.3)。これは近年の日本選手権とほぼ同レベル、と見ることができます。また当時の“高地記録”を除いた世界最高記録が、同じくルイスの9秒97(+1.5)。現在の日本記録がサニブラウン・ハキームの9秒97(+0.8)で、ちょうど「30数年前の世界レベルに追いついた」状況となっています。(やっとそんなもんか、という気もしますけど…)
400mリレーでは、9秒台を2人(ルイス、カルヴィン・スミス)擁したアメリカの優勝記録が37秒86の当時世界新記録。これは2019年の日本チームが同じく9秒台2人(桐生祥秀、サニブラウン)を擁して37秒43と、バトンワークの優位性を物語るように大きく上回っています。
ちなみに、男子でまだ上回れていない種目は、800m・400mH・3000mSC・走幅跳・三段跳・砲丸投・円盤投・十種競技の8つです。
※十種競技もやり投を含んでいるため厳密には現行記録と比較はできないが、現日本記録と83年の優勝記録との隔たりが大きいため、明らかに優劣が判断できるものとしています。

以上のことには、1980年代の陸上競技の記録が東欧圏の選手群を中心とした「推定ドーピング疑惑」に塗れており、その兆候が女子に於いてより顕著だという特殊な事情も関係していると思われますが、本質的には日本の女子アスリートのレベルアップが甚だしく遅れている、もしくはマラソン1種目に特化されている、という厳しい事実の記録的な裏付けだと、解釈されましょう。
日本女性の競技力の向上ぶりは、他のさまざまな競技を見る限りは実に目覚ましいものがあって、近年のオリンピックでの日本選手団の成果は、圧倒的に女子選手による活躍の話題で彩られています。そうした中で、陸上競技だけがいつまで経ってもカヤの外、という状況が、何とも寂しく、もどかしい。どうにかならないものか、というのが陸上ファンの切なる気持ちとしてわだかまり続けているのです。

マラソンを別にすると、オリンピックの歴史上で陸上のメダルを獲得した日本人女性は、人見絹枝さんのみ。(1928年アムステルダム大会800m銀メダル)
同じく世界選手権では、千葉真子さんだけです。(1997年アテネ大会10000m銅メダル)
入賞ということでさえ、指を折って数えるほどしかありません。
子供時代から長期にわたって陸上競技に打ち込む環境、特に文化的な環境が、日本人女性の場合他の様々な要因によって整い切らないという事情があるかもしれません。あるいは、全般的な指導法や組織的な強化方法に、何らかの改革が求められるのではないか、とも言えるでしょう。一概に比較は難しいとはいえ、近年日本人女性が躍進を遂げた多くの競技(スピードスケート、アイスホッケー、バドミントン、自転車、新体操等々)に於いて、外国人指導者の起用や強化体制の見直しが劇的に作用した例があることは、見習うまで行かずとも十分に検討するに値することです。端的なエピソードとしては、MGC方式の考案によって、低迷が続いた男女マラソン界にも一挙に活気が戻りつつある、という身近な実例もあります。

もう一つ、特に中長距離走に於いて確かに言えることは、記録に対する、というより自己実現に対する必要不可欠の要素は、「前へ、前へ!」の姿勢だということです。
ケニア人やエチオピア人ランナーのような柔軟かつ鋭利なスピードを駆使したレースを望むべくもない日本人女子選手が、世界と戦うために採るべき選択肢は、速いペースで押し切る力と最後の粘り腰を磨くこと以外は、今のところありません。ペースメーカーには、「風よけ」以外の使い道を考えるべきではないでしょう。
それを体現しようとしている数少ない選手が田中希実選手であり、新谷仁美選手であり、廣中璃梨佳選手なのです。千葉真子さんもまた、然り。そして、もちろんメアリー・デッカーも。

女子のトラック&フィールドが躍進するためには、技術的にか戦術的にか、精神的にか文化的にか、何らかの改革が必要なことは確かです。その先鞭をつけるべきは、やはり創意と工夫と地道な努力の余地が多く残されている中長距離から、ということになるでしょう。
田中選手には、ぜひその急先鋒となっていただきたいと思います。ホクレン第3戦の網走大会5000m、今度はヘレン・エカラレだけではなく、在日ケニア勢が大挙して相手になります。先頭に立つか否かは相手次第。期するところは頑なに1周72秒。ラスト1000を2分50秒。それだけでいい。

