NHKの新番組(?)『その涙には理由(わけ)がある』第1回は、マラソンの有森裕子さんでした。番組企画としてはなんだかテレビ朝日『Get Sports』の中の1コーナーのパクリみたいな感じがしますが、まあいいでしょう。
有森さんの「涙」と言えば、銅メダルを勝ち取ったアトランタ・オリンピックのレース後インタビューで、「初めて自分で自分を誉めたい」という"名言”とともに流した涙ですね。

有森さんは岡山・就実高校、日体大時代は無名のランナーでしたが、当時「大卒は採用しない」方針だったリクルート陸上部に「押しかけ」のような形で入部、小出義雄監督の下でマラソン転向のアドバイスを受け、1990年の大阪国際女子マラソンでデビュー・6位入賞を果たします。
2度目のマラソンとなった翌年の大阪で、2位ながら当時の日本新記録(2時間28分01秒・・・まだ「日本最高記録」という言い方だったかもしれません)を出し、同年8月の東京世界選手権代表に選ばれます。猛烈な残暑の中で行われた世界選手権の女子マラソンでは、ワンダ・パンフィル(POL)、山下佐知子(京セラ)、カトリン・ドーレ(GER)に次いで4位入賞を果たしました。
当時、日本の女子マラソンはまだまだ世界との差が大きいと思われており、いかに地元の利があったとはいえ、4位入賞はもろ手を挙げて賞賛されるほどの快挙でした。しかし、それ以上に山下さんの銀メダルという大快挙があり、その山下さんが翌年のバルセロナ・オリンピックの代表に内定したことで、有森さんの快挙は少し霞んでしまった感があります。このことが、翌年の春先に、ちょっとした騒動を引き起こすことになります。(私の記憶では、事前に「世界選手権でメダルなら代表内定」といった告知はなく、その場で決まった「ご褒美」だったと思います)

オリンピック代表の選考レース3つが終わり、東京国際は谷川真理選手(資生堂)、大阪国際は初マラソンの小鴨由水選手(ダイハツ)と松野明美選手(ニコニコドー)が、前年の有森さんによる日本最高記録を上回って1・2位を占めました。この時点で、「小鴨はほぼ確実、残り1枠は有森か、松野か」というムードがあり、危機感を抱いた谷川選手は名古屋国際にもエントリーしますが、無名の大江光子選手(日本生命)に敗れて2位となってしまいます。
世間は「3人目の代表は誰か?」に注目し、例の松野選手による「私を選んでください」会見などもあって、外野席は大騒ぎとなりました。
これは私の推測ですが、騒いでいたのは世間(マスコミ)と当人(松野さん)だけで、陸連的には案外すんなりと、「山下・小鴨・有森」の3人を選んだのではないでしょうか?それほどに、「世界4位」という実績は、もし山下さんが上にいなければそのまま「代表内定」がされていてもおかしくはないほど、当時の日本女子マラソン界では大きなアドバンテージになり得たからです。
補欠にも松野さんではなく谷川さんが選ばれたのは、「松野はトラック競技で代表を目指す道がある」(実際にそのとおりにはなりませんでした)からというよりも、谷川さんの実力のほうを高く評価したのではないか、と思っています。
それはともかく、有森さんは陸連の「見立て」どおりにバルセロナの本番でその実力を証明し、みごと銀メダルを獲得してみせたのでした。 

