いにしえの和製100mランナーについて語ろうとするとき、一瞬その列伝に加えてよいものやら迷ってしまうのが、日本の陸上競技女子選手史上にひときわ異彩を放つ、人見絹枝さん(1907-1931・以降敬称略)の事績です。
なぜならば、彼女は単にスプリンターというに留まらず、跳躍でも投擲でも世界的な活躍をし、しかもオリンピックでメダルを獲得したのは中距離走の800m。もし当時、七種競技という種目があったならば、「クィーン・オブ・アスリート」の名を欲しいままにしたに違いないし、ジャッキー・ジョイナー‐カーシーに比肩するような、超人的なマルチ・アスリートだったからです。
けれども、その根底にあったものは、やはり短距離走における並々ならぬ素質であり、それが跳躍や投擲にもジャンプ力やパワーとして活かされたのではないか…ということで、100mの話題にもなくてはならない人物に違いない、と思うのです。
競技以外においても後進の指導・育成や女子スポーツの普及活動、新聞記者としての仕事や婦人啓発運動に挺身するマルチぶりを発揮し、絶頂期にさしかかろうとしていた24歳の若さで突然世を去った、その太く短かった人生を振り返ってみましょう。

◆驚異の世界的業績
まず、手元で調べ得た限りで漏れもあるかもしれませんが、彼女が約7年間の選手生活の間に樹立した、各種目の記録を見てみましょう。
*100m 12秒2 1928年5月・大阪 IOC公認世界記録
 ※ 12秒0 1929年10月・奉天 オープン参加のため非公認
*200m 24秒7 1929年5月・神宮 IOC公認世界記録
*400m 59秒0 1928年5月・美吉野 FSFI(国際女子スポーツ連盟)公認世界記録
*800m 2分17秒6 1928年8月2日・アムステルダム 2位ながらIOC公認世界記録を上回る
*80mH 13秒6 1929年4月・美吉野 日本記録
*400mR 51秒6 1929年11月・神宮 日本記録
*走高跳 1m45 1929年4月・美吉野
*走幅跳 5m98 1928年5月・大阪 IOC公認世界記録
*三段跳  11m62 1925年10月・大阪 FSFI公認世界記録
*砲丸投 9m97 1926年5月・神宮 日本記録(8ポンド)
*円盤投  34m18 1929年5月・神宮 日本記録
*やり投   37m84 1930年7月・名古屋 非公認日本最高記録
*三種競技 217点
(100m12秒4・HJ1m45・JT32m13)
1929年4月・美吉野 非公認世界最高記録

これが、当時女子で行われていた(現在オリンピック種目として採用されている、またはその原型となった)種目のすべてです。走高跳に関しては日本記録だったかどうかが定かでないのですが、当時の日本選手権の優勝記録が1m30台から40だったことから、その可能性はあります。
ちなみに、人見自身は日本選手権には1927年から29年までの3回しか出場しておらず、100mと走幅跳で各2回、200mと400mリレーで各1回の優勝があります。
このほかにも、50m(6秒4)、60m(7秒5)、立ち幅跳び(2m61)といった特殊種目でも、当時の世界最高記録を樹立しています。
なんと全種目で日本最強、そのうちの半数ほどの種目では、世界でもトップレベルにあったのです。とりわけ、走幅跳の5m98という記録は、1939年にドイツのシュルツという選手が史上初の6mジャンプ(6m12)を記録するまで、実に11年2カ月にわたって世界記録として君臨し続けました。

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◆女子不遇の時代を切り拓く
1912年に設立されたIAAF(国際陸上競技連盟)が女子の記録を公認するようになるのは、種目によって1928年頃から1930年代にかけてのことで、それまでは1921年に設立されたFSFI(国際女子スポーツ連盟)という団体による認定でした。国際的な競技会もまた、女子単独の大会(国際女子オリンピック大会など)として、数か国の参加による地味な規模で行われていたようです。
また、オリンピックではFSFIの働きかけが実って、人見が出場した1928年のアムステルダム大会で初めて女子の種目が採用されました。実施種目は100m、800m、400mリレー、走高跳、円盤投の5つだけでした。
全世界的に「女性が肌を露出してスポーツをする」ということに対する偏見がまだまだ根強い時代で、特に人見が活躍した昭和初期は日本においてこうした考え方がはびこっており、人見が自ら体を張って競技会に出場し続けることで、そうした風潮をかなり動かし得たのではないか、と推測されます。
1925年からようやく女子の種目が始まった(100m、400mR、走高跳、円盤投の4種目のみ)日本選手権でも、28年頃から少しずつ種目が増えていっています。

1907(明治40)年1月1日に岡山県福浜村(現・岡山市南区)に生まれた人見は、岡山県高等女学校時代の1923年に初めて陸上競技会に出場し、いきなり走幅跳で非公認の日本最高記録を出し、翌年二階堂体操塾(現・日本女子体育大学)に進学します。この頃から、女性のスポーツ界進出を企図する二階堂塾長の意を受けて、人見は自身の競技参加のみならず、その普及に尽力していくことになります。
1926年、文学的素養も高いものを持っていた人見は大阪毎日新聞社に入社し運動課に配属され、女子スポーツの普及広報には絶好の立場を手に入れます。国内外の大会に積極的に参加し、ジャーナリストとしてその模様を発信し、さらに全国各地に出向いては有望選手の発掘やその指導に余念なく、著書を通じて自らのトレーニング体験を後進に伝授する…まさに八面六臂のスーパーレディぶりが、発揮され始めたのです。
この年、イェーテボリで開催された第2回国際女子競技大会(国際女子オリンピックから改称)で、走幅跳に5m50の世界新記録で優勝したのをはじめ、個人6種目に出場して総合得点でも1位となりました。
人見絹枝02


