豊大先生流・陸上競技のミカタ

陸上競技を見続けて半世紀。「かけっこ」をこよなく愛するオヤジの長文日記です。 (2016年6月9日開設)

連載「懐かしVHS時代の陸上競技」

連載「懐かしVHS時代の陸上競技」#10~1996/第80回日本選手権


covid19禍でオリンピックをはじめ多くのスポーツ・イベントが開催不能となった昨今。テレビ各局の放送枠や定期刊行物のネタにも大きな穴が開いて、それじゃあしょうがないとばかりに、懐古的な映像や記事でその場を凌ぐ企画が多い中、ご多分に漏れず始めさせていただいたこの連載も、10回目を迎えました。ま、私の場合は外出自粛の期間、期せずして古いビデオの大量整理という時間がとれたことが、大きな理由なんですけどね。

陸上競技に関しては、先月号の『月刊陸上競技』、そして今月NHKで放映された『日本陸上競技選手権名場面・名勝負』でそうした特集がありました。感慨深かったのはどちらの企画でも「イチ推し名勝負」の位置づけにあったのが、2005年の第89回日本選手権・女子走幅跳、花岡麻帆(Office24)と池田久美子(スズキ)の死闘だったことです。

これはもう、日本陸上競技史上第1位、究め付けの名勝負だったですね。
単にこの時の接戦が凄まじかったというだけではありません。両者は何年にも渡って日本一を決めるこの舞台で、数センチ差で抜きつ抜かれつを繰り返し、勝ったり負けたりを続けていました。しかもそれが常に6m50~60台という当時のB標準クリア、本番のオリンピックや世界選手権ならトップ8当確ラインというハイレベルで争ってきた「名勝負数え唄」の、雌雄を決する一戦だったところに「史上最高の名勝負」たる所以がありました。(花岡・池田の時代はLJに関しては“世界”のレベルが低迷期にあり、6m60で入賞、80ならメダル争い、7mで金メダル有望といった状況。それに比して標準記録のハードルが実情よりも高かったのです)

2003年の横浜での大会の時は、私は砂場の真正面で観戦していました。2005年も、旧国立競技場で行われていたため私は現地観戦がしたくて堪らなかったのですが、ちょうど毎週日曜日にラジオの生放送というレギュラーの仕事がありまして、放送の終わったスタジオで、同じく陸上オタクのプロデューサー氏とともにTVに噛り付いていたものです。
しかもしかも、両者6m69の同記録で並んでセカンド記録の僅かな差で花岡がリード、さあ後は池田の6回目を残すのみ、という場面でTV中継が終了する、何ともはや!な展開。
家に帰ってネットでリザルトを見てみると、そこには全選手の試技順に6回の試技内容がきっちりと表記されていて、二度見、三度見するまで、どちらが勝ったのか判断できませんでした。ご承知のとおり、ラストジャンプで池田が花岡のセカンド記録に並んだため、サード記録の僅か2センチ差で池田が優勝。まさに紙一重、乾坤一擲の大逆転劇だったのです。

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そうした名勝負の数々を生み出してきた日本陸上競技選手権は、言うまでもなく4年に1回のオリンピック・イヤーには独特の熱気に包まれ、悲喜こもごものシーンが連続します。
今回“発掘”した『第80回』は、アトランタ・オリンピックの選考会。前述の『月陸』や『NHK』にもいくつかの種目が取り上げられている、中身の濃い大会でした。
時は1996年6月6日から9日の4日間。このうち2日目以降の3日間が、NHK総合地上波で放送されたようです。
舞台は新装こけら落としの大阪・長居競技場(現ヤンマースタジアム長居)。当時大阪市はオリンピック招致活動真っ盛りで、そのメイン会場に擬せられていたスタジアムです。9レーン走路と5万人弱収容のキャパ、ホーム・バックともに屋根が覆い、風の影響を受けにくく、サブトラックまでもが第1種公認競技場という、当時としては「日本一の陸上競技場」と呼ぶにふさわしい威容を整えてのお披露目イベントでした。
さらに、この大会では男女の短距離種目で日本新記録が続出して、早くも「高速トラック」の名を欲しいままにしていきます。

なお、このシーズンから日本陸連の用語ルールとして、「コース」「ゼッケン」「ゼッケン番号」という用語が廃止され、それぞれ「レーン」「ナンバーカード」「ナンバー」に改められました。シーズン当初から、実況アナウンサーたちが注意深く正しい用語を選んでいる様子が、ちょっと面白かったのを覚えています。


◇女子短距離

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この頃は、北田敏恵(大阪体育大T&F)の全盛期です。26歳になっていた女王・北田に、新進気鋭の吉田香織(金沢大/現姓:高野)や新井初佳(甲南大/現姓:小島)、島崎亜弓(中央大/…ええと、確か旧姓に戻ったかと)らが挑みかかる、といった図式でした。
100mの準決勝で11秒48(+0.5)の日本新記録を出した北田は、そのまま決勝も前日本記録保持者の吉田以下を寄せ付けず快勝。タイムは11秒53(+0.4)に留まり、A標準の11秒44にはもう一歩届きませんでした。