連載「懐かしVHS時代の陸上競技」#7 ~1983ヘルシンキ世界選手権



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私が初めてビデオデッキなるものを購入したのが1982年のこと。第1号機は、都内市ヶ谷にショールームがあったS社との取引関係のご縁から、展示品を安価で払い下げていただいたもので、3倍速機能も付いてなくて5万円ほどだったと記憶しています。
当時は何しろテープが高価でねえ…。確か120分のが4,000円、画質にこだわるてえと120HG(120分ハイグレード)が4,500円とかで、近所のディスカウントショップで4割引きくらいのを月に2~3本買えるかな、という感じでしたかね。(今回発掘作業を進める中で、やはりHGテープの方が保存状態がよろしいことが分かります。また、メーカーによってもかなり違いますね。テープそのものもさることながら、カセットフレームの性能に差が出ます)
だから、録画したテープを残すか、上書きするか、また不要なCMなどをいかにして省くか、といったことに随分気を遣いながら、ここぞという番組を失敗しないように、神経張りつめて録画してたような覚えがあります。
ハードディスク録画となった現在では、たとえばオリンピックの期間中なんかはほとんど全競技・全種目を録画しまくってます(17日間で軽く1TB超^^)けど、テープ4,000円時代はそういうわけにもいかず、1984年のサラエボおよびロサンゼルス五輪なんかでも、録画するもの、しないものを慎重に計画立てたり、ポーズボタン使いまくって節約したり、期間中にデッキ2台でダビング編集して録画時間の余白を増やしたりと、仕事の傍ら大忙しでした。
本連載の第1~2回でご紹介した1997年世界選手権の頃になると、同じ120HGのテープが200~300円で買えるようになってましたから、状況は随分変わってましたね。その分、残したテープは積み重ねれば何十本も天井まで届くくらいに膨大なものになってしまいましたが。

てなわけで、今回は、おそらく私が所蔵しているVHSテープの中でも最古の部類に入る、1983年モノです。保存状態まあまあ良好。
現在2年ごとに開催されている『世界陸上競技選手権』は、この時が第1回大会で、第3回の1991東京大会までは、オリンピックの前年、4年ごとの開催でした。昨年のドーハ大会が、第17回ということになります。開催地はいにしえの長距離大国、その後やり投王国となったフィンランドはヘルシンキ。2005年の第10回大会と併せ、2度世界選手権を開催した唯一の都市となっています。
意外なことに、オリンピックの基幹競技である陸上競技と競泳は世界選手権の歴史が浅く、競泳のほうは1974年に第1回が行われています。陸上ではオリンピックを別にすると世界的なチャンピオンシップ大会という発想が久しくなくて、1970年代に至り国・地域別対抗形式の『ワールドカップ』(現コンチネンタルカップ)が最高峰の大会として行われるようになり、83年にようやく世界選手権の開催にこぎつけたわけです。

そして、中継放送はテレビ朝日系列。『世界陸上』の中継はこの大会限りで、第2回から第5回までは日本テレビ、第6回以降はTBSへと変遷します。(早く次の変遷、カモン!)
かつて「日本教育テレビ」転じて「NET」と称していた頃のテレビ朝日はスポーツ番組が弱く、アントニオ猪木をメインとするプロレス中継と、「キンシャサの奇跡」以降のモハメド・アリの試合などが目玉だったなあという記憶しかありません。プロ野球中継などもほとんどなかったですし。それが、組織・社名を一新した記念事業としてぶち上げた1980モスクワ五輪の独占放送権獲得で、陸上・競泳をはじめアマチュア・スポーツ番組の開拓にも力を入れるようになりました。肝心のモスクワは日本の不参加という悲劇に泣きましたが、それまでの準備期間で培ったノウハウは無駄にはならず、この世界選手権にも十分活かされています。
今回発掘したテープは、おそらく年末に放送された総集編(約85分)で、『’83ことし世界が沸いた!三大スポーツイベント名勝負名場面・第2部』というタイトルが付いています。(他の2つが何だったのか…やはり第1回開催となった『福岡国際柔道』とゴルフの全英オープンあたりでしょうか)
大会実施期間中に録画したものもどこかに断片的に残っているような気がしますが、今のところ見つかっていません。
実況担当は、三好康之・東出甫のスポーツアナ2枚看板(ご両人とも故人)ほか。解説は、当時陸連の重鎮だった佐々木秀幸さんなどが務めています。総集編につき、小宮悦子アナによるナレーションも付いてます。

◇女子マラソン
翌年のロスでオリンピック初採用となった女子マラソンで、それに先駆けて初代世界チャンピオンが誕生しました。29歳のグレテ・ワイツ(NOR)、タイムは2時間28分09秒。ロスでは圧勝したジョーン・ベノイト(USA)に次ぐ銀メダルでした。(ベノイトはヘルシンキ不参加)
番組では同年の『東京国際女子マラソン』のハイライトを挟む形で構成してあり、こちらの方では佐々木七恵(エスビー食品)が第5回にして日本人選手初優勝。世界選手権には佐々木や増田明美の出場はなく、田島三枝子(旭化成)31位、金子るみ子(住金鹿島)49位という成績でした。当時高卒ルーキーの金子はスタート直後しばらく果敢に先頭を引っ張って、見せ場を作っています。
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仲良く給水ボトルをシェアするワイツとジュリー・ブラウン(USA)。
右端は銅メダルのライサ・スメフノワ(URS)


