豊大先生流・陸上競技のミカタ

陸上競技を見続けて半世紀。「かけっこ」をこよなく愛するオヤジの長文日記です。 (2016年6月9日開設)

トーマス・バーク

<連載>100m競走を語ろう ⑮~藤井實とその時代(前篇)



この<連載>も少々不定期な形で続けさせていただいていますが、ここからしばらくは、100m競走を彩ったさまざまな名選手や名勝負を軸に、その歴史を紐解いていこうかと思います。
その皮切りとして、この<連載>の⑪で「余談」としてご紹介した、日本陸上競技史・創成期の偉大なアスリート、藤井實さんについて、より詳しく語ってみましょう。

なお記述に当たり参考にした文献は、保阪正康著『100メートルに命を賭けた男たち』(1984年・朝日新聞社)と、WEB上にある土屋知子著『2011年度大手前大学博士論文『夏目漱石「三四郎」の比較文化的研究』です。前者については刊行当時に何度も何度も読み返した書籍ながら、現在手元に現物がないため記憶に頼るところがありますが、後者ともども多くの資料が『スポーツ八十年史』(1958年・公益財団法人日本体育協会)を原典としていると考えられますので、両者の整合性はとれているように思います。Wikipediaの該当記事も、この両著作を原典としているようです。
また写真も、後者の論文に掲載されているものを借用しています。前者の書籍にも、いくつか同じ写真が掲載されていたと記憶しています。
このほか藤井(以下敬称略)の事績についてはWEB上にいくつかの記事が散見されるものの、多くは事実の一片だけを誇張して記述したものですので、参考とするには値しませんでした。
100mだけでなく日本の陸上史を語る上では決して除外できないほどのアスリートであり、後には吉田茂と「俺、お前」で呼び合う仲の名外務官僚だったのですが、その実像に迫る資料があまり多くないのが不思議です。

藤井實
藤井實(1880または81-1963) ※上記「論文」13ページより)

◆陸上競技大会の始まり
スポーツの伝来については、競技ごとにその来歴がそこそこ明らかに記録されており、たとえば野球の場合は1871年(明治4年)に来日したアメリカ人によって東京開成学校予科(東京大学の前身)に伝えられ、73年頃に初の試合形式で行われた後、78年に最初の本格的球団「新橋アスレチック倶楽部」が誕生…といった具合で、日本におけるメジャーなスポーツは、おおむね明治の初期~中期に諸外国のさまざまな職業にある人々から伝播され、現在の大学にあたる学校の課外活動として歴史の第一歩を刻んでいることが伝えられています。

そこへ行くと、陸上競技の「第一歩」はどこに源流を求めればいいのかが、今一つ判然としません。
それは、イギリスから「陸上競技」として伝来するよりも前から、「駆けっこ」「投げ比べ」程度のゲームが自然発生的に行われていたのは間違いなかろうという推定があるためでしょう。
日本陸連のHPに紹介されている「競技史」も、端緒は初めてオリンピックに2人の代表を派遣した1912年(大正元年)ストックホルム大会からの記述となっており、それ以前については触れられていないのです。

で、おそらくはの推量となるのですが、形式からして「陸上競技大会」の体をなしているものとしては、1883年(明治16年)6月16日にイギリス人英語教師、フレデリック・ストレンジの肝煎りで開催された「東京帝国大学運動会」が、最も古く確かな記録かと考えられます。
「運動会」と称されるイベントはそれ以前にも存在していた可能性は高いと思われますが、ほぼ現代の陸上競技に特化した種目構成や、外部からの観客を多く集めて開催されたことなどを勘案すると、これ以前には「陸上競技大会」の痕跡は見つからないのです。
参考文献として挙げた「論文」は、表題からも分かるように夏目漱石の『三四郎』についての研究をまとめた文学論で、この小説の中に東京帝大の学生である主人公・小川三四郎が、20世紀初めごろの「運動会」を観戦に出かけている描写について、歴史的事実関係と照合したかなり詳細な考察を行っています。
(つまり、著者の土屋さんは、文学研究者でありながら、この描写の対象となった「運動会」の実態がとても気になったらしく、論文の主旨からすると脱線とも言うべき記述に大きく紙数を割いているのです。陸上競技ファンとしては、これがとても有益な資料となっているのは、ありがたいことです)