ちなみに、アトランタ五輪の選考基準については番組内でほとんど語られることがなく、また標準記録はA記録だけが紹介されており、こんにちのように執拗なほどに選考条件を説明する、ということがありません。北田の100mはおそらくB標準を破っていたものと思われるのですが、選考の俎上に上ることはなかったようです。
また、男子110mHでは、穂木宜昭(三洋信販)がA標準を突破して優勝したにも関わらず、代表からは漏れていたりします。標準突破済みで今大会に優勝した男子やり投・溝口和洋(ゴールドウィン)も同様です。陸連の選考方針が、まだまだ不透明だったことを伺わせます。

北田は200mも自身4月に出したばかりの日本記録23秒73に迫る23秒76(+1.0)で圧勝、両種目とも3連覇、4度目の優勝となりました。
スラリとした長身にハイネック・ハイレグのファッショナブルなレーシングスーツを纏った姿は見目麗しく、女子短距離の一時代を築いた名選手と言ってよいでしょう。

◇男子短距離
初日にこの大会最初の日本新記録を叩き出したのは、200m予選の伊東浩司(富士通)。20秒29(+1.1)は、従来の記録を0.15秒も上回るもので、解説の渡部近志さんが何べんも「大記録です」と言うほどのワールドクラス・レコード。アトランタのA標準が20秒84ですから、推して知るべしです。
この記録に自身でも興奮してしまった伊東は、その晩まったく寝付けずに2日目の準決勝・決勝を迎え、優勝しながらもそれぞれ20秒90、20秒70に留まって、「正直、バテてしまいました…」と感想を漏らしました。そのまま100mの方は棄権ということになります。
それにしても、A標準突破者は伊東以外にも何人も現れ、この頃から200mは日本にとってのターゲット種目となってきたようです。

その100mでは、朝原宣治(大阪ガス)が伊東不在の重責を担います。この頃の朝原は、むしろ走幅跳を“本職”とするいわゆる二刀流。この大会でも、LJ決勝の1回目を跳んでから100m決勝、というお忙氏ぶりです。
3レーンに井上悟(ゴールドウィン)、4レーンには現在桐生祥秀の指導者として知られる土江寛裕(早稲田大)という若手を従え6レーンに登場した朝原は、予選で既に10秒34のA標準を突破する10秒26、準決勝10秒28で貫録を見せ、この決勝でも無人野を行くごとき快走で、ぶっちぎりの1着。10秒14(+0.9)は自身の記録を0.05秒破る会心の日本新記録でした。2着土江も10秒33で単独種目の代表権を獲得、井上は4着に沈みながらも実績が評価されてリレーメンバーに選出されています。
アトランタでの朝原は、ベストに迫る10秒16で走りながら惜しくも準決勝で敗退。伊東を加えた400mリレーは予選で失格という残念な結果でした。

◇金沢イボンヌ登場
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女子100mHはこの年、一気にブレイクの時を迎えていました。主役は、アメリカ育ちの金沢イボンヌ(佐田建設)。コロラド大在学中の前年、日本選手権を初制覇しています。春先に小林尚子(森永製菓)が13秒33の日本新記録を作りますが、その少し前に金沢は13秒09を記録しており、これが5月になって改めて公認されました。1964東京五輪(当時は80mH)の依田郁子さん以来低迷をかこっていたこの種目に、逆輸入の新風を巻き起こしたなどと言われましたが、彼女が急成長を見せるのは国籍を日本と定め、日本人として走る選択をしてから後のことですから、その言葉は失礼かもしれませんね。
今大会の時点では、「金沢イボン」という表記・呼称になっており、実況の工藤アナは「スコット金沢イボン」と紹介しています。また陸連の歴代優勝者リストによれば、「S.金沢イボンヌ」となっています。(翌年からは「金沢イボンヌ」)

3レーンから順に小林、佐々木あゆみ(ミキハウス)、金沢という歴代の日本記録保持者が並んだ決勝では、小林が見事なレースメイクで先行し、スタートのあまり巧くない金沢が追う展開。しかしながら中盤以降の金沢のリズムアップは圧巻で、小林に1メートル弱の差をつけて故国の女王の座を射止めました。
優勝タイムは13秒08の日本新記録(-0.1)。僅差で続いた小林にも13秒14のA標準突破が期待されたものの、インタビュー中に届いた正式結果は無情の13秒17。思わずガックリと項垂れましたが、堂々たるPBでした。
これで連覇となった金沢は、その後6連覇を含む8回の日本一を達成、アトランタとシドニーの両五輪に出場し、100mH中興の祖としての名を歴史に刻みました。2000年の日本選手権でマークした13秒00(+0.7)が昨年まで日本記録として燦然と輝いていたのは、ご承知のとおりです。

◇女子走幅跳
ジョージメイソン大留学中にA標準を突破する6m61の日本記録を樹立した高松仁美(埼玉大)に期待が集まりましたが、降り出した雨のせいもあり全般的に記録は低調。前日の100mHで3位だった佐々木あゆみが、6m35の記録で6回目に逆転、5年ぶりの日本一に輝きました。
冒頭でご紹介した花岡麻帆が順大3年で、また池田久美子は日大山形高1年で、それぞれ初々しいジャンプを見せているのが感慨深い映像です。また、池田・花岡時代の次を担った岡山沙映子の姉・奈津子(筑波大)の姿もあります。(ワタクシ中学生の頃、この姉妹の母上である香丸恵美子さんの追っかけファンでした)
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結局3位に終わった高松の代表選出はならず、女子フィールド種目ではやり投の宮島秋子(日本電装)が唯一のアトランタ代表となりました。
男子もフィールドは走高跳の野村智宏(日本大)、棒高跳の米倉照恭(ゼンリン)だけという寂しさで、親子二代の代表を目指した室伏広治(中京大)は、20連覇中の2連覇目を飾るも標準記録には届きませんでした。