◇男子マラソン
女子と同じく、同年の『福岡国際マラソン』のハイライト映像(この年の中継局はNHKだがテレ朝の独自実況入り)を挟んでいます。こちらは記憶にも鮮やかな瀬古利彦の必殺スパート。エスビー食品のアベック制覇ですね。
世界選手権の初代チャンピオンは、当時世界最強の評価を瀬古と分け合っていたロバート・ド・キャステラ(AUS)で、2位バルチャ(ETH)に24秒差での快勝。オリンピック連覇のワルデマール・チェルピンスキー(GDR)が3位に入っています。スタート時のヘルシンキは気温15度と涼しい条件で、優勝タイムの2時間10分03秒は20年間大会記録として残りました。
世界一の陣容を誇っていた日本勢は、トップランカーが真夏の世界選手権を敬遠する傾向が長く続き、この大会では西村義弘(新日鉄大分)=35位、喜多秀喜(神戸製鋼)=42位、川口孝志郎(中京高教員)=DNFという結果に終わっています。

◇女子100m
1977年に女子で初めて11秒の壁を突破し、この年6月に10秒81まで更新したマルリース・ゲール、今なお400mの世界記録保持者に君臨するマリタ・コッホ(ともにGDR)、7月にゲールの記録を0.02秒上回ったエヴェリン・アシュフォード(USA)の「3強」対決。
アシュフォードは予選の段階からゴール後に脚を引きずるシーンがあり(この番組、放送時間の都合で採録種目数は限られていますが、一つ一つをかなり濃密に盛り込んでいます。ダイジェスト版にしては珍しく、レース前後の選手の表情などにもかなり時間を割いた編集です)、実況の三好アナが思わず放送禁止用語でその様子を伝えています。
迎えた決勝は、2レーンにアシュフォード、4レーンにコッホ、8レーンにゲール。懸念が的中してしまい、アシュフォードは30mほどの処でいったん跳び上がるようにしてから倒れて無念のDNF。アウトコースから鋭く伸びたゲールが、同僚コッホを0.05秒制して10秒97で優勝しました。
70~80年代、女子のスプリントは東ドイツ勢が圧倒的な強さを誇っていましたが、意外なことにゲール(旧姓エルスナー)が個人種目の世界タイトルを手にしたのは、この1回限りです。(ワールドカップでは2回優勝)

◇男子100m/走幅跳/4×100mリレー
世界陸上競技選手権の歴史が、20世紀を代表するアスリートであるカール・ルイス(USA)およびセルゲイ・ブブカ(URS→UKR)の輝かしい足跡の第1歩とともに始まったのは、実に運命的なものを感じます。以後、10数年の長きにわたってこの両者は、世界選手権およびオリンピックの看板選手であり続けることになります。(今回の映像では、ブブカの棒高跳は収録されていません)

1981年、19歳で低地での男子100m世界最高記録となる10秒00(0.0)をマークしたルイスは、83年を迎えて全米選手権で100、200、走幅跳の三冠を達成、「ジェシー・オーエンスの再来」と世界の注目を集め、100mでは高地以外で初めて10秒の壁を破る9秒97(+1.5)を叩き出しました。
1968年に高地メキシコシティで10秒の壁が破られてからというもの、男子100mではブレイクスルー現象が起こらず、久しく記録の停滞が続いていました。それがルイスの登場によって一気に動き出すと、7月には高地コロラドスプリングスでカルヴィン・スミス(USA)が9秒93(+1.4)の世界新記録を出して、対抗勢力に名乗りを上げます。
このスミスをはじめ、ベン・ジョンソン(CAN)やリロイ・バレル、ジョー・デローチ、マイク・パウエル(以上USA)といった強いライバルたちに恵まれたことが、ルイス伝説を一層華やかなものにしています。
カールことフレデリック・カールトン・ルイス。1961年7月1日生まれ。188㎝/77㎏。均整の取れた彫刻を思わせる体型に愛嬌たっぷりの表情は、見てくれだけでもスター選手の登場を思わせるものでした。陸上選手に「スーパースター」の称号が付与されたのも、勝って国旗を手に“ウィニング・ラン”を行った(翌年のロス五輪)のも、彼が初めてではないでしょうか。

100mでは、予選から通じて、のっそりとした鈍重なスタートから終盤30mくらいで一気に加速、圧倒した後は横を見ながら流す、というレースパターンで悠々と勝ち上がり。本気の決勝は3レーンで中盤からシフトアップすると、あっという間に8レーンのスミスを置き去りにしました。記録は10秒07(-0.3)、2位スミス10秒21、3位エミット・キング10秒24で、アメリカの上位独占です。
4位はモスクワ五輪覇者のアラン・ウェルズ(GBR)。彼を含め、決勝のスタートに白人選手が3人並んでいたことが、時代を感じさせます。また、ベン・ジョンソンは10秒44で準決勝敗退しています。
この大会でルイスは200mにエントリーせず、オーエンス以来の「4冠」への期待は、翌年のロス五輪へと持ち越されました。200はスミスが20秒14(+1.2)で制し、第2回ローマ大会でも連覇を飾っています。

