豊大先生流・陸上競技のミカタ

陸上競技を見続けて半世紀。「かけっこ」をこよなく愛するオヤジの長文日記です。 (2016年6月9日開設)

カトリン・ドーレ

連載「懐かしVHS時代の陸上競技」#9~1991/第10回大阪国際女子マラソン


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今回のお宝映像は、あの有森裕子が日本女子マラソンのトップランナーに躍り出た、1991年1月の『大阪国際女子マラソン』です。
第10回の記念大会ということで、初代から4代目までの歴代優勝者が招待されるという豪華な顔ぶれの中で、国内的にはこの夏に開催される東京世界選手権の代表選考を兼ねた、熱い戦いが繰り広げられました。
出場した歴代女王は、第1回のリタ・マルキシオ(ITA)、第2・4回のキャリー・メイ(IRL)、第3回のカトリン・ドーレ(GER)、第5・6・8回のロレーン・モラー(NZL)で、いずれもこの時点では現役バリバリ。第7回のリサ・マーチン(AUS)と前回のロサ・モタ(POR)は残念ながら都合つかず。ですが、ソウル五輪のマラソン上位3人がいずれも大阪で優勝している、というのはなかなかなことですね。(モタのみ、五輪後の優勝)
歴代女王以外では、ソウル4位のタチアナ・ポロビンスカヤ(RUS)、ボストン・シカゴなどのメジャー大会を獲っている強豪リサ・ワイデンバック(USA)、大阪5年連続出場のレナタ・ココウスカ(POL)、チェコスロヴァキア記録を持つA.ペテルコヴァなど、海外招待選手は総勢15人。
国内招待選手は、浅井えり子(日本電気HE)、有森裕子、松本真由美(以上リクルート)、石倉あゆみ(京セラ)、黒崎しのぶ(大阪陸協)、田中弘子(旭化成)、鰍谷真由美、名雪多美代(以上セイコー電子)の8名です。

放送製作は関西テレビ(フジテレビ系列)。メイン実況は競馬の実況者として杉本清さんの先輩だった松本暢章アナ、解説は帖佐寛章陸連専務理事。第1放送車に塩田利幸アナと解説・豊岡示朗大阪体育大学教授、第2放送車に馬場鉄志アナと解説・澤木啓祐順天堂大監督、第3放送車に毛利八郎アナなど。
大会冠スポンサーは、第1回から第20回までダイエー・グループでした。
確か、『東京国際マラソン』もダイエーグループの協賛だったと思いますが、2分間、レースの映像を半画面に残しつつ延々とグループ各社(ローソンやビッグボーイ、オレンジページ、福岡ダイエーホークスに至るまで)をロール表示していくCMがとても印象深く、好感を持てるものでした。企業によるスポーツの応援はこうあって欲しい、と思わされる手法でしたね。
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さて、レースはトラックの周回時点から、中国のチェン・シンメイ(愛知教育大)がポンと飛び出し、以後のレースをずっとメイクしていくことになります。ソウル5位の趙友鳳に続き、同じ竹内伸也監督のもとで国際ランナーへの飛躍を目指すチェンは、少し腕振りなどの動きに固さが感じられるものの、スラリとした身体の割には太腿の肉付きなどなかなか逞しく、十分な素質を秘めていたように見受けられます。
長居公園の周回路に出たあたりでいったん吸収されますが、この飛び出しの影響で隊列は縦長の中にいくつかの小集団が形成される展開になります。
先頭は、チェンの他、リ・ジュワン(CHN)、ドーレ、ポロビンスカヤ、ワイデンバック、ココウスカ、ペテルコヴァ、浅井、有森、そしてマラソンデビュー戦の浅利純子(ダイハツ)という10人。

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先頭集団を力走する有森と、インタビューに答える小出監督

10㎞過ぎ。チェンが再びペースを上げると、浅井と浅利は追走集団についていけなくなり、後退。チェンはそのまま集団を引き離して再び単独首位に立ち、レースを見守っていた竹内監督は、「これはオーバーペース。そこまでの練習をしていないし、フォームも良くない」と、辛辣なコメントです。
それまで単独11番手にいた石倉を田中とヘレン・モロス(NZL)が交わしていき、その後にはモラーら数人の外国人ランナーに混じってリクルートの新人・佐藤千春が追走。500メートルほどの間に、1人(チェン)-7人-2人-2人-1人-7人、…という小刻みな塊が流れていきます。
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『大阪』のコース上の見どころは、中盤の御堂筋、後半の大阪城公園というのがお馴染みですが、本格的に御堂筋を南下する進路が取られたのは、この年からです。広々と開けた8車線の直線一方通行路にはお誂え向けの側道が1車線あって、マラソンの折り返しのために設計されたかのような趣があります。
折り返し直前の20㎞まで、独走態勢のチェンと追走集団は17分台の好ペースを続けてきており、集団の中にいる有森に、そろそろ「日本最高記録」の期待がコメントされ始めています。有森は前年の大会でマラソンデビューし、当時の初マラソン日本最高記録で6位となりました。その直前に『全日本実業団女子駅伝』で、アンカー区間賞を獲得したのは前回の記事でお伝えしたとおりで、20歳を過ぎて急速に台頭してきたランナーです。
91年1月時点で、2時間30分を切った日本人女性ランナーは小島和恵、宮原美佐子、兵頭勝代の3人しかいません。小島と宮原が既に現役を去り、兵頭もまたトライアスロン転向を決めていたこの時、新興勢力の急先鋒たる有森によって、2時間29分、28分を一気に跳び越え、27分台の快記録へと期待は高まります。

