1972年といえば、私は中学3年生。自身も部活で陸上競技に取り組んでおり、また都内近郊で行われる大会には足しげく観戦に訪れていました。
当時はまだ、日本選手権などのビッグゲームはほとんど国立霞ヶ丘競技場で開催されていました。国立が全天候型トラックに改装されるのは翌年のことで、まだ鮮やかな色彩のアンツーカー・トラックでした。そのため、都内に唯一存在した全天候トラックの世田谷総合運動場で時折陸連主催の「記録会」が開催されていて、私はこれにも渋谷から長時間バスに揺られて出かけて行ったものです。
72年のオリンピック最終選考会となった日本選手権も、最終日は雨の中の試合となり、2年前に走幅跳で日本人初の8mジャンプを達成した山田宏臣選手が泥田のような走路に苦渋の表情を浮かべながら敗れ去っていった光景を、よく覚えています。私が大好きだった女子走幅跳の香丸恵美子さん(岡山沙英子選手の母親)も、この試合を最後に引退しました。

さて、ミュンヘン大会の競技を振り返る前に、この大会の開会式での素晴らしい光景をご紹介しましょう。
当時「聖火点灯」と言えば、どちらかと言えば未来を嘱望される無名の若いアスリートが一人で粛々と場内を一周して聖火台に向かう、というセレモニーでした。話題になるのはその人選にまつわるエピソードなどで、たとえば東京大会では原爆投下の日に広島県で誕生した坂井義則選手、メキシコシティ大会では史上初の女性最終ランナーというエンリケタ・バシリオ選手、さかのぼって56年のメルボルン大会では後に長距離王の名を欲しいままにするロン・クラーク、52年のヘルシンキ大会ではかつての長距離王パーボ・ヌルミ、といった具合です。
ミュンヘン大会では、やはり無名のギュンター・ツァーンという青年が最終ランナーに選ばれたのですが、彼が聖火を掲げて入場してくると、その後に4人のランナーが四角形の隊形を作って伴走してくる光景に、目を奪われました。純白のランニングウエアをまとった4人は、アメリカ最強のマイラー、ジム・ライアン、そのライアンを破ってメキシコシティ大会1500mの金メダリストになったキプチョゲ・ケイノ(KEN)、世界で初めてマラソンのサブテン・ランナーとなったデレク・クレイトン(AUS)、そして3大会連続してマラソン代表となった我らが君原健二。
つまり、ツァーン青年を含め、5つの大陸を代表するランナーたちが隊列を組んで聖火をゴール地点の聖火台へ送り込むという、今にしてみれば素朴ながらまことに粋な演出でした。
現在のように、コンピューター仕掛けの大仰な特殊効果に何人もの地元のヒーローが次々にトーチをリレーしていく、といった過剰演出ではありませんけれども、個人的な感想として感動は数倍上だったように思えます。

また、ミュンヘン大会は開催中にパレスチナの過激組織ブラック・セプテンバーによるイスラエル選手団襲撃事件が発生し、陸上競技のコーチ1人を含む11名が殺害されるという痛ましい出来事が語り継がれます。
「オリンピックはテロリズムに屈しない」として1日の中断を経て大会再開を決めたエイヴァリー・ブランデージIOC会長の英断は評価されますが、スポーツ大会の政治的利用がこの頃から暗い影を落とすことになっていきます。

◆各種目の金メダリストと主な日本選手の成績
*URS=ソビエト連邦 GDR=東ドイツ GER=西ドイツ CZS=チェコスロバキア

<男子>
   100m ワレリー・ボルゾフ(URS) 10"14
   200m  ワレリー・ボルゾフ(URS) 20"00
   400m ヴィンセント・マシューズ(USA) 44"66
   800m デーヴィッド・ウォトル(USA) 1'45"86
  1500m ペッカ・ヴァサラ(FIN) 3'36"33
  5000m ラッセ・ヴィレン(FIN) 13'26"42(OR)
 10000m ラッセ・ヴィレン(FIN) 27'38"35(WR) ※澤木啓祐・宇佐美彰朗:予選敗退
 110mH ロッド・ミルバーン(USA) 13"24(WR)
 400mH ジョン・アキー=ブア(UGA) 47"82(WR)
 3000mSC キプチョゲ・ケイノ(KEN) 8'23"64(OR) ※小山隆治:決勝9位
 4×100mR アメリカ 38"19(WR)
 4×400mR ケニア 2'59"83
 マラソン フランク・ショーター(USA) 2:12'19"8 ※
君原健二:5位入賞 宇佐美彰朗:12位 采谷義秋:36位
 20kmW ペーター・フレンケル(GDR) 1:26'42"4(OR)
 50kmW ベルント・カンネンベルク(GER) 3:56'11"6(OR)
 HJ ユーリ・タルマク(URS) 2m23 ※冨澤英彦:決勝19位
 PV ヴォルフガンク・ノルトヴィク(GDR) 5m50(OR)
 LJ ランディ・ウィリアムズ(USA) 8m24
 TJ ヴィクトル・サネイエフ(URS) 17m35 ※井上敏明:決勝12位
 SP ウラディスラフ・コマール(POL) 21m18(OR)
 DT ルドウィク・ダネク(CZS) 64m40
 HT アナトリー・ボンダルチュク(URS) 75m50(OR) ※室伏重信:決勝8位
 JT クラウス・ヴォルファーマン(GER) 90m48(OR)
 DEC ニコライ・アヴィロフ(URS) 8454p.(WR)