この大会は今から見ると非常に変則的なタイム・スケジュールで、男子スプリント系は最初の2日間で100m決勝までを行った後、3日目に走幅跳と400mリレー予選、4日目に同準決勝と男子400mリレーが同時進行の後にリレー決勝、大会6~8日目に200mとなっています。
三冠を狙うルイスの思惑とは裏腹に、「LJとリレーの掛け持ちはない」ものと前提したかのような編成で、これはルイスのみならず困った選手は多かったでしょう。
しかもリレーの準決勝とLJ決勝の1回目が完全に重なる進行となってしまい、すでに準決勝のオーダーが確定していたルイスは、LJ役員とのスッタモンダの交渉劇の末に何とか試技順の変更を了承させ慌てて第4コーナーに向かう、という一幕がありました。
その1回目で、ジャストミートの踏切りから8m55(+1.2)の大ジャンプ。放送席からは「9メートルラインに仁王立ち!」の名実況が飛び出します。これで優勝を確実にしたルイスは3回目以降のジャンプを棄権して、リレーの決勝へ。
400mリレーでは、「スミス→ルイス」の黄金バトンパスが決まって、WR37秒86での圧勝、難なく3つ目の金メダルを手中にしました。
ちなみにアメリカは、LJでも表彰台独占、200mでも世界記録保持者ピエトロ・メンネア(ITA)の銅メダルを許したのみで金銀独占。68年のメキシコシティ以来、久々にスプリント王国の威信を取り戻す大会となったのです。
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ルイス、9mラインに仁王立ち!


◇女子やり投

フィンランドの国技とも言えるやり投。その象徴は、スタジアムの一角に設けられた高さ72m71の塔で、1932ロス五輪で金メダルに輝いたマッティ・ヤルヴィネンの優勝記録に因むものです。ちょうど、旧国立競技場にあった「織田ポール」と同じようなモニュメントですね。
しかし男子では、1人が予選落ちして決勝に残った2人も4投目以降に進めずという惨敗に終わって、いよいよ期待は国民的アイドル・スロワーのティーナ・リラクにかかってきました。リラクはこの時22歳、直前の6月に、74m76の世界新記録を投擲しています。
1投目で優勝候補のファティマ・ホィットブレッド(GBR)が69m14で先行し、リラクは67m34で追走。5投目にリラクが僅かに記録を伸ばした以外はこのままの状況で最終投擲まで推移します。当時は現在のものより「飛ぶ」やりを使っており、リラク自身は「優勝記録は78m」とまで予想していたほどですから、意外に低レベルの優勝争いとなっていました。
そして6投目。投擲選手としては華奢な身体つき、日本で言う「聖子ちゃんカット」のような髪型のリラクがピットに立つと、場内は「ティーナ、ティーナ…」の大合唱に包まれます。その中、渾身の力を込めたやりが大きな弧を描くと、それが70mラインの向こう側に落下するかしないかのうちに、逆転勝利を確信したリラクがもうトラックの方へ走り出していました。
大会7日目にして、会場が最も興奮の坩堝と化したひと時です。見ている当方も、興奮しました。
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大会随一のヒロインとなったティーナ・リラク

◇男子走高跳
ティーナ・コールの大歓声にすっかり調子を狂わされてしまった、と言われたのが、同時進行で行われていた男子HJの世界記録保持者、朱建華(チュ・ジャンファ=CHN)。スポーツの国際舞台に復帰して間がなかった中国で、初めて現れた世界的陸上選手です。
6月に2m37を跳び、大会後の9月には38、翌年には39と記録を更新した朱はこの大会でも間違いなく大本命でしたが、いつまでも続く場内の興奮に集中力を失ったか、2m32を跳べずに3位に甘んじました。優勝は、その2m32を成功したゲンナジー・アヴディエンコ(URS)です。

◇女子走高跳
この頃、プロレス風に言うなら「名勝負数え唄」を演じていたのが、女子HJのウルリケ・マイファルト(GER)とタマラ・ブィコワ(URS)です。
マイファルトは無名の16歳で出場した1972ミュンヘン・オリンピックで、1m92の世界タイ記録で優勝。一躍地元のヒロインとなるとともに、まだ歴史の浅かった背面跳びの技術に於いて、「踏切りと同時に右手を振り上げる」という独特のフォームが注目を集めたものです。その後はずっと低迷が続いていましたが、単なる「早熟の天才少女」で終わることなく、81年のワールドカップを1m96で制して見事に「復活」。この時、同記録で2位となったのが、2歳下の新鋭ブィコワでした。
マイファルトは翌82年のヨーロッパ室内を1m99、ヨーロッパ選手権を2m02の世界新で勝ち、かつての天才少女は10年の時を経て、完全に世界のトップに返り咲きました。彼女が初代の世界チャンピオンの座を標的に捉える一方で、ブイコワは常にその後塵を拝しつつも、虎視眈々と力を蓄えます。83年3月、マイファルト不在のヨーロッパ室内で2m03の室内世界新記録。ヘルシンキでは堂々互角の立場で、初代女王の座を争うことになったのです。