◇男子10000m
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この大会随一の「名勝負」として、やはり懐かし企画に必ず取り上げられるのが、この種目です。
10000mは男女とも、日本選手権標準記録突破者が多く出て想定以上のエントリーがあり、初日に予選が行われるという事態になっていました。(オリンピックでは1972年から2000年まで、10000mの予選が行われています)
男子では9人のA標準(28分10秒00)突破者がおり、そのうち1人が不出場で4人が予選で脱落、決勝には渡辺康幸・花田勝彦・平塚潤・川内勝弘(いずれもエスビー食品)と4人の“有資格者”が駒を進めてきました。
一方、本来なら代表候補最右翼の高岡俊成(鐘紡)はこの時点で“資格なし”。何としても本番での突破を狙う高岡に、大会連覇中のA.ニジガマ(日清食品)や初優勝を狙うS.マヤカ(ダイエー)らの思惑が絡んで、“恵みの雨”の中での高速レースが期待されます。(当時は、外国人選手も正式参加の扱い)
その他見渡せば、島嵜貴之・本田竹春(以上ヤクルト)・高橋健一(ダイエー)・夏目勝也(トヨタ自動車)・藤野圭太(九電工)・池田幸康(四国電力)・井幡政等(鐘紡)・川嶋伸次(旭化成)・武井隆次(エスビー食品)・福島雄一郎(九電工)・磯松大輔(コニカ)と、オールドファンには堪らない顔ぶれがスタートラインに連なります。
しかしながら、レースが始まると、「その他」以下の選手の出番はほとんどありません。
先頭に立ったニジガマが400m64秒、1000m2分43秒と申し分のないペースを作り、マヤカ、高岡、渡辺、平塚、川内、花田…と続く縦長の展開。2000m過ぎ、好位につけた高岡をSB軍団が次々と交わしていき、早くもチーム一丸となっての戦略が伺えます。この包囲網を凌ぎきること、そして自らのタイムをA標準に届かせることが、高岡にとっての厳しい命題です。

4000mを過ぎて、早くも先頭集団は7人。川内が脱落し、標準未到達者で残っているのは高岡と福島のみになりかけたところで、磯松と高橋が懸命に食らいつきます。5000m通過は13分53秒。日本記録のペースからは4秒遅れているのみ。
7300mで遂に先頭は6人。エスビー3選手に高岡、そしてブルンジとケニア。8000mを過ぎて先頭ニジガマのペースが緩み、しばし後方で小休止を決め込んでいたマヤカがするすると先頭へ。しかしペースはさほど上がらず、まさに嵐の前の静けさです。
勝負師の風貌を持つ花田が、しきりに周囲の様子を伺います。高岡は6人の最後尾からいったんインが開いたところを上がりかけるも、エスビー勢に包まれる形で再び後退。
残り650メートルで、待ちきれないとばかりに平塚がスパート。これを冷静に捌いた花田が先頭に立ちますが、なおも四方を確認しながら脚を溜めようという動き。競輪で言うところの「ペース駆け」です。平塚、渡辺、高岡、ニジガマと続いてマヤカは脱落。
すでにA標準突破は間違いなく、このレースでの日本人上位3人がそのまま代表に選出される公算大…となれば、4人のうちの1人だけが落選の憂き目を見ることになります。果たしてエスビーの独占か、高岡の逆襲はあるのか…?
鐘を聞いて、先頭の花田がようやく全開のラストスパート。バックストレートでは2番手に上がった渡辺に5メートルほどの差をつけ、勝負ありかとも思えましたが、4番手にいた高岡が第3コーナーから大きなストライドで猛追開始。平塚、渡辺を抜き去り、外から捲りにかかったのを、花田が身体を寄せてブロックを図るところを瞬時にインを衝き、きっちりと差し切って1着。タイムは27分49秒89、スリリングなラスト1周は57秒というレベルの高い日本一決定レースとなりました。

高岡は「いいレースができました。標準も切っていなかったので逆に開き直って余裕があった。きついよりも嬉しいが先に来てます」と、会心の笑顔でインタビューに応じる傍らで、花田もガッツポーズを見せて満足の表情、渡辺も「本当にいいレースだった」と一言。
レースの内容もさることながら、この28分間の激闘をCMも(NHKなので当然ですが)他種目の挿入もなく「完全中継」したのは、滅多にないファインプレーでした。女子10000mでも、同じようにノーカットのレースを見せてくれます。「長距離走は視聴者が飽きる」と決めつけ、CMを5回もぶち込んだり要らないフィールドの実況を交えたりを当たり前と考えている民放局の制作者には、ぜひこのレースの映像を見直してもらいたいものです。

