豊大先生流・陸上競技のミカタ

陸上競技を見続けて半世紀。「かけっこ」をこよなく愛するオヤジの長文日記です。 (2016年6月9日開設)

ボブ・ヘイズ

元陸上競技王者の、いま<第4弾>



前回予告のとおり、TBSテレビ『消えた天才』に登場したもう一人の陸上選手・飯島秀雄さんについて、ご紹介します。
実を言うと、飯島さんについては現在連載休止中(?)の『100m競走を語ろう』の第19回に取り上げるつもりでいたのですが、事実関係の確認などに手間取っているうちに時間が経過してしまい、現在に至っていました。番組の内容からいくつか新しい情報も得られたので、ここでまとめてみようと思います。

近年未曽有の盛り上がりを見せている男子短距離界の歴史において、先にご紹介した藤井實、吉岡隆徳、人見絹枝といった大先達と並んで欠かすことのできない存在、それが飯島秀雄選手です。
戦前に「世界タイ記録」として記録された吉岡の日本記録を29年ぶりに更新し、世界中のスプリンターが目標とした「100m10秒の壁(手動計時)」に日本人として唯一、挑み続けた男。
1964年東京、68年メキシコシティと2度のオリンピックに出場し、これまた吉岡以来のファイナリストへあと一歩のところまで迫った男。
突如として陸上界からプロ野球界へと転身し、華やかなスポットライトとプロの辛酸という両極端の世界を味わった男。
自身が引き起こした交通人身事故のためにいったんは社会から消え去り、そして再び、陸上の世界に帰ってきたスプリントのレジェンド。
まさしく波乱万丈の人生を歩んできた飯島さんは、現在故郷・水戸市で小さな運動具店を経営しつつ、明るく過去の自分を笑い飛ばし、また将来の大きな夢について語ってくれました。
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飯島さんが短距離選手を志したのは、県立水戸農高に入学してからです。素質を見出されて東京の目黒高に転校し、やがて当時実業団日本一だったリッカーミシンの吉岡隆徳コーチの指導を仰ぐようになります。早稲田大進学後も、練習は主にリッカーのグラウンドに出向いて英才教育を施されました。
「日本記録は自分の育てた弟子に破らせたい」と情熱を注ぐ吉岡にとって、飯島と女子の依田郁子は秘蔵っ子とも呼べる存在となり、二人はともに64年東京オリンピックの短距離最大のホープとして注目を浴びることとなるのです。
東京五輪の年を迎えた4月、飯島は国内で10秒3をマークして師・吉岡の日本記録に並ぶと、6月にはベルリンの競技会で10秒1の日本新記録を叩き出しました。日本記録を一気に0.2秒更新するとともに、当時世界ではアルミン・ハリー(GER=ローマ五輪を制しすでに引退)とハリー・ジェローム(CAN)だけが持っていた10秒0に次ぐ、世界歴代3位タイの記録でした。一躍、東京オリンピックの金メダル候補の一角に名乗り出たのです。

飯島の最大の武器は、吉岡から伝授された鋭いスタートダッシュでした。加えて飯島には吉岡が恵まれなかった176㎝の上背と骨太の体格がありました。筋力を活かしてスタートラインの手前で大きく両手を開き、「用意」で前方にぐいと体重を預ける構えから低い姿勢で飛び出すそのフォームは「ロケットスタート」と命名され、吉岡の代名詞だった「暁の超特急」にあやかって、飯島には「暁のロケット」というニックネームがマスコミによって奉られました。
飯島のスタートは、国際舞台でも前半は確実に海外のスプリンターたちをリードする卓越したものでしたが、その反面、吉岡が1932年のロス五輪で味わったのと同様、後半に伸びを欠いて失速するという弱点をも引き継いでいました。東京、メキシコシティともに危なげなく準決勝まで進出しながら、ファイナルの壁はあくまでも高く厳しく、飯島の前に立ちはだかったのです。
思えば、「あの飯島が超えられなかった壁」が、その後半世紀以上にもわたって日本のスプリント界を呪縛し続けている、そう言っても言い過ぎではないでしょう。

大学3年で迎えた東京オリンピックで、1次予選10秒3(全選手中1位)で1着、2次予選10秒5で3着の後、準決勝はスタート直後から精彩なく10秒6の7着。
その後1966年に2度にわたって10秒1の日本タイ記録で走り、68年のオリンピック(当時は茨城県庁所属)では1次予選10秒24(追風参考・全選手中5位)、2次予選10秒31(追風参考)で3着、準決勝はスタート直後トップに立つも10秒34で8着と敗退しました。このタイムは手動計時であれば10秒1から2に相当するもので、飯島は2度目のオリンピックの舞台で実力を十分に発揮したと言ってよいのですが、電子計時でも9秒台に突入した世界の急速なレベルアップには置いて行かれた形となったものです。
3度にわたって記録した10秒1は、結局そのまま「最後の手動計時日本記録」として、複数の選手にタイ記録で並ばれはしたものの永遠のものとなりました。またメキシコで記録した10秒34は、その後電子計時のみが正式採用されて数年が経過した1984年に至って、改めて「日本記録」として公認されていますが、それまでの間は「10秒3」として扱われていました。