◆発展途上だったアムステルダムの「銀」
1928年のアムステルダム・オリンピックは、三段跳の織田幹雄さんが日本人として初の金メダリストとなった大会として知られますが、その偉業が達成された同じ8月2日に、人見は全競技を通じて日本人女性として初の、そして1992年に同郷の有森裕子さんがマラソンの銀メダリストとなるまでは唯一の、陸上競技女子メダリストとなりました。(全競技通じて初の女性金メダリストは、1936年の競泳・前畑秀子さん。陸上競技では2000年の高橋尚子さん)

前述のとおり、この大会で実施された女子種目は5つだけで、女子唯一の代表だった人見はリレーを除く個人4種目にすべて出場する意向でいました。
残念だったのは、自他ともに認める「世界最強」の立場にあった走幅跳が実施されなかったことでしたが、100mでも世界記録を持つ彼女は、自信満々で予選レースに臨みました。ところが予選は悠々1着で通過したものの、準決勝は12秒8の4着で敗退。優勝記録は12秒2でしたから、非公認で12秒0を持つ人見ならば、実力を発揮すれば十分に渡り合えるレベルでした。
茫然自失の体に陥った人見は、それまで1回もレースで走ったことのなかった800mに、強行出場することを決めました。

レースの進め方も分からないままに、予選で当時の第一人者と目されていたリナ・ラトケ(GER)に付いていき2位で通過すると、決勝でも同じような、ただし段違いに速いペースでのレース展開の末に、ラトケに次ぐ2着を確保したのです。
上位陣がそれまでの世界記録をことごとく破るほどの壮絶なレースとなり、ゴールした選手が次々と地面に倒れ込みました。他の外国人選手が枕を並べるように仰向けに倒れたのに対して、唯一うつ伏せに倒れた人見が「さすが大和撫子」と称賛されたという話が残っていますが、それはさておき、800mは女性にとってあまりにも過酷な種目だということになって、これ以降大戦をはさんで1956年まで、オリンピック種目からは除外されてしまったほどの光景でした。(マラソンも3000mSCも行われている現在からは、隔世の感があります)
人見絹枝

人見は後日予選が行われた走高跳にも出場しましたが、これは彼女にとって数少ない苦手種目の一つとあって、決勝進出はならず。円盤投も最終エントリーを取り止め、結局「銀1つ」の成果で日本に帰ることになりました。
「女性初のメダリスト」として日本のオリンピック史を語る上では欠かせない存在の人見ですが、この結果は彼女にとって不本意以外の何物でもなく、さらに上のレベルを目指して突き進んでいきます。
この時まだ21歳。身長1m70、体重55㎏前後と類まれな素質に恵まれた人見の将来性は、無限のものに思われたことでしょう。

◆奔走の日々の果てに
人見の活躍を受けて、日本の女子陸上界にもようやく逸材が顔を出し始めました。
特に短距離には双子の寺尾正・文姉妹や橋本靜子といった有望な選手が人見としのぎを削っていましたが、“嫁入り時”の年齢を迎えると、家族によって試合出場を禁止されるといったようなことも、少なくなかったようです。女子短距離界は、さらに若い世代へと受け継がれていきます。
1930年にプラハで行われた第3回国際女子競技大会では、5人の代表選手団の団長格で出場した人見は個人総合得点2位。得意の走幅跳で自身の世界記録に迫る5m90で連覇を達成しています。

この時の遠征で5回もの国際競技会に出場し、やり投では自己記録を大幅に更新するなど、アスリートとしての人見の進化はまだまだ続いていました。おそらく、そのまま健康を保ってさえいれば、100mでの11秒台、走幅跳での6mオーバーなど、彼女の名を世界の陸上競技史上不滅のものとするような記録が、いくつも達成されたに違いありません。

いっぽうで、連戦と競技以外の活動からくる疲労により、しばしば体調不良に見舞われることが始まりました。遠征中も記者としての仕事をこなし、帰国してからは業務に募金活動に後進の指導にと働き続ける彼女には、大きな肉体的負担が襲い掛かることになったのです。
翌31年3月に肋膜炎を発症して血を吐いた人見は、以後は入院生活の身となり、奇しくもオリンピックで銀メダルを獲得した日のちょうど3年後の8月2日、24歳のあまりにも短い生涯を閉じました。直接の死因は肺炎ということでしたが、過労死以外の何物でもなかったでしょう。

1932年のロサンゼルス・オリンピック…そうした人見の骨身を削った努力は報われ、日本は9名もの女子選手を代表に送り込み、やり投の真保正子さんが人見の記録を塗り替える39m07で4位入賞、また400mリレーでも、100mで人見の12秒2に並ぶ日本タイ記録を出した15歳の渡辺すみ子さんをアンカーに据えた日本チームは、48秒9の日本新記録で5位入賞を果たしました。
自分が金メダルを獲るための場だったはずのオリンピック・コロシアムで活躍する後輩選手たちを、天国の人見絹枝はどんな気持ちで見守っていたことでしょうか…。