◇男子400mH
10000mと同じく3つの椅子を4人が争う形勢で緊張感が高まったのが、最終日に行われたこのレース。前年の世界選手権で7位入賞を果たした山崎一彦(アディダスTC)には王者の風格が漂う一方、プラス2の3番手で決勝進出を阻まれたバルセロナの雪辱に燃える斎藤嘉彦(東和銀行)、マイルリレーの主要メンバーでもあり代表を逃すわけにはいかない苅部俊二(富士通)、そして唯一学生の河村英昭(順天堂大)がその左右を囲みます。この時代のヨンパーの勢力図、「法政vs.順天堂」がダイレクトに反映された、2対2のがっぷり四つです。
レースは終始軽快なハードリングでトップをひた走った山崎がそのまま押し切って48秒75、一つインレーンからこれをマークし続けた苅部が48秒99で2着。
斎藤は一つインの山崎に第3コーナーで追い抜かれたところで力みが入ったか、直線で明らかに伸びを欠いて河村の追い込みを許しました。日本人として初めて49秒の壁を突破し、ヨンパー台頭の急先鋒として5年間守り続けた代表の座を滑り落ちる結果となった斎藤は、ゴールインするや倒れ伏し号泣。それを先輩の苅部が気遣う様子が印象的でした。
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鎬を削り合う中から頭ひとつ抜け出た感のある山崎は、意外な感じもしますがこれが日本選手権初優勝。以後2001年まで、ヨンパーの覇者は苅部-斎藤-山崎-河村-為末大と、毎年入れ替わります。
山崎はアトランタの予選で楽々通過するかに見えながら、ゴール前で流したことが裏目に出てまさかの敗退。世界選手権では為末とともにただ2人だけのファイナリスト。オリンピック決勝のカベの高さ、というものを象徴するハードラーだったと言えるでしょう。

◇女子10000m
男子に劣らぬ好レースが約束されたかのような18人の決勝メンバーには、日本記録を更新したばかりの19歳の新星・千葉真子(旭化成)、マラソン代表を僅かのところで逃した鈴木博美(リクルート)、負けん気の強さでは定評のある高橋千恵美(日本ケミコン)、本命と思われた5000mを捨てて賭けてきた弘山晴美(資生堂)、その5000mで3位に食い込み代表入りの可能性を持ちながら大会3レース目に挑んできた岡本幸子、同学年の千葉に同じ宮崎のチームでライバル心を燃やす川上優子(以上沖電気宮崎)、大卒社会人となってから急成長の兆しを見せる高橋尚子(リクルート)、さらに坂下奈穂美(ワコール)、エスタ・ワンジロ(菅原学園高)、上岡正枝(ノーリツ)、村中眞保美(NEC)、市河麻由美(三井海上)、増田裕美(沖電気宮崎)…と、豪華絢爛な顔ぶれが並びます。

スタートしてすぐに先頭に立った千葉が、1000mを3分12秒というややゆったり目のペースで通過。しかしそこからの1000を3分03秒とペースアップしたため、隊列は長くなり、3000mまで行かないうちに、先頭は千葉・鈴木・川上の3人に絞られてしまいました。これを追う4位集団は、坂下・岡本・エスタ・弘山・高橋千・高橋尚の6人です。
5000mを15分36秒の日本新ペースで通過すると、鈴木が先頭へ。6600mでは千葉が首位奪回。川上は終始3番手の位置をキープ。ラストにスプリントが利かないことを自覚している千葉は、何とかしてペースアップを図り独走に持ち込みたいところなのですが、鈴木・川上の調子が上回っている様子でそれが叶いません。
8900mで再び鈴木が先頭。3人の縺れ合いは、鐘を聞いてそれぞれが渾身のスパートを放っても、9900mまで続きました。そこから鈴木がスプリントを利かせて一気に差を開き、川上も僅かに千葉を差し切って、鈴木・川上・千葉と順位が変わってフィニッシュ。ラスト1000は2分59秒、400は67秒というビルドアップでした。
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タイムは31分19秒40の日本新記録、現在でもなお大会歴代4番目の優勝記録で、進化を続ける女子長距離界で24年前の記録であることを思えば、そのレベルの高さが伺えます。この頃の女子長距離トラックは本当に強かった時代で、本番のアトランタでは千葉が5位、川上が7位に入賞。5000mの志水見千子(リクルート)はメダル争いにこそ絡めなかったものの4位入賞。
マラソンからトラックへの方向転換に首尾よく成功した鈴木は、アトランタは16位と不振でしたが、翌年のアテネ世界選手権で再度マラソンに挑み女王の座を掴みました。
3強に続いては約23秒差で弘山が4位。この結果と実績が評価されたか、5000mで3番目の代表に選出されました。10000mでは翌年の大会でラスト62秒の猛烈なスパートを炸裂させ、3強をまとめて破り初優勝しています。
5位の高橋尚子は31分48秒23のPBで、24歳にして一流ランナーの仲間入り。2年後のマラソンでの大ブレイクの布石としました。

全般に標準記録の設定が甘めな感があった(参加人数が多く設定されていたので)とはいえ、トラックに関しては現代に比べてもレベル的に見劣りしない大会だったと総括できましょう。特に女子長距離では、マラソンを含め本番で見事な結果を残しているのですから、そりゃあ選考会も盛り上がりました。男子短距離陣も、現在と遜色のない充実ぶりだったと言えます。いい日本選手権でした。

