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私が初めてビデオデッキなるものを購入したのが1982年のこと。第1号機は、都内市ヶ谷にショールームがあったS社との取引関係のご縁から、展示品を安価で払い下げていただいたもので、3倍速機能も付いてなくて5万円ほどだったと記憶しています。
当時は何しろテープが高価でねえ…。確か120分のが4,000円、画質にこだわるてえと120HG(120分ハイグレード)が4,500円とかで、近所のディスカウントショップで4割引きくらいのを月に2~3本買えるかな、という感じでしたかね。(今回発掘作業を進める中で、やはりHGテープの方が保存状態がよろしいことが分かります。また、メーカーによってもかなり違いますね。テープそのものもさることながら、カセットフレームの性能に差が出ます)
だから、録画したテープを残すか、上書きするか、また不要なCMなどをいかにして省くか、といったことに随分気を遣いながら、ここぞという番組を失敗しないように、神経張りつめて録画してたような覚えがあります。
ハードディスク録画となった現在では、たとえばオリンピックの期間中なんかはほとんど全競技・全種目を録画しまくってます(17日間で軽く1TB超^^)けど、テープ4,000円時代はそういうわけにもいかず、1984年のサラエボおよびロサンゼルス五輪なんかでも、録画するもの、しないものを慎重に計画立てたり、ポーズボタン使いまくって節約したり、期間中にデッキ2台でダビング編集して録画時間の余白を増やしたりと、仕事の傍ら大忙しでした。
本連載の第1~2回でご紹介した1997年世界選手権の頃になると、同じ120HGのテープが200~300円で買えるようになってましたから、状況は随分変わってましたね。その分、残したテープは積み重ねれば何十本も天井まで届くくらいに膨大なものになってしまいましたが。

てなわけで、今回は、おそらく私が所蔵しているVHSテープの中でも最古の部類に入る、1983年モノです。保存状態まあまあ良好。
現在2年ごとに開催されている『世界陸上競技選手権』は、この時が第1回大会で、第3回の1991東京大会までは、オリンピックの前年、4年ごとの開催でした。昨年のドーハ大会が、第17回ということになります。開催地はいにしえの長距離大国、その後やり投王国となったフィンランドはヘルシンキ。2005年の第10回大会と併せ、2度世界選手権を開催した唯一の都市となっています。
意外なことに、オリンピックの基幹競技である陸上競技と競泳は世界選手権の歴史が浅く、競泳のほうは1974年に第1回が行われています。陸上ではオリンピックを別にすると世界的なチャンピオンシップ大会という発想が久しくなくて、1970年代に至り国・地域別対抗形式の『ワールドカップ』(現コンチネンタルカップ)が最高峰の大会として行われるようになり、83年にようやく世界選手権の開催にこぎつけたわけです。

そして、中継放送はテレビ朝日系列。『世界陸上』の中継はこの大会限りで、第2回から第5回までは日本テレビ、第6回以降はTBSへと変遷します。(早く次の変遷、カモン!)
かつて「日本教育テレビ」転じて「NET」と称していた頃のテレビ朝日はスポーツ番組が弱く、アントニオ猪木をメインとするプロレス中継と、「キンシャサの奇跡」以降のモハメド・アリの試合などが目玉だったなあという記憶しかありません。プロ野球中継などもほとんどなかったですし。それが、組織・社名を一新した記念事業としてぶち上げた1980モスクワ五輪の独占放送権獲得で、陸上・競泳をはじめアマチュア・スポーツ番組の開拓にも力を入れるようになりました。肝心のモスクワは日本の不参加という悲劇に泣きましたが、それまでの準備期間で培ったノウハウは無駄にはならず、この世界選手権にも十分活かされています。
今回発掘したテープは、おそらく年末に放送された総集編(約85分)で、『’83ことし世界が沸いた!三大スポーツイベント名勝負名場面・第2部』というタイトルが付いています。(他の2つが何だったのか…やはり第1回開催となった『福岡国際柔道』とゴルフの全英オープンあたりでしょうか)
大会実施期間中に録画したものもどこかに断片的に残っているような気がしますが、今のところ見つかっていません。
実況担当は、三好康之・東出甫のスポーツアナ2枚看板(ご両人とも故人)ほか。解説は、当時陸連の重鎮だった佐々木秀幸さんなどが務めています。総集編につき、小宮悦子アナによるナレーションも付いてます。