1m97までをノーミスでクリアしたブィコワに対し、マイファルトは95、97に2回ずつの試技を要して劣勢でしたが、1m99を一発クリアして逆転。このあたりが名勝負に相応しいドキドキの展開です。
99を2回目で凌いだブィコワが逆に2m01を一発で成功。1回目を失敗したマイファルトは2回目を世界新となる2m03にシフトして、再逆転を狙います。(ブィコワが99の2回目をなぜ敢えて跳んだのかは、今の感覚で言うと少し謎ですね)
結局2m03は両者とも失敗に終わり、ブィコワの初代女王、対マイファルト初勝利が確定しました。
この大会後も2人のデッドヒートは続き、同年のヨーロッパカップでいずれも2m03の屋外世界新記録、試技数差でマイファルトが雪辱を果たすと、その4日後の競技会ではブィコワが2m04と記録を更新してお返し。
翌年のロス五輪での対決も楽しみでしたが、ソ連の不参加により幻となり、マイファルトが2m02のオリンピック新で、陸上界では前例のない3大会ぶり(12年ぶり)の金メダルに輝きました。2つの金メダルは、その時点での種目別最年少・最年長記録(現在の最年長記録はルース・ベイティア)でもありました。しかしながらその直前にブィコワが2m05の世界新を跳んでおり、マイファルトには一抹の敗北感があったかもしれません。
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身長188㎝、長い長い脚。実に格好良かったマイファルト。
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◇女子1500m
この大会で一躍スター選手の仲間入りを果たしたのが、3000mと1500mの2冠に輝いたアメリカの美人ランナー、メアリー・デッカーです。
ヘルシンキ世界選手権は、初めて女子マラソンを世界的に認知させる大会となりましたが、トラックの女子最長距離種目は3000m。女子では1500mですらまだ歴史が浅く、10000mは87年ローマ大会から、5000m(3000mに代わり採用)は95年イェーテボリ大会からとなります。
その、当時の感覚としては「長距離2冠」を制したデッカーの特徴は、スタートから先頭を走り続ける典型的なフロントランナー。勝負どころで他者から競りかけられても強気に先頭を譲らず、しかもゴール前でもう一度ギアチェンジができる驚異的な粘り腰があります。
このレースでも、残り半周で仕掛けたザミラ・ザイツェワ(URS)に競り合いの末いったんは抜かれますが、そこでズルズルと後退することなく、ゴール前で“二の脚”を発揮、焦ったザイツェワが捨て身のダイビング・フィニッシュを試みるも、鮮やかに再逆転してみせました。
地元のヒロインとして迎えた翌年のロス五輪では、ライバルと目されたゾーラ・バッド(GBR)との意地の張り合いが裏目と出て、両者の脚が絡まりデッカーは転倒棄権、バッドも7位に沈むという悲劇的な結末に終わりました。余談ながら、このレースの映像は昨年の大河ドラマ『いだてん』のタイトルバックに使用されていました。
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◇男子400mH
11年間、予選を含めた全てのレースで1着を譲ることがなかったハードルの帝王エドウィン・モーゼス(USA)が、圧倒的な力を示し47秒48で優勝。しかも何と、第10ハードルのところで靴紐がほどけた状態でのこの結果でした。
2着はハラルト・シュミット(GER)。モーゼスの陰に隠れて一度も世界タイトルを得ることはありませんでしたが、常にその次位を確保し続け、100を超えるモーゼスの連勝記録の前後に土をつけた選手として名を残しています。もしもモーゼスがいなければ、この時代のヨンパーの帝王として君臨していたはずです。
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◇男子3000mSC

ダイジェスト版の総集編なのに、8分半のレースをノーカット完全収録。これだけでも感動モンです。生中継の時点でCMを2回(ひどい時には3回)もぶっ込むTBSには、逆立ちしてもできない偉業ですね。
決勝進出の12人のうち、ケニア人選手は1人だけで、あとは全部白人選手です。ケニア勢の活躍は1968メキシコシティ五輪から始まっていますが、この大会と1987年ローマ大会だけは、ポツポツと穴が開いたようにメダルに絡んでいません。ただし、ヘルシンキ決勝で唯一出場した(7位)ジュリアス・コリルは、84年ロス五輪では金メダルを獲得しています。
優勝候補筆頭は、WLのヘンリー・マーシュ(USA)。いつも一人離れた最後方からレースを進める非常に個性的なランナーで、ちょうどこの年、JRA三冠馬を達成したミスターシービーという名馬のレースぶりにオーバーラップして見ていた記憶があります。
このレースでも、マーシュは予定通りに最後方から2000mを過ぎたあたりでじわじわと上位を伺い、残り1周の鐘を聞くと先行集団に上がります。渾身のラストスパートで逃げ切りを図るパトリッツ・イルク(GER)の背後を伺い、直線に入る頃には完全に金メダルを射程圏に捉えたかに見えたのですが、最終障害でまさかの転倒。そのままイルクが逃げ切って、8分15秒06の優勝。2着にはベテランのマミンスキー(POL)が入りました。
マーシュはその後も独特のレース・スタイルで面白い存在をアピールし続けますが、大試合ではロス五輪4位、ソウル五輪6位など結果を残せませんでした。イルクは翌年のロス五輪、ウィルス性疾患のため欠場しています。