連載「懐かしVHS時代の陸上競技」#9~1991/第10回大阪国際女子マラソン


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今回のお宝映像は、あの有森裕子が日本女子マラソンのトップランナーに躍り出た、1991年1月の『大阪国際女子マラソン』です。
第10回の記念大会ということで、初代から4代目までの歴代優勝者が招待されるという豪華な顔ぶれの中で、国内的にはこの夏に開催される東京世界選手権の代表選考を兼ねた、熱い戦いが繰り広げられました。
出場した歴代女王は、第1回のリタ・マルキシオ(ITA)、第2・4回のキャリー・メイ(IRL)、第3回のカトリン・ドーレ(GER)、第5・6・8回のロレーン・モラー(NZL)で、いずれもこの時点では現役バリバリ。第7回のリサ・マーチン(AUS)と前回のロサ・モタ(POR)は残念ながら都合つかず。ですが、ソウル五輪のマラソン上位3人がいずれも大阪で優勝している、というのはなかなかなことですね。(モタのみ、五輪後の優勝)
歴代女王以外では、ソウル4位のタチアナ・ポロビンスカヤ(RUS)、ボストン・シカゴなどのメジャー大会を獲っている強豪リサ・ワイデンバック(USA)、大阪5年連続出場のレナタ・ココウスカ(POL)、チェコスロヴァキア記録を持つA.ペテルコヴァなど、海外招待選手は総勢15人。
国内招待選手は、浅井えり子(日本電気HE)、有森裕子、松本真由美(以上リクルート)、石倉あゆみ(京セラ)、黒崎しのぶ(大阪陸協)、田中弘子(旭化成)、鰍谷真由美、名雪多美代(以上セイコー電子)の8名です。

放送製作は関西テレビ(フジテレビ系列)。メイン実況は競馬の実況者として杉本清さんの先輩だった松本暢章アナ、解説は帖佐寛章陸連専務理事。第1放送車に塩田利幸アナと解説・豊岡示朗大阪体育大学教授、第2放送車に馬場鉄志アナと解説・澤木啓祐順天堂大監督、第3放送車に毛利八郎アナなど。
大会冠スポンサーは、第1回から第20回までダイエー・グループでした。
確か、『東京国際マラソン』もダイエーグループの協賛だったと思いますが、2分間、レースの映像を半画面に残しつつ延々とグループ各社(ローソンやビッグボーイ、オレンジページ、福岡ダイエーホークスに至るまで)をロール表示していくCMがとても印象深く、好感を持てるものでした。企業によるスポーツの応援はこうあって欲しい、と思わされる手法でしたね。
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さて、レースはトラックの周回時点から、中国のチェン・シンメイ(愛知教育大)がポンと飛び出し、以後のレースをずっとメイクしていくことになります。ソウル5位の趙友鳳に続き、同じ竹内伸也監督のもとで国際ランナーへの飛躍を目指すチェンは、少し腕振りなどの動きに固さが感じられるものの、スラリとした身体の割には太腿の肉付きなどなかなか逞しく、十分な素質を秘めていたように見受けられます。
長居公園の周回路に出たあたりでいったん吸収されますが、この飛び出しの影響で隊列は縦長の中にいくつかの小集団が形成される展開になります。
先頭は、チェンの他、リ・ジュワン(CHN)、ドーレ、ポロビンスカヤ、ワイデンバック、ココウスカ、ペテルコヴァ、浅井、有森、そしてマラソンデビュー戦の浅利純子(ダイハツ)という10人。

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先頭集団を力走する有森と、インタビューに答える小出監督

10㎞過ぎ。チェンが再びペースを上げると、浅井と浅利は追走集団についていけなくなり、後退。チェンはそのまま集団を引き離して再び単独首位に立ち、レースを見守っていた竹内監督は、「これはオーバーペース。そこまでの練習をしていないし、フォームも良くない」と、辛辣なコメントです。
それまで単独11番手にいた石倉を田中とヘレン・モロス(NZL)が交わしていき、その後にはモラーら数人の外国人ランナーに混じってリクルートの新人・佐藤千春が追走。500メートルほどの間に、1人(チェン)-7人-2人-2人-1人-7人、…という小刻みな塊が流れていきます。
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『大阪』のコース上の見どころは、中盤の御堂筋、後半の大阪城公園というのがお馴染みですが、本格的に御堂筋を南下する進路が取られたのは、この年からです。広々と開けた8車線の直線一方通行路にはお誂え向けの側道が1車線あって、マラソンの折り返しのために設計されたかのような趣があります。
折り返し直前の20㎞まで、独走態勢のチェンと追走集団は17分台の好ペースを続けてきており、集団の中にいる有森に、そろそろ「日本最高記録」の期待がコメントされ始めています。有森は前年の大会でマラソンデビューし、当時の初マラソン日本最高記録で6位となりました。その直前に『全日本実業団女子駅伝』で、アンカー区間賞を獲得したのは前回の記事でお伝えしたとおりで、20歳を過ぎて急速に台頭してきたランナーです。
91年1月時点で、2時間30分を切った日本人女性ランナーは小島和恵、宮原美佐子、兵頭勝代の3人しかいません。小島と宮原が既に現役を去り、兵頭もまたトライアスロン転向を決めていたこの時、新興勢力の急先鋒たる有森によって、2時間29分、28分を一気に跳び越え、27分台の快記録へと期待は高まります。