◇女子マラソン
翌年のロスでオリンピック初採用となった女子マラソンで、それに先駆けて初代世界チャンピオンが誕生しました。29歳のグレテ・ワイツ(NOR)、タイムは2時間28分09秒。ロスでは圧勝したジョーン・ベノイト(USA)に次ぐ銀メダルでした。(ベノイトはヘルシンキ不参加)
番組では同年の『東京国際女子マラソン』のハイライトを挟む形で構成してあり、こちらの方では佐々木七恵(エスビー食品)が第5回にして日本人選手初優勝。世界選手権には佐々木や増田明美の出場はなく、田島三枝子(旭化成)31位、金子るみ子(住金鹿島)49位という成績でした。当時高卒ルーキーの金子はスタート直後しばらく果敢に先頭を引っ張って、見せ場を作っています。
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仲良く給水ボトルをシェアするワイツとジュリー・ブラウン(USA)。
右端は銅メダルのライサ・スメフノワ(URS)


◇男子マラソン
女子と同じく、同年の『福岡国際マラソン』のハイライト映像(この年の中継局はNHKだがテレ朝の独自実況入り)を挟んでいます。こちらは記憶にも鮮やかな瀬古利彦の必殺スパート。エスビー食品のアベック制覇ですね。
世界選手権の初代チャンピオンは、当時世界最強の評価を瀬古と分け合っていたロバート・ド・キャステラ(AUS)で、2位バルチャ(ETH)に24秒差での快勝。オリンピック連覇のワルデマール・チェルピンスキー(GDR)が3位に入っています。スタート時のヘルシンキは気温15度と涼しい条件で、優勝タイムの2時間10分03秒は20年間大会記録として残りました。
世界一の陣容を誇っていた日本勢は、トップランカーが真夏の世界選手権を敬遠する傾向が長く続き、この大会では西村義弘(新日鉄大分)=35位、喜多秀喜(神戸製鋼)=42位、川口孝志郎(中京高教員)=DNFという結果に終わっています。

◇女子100m
1977年に女子で初めて11秒の壁を突破し、この年6月に10秒81まで更新したマルリース・ゲール、今なお400mの世界記録保持者に君臨するマリタ・コッホ(ともにGDR)、7月にゲールの記録を0.02秒上回ったエヴェリン・アシュフォード(USA)の「3強」対決。
アシュフォードは予選の段階からゴール後に脚を引きずるシーンがあり(この番組、放送時間の都合で採録種目数は限られていますが、一つ一つをかなり濃密に盛り込んでいます。ダイジェスト版にしては珍しく、レース前後の選手の表情などにもかなり時間を割いた編集です)、実況の三好アナが思わず放送禁止用語でその様子を伝えています。
迎えた決勝は、2レーンにアシュフォード、4レーンにコッホ、8レーンにゲール。懸念が的中してしまい、アシュフォードは30mほどの処でいったん跳び上がるようにしてから倒れて無念のDNF。アウトコースから鋭く伸びたゲールが、同僚コッホを0.05秒制して10秒97で優勝しました。
70~80年代、女子のスプリントは東ドイツ勢が圧倒的な強さを誇っていましたが、意外なことにゲール(旧姓エルスナー)が個人種目の世界タイトルを手にしたのは、この1回限りです。(ワールドカップでは2回優勝)

◇男子100m/走幅跳/4×100mリレー
世界陸上競技選手権の歴史が、20世紀を代表するアスリートであるカール・ルイス(USA)およびセルゲイ・ブブカ(URS→UKR)の輝かしい足跡の第1歩とともに始まったのは、実に運命的なものを感じます。以後、10数年の長きにわたってこの両者は、世界選手権およびオリンピックの看板選手であり続けることになります。(今回の映像では、ブブカの棒高跳は収録されていません)