◇女子砲丸投
22m45の世界記録保持者でモスクワ五輪優勝のイローナ・スルピアネク(GDR)が1投目に20m56、これを同僚のヘルマ・クノールシャイトが2投目の20m70で上回り、当時としてはやや低調な記録でそのまま推移。6回目、最終投擲者となったヘレナ・フィビンゲロヴァ(TCH)が21m05を投げて大逆転優勝です。歴代2位(現時点では3位)の22m32を持っていたフィビンゲロヴァは34歳となり峠を過ぎたかと思われていましたが、大きな身体を揺らして飛び跳ねる姿は悦びに満ち溢れていました。この試合は大会6日目に行われ、翌日の女子やり投と併せて「最終の大逆転」が印象に残ったものでした。

【短期集中連載】オリンピック回想 ⑥~1984年ロサンゼルス大会




ドロドロとした国際情勢の犠牲となって、前モスクワ大会の意趣返しとしか見えないソヴィエト連邦をはじめとする東欧諸国のボイコットにより、オリンピックはみたび「四輪」での開催となってしまいました。
それでも、アメリカならではの活気と明るさに満ちた開会式は、そうした暗澹としたムードを払拭して、少なくとも私たち日本人は久々のオリンピックを堪能することができたのです。007も愛用した(?)人間ロケット装置で満場の度肝を抜き、リック・バーチが初めて総合演出を手掛けた「音楽で綴るアメリカ史」の壮大なアトラクション、ジョン・ウィリアムズがタクトを振るった有名なテーマ・ミュージック、台詞を忘れてしまったエドウィン・モーゼスのご愛敬などが、非常に印象的でした。
また、辣腕のビジネスマン、ピーター・ユベロスが組織委員長を務めたことで、大会は一大商業イベントとしての成功をおさめ、オリンピックは純粋なアマチュア・スポーツの祭典からの脱皮を果たします。より高レヴェルなスポーツの頂点を競うものになる一方で、金と利権が渦巻く魑魅魍魎の催しとなっていくきっかけとなったのが、このロス大会だったのです。

陸上界ではこの前年に初めての世界選手権がヘルシンキで開催され、「オリンピックのメイン競技」から「世界が注目するメジャー・スポーツ」への発展へと踏み出しました。その象徴的存在となったのが、この大会でジェシー・オーエンス以来の4冠を達成したカール・ルイスでした。


◆各種目の金メダリストと日本選手の成績
<男子>
   100m カール・ルイス(USA) 9"99 ※不破弘樹:2次予選
   200m  カール・ルイス(USA) 19"80(OR) ※不破弘樹:1次予選
   400m アロンゾ・バーバーズ(USA) 44"27 ※高野進:準決勝
   800m ヨアキム・クルス(BRA) 1'43"00(OR)
  1500m セバスチャン・コー(GBR) 3'32"53(OR)
  5000m サイド・アウィータ(MAR) 13'05"59(OR)
 10000m アルベルト・コヴァ(ITA) 27'47"54 ※金井豊:7位入賞 新宅雅也:決勝16位
 110mH ロジャー・キングダム(USA) 13"20
 400mH エドウィン・モーゼス(USA) 47"75 ※吉田良一:準決勝 大森重宣:予選
 3000mSC ジュリアス・コリル(KEN) 8'11"80
 4×100mR アメリカ 37"83(WR)
 4×400mR アメリカ 2'57"91 ※日本:予選
 マラソン カルロス・ロペス(POR) 2:09'21"(OR) 
宗猛:4位入賞 瀬古利彦:14位 宗茂:17位
 20kmW エルネスト・カント(MEX) 1:23'13"(OR)
 50kmW ラウル・ゴンザレス(MEX) 3:47'26"(OR)
 HJ ディートマル・メーゲンブルク(GER) 2m35 ※阪本孝男:予選
 PV ピエール・キノン(FRA) 5m75 ※高橋卓巳:決勝NM
 LJ カール・ルイス(USA) 8m54 ※臼井淳一:7位入賞
 TJ アル・ジョイナー(USA) 17m26 ※植田恭史:予選
 SP アレサンドロ・アンドレイ(ITA) 21m26
 DT ロルフ・ダンネベルク(GER) 66m60
 HT ユーハ・ティアイネン(FIN) 78m08 ※室伏重信:予選
 JT アルト・ハエルコーネン(FIN) 86m76 ※吉田雅美:5位入賞 溝口和洋:予選
 DEC デイリー・トンプソン(GBR) 8798p.(=WR/OR)