25㎞を過ぎるとコースは大阪城公園へ。現在の簡素化された通り方ではなくて、いったん一般道路に出てから再入場するなど、変化にとんだ約2㎞半に及ぶ経路です。距離的にもいよいよ佳境という頃合いですし、短いながらも急峻なアップダウンもあり、選手を映すカメラのアングルが目まぐるしく変わる視覚的な効果も手伝って、「死闘」の雰囲気が自然に演出されたコースでした。
第6回から37回大会まで、この場面になるとTHE ALFEEのオリジナル曲が流されるというのも、好き嫌いはともかく、ユニークな演出でした。毎回新たなテーマ曲を32年間(31大会)提供し続けたというアルフィーの壮挙は、ギネスブックに認定されているそうです。
トップを行くチェンのリードはますます広がり、追走集団はリ・ジュワンがこぼれただけで6人がびっしりと肩を寄せ合って歩を進めます。
そのさらに後方では少し動きが出始めました。最初トップ集団にいた浅井・浅利を、後ろから来た田中・モロスが吸収。さらに、後方で一人マイペースを決め込んでいた石倉が猛然と追撃を開始し、場内で一気に4人をゴボウ抜きして9位に浮上します。目の前に子供が付き出した小旗を「ウルァ!」とばかりにパンチで叩き落とし、気合満点の表情で公園内を突っ走るところまではよかったのですが、この後突然「トイレタイム」に見舞われてしまい、大きく順位を落とすこととなりました。
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ドーレが引っ張る追走集団は、30㎞の給水所で一気に崩壊して、追走はドーレと有森の2人だけとなりました。さすがに脚色に衰えの見え始めたチェンとの差が、少しずつ詰まります。

この大会が、東西統合後に初めてドイツチームのユニフォームを着ての出場となったドーレ。第3回大会優勝のみならず、ここまで日本では広島ワールドカップを含め7戦6勝という抜群の親日ランナーです。生涯フルマラソン24勝という戦績は、川内優輝を別とすれば男女を通じて傑出した最多勝記録。歴代の女子マラソンランナーで、間違いなくベスト10に入ってくる名選手です。
そのドーレにマッチレースを挑む形となった有森は、マラソン2戦目とは思えない、また高校時代に常に『都道府県対抗女子駅伝』の岡山県補欠に甘んじていたというのが信じられない、端正で力強い脚運びで大金星を伺います。

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34㎞過ぎ、遂にチェンを捉え、優勝争いはドーレ、有森の一騎討に。
37.5㎞付近でスポンジを取ったドーレが、それを有森にも手渡そうと振り返った時、ちょうど一杯一杯になりつつあった有森は2メートルばかり後方にいて、少し頑張ってスピードを上げ追いついて受け取る、という動きがありました。その直後にCMブレイクが入り、明けた時には両者の間に10メートルばかりの差ができており、どうやら勝負ありの感があります。
残り4㎞、勝負には敗れつつありながらも有森の闘志は衰えず、懸命に落ち込みを抑えながら記録への挑戦が続きます。
結局、貫禄のドーレに揺るぎはなく、前年のロサ・モタより4秒速い2時間27分43秒でテープを切り、有森は18秒差、2時間28分01秒の堂々たる日本最高記録で2位を占めて、会心の笑顔・会心のガッツポーズでのフィニッシュとなりました。
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レースを盛り上げたチェンも29分台の大幅PBで3位に粘り切り、竹内監督の懸念を一蹴しました。以下ココウスカ、ペテルコヴァ、ワイデンバック、ポロビンスカヤ、リ・ジュワンと当初の先頭グループがそのまま順位をキープ。日本勢の2番手は、有森と同僚の佐藤千春となって、以下田中、浅利、浅井、石倉と続きました。第1回から10年連続出場の黒崎しのぶ(大阪陸協)は19位でレースをまとめています。

この快走で8月の東京世界選手権代表を射止めた有森は、猛暑のレースで銀メダルを獲得した山下佐知子(京セラ)に続く4位となり、ともに日本の女子マラソンが世界に打って出る足掛かりを築きました。
ロスおよびソウル五輪の結果が示すとおり、日本の女子マラソンはまだまだ世界で戦うには実力不足とされていた中から、ようやく現れた世界基準のランナーが、山下と有森だったわけです。(むろん、両者が“世界”の舞台である夏のレースに強い特性を持っていたというのも、大きな要因です)

“世界”で4位というのはそれほどに、当時としては素晴らしい快挙だったのですが、その一つ上の実績を挙げた山下が早々にバルセロナ五輪代表に内定したのとは裏腹に、有森の代表決定までの道のりが難渋し混乱を招いた経緯は、ご承知のとおり。陸連としては当初から実績抜群の有森を選ぶ腹積もりであったに違いないのですが、一人の選手がマスコミを巻き込んだアピールを仕掛けたことで、現場にも選考にも関係のない門外漢が大騒ぎする事態へと発展してしまい、前回のソウル男子に続いて「マラソン五輪代表選考」は一種の社会問題にまでなってしまったのです。
いずれにしろ、2大会連続五輪メダルという快挙を達成し、今なお女子マラソン界の重鎮として輝きを放ち続ける有森裕子の、鮮烈な出世レースがこの『第10回大阪国際女子マラソン』でありました。
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連載「懐かしVHS時代の陸上競技」#8~1989/第9回全日本実業団女子駅伝


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このシリーズ3度目のピックアップとなります『全日本実業団女子駅伝』、1989年の大会は岐阜の30㎞コース・5区間で行われたものです。
地元企業の西濃運輸がメイン・スポンサーで、「カンガルー・スポーツスペシャル」という冠がつけられています。

バブル時代と女子マラソン人気を反映して女子実業団チームが急増し、前々年までは地域実業団の混成チームを交えて行われていたのが、前年から単独チームのみによるレースとなって23チーム、そしてこの年には29チームが出場。翌年からは予選会を開催するということになっていき、解説者の見立てでは「予選会出場は50チーム近くになるのではないか」という日の出の勢いです。