飯島の人生は、メキシコから帰国して間もなく、その年のプロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)から9位指名を受けて「代走専門選手」としてプロ野球入りしたところで急転回を迎えます。
陸上に見切りをつけた理由が「自分の走りでは、新素材のトラックに対応できない」というものだったというのは今回初めて聞いた事情で、驚きました。
今ではスタンダードになっている陸上トラックのゴム・合成樹脂素材は、メキシコシティ・オリンピックで初めて世に出たものです。私が陸上競技を始めたのが1971年で、当時東京では世田谷総合運動場と東京体育館(300m)の2箇所しかタータントラックはありませんでした。世界中のトラックがやがてそうした全天候型舗装に取って代わられることになるとは想像もできなかったのですが、飯島はたった1回オリンピックで走っただけで、自身の将来に見切りを付けたというのです。

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さて、飯島ストーリーの第2章…中学時代は野球部に所属していたとはいえ、いわば「ど素人」がプロの世界で何ができるのか…注目を集めた飯島はプロ初試合となった東京スタジアム(現在は消滅)での南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)との2回戦で、同点の9回裏に一塁代走として起用されました。
南海のキャッチャーは、あの「ノムさん」こと野村克也。プロ野球史上ナンバーワンとも評される当時の名捕手です。「野球はど素人」そのままに、リードもせず、投手が投球動作に入ってよほど経ってからスタートを切った飯島はその“変則スタート”ゆえにかえって南海守備陣の度肝を抜き、野村の二塁暴投を招いて一気に三塁へ。次々打者のヒットでサヨナラのホームを踏むという、最高のデビューを飾りました。

デビューこそ華々しく、また飯島見たさに閑古鳥が鳴いていたパ・リーグのスタンドには多くのファンが詰めかけるようになりましたが、その後の成績は振るいませんでした。
結局プロ3年間で盗塁23、盗塁死17、牽制死5、得点46。ひたすら前を見て直線を走ることだけに磨きをかけてきた飯島にとって、投手のモーションを盗み、牽制をかいくぐり、「カニみたいに」横向きにスタートを切ってベースにスライディングするという「プロの走り屋」の世界はあまりに厳しい現実を突きつけたのです。実直な性格の彼が、トリックプレーや口先の騙しに簡単に引っ掛かったというのも、さもありなんという感じがします。とはいえ、3年の間にそうしたプロの技術をほとんど吸収することなく終わったというのも、本人はもとより当時のプロ野球界の悠長さが伺えて、面白さを感じてしまいます。

1971年シーズンを最後にプロ野球界を去ってからしばらくの期間のことについて、今回の放送では何も言及しませんでした。
故郷の水戸に戻って運動具店を開業していた飯島は、1983年、国立霞ヶ丘競技場で行われる陸上競技会に出場する娘の応援に自ら運転してきたクルマで、幼い少女を撥ねて死亡させる人身事故を起こし、交通刑務所に服役しています。事故があった現場はJR四ツ谷駅前の信号で、実は当時私が通っていた会社へ向かう通り道でした。その後何年にもわたって小さな献花が絶えることなく続いていたのを覚えています。その事故の当事者があの飯島であったことを知ったのは、だいぶ後になってからのことです。
スプリンターからプロスポーツへの転身、そして罪を犯しての服役…ちょうど、東京オリンピックの男子100m金メダリスト、ボブ・ヘイズ(USA)が辿ったのと同じような波乱の人生を、飯島は歩んでいました。

その飯島の名前が再び大きく浮上してきたのは、水戸市の陸協に籍を置き、短距離競走の出発係(スターター)として実績を積み重ねた末に、1991年の東京世界選手権で男子100mのスターターを務めるという栄誉に浴した時です。
かつての名スプリンターが名スターターに…それは、かつて師と仰いだ吉岡隆徳の無二の親友でありライバルだった佐々木吉蔵が、飯島も出場した東京オリンピックの100m決勝のスターターとして名を馳せたのと、同じプロセスでした。吉岡と佐々木、戦前を代表する2人のスプリンターの系譜を、飯島はともに受け継いだことになります。

今回の番組と同じような企画のものを、私はこの東京世界選手権の少し前、つまり服役を終えてしばらく経った頃にもTVで見た記憶があります。やはり「あの人は今」的な趣旨のもと、運動具店の奥から現れる演出までそっくり同じでしたが、その頃の飯島さんはまだ壮年のがっしりした体形で、おぐしもフサフサとしていたように覚えています。
今年73歳となった飯島さんは、それでも「3年後の東京オリンピックでスターターをやって、陸上界に恩返ししたい」と、大きな夢を語ってくれました。
日本人初めての100m9秒台。戦後初のオリンピック・ファイナリスト。
その野望を最初に抱いた伝説のスプリンターは、自らの手で打ち鳴らした号砲で飛び出した選手が、己の果たせなかった夢をかなえる瞬間を待ち望んでいるに違いありません。それほど、陸上界に置き忘れてきたものは大きかったということなのでしょう。

※関連投稿
<連載>100m競走を語ろう
http://www.hohdaisense-athletics.com/archives/cat_172993.html

<連載>100m競走を語ろう ⑭~9秒台変遷史



◆連載再開!?
リオ五輪のことをいろいろ書かせていただいている間、<連載>がストップしてしまいました。本当のところはリオ五輪の100mレースをウォッチするに際して、少しでも多くの方に予備知識を吹き込んでおきたいなというつもりで書き始めた<連載>なので、いったんその目的が(一部間に合わずに)終わってしまった、という残念な気持ちもあります。
ですが、100m競走について語りたいことは、まだまだ尽きません。
今後は、何かテーマがまとまるごとに、不定期に継続していこうかと思っています。