1981年、19歳で低地での男子100m世界最高記録となる10秒00(0.0)をマークしたルイスは、83年を迎えて全米選手権で100、200、走幅跳の三冠を達成、「ジェシー・オーエンスの再来」と世界の注目を集め、100mでは高地以外で初めて10秒の壁を破る9秒97(+1.5)を叩き出しました。
1968年に高地メキシコシティで10秒の壁が破られてからというもの、男子100mではブレイクスルー現象が起こらず、久しく記録の停滞が続いていました。それがルイスの登場によって一気に動き出すと、7月には高地コロラドスプリングスでカルヴィン・スミス(USA)が9秒93(+1.4)の世界新記録を出して、対抗勢力に名乗りを上げます。
このスミスをはじめ、ベン・ジョンソン(CAN)やリロイ・バレル、ジョー・デローチ、マイク・パウエル(以上USA)といった強いライバルたちに恵まれたことが、ルイス伝説を一層華やかなものにしています。
カールことフレデリック・カールトン・ルイス。1961年7月1日生まれ。188㎝/77㎏。均整の取れた彫刻を思わせる体型に愛嬌たっぷりの表情は、見てくれだけでもスター選手の登場を思わせるものでした。陸上選手に「スーパースター」の称号が付与されたのも、勝って国旗を手に“ウィニング・ラン”を行った(翌年のロス五輪)のも、彼が初めてではないでしょうか。

100mでは、予選から通じて、のっそりとした鈍重なスタートから終盤30mくらいで一気に加速、圧倒した後は横を見ながら流す、というレースパターンで悠々と勝ち上がり。本気の決勝は3レーンで中盤からシフトアップすると、あっという間に8レーンのスミスを置き去りにしました。記録は10秒07(-0.3)、2位スミス10秒21、3位エミット・キング10秒24で、アメリカの上位独占です。
4位はモスクワ五輪覇者のアラン・ウェルズ(GBR)。彼を含め、決勝のスタートに白人選手が3人並んでいたことが、時代を感じさせます。また、ベン・ジョンソンは10秒44で準決勝敗退しています。
この大会でルイスは200mにエントリーせず、オーエンス以来の「4冠」への期待は、翌年のロス五輪へと持ち越されました。200はスミスが20秒14(+1.2)で制し、第2回ローマ大会でも連覇を飾っています。

この大会は今から見ると非常に変則的なタイム・スケジュールで、男子スプリント系は最初の2日間で100m決勝までを行った後、3日目に走幅跳と400mリレー予選、4日目に同準決勝と男子400mリレーが同時進行の後にリレー決勝、大会6~8日目に200mとなっています。
三冠を狙うルイスの思惑とは裏腹に、「LJとリレーの掛け持ちはない」ものと前提したかのような編成で、これはルイスのみならず困った選手は多かったでしょう。
しかもリレーの準決勝とLJ決勝の1回目が完全に重なる進行となってしまい、すでに準決勝のオーダーが確定していたルイスは、LJ役員とのスッタモンダの交渉劇の末に何とか試技順の変更を了承させ慌てて第4コーナーに向かう、という一幕がありました。
その1回目で、ジャストミートの踏切りから8m55(+1.2)の大ジャンプ。放送席からは「9メートルラインに仁王立ち!」の名実況が飛び出します。これで優勝を確実にしたルイスは3回目以降のジャンプを棄権して、リレーの決勝へ。
400mリレーでは、「スミス→ルイス」の黄金バトンパスが決まって、WR37秒86での圧勝、難なく3つ目の金メダルを手中にしました。
ちなみにアメリカは、LJでも表彰台独占、200mでも世界記録保持者ピエトロ・メンネア(ITA)の銅メダルを許したのみで金銀独占。68年のメキシコシティ以来、久々にスプリント王国の威信を取り戻す大会となったのです。
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ルイス、9mラインに仁王立ち!


◇女子やり投

フィンランドの国技とも言えるやり投。その象徴は、スタジアムの一角に設けられた高さ72m71の塔で、1932ロス五輪で金メダルに輝いたマッティ・ヤルヴィネンの優勝記録に因むものです。ちょうど、旧国立競技場にあった「織田ポール」と同じようなモニュメントですね。
しかし男子では、1人が予選落ちして決勝に残った2人も4投目以降に進めずという惨敗に終わって、いよいよ期待は国民的アイドル・スロワーのティーナ・リラクにかかってきました。リラクはこの時22歳、直前の6月に、74m76の世界新記録を投擲しています。
1投目で優勝候補のファティマ・ホィットブレッド(GBR)が69m14で先行し、リラクは67m34で追走。5投目にリラクが僅かに記録を伸ばした以外はこのままの状況で最終投擲まで推移します。当時は現在のものより「飛ぶ」やりを使っており、リラク自身は「優勝記録は78m」とまで予想していたほどですから、意外に低レベルの優勝争いとなっていました。
そして6投目。投擲選手としては華奢な身体つき、日本で言う「聖子ちゃんカット」のような髪型のリラクがピットに立つと、場内は「ティーナ、ティーナ…」の大合唱に包まれます。その中、渾身の力を込めたやりが大きな弧を描くと、それが70mラインの向こう側に落下するかしないかのうちに、逆転勝利を確信したリラクがもうトラックの方へ走り出していました。
大会7日目にして、会場が最も興奮の坩堝と化したひと時です。見ている当方も、興奮しました。
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大会随一のヒロインとなったティーナ・リラク