番組では、このあたりの経緯にはほとんど触れず、「バルセロナ以降」の有森さんの苦悩と葛藤について、当事者・関係者の証言を集めながら振り返っていました。そこに、「涙の理由」がある、というストーリーです。
96年アトランタ・オリンピックの代表に再度選ばれた時にも、4つの選考会(北海道マラソンを含む)で最高のタイムをマークした鈴木博美選手(リクルート)が選ばれず、 夏の北海道で優勝した有森さんがタイムでは遅いのに選ばれたことに対するバッシングがあった、というのですが、さてこれもどうでしょう?
確かに「一番速いタイムの選手がなぜ選ばれないのか?」という声が上がったのは記憶していますが、代表になった浅利純子選手(ダイハツ)、真木和選手(ワコール)、そして有森さんは、いずれも選考レースで印象的な優勝を飾っており、鈴木選手は大阪国際で2着だったのです。しかも有森選手はオリンピック・メダリスト、浅利選手は93年の世界チャンピオンです。これもまた、陸連はすんなりこの3名を選出した、と考えるのが妥当です。しいて言うならば、初マラソンだった真木選手に対して、あわよくばダブル代表をと目論んでいたリクルート陣営からの「異議あり」の声ではなかったか、と記憶しています。
(余談ですが、「大阪2着」は松野さんに始まって、鈴木さん、弘山晴美さん、千葉真子さん、森本友さんと、5回連続して「代表次点」になっています)

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そのアトランタのレース。番組ではレースそのものはごくごくダイジェストでしか流してくれませんでしたが、おそらく13km前後の地点かと思われるこの先頭集団のシーン、なかなかのメンバーが映っています。
先頭を引っ張るのは88年ソウル五輪銅メダルのカトリン・ドーレ(GER)と前年の世界チャンピオン、マリア・マニュエラ・マシャド(POR)、有森と並んで優勝したファーツマ・ロバ(ETH)、その奥に2000年シドニー五輪の銀メダリスト、リディア・シモン(ROM)、一人おいて右端に連覇を狙うヴァレンティナ・エゴロワ(RUS)が見えます。この大会で本命視されていたのは、ボストンマラソン3連覇中のウタ・ピッピヒ(GER)でしたが、早々に先頭から脱落してしまいました。

この中から20km手前でロバ選手が一人飛び出しました。しかし当時はまったくの無名選手であり、またエチオピアの女子選手が今ほど高く評価されていなかったこともあって、誰も追いかけようとしません。「ロバの耳に鈴をつけに行く」には、グループにビッグネームが揃いすぎており、牽制状態に陥ったのです。
「そのうち落ちてくるだろう」と読んでいたロバの足色は衰える気配がなく、30km付近で「このままでは手遅れになる」と判断した有森さんが、勇気を振り絞ってスパート。バルセロナの時とは逆に、いったん有森さんに置いていかれたエゴロワ選手がこれを追走・逆転する展開となって、上位3人の趨勢が固まりました。ゴール間近ではドーレ選手の激しい追い上げを受けながらも、有森さんはエゴロワ選手とともに2大会連続のメダルを手にすることになったのでした。

レース後に発した「自分で自分を誉めたい」という言葉のネタ元は、有森さんが無名の高校生だった頃に始まった『都道府県対抗全国女子駅伝』で、3年連続して補欠になりクサっていた時、その開会式でゲストだった高石ともやさん(有名人市民ランナーの草分けとも言えるフォークシンガー)が、選手たちへの激励の意味を込めて語った(歌った?)「誰に知られなくても、自分で自分を誉めてあげてもいいんじゃない?」というフレーズだそうです。 その言葉を胸に温めて、初めてそれが口に出せるレースができた喜び、そしてそれまでの苦しみ、それが涙の理由であったと、そういうことです。

日本の女子陸上競技選手として史上2人目のメダリスト、史上初(唯一)の連続メダリストとなった有森さんの偉業は、夏のオリンピックがやってくるたびに、これからも永く語り継がれるでしょう。私が忘れられないのは、有名になったレース後のコメントではなく、バルセロナでもアトランタでも、先頭を走る選手を追いかけてスパートした、その勇気と決意の表情の凛々しさです。
そして有森さんは、栄光に甘んじることなく、今なお各地の市民大会でゲストランナー、ボランティアランナーとして走り続けることで、マラソン界への恩返しを実践しています。私も、地元の『かすみがうらマラソン』(10マイルの部)で、ゆっくりと前を走る有森さんを追い越しながら、その小さな手とタッチしてもらった思い出があります。
増田明美さんなどとは別の意味で、いつまでも女子マラソンの語り部であってほしいと思っています。