リオ五輪ではウサイン・ボルトのトラック種目史上初の3連覇達成という大きなトピックがありました。
この大会は、3連覇に挑む選手が非常に多くいて、トラックだけでもボルトの2種目の他に、女子100mのシェリー-アン・フレイザー-プライス(3位)、同10000mのティルネッシュ・ディババ(3位)、またフィールドでは男女砲丸投のトマス・マイエフスキー(6位)とヴァレリー・アダムズ(2位)、女子やり投のバルボラ・シュポタコヴァ(3位)と、5人も挑んでいながら誰も達成できなかったことで、その困難さがよく分かるというものです。(むしろ、この6人全員が無事3連覇の舞台に駒を進め、全員入賞、1人を除く5人がメダルを獲得していることのほうが、驚くべきことかもしれません)

もう一つの話題は、100mという種目からは外れますが、400mリレーでの日本チームの大偉業でしたね。
本道の100mでも、予選を余裕で突破した山縣・ケンブリッジ両選手の走りは、陸上チームの明るい話題の一つでした。
その中であまり触れられませんでしたが、山縣選手が2つのレースで記録した0.111秒、0.109秒という驚異的なリアクションタイムは、知られざるところで大問題を投げかけたのではないか、という気がしています。

このことについては私自身、この<連載>⑧の「余談」で問題提起しているのですが、国際陸連が科学的知見に基づき「人間に可能なRTはせいぜい0.12秒程度」と判断し、若干の余裕をとって「0.1秒」という不正スタートの基準を決めているところへ、常人離れした反応時間を持つ人間もいるのだということを山縣が示してしまったことになります。私の見るところ、ドーピングによって研ぎ澄まされたベン・ジョンソン以来、「0.1秒の壁を破る」可能性を持ったスプリンターが現実に現れてしまったのです。
このことには、山縣自身いくらか懸念を持ったのかもしれず、万が一にもフライングをとられてはならないリレーの2レースではともに0.144秒という「控えめ」なスタートに徹しています。実は山縣は、6月の日本選手権でも予選から順に0.140秒、0.139秒、0.139秒と実に安定した好スタートを決めており、これだけをとっても「スタートの名手」と言って間違いない技量を確立している選手で、加えて極度の集中力を発揮した時に0.11秒前後のスタートを切る能力を示したことになります。
この事実が、IAAFのルールを司る部門にどんな衝撃を与え、どんな議論が戦わされていくのか、とても興味があります。

とはいえ、日本スプリント界の悲願である「10秒の壁突破」は、またもや見果てぬ夢に終わってしまいました。
いつ出てもおかしくないと言われて数年、それはたとえばこの秋の国体あたりかもしれず、引き続きお楽しみは続きますが、早く複数の選手が雪崩を打って9秒台に突入してもらいたいものです。
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◆「初の9秒台」いろいろ
 *手動公式計時初 1964/10/15  9秒9 ボブ・ヘイズ(USA) ※W+5.28mで非公認

 *手動公認初 1968/6/20  9秒9 ジム・ハインズ(USA)ほか
 ※電動計時(参考記録)では10秒03。この大会では他に2人の選手が9秒9を記録(誰が一番先だったのかは、手元の資料では不明)し後年「手動計時による世界記録」として公認されたが、3選手がともに全天候型トラック用に規定よりもピンの多いスパイクシューズを使用していたことが問題とされた。

 *電子計時初 1968/10/14 9秒95(A) ジム・ハインズ(USA)
 ※高地(メキシコシティ)記録


 *平地で初 1983/5/24 9秒97 カール・ルイス(USA)

 *ヨーロッパ初 1988/9/24 9秒97 リンフォード・クリスティ(GBR)

 *1980年代までに突破したのはリロイ・バレルまでの8名(ベン・ジョンソンは除外)

 *初の9秒8台 1991/8/25 9秒86 カール・ルイス(USA) ※東京世界選手権

 *アフリカ初   1991/8/25  9秒95 フランキー・フレデリクス(NAM)


 *幻の日本人初  1998/12/13 10秒00 伊東浩司(富士通) ※速報で「9.99」と表示

 *初の9秒7台
1999/6/16 9秒79 モーリス・グリーン(USA)

 *20世紀中の突破者はフランシス・オビクウェルまでの33名

 *非黒人選手初 2003/5/5 9秒93 パトリック・ジョンソン(AUS)
 ※白人/アボリジニの混血。同時にオセアニア初。


 *アジア初 2007/7/26 9秒99 サミュエル・フランシス(QAT)

 *初の9秒6台 2008/8/16 9秒69 ウサイン・ボルト(JAM)

 *初の9秒5台 2009/8/16 9秒58 ウサイン・ボルト(JAM)

 *白人選手初 2010/7/9 9秒98 クリストフ・ルメートル(FRA)

 *黄色人種初 2015/5/30 9秒99 スー・ビンチャン(CHN)

 *100人目の9秒台 2015/6/7 9秒97 アダム・ジェミリ(GBR)

 *初の「トリプル・サブ」 2016/3/12 9秒98(A)ウェイド・ヴァンニーケルク(RSA)
 ※100m9秒台・200m19秒台・400m43秒台

 *初の「ダブル・サブ」 2016/4/23 9秒99 オマー・マクレオド(JAM)
 ※100m9秒台・110mH12秒台

 *40代初 2016/5/29 9秒93 キム・コリンズ(SKN) ※40歳+54日

 *現在突破者=総計116名

 *日本人初 201X/?/? 9秒XX  ???