<女子>
   100m エヴェリン・アシュフォード(USA) 10"97(OR)
   200m  ヴァレリー・ブリスコ-フックス(USA) 21"81(OR)
   400m ヴァレリー・ブリスコ-フックス(USA) 48"83(OR)
   800m ドイナ・メリンテ(ROU) 1'57"60
 1500m ガブリエラ・ドリオ(ITA) 4'03"25
 3000m マリチカ・プイカ(ROU) 8'35"96(新種目)
 100mH ベニータ・フィッツジェラルド(USA) 12"84
 400mH ナワル・エル・ムタワケル(MAR) 54"61(新種目)
 4×100mR アメリカ 41"65
 4×400mR アメリカ 3'18"29
 マラソン ジョーン・ベノイトUSA) 2:24'52"(新種目)※佐々木七恵:19位 増田明美:DNF
  HJ ウルリケ・マイファルト(GER) 2m02(OR) ※福光久代・佐藤恵:予選
  LJ アニソアラ・スタンチウ(ROU)  6m96
  SP クラウディア・ロッシュ(GER) 20m48
  DT リア・スタルマン(NED) 65m36
  JT テッサ・サンダーソン(GBR) 69m56(OR)※松井江美・森実乃里:予選
  HEP グリニス・ヌン(AUS) 6390p.(五種競技から変更)


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◆ルイス伝説が始まった
1983年5月に、メキシコシティのような高地ではない場所で人類初めての電子計時9秒台となる9秒97を記録したカール・ルイス(当時22歳)は、その年の8月にヘルシンキで初開催された世界選手権で、100m・走幅跳・400mリレーの3種目に優勝し、オリンピックでは200mを含めた4冠への挑戦を宣言、どの種目も圧倒的な強さで易々とこれを達成しました。
4年後のソウル大会でも4種目の連覇を狙いましたが、200mで2位に敗れ400mRは準決勝でチームが失格したため2冠に終わりました。100mの優勝も、ドーピングで失格になったとはいえベン・ジョンソンに完敗する屈辱の後に転がり込んできたもので、不完全燃焼の感がありましたが、その後も長く現役生活を続け、最終的にはオリンピックで金9(当時全競技を通じ最多タイ)・銀1、世界選手権では金8・銀銅各1のメダルを獲得しています。

ルイスの特徴は、スプリントでもジャンプでも、非常にバランスの取れた軽やかで美しいフォームを見せてくれたことではないかと思います。そのため成績は常に安定しており、フィジカルさえ万全ならば他の追従を許さないという安心感がありました。
スプリントでは後半にスピードが落ちない、途中からグングンと他を引き離すタイプ。またジャンプでは、踏切板にピタリと足を載せてくるテクニックと華麗なシザース・フォームで魅了しました。LJでは滅多にファウルをしませんでしたが、実測9mを大きく超えていたと言われる痛恨のジャスト・ファウルがあったことは有名です。

とりわけ強さを発揮した走幅跳では、一時期65連勝という無敵の時代を築き上げました。連勝が始まってから66試合目の、しかも8m87(追風参考8m91)という生涯PBをマークした1991年東京世界選手権で、同僚マイク・パウエルの8m95に苦杯を舐めたのは、あまりにも皮肉でした。
35歳で迎えたアトランタ大会で、明らかにスプリント力の衰えていたルイスは3回目に渾身の8m50を叩き出してオリンピック4連覇を達成します。陸上競技では円盤投のアル・オーター以来2人目、全競技を通じても他にはセーリングのパウル・エルブストローム(DEN)しかいないという大記録、そのすべてが8m50以上という内容の濃い連覇でした。
「20世紀最高の陸上競技選手」を選定するとしたら、おそらくトップ3には確実に推される、真に偉大なアスリートでした。


◆ジョイナー一家登場!
男子三段跳ではアル・ジョイナーが優勝。女子の新種目・七種競技では、妹のジャッキー・ジョイナーが銀メダルを獲得しています。
女子200mで銀メダリストになったフローレンス・グリフィスはその後アルと結婚し、4年後のソウルで主演女優役を務めるフローレンス・グリフィス-ジョイナーとなります。ちなみにこの大会では蜘蛛の脚のように長く伸ばした爪がクローズアップされ、予選では宇宙人のような全身スーツ・スタイルで登場するなど、早くもファッション・リーダーの片鱗を見せています。
ジャッキーもソウルではLJと七種の2冠に輝き、92年バルセロナでは七種を連覇、世界選手権でも通算4個の金メダルを獲得、「クィーン・オブ・アスリート」の名を獲得することになります。