  

<女子>
   100m レナーテ・シュテッヘル(GDR) 11"07(WR)
   200m  レナーテ・シュテッヘル(GDR) 22"40(=WR)
   400m モニカ・ツェールト(GDR) 51"08(OR)
   800m ヒルデガルト・ファルク(GER)  1'58"55(OR)
 1500m リュドミラ・ブラギナ(URS) 4'01"38(WR) ※新種目
 100mH アンネリー・エアハルト(GDR) 12"59(WR) ※80mHから変更
 4×100mR 西ドイツ 42"81(WR)
 4×400mR 東ドイツ 3'22"95(WR) ※新種目
  HJ ウルリケ・マイファルト(GER) 1m92(=WR) ※稲岡美千代・山三保子:予選敗退
  LJ ハイデマリー・ローゼンダール(GER) 6m78 ※山下博子:予選敗退
  SP ナゼジデ・チジョワ(URS) 21m03(WR)
  DT ファイナ・メルニク(URS) 66m62(OR)
  JT ルート・フックス(GDR) 63m88(OR)
  PEN メアリー・ピータース(GBR) 4801p.(WR) ※80mH→100mHに変更


猫ちゃんが会員になれる!にゃねっとCLUB会員登録キャンペーン!

◆世紀の大遅刻
全般にソ連をはじめとする“東側諸国”の躍進が目立ち始めた大会で、金メダル数ではソ連9個に対して王者アメリカは女子で1つも獲れなかったことも響いて6個に留まり、また東西に分かれたドイツ勢の活躍が目立ちました。

ソ連vsアメリカの象徴的な結果となったのが、男子100m。
2次予選に出場するはずのアメリカ3選手が、コーチに間違った時間を伝えられていたことから自分の出るべきレースに「遅刻」してしまい、優勝候補筆頭のエディ・ハートとレイ・ロビンソンが「DNS」の扱いになってしまったのです。ロバート・テイラーを含めた3人は選手村で寛ぎながらテレビを視ていましたが、突然「おい、これ(1次予選の)ビデオじゃないぜ。俺たちのレースだ!」と気付いてスタジアムに駆けつけたものの時すでに遅し…3組のテイラーだけが辛うじて間に合って決勝まで進みましたが、ロシアのボルゾフの前に屈辱の銀メダルに終わりました。
白人選手として1960年ローマ大会のアルミン・ハリー(GER)以来の100m金メダリストとなったボルゾフは、その勢いのままに200mも制して短距離2冠に輝きました。

アメリカvs東ドイツという図式で典型的だったのが、棒高跳。オリンピック不敗を続けてきたアメリカの、16連覇目を前回自らの手で勝ち取ったボブ・シーグレンが遂に東ドイツのノルトヴィックに敗れ、その輝かしい歴史に幕を下ろす役割をも引き受けてしまったのでした…。



◆地元のヒロイン

1960年代後半あたりから、西ドイツの美人アスリートとして人気を博していた“赤毛のハイディ”ことハイデ・ローゼンダールが、熱狂的な応援をバックに大活躍しました。
最初に出場した走幅跳では1回目に6m78を跳んでリードを奪うと、4回目でブルガリアのヨルゴワに1センチ差まで詰め寄られましたが、そのまま逃げ切って金メダルを獲得。

続く五種競技では、2種目めの砲丸投で“本職”のメアリー・ピータースに大差をつけられ、走高跳でも17センチも上を跳ばれて、初日を終わったところで301点差の5位という絶望的な状況…しかし2日目の2種目、得意の走幅跳では自己記録に1センチと迫る6m83、200mではトップのピータースに1秒以上の大差をつける22秒96、最後は10点差まで詰め寄る猛烈な追い上げで銀メダルを獲得しました。

スタンドを最高潮に盛り上げたのが、アンカーとして出場した400mリレーでした。
3走からトップでバトンをもらったものの、追走する東ドイツとの差は僅かに1メートルほど。東ドイツのアンカーは、圧倒的なスプリント力で短距離2冠のシュテッヘル…誰もが逆転劇を思い描いたのですが、ローゼンダールは終始1メートルの差を守ったまま大歓声に引っ張られるようにして、金メダルのゴールを駆け抜けました。

ローゼンダールはこの大会を最後に引退しましたが、西ドイツの国民的ヒロインとしてテレビのコメンテーターなどでも人気は高く、2000年代に入って男子棒高跳の6mヴォルター、ダニー・エッカーの母親として再びその名が取り沙汰されました。
Heide_Rosendahl_1972_Umm_al-Quwain_stamp
 