 

【短期集中連載】オリンピック回想 ①~1964年東京大会



リオ・オリンピックの陸上競技開始まで、あと2週間。
そこで、私がTVを通してリアルタイムで見た過去のオリンピックの思い出話を、古い順にご紹介したいと思います。
1964年の東京オリンピックは、ちょうど私が小学生になった年に開催されました。
スポーツ競技というものも、陸上競技というものもまったく知らずにいきなり出くわしたこの“世紀の祭典”にすっかり魅せられた私は、以後半世紀以上にわたって無類の「オリンピックおたく」「陸上競技マニア」という人生を送るハメになるのですが、そうした年齢的な巡り合せのせいか、私の世代にはオリンピックが大好きだという人が少なくないように思われます。また、国際的なスポーツ大会など見たことがなかったという意味では、当時の大人たちも似たり寄ったりでしたから、日本人のオリンピック好きはここに原点がある、と言ってもよいのではないでしょうか。


◆種目別金メダリストと記録、主な日本選手成績
*URSは「ソビエト連邦」、GERは「東西統一ドイツ」。当時入賞は6位まで。
<男子>
   100m ボブ・ヘイズ(USA) 10"0(=WR/OR) ※飯島秀雄:準決勝敗退
   200m  ヘンリー・カー(USA) 20"3(OR)
   400m マイク・ララビー(USA) 45"1
   800m ピーター・スネル(NZL) 1'45"1(OR) ※森本葵:準決勝敗退
  1500m ピーター・スネル(NZL) 3'38"1
  5000m ボブ・シュール(USA) 13'48"8
 10000m ビリー・ミルズ(USA) 28'24"4(OR) ※円谷幸吉:6位入賞
 110mH ヘイズ・ジョーンズ(USA) 13"6
 400mH ウォーレン・コーリー(USA) 49"6
 3000mSC ガストン・ローランツ(BEL) 8'30"8(OR)
 4×100mR アメリカ 39"0 ※日本:準決勝敗退
 4×400mR アメリカ 3'00"7
 マラソン アベベ・ビキラ(ETH) 2:12'11"2(WR) ※円谷幸吉:銅メダル 君原健二:8位 寺沢徹:15位
 20kmW ケネス・マシューズ(GBR) 1:29'34"(OR)
 50kmW アブドン・パミッチ(ITA) 4:11'12"4(WR)
 HJ ワレリー・ブルメル(URS) 2m18(OR)
 PV フレッド・ハンセン(USA) 5m10(OR)
 LJ リン・デーヴィス(GBR) 8m07 ※山田宏臣:決勝9位
 TJ ヨーゼフ・シュミット(POL) 16m85(OR) ※岡崎高之:決勝10位
 SP ダラス・ロング(USA) 20m33(OR)
 DT アル・オーター(USA) 61m00(OR)
 HT ロムアルト・クリム(URS) 69m74(OR) ※菅原武男:決勝13位
 JT パウリ・ネバラ(FIN) 82m66
 DEC ヴィリー・ホルドルフ(GER) 7887p.

<女子>
   100m ワイオミア・タイアス(USA) 11"4
   200m  エディス・マガイアー(USA) 23"0(OR)
   400m ベティ・カスバート(AUS) 52"0(OR)
   800m アン・パッカー(GBR) 2'01"1(WR)
  80mH カリン・バルツァー(GER) 10"5(=WR/OR) ※依田郁子:5位入賞
 4×100mR ポーランド 43"6(WR)
  HJ イオランダ・バラシュ(HUN) 1m90(OR)
  LJ メアリー・ランド(GBR) 6m76(WR)
  SP タマラ・プレス(URS) 18m14(OR)
  DT タマラ・プレス(URS) 57m27(OR)
  JT ミハエラ・ペネス(ROU) 60m54 ※佐藤弘子:決勝7位 片山美佐子:決勝11位
  PEN イリーナ・プレス(URS) 5246p.(WR)


◆スター選手たちの光と影
この大会のハイライトは、何といっても序盤のボブ・ヘイズ、最終盤のアベベ・ビキラという2人のスーパースターだったでしょう。
ヘイズについては別の稿でも触れましたように、100m準決勝で9秒9を記録しながら追風参考、決勝ではこの大会で初めて採用された電子計時のために10秒0の世界タイ記録に留まりましたが、バックアップの手動計時では9秒9。いわば2度にわたって史上初の「幻の9秒台」をマークしたことになります。
男子100mではこの年のWLになる10秒1の日本新記録を出していた飯島秀雄選手に期待が集まりましたが、雨中の1次予選、2次予選は順調に通過したものの、準決勝ではタイムを落として7着。師匠である吉岡隆徳さん以来の決勝進出はなりませんでした。