その出場チームを列挙すると、
①セイコー電子工業(千葉)②日本電気(東京)③*埼玉銀行(埼玉)④日本ケミコン(宮城)⑤岡部工務店(茨城)⑥大京(東京)⑦*ホクレン(北海道)⑧松下通信工業(神奈川)⑨住友金属工業(茨城)⑩リクルート(東京)⑪川崎製鉄千葉(千葉)⑫*資生堂(東京)⑬西濃運輸(岐阜)⑭トヨタ自動車(愛知)⑮日本電装(三重)⑯本田技研鈴鹿(三重)⑰北國銀行(石川)⑱ダイハツ(大阪)⑲住友化工(和歌山)⑳ワコール(京都)㉑*ニッセイ(大阪)㉒三田工業(大阪)㉓ダイイチ(広島)㉔旭化成(宮崎)㉕*ベスト電器(福岡)㉖ニコニコドー(熊本)㉗*九州日本電気(熊本)㉘東陶機器(福岡)㉙沖電気宮崎(宮崎) *は初出場

実は30チームがエントリーしていたのですが、大会連覇中・過去8回中4度優勝の大本命、京セラ(鹿児島)が、エース荒木久美以下の故障者続出により出場辞退となりました。
30チームのうち、現存しているのはホクレン・松下通信(現パナソニック)・資生堂・ダイハツ・ワコール・東陶機器(TOTO)・京セラの7チームだけ。事実上他企業に引き継がれて存続しているのが、埼玉銀行(→しまむら)・リクルート(→積水化学)というところです。

直前の予想では、真木和・藤原恵らを中心に安定した実力者を揃えるワコールと、志水見千子・有森裕子といったルーキーに勢いがあるリクルートが「2強」。宮原美佐子がラストランを迎える旭化成、松野明美擁するニコニコドー、マラソン日本記録保持者の小島和恵が牽引する川鉄千葉、第6回の優勝を含め上位常連の三田工業などが、これに続く前評判となっています。
放送席実況は、落ち着いた語り口の多田護アナ。解説はマラソン界の重鎮・高橋進さん。ゲストとして旭化成監督就任2年目の宗茂さん。第1放送車実況は、落ち着かない語り口の椎野アナ。


◇1区(岐阜県庁~グランドボウル:3.1㎞)

県庁前の路上に並んだ1区の選手たち。正直に言うと、知ってる(覚えてる)顔が一つもありません。当時の1区は最短区間でもあり、エース級が投入されることはあまりなかった、ということもあります。ルーキーが多かったようです。
リクルートの長身ルーキー大塚由美子が飛び出しを図りますが、やがて吸収され、代わってニコニコドーの田代美保がスパート。旭化成に4秒差をつけて、幸先のいいスタートを切りました。以下、川鉄千葉、東陶、ダイハツ、リクルート、日本電気、日本ケミコン…と続いて、本命のワコールは急遽起用した李淳姫が振るわず、20秒差の13位と出遅れました。

今ではTV放送されるロードレースでは、必ず自動車メーカー1社が協賛社となって車両提供をするのが定着していますが、この大会ではまだそれがありません。大会運営車両には、自前(?)の1~2台の他は、なんと地元のタクシーを徴用してるんですね。そういえば、箱根駅伝なんかでも、自衛隊のジープが協力していましたっけね。
また、タイム計測にはまだランナーズチップなどなくて、おそらくビデオによる公式計時と思われます。私も、1988年の青梅マラソンに出た時、「ビデオ判定するのでゼッケンが見えるように腕を下げてゴールしなさい」と事前注意された覚えがあります。
ついでに、「ゼッケン」というのも1995年までは正式な陸上用語でした。最近はナンバー記載のないビブス(ネームカード)が用いられることが多いので、また「ゼッケン」という用語が復活してきています。

◇2区(~大垣市総合体育館:6.2㎞)
各チームの“2番手”が投入されることの多い、前半のエース区間。ニコニコドーは木村友香似の李周霞が懸命に首位を守ろうと粘りの走り。この頃の「助っ人外国人」といったら、女子では中国選手でしたね。
後続グループを鈴木博美(リクルート)が引っ張り、吉田光代(ダイハツ)が負けじと食い下がります。吉田はこの1か月後の『大阪国際女子マラソン』でブレイク、ダイハツの重厚なマラソン軍団の先陣を切った選手で、長身の美人ランナー、ということは私のヒイキ筋の一人でした。
先頭の李を吸収して3人の先頭集団となったところへ、後方から一気にぶち抜いたのが、ワコールの主軸の一人・岩本初美、23歳。区間記録を34秒も更新する走りで12人抜き、早くもここで本命が主導権を握る展開となりました。
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◇3区(~ドライブイン穂積:5.3㎞)
ニコニコドーがやや遅れて、先頭集団はワコール、リクルート、ダイハツの3チーム。後に日本を代表するランナーとなる志水見千子、藤村信子を従えて、この時点では“格上”の存在である藤原恵がジワジワとリードを築きます。
今思えば2区以降のワコールは、まさに盤石の布陣。この前年が初出場だったのですが、2位。今大会を皮切りに4連覇を果たしその次も2位。その6回全てに出場し、区間賞を4回獲得している藤原は、真木和とともに鉄壁の2枚看板でした。
結局リクルートに22秒差をつけたワコールが、大きくリード。3位以下はダイハツ、旭化成、ニコニコドー、東陶、川鉄千葉、三田工業、大京…と続いています。
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◇4区(~岐阜文化センター:10.0㎞)
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4区区間4位と復調の兆しを伺わせた増田明美。ワイプ画面は真木。