切手にもなったローゼンダール

男子1、女子5つの金メダルを獲得した西ドイツ勢の中で、もう一人ヒロインを挙げるとすれば、16歳で走高跳に1m92の世界タイ記録を跳んで優勝したウルリケ・マイファルトでしょう。
4年前にフォスベリーが初めて披露した背面跳びをいち早く取り入れ、右手を先行させて送り込むスタイルで綺麗な弧を描くフォームは、まだ十分に普及しきっていなかった背面跳びの、既にして“完成型”を思わせるほどのものでした。(この大会の頃はまだまだベリーロールが主流でした)
「天才少女」の名を得たマイファルトでしたがその後は紆余曲折の競技人生を送り、12年後のロサンゼルス・オリンピックで再び世界の頂点に立つことになります。

◆マラソンに怪物ランナー現る
円谷幸吉・君原健二によって2大会連続マラソンのメダルを得た日本では、1970年に宇佐美彰朗が2時間10分台の日本最高記録で福岡国際マラソンに優勝して「世界と戦うエース」の座を不動のものにしていましたが、翌年の福岡でその宇佐美の前に突如立ちはだかったのが、長髪にヘアバンド、口ひげを蓄えたヒッピー(当時の自由放埓な若者風俗)のような風貌のフロリダ大学生、フランク・ショーターでした。

マラソン・レースは東京大会で全行程完全TV中継が実現していましたが、これは日本ならではの優れた中継技術あってのもの、このミュンヘン大会では数か所の定点カメラからの中継が時間を置いて送られてくるというものでした。序盤からショーターの独り旅、期待の宇佐美は遅れているという実況が伝えられ、やがて宇佐美に代わって君原が追い上げてきた、とのレポートに僅かな期待を込めてテレビに見入ったものでした。

いよいよショーターが競技場に近づいたところの実況が始まり、映像がスタジアムに切り替わった時、ハプニングが…マラソンゲートを通って“凱旋”してきたのは、明らかにショーターとは別人。どうやら地元ファンによる人騒がせなジョークだったようで、一瞬スタンドは完全に引っ掛かってこの闖入者に大歓声を送ってしまったのでした。この男が係員に取り押さえられたところで現れた「本物」が、2位のカレル・リスモン(BEL)に2分以上の差をつけてマラソン実力世界一の座に躍り出たのです。 

ショーターはその年の暮れにも福岡にやって来て日本選手を寄せ付けず優勝すると、翌年春には毎日マラソン(現・びわ湖毎日マラソン)に参戦。このレースで復活を期する佐々木精一郎とのトップ争いのさなかに突如沿道の観客から小旗をもぎ取ってコースを離れ、草むらに駆け込んで「大」の用事を済ませると素知らぬ顔でレースに復帰、そのままぶっちぎりで優勝をさらうという怪物ぶりを発揮しました。(折しも、競馬界が「怪物ハイセイコー・ブーム」に沸いていた頃の話です)
さらにショーターは福岡国際での連覇を4にまで伸ばし、76年モントリオール大会での五輪連覇は確実と見られていましたが、なぜかオリンピックのレースだけ快走するワルデマール・チェルピンスキー(GDR)の前に敗れてしまいました。

ショーターが日本のレースにやって来た72年の福岡の後だったでしょうか、私は東京の代々木第二体育館で室内跳躍競技会を観戦していました。そのスタンドにいた私の目の前に、オリンピックのマラソン・チャンピオンが突然姿を現したのです。夢中で手元にあったノートを取り出し、サインを貰った時の信じられないような気持ちは忘れられません。長じて多くの芸能人や著名人と仕事上でお会いする職業に就いた私ですが、そうした方々に私的にサインをねだったことはただの一度もありません。この時の、ショーターのちょっと朴訥な直筆だけが、私の宝物です。
(実はこの大会で、多くの日本の棒高跳・走高跳トップアスリートの皆さんのサインを収集してたんですけどね)
IMG_20160730_0001_NEW
これが「家宝」F.ショーターの直筆本物サイン。2・10・30は72年の福岡でマークした自己最高記録。

ショーターはミュンヘン大会で陸上王国の座をソ連に明け渡してしまったアメリカを救う存在となったわけですが、もう一人、長距離で忘れることのできないアメリカ人選手がいました。5000mで4位になったスティーヴ・プレフォンテインです。
オレゴンの学生だったプレフォンテインは、常に先頭を引っ張り押し切るレース・スタイルで地元のユージーンでカリスマ的な人気を誇っていた選手で、ミュンヘンでも持ち味を遺憾なく発揮したものの僅かにメダルには及びませんでした。
ミュンヘンの3年後、彼は自ら運転する車をクラッシュさせて24歳で夭折します。その名前は、現在のダイヤモンドリーグ・ユージーン大会の固有タイトルである「プレフォンテイン・クラシック」という大会名として残り、3年後にはこの地で世界選手権が開催される予定になっています。