アベベ・ビキラは、まったく無名だった4年前のローマ大会で、裸足で出場して世界最高記録での優勝を飾り、現在のマラソン王国エチオピアのパイオニアとなった選手です。ところが東京大会の直前に盲腸炎の手術をするという緊急事態に、「裸足の王様」の物語とともに動向が注目されていました。
レースはオーストラリアのロン・クラークが驚異的なハイペースを作り、折り返し手前でこれを振り切ったアベベの独走となり、ローマの記録を3分以上も縮める驚異的記録で優勝、ゴール直後にはフィールドで柔軟体操をする余裕を見せました。
日本勢は、2年前にアベベの世界記録を破った寺沢徹、前年のプレオリンピックで2位に入り、選考会で優勝した君原健二にメダルの期待が集まり、3月にトラックから転向したばかりのスピードランナー円谷幸吉も10000mで入賞した余勢を駆っての活躍が期待されました。結果は、円谷がアベベに次ぐ2位で競技場に現れ、惜しくもB.ヒートリー(GBR)に抜かれはしたもののみごと3位銅メダルを獲得した、あまりにも有名なシーンとなりました。

日本勢で入賞を果たしたのは、この円谷の2種目と、女子80mハードルの依田郁子のみ。依田は予選・準決勝をともに2位で通過し、世界記録に0.1秒と迫る10秒6の持ちタイムからもメダルが期待され、スタートよく最初のハードルをトップで越えたところで場内の興奮は上がりましたが、結局5位となりました。
スタート前に、自分のレーンを竹ぼうきで掃き清め、ジャージを脱ぐとでんぐり返し、逆立ち。こめかみと首筋にサロメチール軟膏をベッタリと塗り付け、レモンをガブリと齧ってレーン表示台に置く…こうした一連の“儀式”は「依田劇場」と呼ばれ、当時では珍しい個性的なパフォーマンスでした。

さて、ここに挙げた、東京大会の陸上競技を象徴するかのような内外のスター選手たちが、その後たどった人生には何やら運命共同体のようなものを感じてしまいます。
ヘイズはプロフットボウラーに転向して快速WRとしてスーパーボウルにも出場するなど相当の活躍をしましたが、麻薬取締法違反で逮捕・服役。同じ100mを走った飯島は、メキシコシティ大会の後にプロ野球入りして代走専門選手として活躍。引退後に交通人身事故を起こしてやはり服役しました。
マラソンの王者・アベベは3連覇に挑んだメキシコシティ大会で途中棄権に終わった直後、交通事故で半身不随となり、それでもパラリンピックなどに元気な姿を見せていた時期もありましたが、1973年に病死。
円谷選手は現役中の1968年、依田選手は引退して幸せな結婚生活を送っていたかに見えた83年、ともに自殺を遂げています。


◆名勝負・名選手・偉大な記録・・・

円谷選手が健闘した男子10000mは、最初の決勝種目であり、私がテレビを通して初めて「陸上競技」というものに接したレースでした。

当時世界記録を持っていたロン・クラークは「オーストラリアの長距離王」と呼ばれ、この後を含め3000m、5000m、10000mの世界記録を何度も更新し、10000mでは史上初の27分台ランナーとなった選手ですが、速いペースで突っ走ることは得意でもラスト勝負のスプリント力に難があるため、大きな大会ではなかなか勝つことができませんでした。そのクラークが、当時の世界記録にも迫ろうかという速い展開に持ち込み「してやったり」と考えたというこのレース、しかし最後まで食らいついて離れなかったのがモハメド・ガムーディ(TUN)とビリー・ミルズ。いずれも、レース前は決して下馬評に上るような存在ではありませんでした。
この3者が演じたラスト1周のデッドヒートは、陸上競技のオープニングを飾るにふさわしい名勝負となり、2度にわたって外に弾き飛ばされかけながら逆転したミルズの走りは、アメリカ・インディアンゆえにいわれのない差別を受け続けたそれまでの経緯などを絡めて、後年映画にもなったほどです。
私にとっても、「陸上マニア」への道を決定づけた、はじめての名勝負でした。

棒高跳の9時間超に及ぶ「死闘」は、決勝進出者が19名もいたことと時間制限がより悠長だった当時のルールゆえですが、最後の跳躍で逆転優勝を決めたハンセンは、これでオリンピック棒高跳でのアメリカの不敗記録(15大会すべてで優勝)を守ったことになります。この熱戦の様子を実況アナウンサーだった羽佐間正雄氏が記したエッセイは、学校の教科書にも採用されたほどに、ドラマチックなゲームとして語り継がれたものです。

女子の種目は当時、ずいぶんと少なかったことが分かります。
この中でも、400mはこの大会から採用された新種目で、800mも前大会から復活したばかりでした。(戦前、人見絹江さんが銀メダルを獲得したレースで「800mは女性にとってあまりにも過酷」ということになり、長い間廃止されていたのです)
その400mで大本命のアン・パッカーを破って優勝したベティ・カスバートは、8年前の地元メルボルン大会で100m、200mの2冠を制しており、「短距離個人3種目制覇」というオリンピック陸上競技史上後にも先にもない偉大な記録を、8年越しで達成しました。
なお敗れたパッカーは、「専門外」の800mでこれまた見事に優勝し、ゴールを駆け抜けたその脚で招集所付近で見守っていた婚約者の胸に飛び込むという、微笑ましい姿で話題になりました。

大記録と言えば、男子円盤投を制したアル・オーターはこれで陸上競技では初となるオリンピック3連覇。次のメキシコシティで、前人未到の偉業に挑むことになります。

その他では、女子砲丸投と円盤投の2冠を制し「女大鵬」と呼ばれたタマラ・プレスと、小柄ながら五種競技(当時は七種ではなかったんですね)に優勝し80mHと砲丸投でも入賞したイリーナ・プレスのプレス姉妹、当時中長距離界に旋風を起こしていたニュージーランド式指導法の申し子だったピーター・スネル、膝の手術を克服して三段跳連覇を達成したヨーゼフ・シュミットなどが話題を集めました。