三四郎にとっては「運動会」の内容にはまったく興味がない様子で、実はこれを観戦に来ているはずのある女性が目当てです。こうした三四郎の思惑や行動に象徴されるように、当時の「帝大運動会」は、将来を約束された文武両道のヒーローを見たさに若い女性たちが観戦に詰めかけ、それをまた目当てに男たちも群がる、という社交サロンのような役割を果たしていたらしいのです。(美術展やコンサート、ダンスホールのように)
ゴール間近の観客席に目当ての女性を発見した三四郎は、そちらを凝視しているうちに数人の“男ども”がゴールに駆け込んでいくところをたまたま視界にとらえます。三四郎は、突然視線を邪魔するように過った“男ども”について、「どうして、あゝ無分別に走(か)ける気になれたものだろうと」思うくらいに、競走には何の関心も示しません。
この“男ども”の先頭にいた「紫の猿股を穿いた」選手が、(小説の中では明かされていませんが)ヒーローの中のスーパーヒーロー、藤井實だったと考えられています。つまり、漱石が実際に観覧した運動会の模様をそのまま、三四郎という架空の人物の視点から小説の一場面として描写しているわけです。

『三四郎』の時代から遡って、1886年(明治19年)から「東京帝大運動会」は秋の開催が恒例となり、翌87年に始まる漕艇大会(東大と一橋大の対抗戦「東商レガッタ」の前身)とともに、「春のボート/秋の陸上運動会」の2大看板イベントが成立、上に記したように、若い男女の社交場として人気を博していったということです。



◆藤井實の人物

生まれは1880年とも81年ともされ、定かではありません。東京・本郷の出身で、父親は昌平黌(江戸幕府によって設立された、儒学・漢学などの教育機関)の漢学教師だったそうですが、昌平黌は1870年に廃止されていますので、藤井の誕生当時は別の教育機関に何らかの形で関わっていたのではないでしょうか。
いずれにしろ、厳格かつそこそこに裕福な家庭の生まれ育ちと思われ、生家・父の職場・そして實の進路と、東京のあの辺り一帯を「庭」として成長したことは間違いないようです。

第一高等学校(現在の東京大学教養学部に相当)から東京帝大法科へと進んだのが1902年(明治35年)のこと。一高時代から並ぶもののないスーパー・アスリートだった藤井は、この年の秋に行われた「帝大運動会」で、例の「10秒24」という電気計時による快記録を樹立した、ということになっています。

前の記事と重複しますが、この記録の真偽を問うことは、藤井自身の後年の事績や計時装置を開発した田中舘愛橘教授の信望からして、一種のエチケット違反とする考え方が定着しています。心の中で「そんなわきゃーない!」と思っていても、口には出さず、というのが落としどころなのです。(と、思いっきり書いちゃってますが…)
藤井はその前後、つまり一高時代から法科卒業後はOBとして、毎回のように運動会に参加して、短距離走と棒高跳には無類の強さを発揮しました。
自身の述懐によれば、現役時代の体格は「身長5尺9寸5分(約180.3㎝)、体重18貫500匁(約69.4㎏)」とのことで、冒頭の写真からも伺えるように、当時としては並外れてスポーツの資質に恵まれた“巨漢”だったと言えるでしょう。後年、初老に差し掛かった頃に同窓生の吉田茂と並んで写っている写真が前記の『100メートルに命を賭けた男たち』に掲載されていたと思いますが、体つきは吉田より優に二回りは大きく、長い顔が特徴的だったのを覚えています。
もう一度、写真を見てください。ふくらはぎの筋肉の発達ぶりは、素質だけで抜きんでた存在に居座っていたのではないことを、明瞭に物語っています。


写真で身に着けているのが、三四郎が目に留めた「紫色の猿股」でしょうか。
当時はもちろん、スポーツ用品店でランパンを買って、などということはあるはずもなく、軽くて着心地のいい生地を見繕って自作したもののようです。母親の着古した着物の生地を利用して手縫いで作った(あるいは母親が作ってくれたかもしれませんが、藤井自身が作った可能性もあります)ものだそうです。
ちなみに、短パンというよりは現代のバスケットボールやサッカーの選手が穿くハーフパンツのような長さですが、これは運動会の規定で「膝丈よりも短くてはいけない」ことによるものです。

ランパンを自作するのは、藤井に限らず当時の陸上選手にとって当たり前のことだったはずです。一方で藤井は、海外のスポーツ雑誌を読み漁り、そこに掲載されていた広告のメーカーからスパイクシューズを取り寄せ(もちろん輸入です)、日本で初めてスパイクを履いてレースに出たアスリートとしても歴史に名を刻んでいます。(このあたりから、「そこそこ裕福な家庭」と想像するわけです)

