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(日刊スポーツWEBサイトより)
 

今や陸上強国とは言い難いながら、それでも有力選手・人気選手を数多く抱えるロシアが、とうとう陸上競技チームとしてはリオ・オリンピックに出場できないことになってしまいました。
ちょっと思い浮かべるだけでも、女子PVのエレーナ・イシンバエワをはじめ、HJのアンナ・チチェロワにマリア・クチナ、110mHのセルゲイ・シュベンコフ、男子LJのアレクサンドル・メンコフといったタイトル・ホルダー、そしていつのオリンピックでも好選手を輩出する女子の中距離やロングスプリント、マイルリレー、男子投擲種目・・・さらにはトップ選手がすでに当事者として処分されているものの、すぐに巻き返せるだけの選手層を持っているはずの男女競歩や女子マラソン。
「潔白な選手に限って出場を認める救済策を…」云々の成り行きが気になりますが、まずは今年のDLシリーズでも続いているロシア不在の状況は、リオでも変わらずということになりそうです。 

もちろんドーピングは、ロシアだけの問題ではなく、陸上競技だけの問題でもありません。
最近の情報にも、見苦しい言い訳や嘆願を続けるマリア・シャラポア(テニス)やパク・テファン(競泳)の動向、あるいは長距離王国ケニアの監視体制の緩さが依然として問題になっていたり、ジャマイカの一部選手の失格が確実になったなどの話題もあります。 

陸上競技に限って言えば、初めて金メダルを剥奪されたことで歴史にその名を残すこととなったベン・ジョンソン(CAN)の”活躍”した時期は、まさに暗黒史の幕開け時代だったと言えます。
IAAFのレコードブックには、おそらくドーピングの、それも国家ぐるみ・地域ぐるみの組織的ドーピングの成果であろうという心証を世界中の関係者が持っているにも関わらず、いまだに「世界記録」として刻まれ続けているものがいくつもあります。
男子円盤投・ハンマー投・女子400m・800m・4×400mR・砲丸投・円盤投・・・これらはいずれも、1980年代中盤からベルリンの壁が崩壊する1989年までの間に、ソ連または東ドイツなど東欧圏の選手によって樹立されたものです。この時期のこれらの種目に関しては、世界記録以外でも多くの記録がいまだに歴代ランキングの上位を占めていることからも、主としてパワー系種目における東欧諸国の選手によるパフォーマンスが突出していた事実は、当時を知る誰もが認めています。 

他に、最近具体的な証言が出てきつつあるという90年代前半の中国女子中長距離「馬軍団」による合法(あくまでも当時の基準で)ドーピング疑惑。1500mの世界記録は昨年22年ぶりに破られましたが、10000mのワン・ジュンシャの29分31秒78という記録は、当分近づくことすらできそうにありません。
フローレンス・グリフィス・ジョイナー(USA)による短距離2種目の世界記録も、あまりに突出していることと結果的にごく短い期間でのパフォーマンスだったことなど、疑惑を口にする人が今でも絶えません。本人が若くして亡くなっていることも、疑惑の根拠となると同時に、解明のチャンスが失われたことを意味する、と言われています。
保存された検体などの物的証拠が残っていないために、そうした証言が精査され事実と認定されない限りはこのまま闇の中ということにもなりそうですが、数々の「疑惑の世界記録」が公式に認められていることは、確かです。 

2000年をまたいで自転車の『ツール・ド・フランス』に総合7連覇の偉業を刻んだかに見えたランス・アームストロング(USA)は、ツール撤退後に別の違反選手による証言がきっかけとなってドーピングの状況証拠が固められ、最終的には「自白」によって全ての成績を抹消される、という処分に至りました。
つまり、物的証拠がなくても「バレる」可能性はあることを示した点に意義はあるのですが、あくまでも自転車競技という、伝統的にドーピングに対するモラルが低く、また陸上競技などに比べれば狭い世界での出来事で、結果を見れば「バレるべくしてバレた」という印象を持ったものです。

自転車競技に関連して、近藤史恵・著『エデン』 (新潮文庫)という、自転車のロードレースを題材にした小説のことを思い出しました。
ここには、「なぜドーピングが後を絶たないのか」という疑問に対するヒントとなるようなくだりが出てきます。
「今度のやつは、絶対にバレないよ」
という”悪魔の囁き”が、常にアスリートたちを追いかけ回している、という状況です。
これだけ多くのトップ・アスリートが汚名にまみれながら、なおも一向にドーピング禍が収束する気配を見せないのは、現実に不正を隠しおおせている事実がまだまだ存在し、そのことを何かの機会で知るアスリートが「バレなければ不正ではない」とばかりに追従するからではないか、と考えさせられます。

日本人的な感覚では、「悪いことして、もしバレたら大変」という意識が先行しますから、そういう感覚はなかなか理解しにくいところです。しかし、モラルだとかスポーツマンシップだとかの意識が薄い環境で育ってきたアスリート、あるいは自分の属する組織の意向に従う社会環境のもとにスポーツに取り組んできた者にとって、「バレそうにない不正と引き換えの栄光と富」の誘惑は、尋常ならざるものであるに違いありません。
ランスのケースなど、もし調査が一歩甘ければ、私たちファンが永久に騙され続けていた可能性も十分にあったのです。(むしろそのほうが、ファンの気持ちとしては幸せだったでしょうが…)それを受けて、「今度はバレない」と考える輩が出てくるのは、なかなか止められません。

公正に競わないスポーツに意味はないし、勝ち負けにスポーツの全ての意義があるわけでもありません。
その価値観を共有するだけで、多くの人々を失望させるような事態を未然に防ぐことは可能だろう、と思う反面、「悪魔の囁き」を仕掛けてくる闇の力は、思いのほか強大なものなのかもしれません。