 

<連載>100m競走を語ろう ⑨~ボブ・ヘイズと手動計時の時代



◆すべてが写真判定

ゴールが混戦になったとき、いまだに
「これは写真判定かっ!?
と思わず叫んでしまうアナウンサーがいます。これは陸上競技をよく知るはずのスポーツ・アナとしては、お粗末な実況と言わなければなりません。TVで中継されるほどの規模の大会では、結果的に接戦であろうとなかろうと、すべてのレースが写真判定(正しくはスリットビデオ判定)によって正式結果が記録されているからです。
大会で使われる写真判定装置は、レースの順位だけでなく、正式タイムを記録するための装置でもあります。ごく大雑把に言ってしまうと、俗に言う「電子計時システム」イコール、「写真判定装置」なのです。
現代では、科学秘術の進歩によって、大きなスポーツ競技大会は精密な電子機器や光学機器の活用によって運営されています。陸上競技の場合、計時・計測・着順判定という基幹的なところに関わることなので、この点について理解を深めておくことはとても重要です。すでに「フライング」にまつわる話の中で、そうした電子機器の一端については触れてきましたが、ここでその全貌を見ていくことにしましょう。
選手のパフォーマンスをどうやって測定しているのか、それがどのように観客や視聴者に知らされていくのか、機械によって計時・計測される「記録」をどのように解釈し、整理すべきなのか、いろいろと考えていきたいと思います。

◆電子計時創成期
電子計時システムが初めて公式に採用されたのは、1964年の東京オリンピックの、短距離種目に限ってのことです。
男子100m決勝を制したのはアメリカの“黒い弾丸”と呼ばれたボブ・ヘイズ選手で、タイムは10秒0の世界タイ記録・オリンピック新記録。電子計時で計測された正式タイムは10秒06でしたが、それまでの手動計時に比べると電子計時のタイムはどうしても0.2秒程度「遅く」なってしまうことが問題視され、事前の了解事項として「電子計時のタイムは0.05秒を差し引いた上で、百分の一秒単位を四捨五入した数値(つまり十分の一秒単位)を公認記録とする」というような申し合せがあったのだそうです。
ヘイズはまた、準決勝では電子計時による「9秒9」というタイムで走りましたが、この時は追風5.28mの参考記録に終わりました。いわば2度にわたって「幻の9秒台」を出して見せたヘイズの快走に、国立霞ヶ丘競技場は騒然となったものです。
Tokyo50yearTIME
 「黒い弾丸」の異名をとったボブ・ヘイズ(右)。

ちなみに、当時の陸上競技の公式記録は0.1秒単位で、長距離・ロードレースは0.2秒単位(小数点以下はすべて偶数になります)でした。百分の一秒単位で計時できる時計はあっても、それを人の手で、百分の一秒単位が有意義になるほどに正確に操作することは、不可能だからです。

◆昔はみんな、手動計時
「手動計時よりも電子計時のほうが“遅く”なる」とは、どういうことでしょうか?
 

電子計時のなかった時代、どんなに大きな大会でも、トラックレースにはストップウォッチを使って手動計時をする計時審判員と、別に選手の着順を判定する着順審判員が大勢必要で、彼ら審判員はゴールライン真横の内側と外側に階段状に設けられた審判席に座って判定をしました。レースのスタートが近づくたびに、揃いのブレザーと白い帽子を被った“審判団”が足並みをそろえて入場してきて審判席に陣取り、終るとまた一糸乱れずという感じで立ち去っていく、といった光景が繰り返されたのです。
計時は1人の選手につき3人の審判が十分の一秒単位でタイムを計測し、そのうち2人以上のタイムが一致すればそのタイムを、3人とも一致しなかった場合は中間のタイムを採用することになっていました。
短距離種目では1レースに最大8人の走者が出場しますから、単純に言えば24名の計時審判が必要だったわけですが、その人数(プラス着順審判員)を収容できる審判席はかなり規模の大きなものが必要になりますし、人員を集めることも難しくなります。どうしていたかというと、1人の審判員が「1着と5着」「2着と6着」というように、右手と左手で2人の選手のタイムを測っていたのです。それでも計時審判員は12名が必要で、それだけの熟練計時員を揃えることはなかなかに大変なことだったはずです。

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 アナログ・ストップウォッチ(当時のものではありませんが仕様は類似)
 スタート/ストップ・ボタンは「親指の付け根で押す」のが正しい操作法。



熟練のプロではあっても、人間による計時は機械の正確さには到底及びません。
計時審判員は、スタートのピストルが放つ閃光または煙を見てストップウォッチのボタン(一度押せば時計が動き、もう一度押せば止まります。別のボタンを押すことによって「リセット」されます)を押し、選手のゴールインを見て再び押します。「スタートの反応時間」のところでも触れたように、人間はある合図を感知して何らかの行動を起こすのに、どうしてもなにがしかの時間がかかります。走者のスタートの動きがスタブロに伝わるまでの時間は0.1何秒かということをお話ししましたが、これが親指(正確には親指の付け根の関節)でストップウォッチのボタンを押すという動作の場合、さらに時間がかかります。
その一方で、人間の心理はゴールインする選手の動きをあらかじめ予測することによって、ゴールの瞬間はほぼ同時にストップウォッチを押してしまうのです。つまり、おおむね「合図からストップウォッチの始動までの時間」の分、記録されたタイムは実際よりも速いものになってしまうというわけです。
事実、東京五輪の100m決勝のレースで参考記録として手動計時されたタイムは、2つが9秒9、1つが9秒8を示していたと言われます。従来どおりの計時ルールであれば、ヘイズの優勝記録は当時の世界記録を破る「9秒9」だったことになります。