さらに推測を推し進めれば、日本で初めてクラウチングスタートを行った選手でもあるのではないでしょうか?…世界で初めてクラウチングスタートをした選手は、第1回オリンピック(1896年)の優勝者トーマス・バークだと言われており、研究熱心な上にそうした海外の情報をいち早くキャッチする術に長けていた藤井が、真っ先にこれを模倣した可能性は高いと思います。


もう一つ、得意とした棒高跳では、日本のどこにでも生えている竹のしなりに目をつけ、これをポールにすることを考えつきました。それまで、ポールの素材としてはアメリカンパインという木材が使われていましたが、ほとんど曲がりのない、折れにくい丈夫さ、軽さが取り柄のものでした。
竹の柔軟性と軽さ、強さこそはポールに最適と考えた藤井は、周到・仔細に最適な竹の品種や収穫時期を検討してから自ら竹林に入って手ごろな竹を何本も切り、まず節を抜いて真っ直ぐに成形した後、バランスのいいもの3本だけを選んで、大学の柔剣道場の天井にぶら下げ、虫食いや亀裂が起こらないよう管理しながら3年間乾燥させ、遂に競技に耐えるバンブー・ポールを作り上げることに成功した…いやはや、気の遠くなるような作業を、誰の手も借りずに自分で行っていたわけですね。

この一件からも、藤井がいかに創成期の陸上競技に熱意を傾けて取り組んでいたか、また秀才としての資質を如何なく発揮して創意工夫を凝らしていたか、それだけでも「日本の陸上競技の父」と呼ぶにふさわしい、偉大なパイオニアであったことが知れようというものでしょう。

今さら言うまでもなく、竹製のポールはまず金属製、続いてグラスファイバーやカーボンファイバーなどの新素材の登場によって、戦後まもなく駆逐されてしまいます。けれども、私が中学・高校の陸上競技部に在籍していた当時(1970年代)は、練習用に短めの竹のポールが、ちゃんと倉庫にありましたよ。私は棒高跳は怖くてできませんでしたが、その竹ポールを使って遊びのような跳躍をしてみたことは何度もあります。全然曲がりませんでしたけど。(笑)
こうして19世紀に産声をあげた日本の陸上界では、20世紀に入って藤井が開発したこのポールを使うことで、まず藤井自身が世界記録を樹立し、そしてその後の1932年・36年のオリンピックでは通算3つのメダルを獲得しているのです。

(後篇へ続く)


<連載>100m競走を語ろう ④~スプリントの生命線「スタート」


◆初め良ければ・・・スタートから目を離すな!

どんな競技でも、スタートはスプリント種目の生命線。アスリートは出遅れや失敗がないよう超人的な集中力をここに注ぎ込み、観客はその瞬間を息を呑んで見つめます。

100メートル競走は、たった10秒内外の時間で、すべてが決してしまいます。選手の疾走スピードは最大秒速11メートルを超えるわけですから、100分の1秒といえども移動距離にすれば10センチ以上ということになります。10センチといえば、ゴールを真横から見ていれば肉眼でもはっきりと認識できるほどの差であり、選手にとっては決定的な距離と言えます。

この10センチ、0.01秒を削り出すために、選手は時に己の人生を賭けて努力を積み重ねているのでありまして、特にスタートの成否はこの0.01秒という時間をいとも簡単に稼ぎ出したり、逆に放出してしまうという、極めて重要な局面なのです。


もちろん、「100m競走はスタートがすべて」などと言うつもりはありません。むしろスタートをあまり重要視しないことで好結果に結びつけたというスプリンターの話も、たくさんあります。それはそれとしてまた後述する機会もありましょうが、仮に同じようなトップスピードとスピード持続力を持つ選手が並走したとすると、勝敗を分けるのはやはり、スタートおよびそれに続くダッシュの能力と技術、そしてピストルの音を聞いてから走り出すまでの反応時間、ということになるのです。
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◆スタートにまつわるルール
100mをはじめとする短距離競走では、「スターティングブロック(以降、時々「スタブロ」と略します)を使用し」「両手を地面に着いた姿勢で構える」ことがルールとなっています。すなわち「クラウチングスタート」が義務付けられているのです。逆に、800m以上の中長距離競走では、スターティングブロックの使用も、地面に手を着く構えも認められません。
このルールがいつ明文化されたのかは調査不足で分かりませんが、私が記憶する昔には、「スタートの構えは自由」とされていて、短距離でスタンディングスタートをしても構いませんでしたし、ごく稀にですが800m競走でクラウチングスタートをする(さすがにスタブロは使いませんでしたが)選手をかなり大きな大会で目撃したこともあります。