25㎞を過ぎるとコースは大阪城公園へ。現在の簡素化された通り方ではなくて、いったん一般道路に出てから再入場するなど、変化にとんだ約2㎞半に及ぶ経路です。距離的にもいよいよ佳境という頃合いですし、短いながらも急峻なアップダウンもあり、選手を映すカメラのアングルが目まぐるしく変わる視覚的な効果も手伝って、「死闘」の雰囲気が自然に演出されたコースでした。
第6回から37回大会まで、この場面になるとTHE ALFEEのオリジナル曲が流されるというのも、好き嫌いはともかく、ユニークな演出でした。毎回新たなテーマ曲を32年間(31大会)提供し続けたというアルフィーの壮挙は、ギネスブックに認定されているそうです。
トップを行くチェンのリードはますます広がり、追走集団はリ・ジュワンがこぼれただけで6人がびっしりと肩を寄せ合って歩を進めます。
そのさらに後方では少し動きが出始めました。最初トップ集団にいた浅井・浅利を、後ろから来た田中・モロスが吸収。さらに、後方で一人マイペースを決め込んでいた石倉が猛然と追撃を開始し、場内で一気に4人をゴボウ抜きして9位に浮上します。目の前に子供が付き出した小旗を「ウルァ!」とばかりにパンチで叩き落とし、気合満点の表情で公園内を突っ走るところまではよかったのですが、この後突然「トイレタイム」に見舞われてしまい、大きく順位を落とすこととなりました。
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ドーレが引っ張る追走集団は、30㎞の給水所で一気に崩壊して、追走はドーレと有森の2人だけとなりました。さすがに脚色に衰えの見え始めたチェンとの差が、少しずつ詰まります。

この大会が、東西統合後に初めてドイツチームのユニフォームを着ての出場となったドーレ。第3回大会優勝のみならず、ここまで日本では広島ワールドカップを含め7戦6勝という抜群の親日ランナーです。生涯フルマラソン24勝という戦績は、川内優輝を別とすれば男女を通じて傑出した最多勝記録。歴代の女子マラソンランナーで、間違いなくベスト10に入ってくる名選手です。
そのドーレにマッチレースを挑む形となった有森は、マラソン2戦目とは思えない、また高校時代に常に『都道府県対抗女子駅伝』の岡山県補欠に甘んじていたというのが信じられない、端正で力強い脚運びで大金星を伺います。

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34㎞過ぎ、遂にチェンを捉え、優勝争いはドーレ、有森の一騎討に。
37.5㎞付近でスポンジを取ったドーレが、それを有森にも手渡そうと振り返った時、ちょうど一杯一杯になりつつあった有森は2メートルばかり後方にいて、少し頑張ってスピードを上げ追いついて受け取る、という動きがありました。その直後にCMブレイクが入り、明けた時には両者の間に10メートルばかりの差ができており、どうやら勝負ありの感があります。
残り4㎞、勝負には敗れつつありながらも有森の闘志は衰えず、懸命に落ち込みを抑えながら記録への挑戦が続きます。
結局、貫禄のドーレに揺るぎはなく、前年のロサ・モタより4秒速い2時間27分43秒でテープを切り、有森は18秒差、2時間28分01秒の堂々たる日本最高記録で2位を占めて、会心の笑顔・会心のガッツポーズでのフィニッシュとなりました。
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レースを盛り上げたチェンも29分台の大幅PBで3位に粘り切り、竹内監督の懸念を一蹴しました。以下ココウスカ、ペテルコヴァ、ワイデンバック、ポロビンスカヤ、リ・ジュワンと当初の先頭グループがそのまま順位をキープ。日本勢の2番手は、有森と同僚の佐藤千春となって、以下田中、浅利、浅井、石倉と続きました。第1回から10年連続出場の黒崎しのぶ(大阪陸協)は19位でレースをまとめています。