◆手動と電動の共存時代
その後、電子計時が普及し出して陸上短距離の公認記録が電子計時によるものと手動計時によるものの「二本立て」になった時期がありましたが、科学的に検証されたところで、「電動と手動のタイムの差異は、平均0.24秒」というデータが出されました。ランキングを作成する際など、手動で「10秒0」ならば、電動なら「10秒24」と換算されて扱われたのです。
0.24秒といえば、仮にフィニッシュ時に秒速10m(=時速36㎞)で疾走しているとすれば、距離にして2.4メートルもの違いになるわけですから、とんでもない誤差だとも言えます。


ところが、「人間なら誰でも平均0秒24速いタイムを計測してしまうよう時計を押してしまう」というのであればまだ割り切れるのですが、中には電子計時とほぼ同じ数値を手動で計時できる、という人がいます。スタートの時の反応時間による「遅れ」と同じく、ゴールの瞬間も「いまゴールだ、押せ!」という指令を脳が発してから押す習慣をつけることでほぼ同じ反応時間を“追加”することになり、結果的に電子計時と同じようなタイムを計測できるよう訓練した場合です。
実を言いますと、陸上観戦歴半世紀の私はこの「特技」の持ち主で、スタジアムでゴールの真横に陣取ってデジタル・ストップウォッチ(百分の1秒単位で計測可能)を片手に競技を観戦していれば、電子計時で計測された正式タイムとプラスマイナス百分の5秒程度の誤差で計時することができます。(もちろん、たまに失敗もありますが)
軽く自慢話をしてしまいましたが、ここで重要なのは、
「手動計時というのは、短距離走のタイム測定法としてはそれほどに誤差の大きい、いい加減なものだ」
ということです。電子計時の導入がもう1年遅れれば、ボブ・ヘイズは「人類初の9秒台ランナー」としてその時は途轍もない賞賛を集めたかもしれませんが、後になって振り返れば、「実はまがい物の9秒台ランナーだった」などと言われなくて済んだ、とも言えるでしょう。

人類が初めて電子計時により「9秒台」に突入したのは、その4年後のメキシコシティ・オリンピック(アメリカのジム・ハインズによる9秒95)。
その直前の全米選手権で、ハインズを含む3名のアメリカ人選手が9秒9を記録し(電子計時でのタイムはそれぞれ10秒03、10秒10、10秒14だったが、この大会では手動計時のほうを正式採用)、「人類初の9秒台・世界新記録」としてIAAFにも公認されましたが、すでに手動計時に対する懐疑的な見解も高まってきており、ハインズはメキシコで文句なしの「機械が測った9秒台」を叩き出すことで「本物」を証明してみせました。
100m競走で人類が9秒台の世界に突入する、まさにぴったりのタイミングで、電子計時は手動計時にとって代わる時代を迎えたことになるわけです。

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人類初の9秒台スプリンター、ジム・ハインズ。
その向こう側は当時同じく手動9秒9の世界記録保持者だったチャーリー・グリーン。


ただしメキシコシティは標高2240メートルに位置する「高地」であるため、「空気が薄い場所で出た記録の取り扱い」という別の議論を招くことになりました。ハインズの記録はその後15年間にわたって世界記録に君臨し続けますが、1983年5月にアメリカの大学生カール・ルイスが初めて“平地”での“電子計時”9秒台(9秒97)を達成するまで、「正真正銘の9秒台の時代とはならなかった」という意見もあります。同じ年の7月にカルビン・スミス(アメリカ)が“高地”で15年ぶりに9秒93の世界新記録を出し、ようやく男子100mの記録の歴史は再び動き始めることになります。
(続く)

 

<連載>100m競走を語ろう ④~スプリントの生命線「スタート」


◆初め良ければ・・・スタートから目を離すな!

どんな競技でも、スタートはスプリント種目の生命線。アスリートは出遅れや失敗がないよう超人的な集中力をここに注ぎ込み、観客はその瞬間を息を呑んで見つめます。

100メートル競走は、たった10秒内外の時間で、すべてが決してしまいます。選手の疾走スピードは最大秒速11メートルを超えるわけですから、100分の1秒といえども移動距離にすれば10センチ以上ということになります。10センチといえば、ゴールを真横から見ていれば肉眼でもはっきりと認識できるほどの差であり、選手にとっては決定的な距離と言えます。

この10センチ、0.01秒を削り出すために、選手は時に己の人生を賭けて努力を積み重ねているのでありまして、特にスタートの成否はこの0.01秒という時間をいとも簡単に稼ぎ出したり、逆に放出してしまうという、極めて重要な局面なのです。