なぜ「短距離はクラウチングスタートが義務」となったのか?……おそらく、スタートの姿勢そのものよりも、現在では計時システムの重要な1パートとなっているスターティングブロックの使用をマストとする必要からではないか、と思われます。つまり、「フライング判定にスタブロの使用は不可欠」だからです。

スタートの構えが自由だった時代には、「もしかしたらスタンディングスタートの方が有利なのではないか?」という議論が常にありましたし、現在でも上記の縛りがない小学生の競技などでは、このことが話題になります。
クラウチングスタートの原理は、ごく簡単に言ってしまえば「前につんのめる力」を推進力に変えるということで、これにより、緩慢になりがちな「動作の始まり」をスピードアップさせるということです。つまり鋭いスタートダッシュを生むために最適の方法、ということです。
しかしながら、そのためには本当につんのめって転倒してしまわないように、体を支える強い脚力や体幹も必要になります。だから、筋力の十分でない小学生程度の子供では、むしろスタンディングスタートのほうが、初めからランニング・フォームがとれるために滑らかにスピードアップできるとされていて、これを科学的に検証した事例などもあります。

また、スターティングブロックなしにクラウチングスタートを行おうとすると、スパイクシューズを履いていたとしても水平に近い向きに前足を蹴り出す際に滑ってしまい、どうしてもうまくいきません。

「スターティングブロックを用いる」「クラウチングスタートを行う」という短距離走の2つのスタート・ルールは、切っても切り離せない関係になるわけですね。

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◆クラウチングスタートの始まり
クラウチングスタートを初めて世に知らしめたのは、近代オリンピックの第1回・アテネ大会(1896年)で100mと400mの短距離2冠に輝いた、トーマス・バーク(アメリカ)だと言われています。記録は100が12秒0、400が54秒2でした。現在の女子高校生の全国レベルくらいですが、これが当時の世界最高峰でした。
彼が実際にどのようなスタイルのスタートをしていたのかは、残された写真からでしか窺い知ることはできませんが、現在のクラウチングスタートとさほど変わりないように見受けられます。
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左から2人目がバーク選手。隣のレーンの選手が木の杭のようなものを使って構えているのが、面白い光景ですね。
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◆スタブロのない時代

陸上短距離選手を主人公にして描かれた映画『炎のランナー』(1981年、イギリス)では、1924年のパリ・オリンピックがクライマックスの舞台となっています。
控室からレースのトラックに向かう選手たちの寡黙な表情が迫力たっぷりに描かれているシーンがありますが、どの選手も手に銀色の鏝(こて)のようなものを持っています。
これは、スタートの位置に足を入れる穴を掘るためのスコップなんですね。すでにクラウチングスタートが当たり前になっていたこの当時、どの選手も自分専用の“マイ・スコップ”を持って競技に臨んだ様子がよく分かるひとコマです。スターティングブロックが登場するのは1948年のことですから、戦前はオリンピックといえども常にこうした光景があって、レース前の選手の“儀式”になっていたのです。アテネ大会当時のバーク選手が穴を掘っていたかどうかは写真からは確認できませんが、スタンディングスタートの構えをとる選手の中にも、軽く靴で引っ掻く程度の足場を掘っていたらしき跡は見受けられますね。
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各々の“マイ・スコップ”で足場の穴を掘る選手たち。(映画『炎のランナー』より)



◆木槌の時代

時代が下って記録映画『東京オリンピック』(1965年、東宝)では、100m決勝のスタート位置に集まった選手たちが、地面に木槌を打ち付ける様子がスローモーションで紹介されます。

今でも土のグラウンド用としてありますが、この当時はまだ全天候型トラックがなく、自分の足の位置にスタブロを五寸釘のようなもので地面に固定するという作業が、どんな大きな大会でも短距離のスタート前の“儀式”でした。ただし、スタブロも木槌も、大会側が用意したものです。映画では、釘を打つ金属音が乾いた響きをたてて、独特の緊張感を見事に演出しています。

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スタブロを打ち付けるボブ・ヘイズ。「スタート前の選手たちは、緊張のあまり、むしろ悲しげに見える…」とナレーションが入ります。(記録映画『東京オリンピック』より)

現在の全天候型トラック用のスタブロは、舗装樹脂に押し付けるようにして爪のような金具を食い込ませるだけで、簡単に固定されます。そして、競技で使用されるものの多くは、ケーブルで計時システムに接続されています。したがって、大規模な競技用のスターティングブロックは一般的なスポーツ用具メーカーの製品ではなく、その競技会をサポートする時計メーカーによって製作・提供されているものです。
 

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