◇男子走高跳
ティーナ・コールの大歓声にすっかり調子を狂わされてしまった、と言われたのが、同時進行で行われていた男子HJの世界記録保持者、朱建華(チュ・ジャンファ=CHN)。スポーツの国際舞台に復帰して間がなかった中国で、初めて現れた世界的陸上選手です。
6月に2m37を跳び、大会後の9月には38、翌年には39と記録を更新した朱はこの大会でも間違いなく大本命でしたが、いつまでも続く場内の興奮に集中力を失ったか、2m32を跳べずに3位に甘んじました。優勝は、その2m32を成功したゲンナジー・アヴディエンコ(URS)です。

◇女子走高跳
この頃、プロレス風に言うなら「名勝負数え唄」を演じていたのが、女子HJのウルリケ・マイファルト(GER)とタマラ・ブィコワ(URS)です。
マイファルトは無名の16歳で出場した1972ミュンヘン・オリンピックで、1m92の世界タイ記録で優勝。一躍地元のヒロインとなるとともに、まだ歴史の浅かった背面跳びの技術に於いて、「踏切りと同時に右手を振り上げる」という独特のフォームが注目を集めたものです。その後はずっと低迷が続いていましたが、単なる「早熟の天才少女」で終わることなく、81年のワールドカップを1m96で制して見事に「復活」。この時、同記録で2位となったのが、2歳下の新鋭ブィコワでした。
マイファルトは翌82年のヨーロッパ室内を1m99、ヨーロッパ選手権を2m02の世界新で勝ち、かつての天才少女は10年の時を経て、完全に世界のトップに返り咲きました。彼女が初代の世界チャンピオンの座を標的に捉える一方で、ブイコワは常にその後塵を拝しつつも、虎視眈々と力を蓄えます。83年3月、マイファルト不在のヨーロッパ室内で2m03の室内世界新記録。ヘルシンキでは堂々互角の立場で、初代女王の座を争うことになったのです。