もちろん、「100m競走はスタートがすべて」などと言うつもりはありません。むしろスタートをあまり重要視しないことで好結果に結びつけたというスプリンターの話も、たくさんあります。それはそれとしてまた後述する機会もありましょうが、仮に同じようなトップスピードとスピード持続力を持つ選手が並走したとすると、勝敗を分けるのはやはり、スタートおよびそれに続くダッシュの能力と技術、そしてピストルの音を聞いてから走り出すまでの反応時間、ということになるのです。
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◆スタートにまつわるルール
100mをはじめとする短距離競走では、「スターティングブロック(以降、時々「スタブロ」と略します)を使用し」「両手を地面に着いた姿勢で構える」ことがルールとなっています。すなわち「クラウチングスタート」が義務付けられているのです。逆に、800m以上の中長距離競走では、スターティングブロックの使用も、地面に手を着く構えも認められません。
このルールがいつ明文化されたのかは調査不足で分かりませんが、私が記憶する昔には、「スタートの構えは自由」とされていて、短距離でスタンディングスタートをしても構いませんでしたし、ごく稀にですが800m競走でクラウチングスタートをする(さすがにスタブロは使いませんでしたが)選手をかなり大きな大会で目撃したこともあります。

なぜ「短距離はクラウチングスタートが義務」となったのか?……おそらく、スタートの姿勢そのものよりも、現在では計時システムの重要な1パートとなっているスターティングブロックの使用をマストとする必要からではないか、と思われます。つまり、「フライング判定にスタブロの使用は不可欠」だからです。

スタートの構えが自由だった時代には、「もしかしたらスタンディングスタートの方が有利なのではないか?」という議論が常にありましたし、現在でも上記の縛りがない小学生の競技などでは、このことが話題になります。
クラウチングスタートの原理は、ごく簡単に言ってしまえば「前につんのめる力」を推進力に変えるということで、これにより、緩慢になりがちな「動作の始まり」をスピードアップさせるということです。つまり鋭いスタートダッシュを生むために最適の方法、ということです。
しかしながら、そのためには本当につんのめって転倒してしまわないように、体を支える強い脚力や体幹も必要になります。だから、筋力の十分でない小学生程度の子供では、むしろスタンディングスタートのほうが、初めからランニング・フォームがとれるために滑らかにスピードアップできるとされていて、これを科学的に検証した事例などもあります。

また、スターティングブロックなしにクラウチングスタートを行おうとすると、スパイクシューズを履いていたとしても水平に近い向きに前足を蹴り出す際に滑ってしまい、どうしてもうまくいきません。

「スターティングブロックを用いる」「クラウチングスタートを行う」という短距離走の2つのスタート・ルールは、切っても切り離せない関係になるわけですね。

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◆クラウチングスタートの始まり
クラウチングスタートを初めて世に知らしめたのは、近代オリンピックの第1回・アテネ大会(1896年)で100mと400mの短距離2冠に輝いた、トーマス・バーク(アメリカ)だと言われています。記録は100が12秒0、400が54秒2でした。現在の女子高校生の全国レベルくらいですが、これが当時の世界最高峰でした。
彼が実際にどのようなスタイルのスタートをしていたのかは、残された写真からでしか窺い知ることはできませんが、現在のクラウチングスタートとさほど変わりないように見受けられます。
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左から2人目がバーク選手。隣のレーンの選手が木の杭のようなものを使って構えているのが、面白い光景ですね。
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◆スタブロのない時代

陸上短距離選手を主人公にして描かれた映画『炎のランナー』(1981年、イギリス)では、1924年のパリ・オリンピックがクライマックスの舞台となっています。
控室からレースのトラックに向かう選手たちの寡黙な表情が迫力たっぷりに描かれているシーンがありますが、どの選手も手に銀色の鏝(こて)のようなものを持っています。
これは、スタートの位置に足を入れる穴を掘るためのスコップなんですね。すでにクラウチングスタートが当たり前になっていたこの当時、どの選手も自分専用の“マイ・スコップ”を持って競技に臨んだ様子がよく分かるひとコマです。スターティングブロックが登場するのは1948年のことですから、戦前はオリンピックといえども常にこうした光景があって、レース前の選手の“儀式”になっていたのです。アテネ大会当時のバーク選手が穴を掘っていたかどうかは写真からは確認できませんが、スタンディングスタートの構えをとる選手の中にも、軽く靴で引っ掻く程度の足場を掘っていたらしき跡は見受けられますね。
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各々の“マイ・スコップ”で足場の穴を掘る選手たち。(映画『炎のランナー』より)



◆木槌の時代

時代が下って記録映画『東京オリンピック』(1965年、東宝)では、100m決勝のスタート位置に集まった選手たちが、地面に木槌を打ち付ける様子がスローモーションで紹介されます。

今でも土のグラウンド用としてありますが、この当時はまだ全天候型トラックがなく、自分の足の位置にスタブロを五寸釘のようなもので地面に固定するという作業が、どんな大きな大会でも短距離のスタート前の“儀式”でした。ただし、スタブロも木槌も、大会側が用意したものです。映画では、釘を打つ金属音が乾いた響きをたてて、独特の緊張感を見事に演出しています。

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スタブロを打ち付けるボブ・ヘイズ。「スタート前の選手たちは、緊張のあまり、むしろ悲しげに見える…」とナレーションが入ります。(記録映画『東京オリンピック』より)

現在の全天候型トラック用のスタブロは、舗装樹脂に押し付けるようにして爪のような金具を食い込ませるだけで、簡単に固定されます。そして、競技で使用されるものの多くは、ケーブルで計時システムに接続されています。したがって、大規模な競技用のスターティングブロックは一般的なスポーツ用具メーカーの製品ではなく、その競技会をサポートする時計メーカーによって製作・提供されているものです。
 

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