この快走で8月の東京世界選手権代表を射止めた有森は、猛暑のレースで銀メダルを獲得した山下佐知子(京セラ)に続く4位となり、ともに日本の女子マラソンが世界に打って出る足掛かりを築きました。
ロスおよびソウル五輪の結果が示すとおり、日本の女子マラソンはまだまだ世界で戦うには実力不足とされていた中から、ようやく現れた世界基準のランナーが、山下と有森だったわけです。(むろん、両者が“世界”の舞台である夏のレースに強い特性を持っていたというのも、大きな要因です)

“世界”で4位というのはそれほどに、当時としては素晴らしい快挙だったのですが、その一つ上の実績を挙げた山下が早々にバルセロナ五輪代表に内定したのとは裏腹に、有森の代表決定までの道のりが難渋し混乱を招いた経緯は、ご承知のとおり。陸連としては当初から実績抜群の有森を選ぶ腹積もりであったに違いないのですが、一人の選手がマスコミを巻き込んだアピールを仕掛けたことで、現場にも選考にも関係のない門外漢が大騒ぎする事態へと発展してしまい、前回のソウル男子に続いて「マラソン五輪代表選考」は一種の社会問題にまでなってしまったのです。
いずれにしろ、2大会連続五輪メダルという快挙を達成し、今なお女子マラソン界の重鎮として輝きを放ち続ける有森裕子の、鮮烈な出世レースがこの『第10回大阪国際女子マラソン』でありました。
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有森裕子さんの偉業


NHKの新番組(?)『その涙には理由(わけ)がある』第1回は、マラソンの有森裕子さんでした。番組企画としてはなんだかテレビ朝日『Get Sports』の中の1コーナーのパクリみたいな感じがしますが、まあいいでしょう。
有森さんの「涙」と言えば、銅メダルを勝ち取ったアトランタ・オリンピックのレース後インタビューで、「初めて自分で自分を誉めたい」という"名言”とともに流した涙ですね。

有森さんは岡山・就実高校、日体大時代は無名のランナーでしたが、当時「大卒は採用しない」方針だったリクルート陸上部に「押しかけ」のような形で入部、小出義雄監督の下でマラソン転向のアドバイスを受け、1990年の大阪国際女子マラソンでデビュー・6位入賞を果たします。
2度目のマラソンとなった翌年の大阪で、2位ながら当時の日本新記録(2時間28分01秒・・・まだ「日本最高記録」という言い方だったかもしれません)を出し、同年8月の東京世界選手権代表に選ばれます。猛烈な残暑の中で行われた世界選手権の女子マラソンでは、ワンダ・パンフィル(POL)、山下佐知子(京セラ)、カトリン・ドーレ(GER)に次いで4位入賞を果たしました。
当時、日本の女子マラソンはまだまだ世界との差が大きいと思われており、いかに地元の利があったとはいえ、4位入賞はもろ手を挙げて賞賛されるほどの快挙でした。しかし、それ以上に山下さんの銀メダルという大快挙があり、その山下さんが翌年のバルセロナ・オリンピックの代表に内定したことで、有森さんの快挙は少し霞んでしまった感があります。このことが、翌年の春先に、ちょっとした騒動を引き起こすことになります。(私の記憶では、事前に「世界選手権でメダルなら代表内定」といった告知はなく、その場で決まった「ご褒美」だったと思います)

オリンピック代表の選考レース3つが終わり、東京国際は谷川真理選手(資生堂)、大阪国際は初マラソンの小鴨由水選手(ダイハツ)と松野明美選手(ニコニコドー)が、前年の有森さんによる日本最高記録を上回って1・2位を占めました。この時点で、「小鴨はほぼ確実、残り1枠は有森か、松野か」というムードがあり、危機感を抱いた谷川選手は名古屋国際にもエントリーしますが、無名の大江光子選手(日本生命)に敗れて2位となってしまいます。
世間は「3人目の代表は誰か?」に注目し、例の松野選手による「私を選んでください」会見などもあって、外野席は大騒ぎとなりました。
これは私の推測ですが、騒いでいたのは世間(マスコミ)と当人(松野さん)だけで、陸連的には案外すんなりと、「山下・小鴨・有森」の3人を選んだのではないでしょうか?それほどに、「世界4位」という実績は、もし山下さんが上にいなければそのまま「代表内定」がされていてもおかしくはないほど、当時の日本女子マラソン界では大きなアドバンテージになり得たからです。
補欠にも松野さんではなく谷川さんが選ばれたのは、「松野はトラック競技で代表を目指す道がある」(実際にそのとおりにはなりませんでした)からというよりも、谷川さんの実力のほうを高く評価したのではないか、と思っています。
それはともかく、有森さんは陸連の「見立て」どおりにバルセロナの本番でその実力を証明し、みごと銀メダルを獲得してみせたのでした。 