◆熾烈なオンナの戦い

今大会には、女子に3000m・マラソンという新種目が追加されました。かつて「800m以上の競走は女子には無理」と言われ、戦後1952年大会までの最長距離が200mだったことを思うと、隔世の感がありました。
女子マラソンでは、勝ったベノイトよりも脱水症状でフラフラの状態になりながら、大観衆の見守るトラックを懸命に歩ききったガブリエラ・アンデルセン(SUI)の話題で持ち切りとなりましたが、私はどうもこの手のお話が好きではありません。アンデルセン選手の壮絶なまでの精神力は確かに賞賛と感動に値するものだとは思いますが、間違いなくそれ以上の努力をした勝者やメダリストそっちのけで“感動話”が独り歩きするのは、スポーツ競技に対する正しい接し方とは思えないのです。
まあ、これは世間一般の感じ方ではないでしょうから、この辺で…。

3000mでは、前年の世界選手権で1500mと3000mの2冠を、いずれも終始フロントランナーのまま獲得していた美人選手メアリー・デッカー=スレイニーに、地元の大きな期待が集まっていました。
同時に、南アフリカ(アパルトヘイト政策のため当時はIOC加盟できず)からイギリスに国籍変更してきた17歳のゾーラ・バッドが、裸足で走った5000mで当時の世界記録を破った(南アフリカ国籍当時のため認定されず)ことで俄かに注目され、激しいデッドヒートが予想されていました。

レースは例によってデッカーが速いペースで先頭を引っ張り、バッドがピタリと張り付きます。1300mあたりでデッカーはペースを落としてバッドを前に出させようという動きを見せますが、戦況は変わらず。しかし中盤でいよいよバッドが外側から抜きにかかり、これをデッカーが内から抜き返そうとした際に両者の脚が接触しました。バランスを崩して進路を塞ぐ形になったバッドに再度脚をからませたデッカーが転倒してインフィールドに倒れ込み、そのままDNFとなってしまいました。先頭に立ったバッドも大観衆の罵声を浴びせかけられて戦意を喪失したか、あるいはスパイクを履かない足に何らかのダメージを負っていたのか、終盤ズルズルと後退して結局7位。
横たわったまま苦悶の表情で泣き叫ぶデッカーの傍らには、倒れる際に
バッドの背中から引きちぎられたナンバーカードが落ちており、女の戦いの凄まじさを物語っていました。


◆マラソン最強トリオ散る

76年モントリオールで惨敗し、前回モスクワでは金メダル候補の瀬古利彦、宗兄弟という最強のメンバーを選出しながら参加できなかった日本マラソン・チームが、「今度こそは」とまったく同じ代表トリオをロスに送り込みました。
モスクワ以降、一時期故障によるブランクはありながら、80年福岡ではオリンピック2連覇のチェルピンスキーを一蹴し、81年ボストン、83年東京国際、オリンピック選考会となった同年福岡と、必殺のスパートで連勝を重ねる瀬古には死角がないと日本国内では期待が高まり、常にこれと好勝負を繰り広げる宗兄弟との表彰台独占という声すら上がりました。
ライヴァルと目されたのは、81年の福岡で世界歴代2位(後に1位の距離不足が判明し世界最高記録と認定される)を出し、83年世界選手権で優勝したロバート・ドキャステラ(AUS)。瀬古との直接対決がない彼を候補筆頭に推す声も海外には強くありました。その他の強豪選手、たとえばアメリカのアルベルト・サラザール(取り消されるまで世界最高記録保持者とされる)やロドルフォ・ゴメス(MEX)、ジュマ・イカンガー(TAN)などは、既に瀬古との勝負付けが済んでいる、という評価でした。

夕方5時にスタートしたレースは、比較的大きな集団からポロポロと少しずつ選手が離脱していくサバイバル戦の様相となり、まず宗茂が、そして30km過ぎにドキャステラが遅れていき、見守る日本人は「もう集団に強敵はいない」と瀬古の勝利を確信しました。ところがその瀬古も、35㎞目前でさほど苦しそうではないのに集団から取り残され、日本マラソン界の悲願は一瞬にして潰えてしまったのです。意外な脱落を招いたのは、選考会以降休むことのなかった、またレース直前に猛暑の日本で走り続けたオーヴァーワークによる体調不良でした。
終盤を迎えて急速にペースアップした集団には最後まで宗猛が食らいついていましたが、モスクワの10000mで銀メダリストになったスピードランナー、37歳のカルロス・ロペスがスパートすると、遂にメダル圏外に追い落とされてしまいました。

1着ロペス、2着ジョン・トレーシー(IRL)、3着チャールズ・スペディング(GBR)はいずれも下馬評にのぼらなかった大穴選手たちとはいえ、優勝タイムの2時間9分12秒(OR)は真夏のレースとしては破格のもので、仮に瀬古の体調が万全だったとしても最後の競り合いにまでついていけたかどうかは、疑問です。
ロペスはこの翌年に2時間7分12秒の世界最高記録を出し、瀬古・ドキャステラに代わるマラソン世界一の実力を証明して見せました。
 

 
ギャラリー
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