1m97までをノーミスでクリアしたブィコワに対し、マイファルトは95、97に2回ずつの試技を要して劣勢でしたが、1m99を一発クリアして逆転。このあたりが名勝負に相応しいドキドキの展開です。
99を2回目で凌いだブィコワが逆に2m01を一発で成功。1回目を失敗したマイファルトは2回目を世界新となる2m03にシフトして、再逆転を狙います。(ブィコワが99の2回目をなぜ敢えて跳んだのかは、今の感覚で言うと少し謎ですね)
結局2m03は両者とも失敗に終わり、ブィコワの初代女王、対マイファルト初勝利が確定しました。
この大会後も2人のデッドヒートは続き、同年のヨーロッパカップでいずれも2m03の屋外世界新記録、試技数差でマイファルトが雪辱を果たすと、その4日後の競技会ではブィコワが2m04と記録を更新してお返し。
翌年のロス五輪での対決も楽しみでしたが、ソ連の不参加により幻となり、マイファルトが2m02のオリンピック新で、陸上界では前例のない3大会ぶり(12年ぶり)の金メダルに輝きました。2つの金メダルは、その時点での種目別最年少・最年長記録(現在の最年長記録はルース・ベイティア)でもありました。しかしながらその直前にブィコワが2m05の世界新を跳んでおり、マイファルトには一抹の敗北感があったかもしれません。
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身長188㎝、長い長い脚。実に格好良かったマイファルト。
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◇女子1500m
この大会で一躍スター選手の仲間入りを果たしたのが、3000mと1500mの2冠に輝いたアメリカの美人ランナー、メアリー・デッカーです。
ヘルシンキ世界選手権は、初めて女子マラソンを世界的に認知させる大会となりましたが、トラックの女子最長距離種目は3000m。女子では1500mですらまだ歴史が浅く、10000mは87年ローマ大会から、5000m(3000mに代わり採用)は95年イェーテボリ大会からとなります。
その、当時の感覚としては「長距離2冠」を制したデッカーの特徴は、スタートから先頭を走り続ける典型的なフロントランナー。勝負どころで他者から競りかけられても強気に先頭を譲らず、しかもゴール前でもう一度ギアチェンジができる驚異的な粘り腰があります。
このレースでも、残り半周で仕掛けたザミラ・ザイツェワ(URS)に競り合いの末いったんは抜かれますが、そこでズルズルと後退することなく、ゴール前で“二の脚”を発揮、焦ったザイツェワが捨て身のダイビング・フィニッシュを試みるも、鮮やかに再逆転してみせました。
地元のヒロインとして迎えた翌年のロス五輪では、ライバルと目されたゾーラ・バッド(GBR)との意地の張り合いが裏目と出て、両者の脚が絡まりデッカーは転倒棄権、バッドも7位に沈むという悲劇的な結末に終わりました。余談ながら、このレースの映像は昨年の大河ドラマ『いだてん』のタイトルバックに使用されていました。
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◇男子400mH
11年間、予選を含めた全てのレースで1着を譲ることがなかったハードルの帝王エドウィン・モーゼス(USA)が、圧倒的な力を示し47秒48で優勝。しかも何と、第10ハードルのところで靴紐がほどけた状態でのこの結果でした。
2着はハラルト・シュミット(GER)。モーゼスの陰に隠れて一度も世界タイトルを得ることはありませんでしたが、常にその次位を確保し続け、100を超えるモーゼスの連勝記録の前後に土をつけた選手として名を残しています。もしもモーゼスがいなければ、この時代のヨンパーの帝王として君臨していたはずです。
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◇男子3000mSC

ダイジェスト版の総集編なのに、8分半のレースをノーカット完全収録。これだけでも感動モンです。生中継の時点でCMを2回(ひどい時には3回)もぶっ込むTBSには、逆立ちしてもできない偉業ですね。
決勝進出の12人のうち、ケニア人選手は1人だけで、あとは全部白人選手です。ケニア勢の活躍は1968メキシコシティ五輪から始まっていますが、この大会と1987年ローマ大会だけは、ポツポツと穴が開いたようにメダルに絡んでいません。ただし、ヘルシンキ決勝で唯一出場した(7位)ジュリアス・コリルは、84年ロス五輪では金メダルを獲得しています。
優勝候補筆頭は、WLのヘンリー・マーシュ(USA)。いつも一人離れた最後方からレースを進める非常に個性的なランナーで、ちょうどこの年、JRA三冠馬を達成したミスターシービーという名馬のレースぶりにオーバーラップして見ていた記憶があります。
このレースでも、マーシュは予定通りに最後方から2000mを過ぎたあたりでじわじわと上位を伺い、残り1周の鐘を聞くと先行集団に上がります。渾身のラストスパートで逃げ切りを図るパトリッツ・イルク(GER)の背後を伺い、直線に入る頃には完全に金メダルを射程圏に捉えたかに見えたのですが、最終障害でまさかの転倒。そのままイルクが逃げ切って、8分15秒06の優勝。2着にはベテランのマミンスキー(POL)が入りました。
マーシュはその後も独特のレース・スタイルで面白い存在をアピールし続けますが、大試合ではロス五輪4位、ソウル五輪6位など結果を残せませんでした。イルクは翌年のロス五輪、ウィルス性疾患のため欠場しています。

◇女子砲丸投
22m45の世界記録保持者でモスクワ五輪優勝のイローナ・スルピアネク(GDR)が1投目に20m56、これを同僚のヘルマ・クノールシャイトが2投目の20m70で上回り、当時としてはやや低調な記録でそのまま推移。6回目、最終投擲者となったヘレナ・フィビンゲロヴァ(TCH)が21m05を投げて大逆転優勝です。歴代2位(現時点では3位)の22m32を持っていたフィビンゲロヴァは34歳となり峠を過ぎたかと思われていましたが、大きな身体を揺らして飛び跳ねる姿は悦びに満ち溢れていました。この試合は大会6日目に行われ、翌日の女子やり投と併せて「最終の大逆転」が印象に残ったものでした。