番組では、このあたりの経緯にはほとんど触れず、「バルセロナ以降」の有森さんの苦悩と葛藤について、当事者・関係者の証言を集めながら振り返っていました。そこに、「涙の理由」がある、というストーリーです。
96年アトランタ・オリンピックの代表に再度選ばれた時にも、4つの選考会(北海道マラソンを含む)で最高のタイムをマークした鈴木博美選手(リクルート)が選ばれず、 夏の北海道で優勝した有森さんがタイムでは遅いのに選ばれたことに対するバッシングがあった、というのですが、さてこれもどうでしょう?
確かに「一番速いタイムの選手がなぜ選ばれないのか?」という声が上がったのは記憶していますが、代表になった浅利純子選手(ダイハツ)、真木和選手(ワコール)、そして有森さんは、いずれも選考レースで印象的な優勝を飾っており、鈴木選手は大阪国際で2着だったのです。しかも有森選手はオリンピック・メダリスト、浅利選手は93年の世界チャンピオンです。これもまた、陸連はすんなりこの3名を選出した、と考えるのが妥当です。しいて言うならば、初マラソンだった真木選手に対して、あわよくばダブル代表をと目論んでいたリクルート陣営からの「異議あり」の声ではなかったか、と記憶しています。
(余談ですが、「大阪2着」は松野さんに始まって、鈴木さん、弘山晴美さん、千葉真子さん、森本友さんと、5回連続して「代表次点」になっています)

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そのアトランタのレース。番組ではレースそのものはごくごくダイジェストでしか流してくれませんでしたが、おそらく13km前後の地点かと思われるこの先頭集団のシーン、なかなかのメンバーが映っています。
先頭を引っ張るのは88年ソウル五輪銅メダルのカトリン・ドーレ(GER)と前年の世界チャンピオン、マリア・マニュエラ・マシャド(POR)、有森と並んで優勝したファーツマ・ロバ(ETH)、その奥に2000年シドニー五輪の銀メダリスト、リディア・シモン(ROM)、一人おいて右端に連覇を狙うヴァレンティナ・エゴロワ(RUS)が見えます。この大会で本命視されていたのは、ボストンマラソン3連覇中のウタ・ピッピヒ(GER)でしたが、早々に先頭から脱落してしまいました。

この中から20km手前でロバ選手が一人飛び出しました。しかし当時はまったくの無名選手であり、またエチオピアの女子選手が今ほど高く評価されていなかったこともあって、誰も追いかけようとしません。「ロバの耳に鈴をつけに行く」には、グループにビッグネームが揃いすぎており、牽制状態に陥ったのです。
「そのうち落ちてくるだろう」と読んでいたロバの足色は衰える気配がなく、30km付近で「このままでは手遅れになる」と判断した有森さんが、勇気を振り絞ってスパート。バルセロナの時とは逆に、いったん有森さんに置いていかれたエゴロワ選手がこれを追走・逆転する展開となって、上位3人の趨勢が固まりました。ゴール間近ではドーレ選手の激しい追い上げを受けながらも、有森さんはエゴロワ選手とともに2大会連続のメダルを手にすることになったのでした。

レース後に発した「自分で自分を誉めたい」という言葉のネタ元は、有森さんが無名の高校生だった頃に始まった『都道府県対抗全国女子駅伝』で、3年連続して補欠になりクサっていた時、その開会式でゲストだった高石ともやさん(有名人市民ランナーの草分けとも言えるフォークシンガー)が、選手たちへの激励の意味を込めて語った(歌った?)「誰に知られなくても、自分で自分を誉めてあげてもいいんじゃない?」というフレーズだそうです。 その言葉を胸に温めて、初めてそれが口に出せるレースができた喜び、そしてそれまでの苦しみ、それが涙の理由であったと、そういうことです。

日本の女子陸上競技選手として史上2人目のメダリスト、史上初(唯一)の連続メダリストとなった有森さんの偉業は、夏のオリンピックがやってくるたびに、これからも永く語り継がれるでしょう。私が忘れられないのは、有名になったレース後のコメントではなく、バルセロナでもアトランタでも、先頭を走る選手を追いかけてスパートした、その勇気と決意の表情の凛々しさです。
そして有森さんは、栄光に甘んじることなく、今なお各地の市民大会でゲストランナー、ボランティアランナーとして走り続けることで、マラソン界への恩返しを実践しています。私も、地元の『かすみがうらマラソン』(10マイルの部)で、ゆっくりと前を走る有森さんを追い越しながら、その小さな手とタッチしてもらった思い出があります。
増田明美さんなどとは別の意味で、いつまでも女子マラソンの語り部であってほしいと思っています。 

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