いよいよ山場の最長区間。先頭のワコールが真木和に引き継ぐと、リクルートは吉田直美、ダイハツは浅利純子、旭化成は朝比奈三代子、そしてニコニコドーは松野明美と、次々にエースが飛び出して行きます。ただし、吉田、浅利あたりはまだまだ若手の有望株といった存在。それよりは格上なのが、7位スタートのマラソン日本記録保持者・小島和恵(川鉄千葉)、そして14位スタートの増田明美(日本電気)といった面々です。
先頭を行く真木は、藤原と同様前後6回の大会(優勝4回・2位2回)すべてに出場していますが、常にエース区間を任されたために、松野や荒木久美、外国人ランナーなどの前に一歩及ばず、区間賞は一度もありません。しかしその安定度はエースの名にふさわしく、ワコール黄金時代の立役者であったことは間違いありません。95年の5度目の優勝時にアンカーでようやく区間賞に輝き、翌年のオリンピックマラソン出場へと大輪を咲かせた息の長い選手でした。2018年に乳癌のため亡くなっています。

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その真木が揺るぎない独走態勢を固める一方で、後方では口も軽いが足取りも軽い松野明美が猛然とスパーク。区間中盤で先行する3チームをまとめてゴボウ抜きすると、先頭の真木すらも射程に捉えようという勢い。ただ、5区の戦力を比較するとニコニコドーとしてはここでトップに立つ以外に勝ち目はなく、松野の孤軍奮闘もここまで、という感じでした。
朝比奈はこの年の日本選手権で、絶対優勝間違いなしと見られた松野に対して終盤大差を逆転し、一躍脚光を浴びたホープ。後にマラソンで日本記録も作りますが、どこか安定感に欠け、活躍期間の短い選手、といった印象でした。このレースでは追い抜かれた松野に対してまずまずの粘りを見せ、チームを上位に踏みとどまらせます。

中継所での1位・2位の差は24秒。さらに6秒遅れて旭化成、10秒差でダイハツ、リクルート、川鉄千葉…と続きました。

◇5区(~岐阜県庁前:5.4㎞)
ワコールのアンカーは久村香織。真木と同タイプの、安定感のあるランナーでした。
3位発進した旭化成は、これがラストランとなるソウル五輪代表の宮原美佐子。すぐに先行するニコニコドーを交わしてトップを猛追しますが、さらにその後ろから迫ってきたのがリクルート3人目のルーキー・有森裕子。後に女子マラソン界のレジェンドともなる有森が実業団駅伝に出場したのは、この年と翌年の2回だけで、そしてこれが唯一の区間賞となります。
いったんは宮原の前に出た有森でしたが、ゴール前の叩き合いではワールドカップマラソンで鮮やかなラストスパートを決めて銀メダルを獲得したこともある宮原が一枚上手。逆に4秒差をつけて2位でフィニッシュ、この時優勝したワコールに対しても、その差は11秒というところまで迫っていました。
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 2位宮原を猛追する有森裕子。左下はインタビューに答える松野。

ワコールの優勝タイムは1時間36分07秒で、前年京セラが記録した大会記録には8秒及ばず。しかし、これが4連覇への第一歩として、実業団女子駅伝の歴史に刻まれる快進撃が始まったのです。この時の総帥は、後にグローバリー、シスメックスを立ち上げた名将・藤田信之監督。95年の優勝以降は出場すら逃す大会が2年続き、98年に野口みずきらを伴ってチームを離れました。
21世紀のワコールは「福士加代子のワンマンチーム」というカラーに染まり尽くした感がありますが、現時点では一山麻緒、安藤友香というマラソン2枚看板を揃え、再び駅伝の覇権を競う候補チームへと変貌しつつあります。
なお4位以下は、ニコニコドー、ダイハツ、東陶機器、三田工業、川鉄千葉、というトップ8の顔ぶれでした。
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連載「懐かしVHS時代の陸上競技」#7 ~1983ヘルシンキ世界選手権



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私が初めてビデオデッキなるものを購入したのが1982年のこと。第1号機は、都内市ヶ谷にショールームがあったS社との取引関係のご縁から、展示品を安価で払い下げていただいたもので、3倍速機能も付いてなくて5万円ほどだったと記憶しています。
当時は何しろテープが高価でねえ…。確か120分のが4,000円、画質にこだわるてえと120HG(120分ハイグレード)が4,500円とかで、近所のディスカウントショップで4割引きくらいのを月に2~3本買えるかな、という感じでしたかね。(今回発掘作業を進める中で、やはりHGテープの方が保存状態がよろしいことが分かります。また、メーカーによってもかなり違いますね。テープそのものもさることながら、カセットフレームの性能に差が出ます)
だから、録画したテープを残すか、上書きするか、また不要なCMなどをいかにして省くか、といったことに随分気を遣いながら、ここぞという番組を失敗しないように、神経張りつめて録画してたような覚えがあります。
ハードディスク録画となった現在では、たとえばオリンピックの期間中なんかはほとんど全競技・全種目を録画しまくってます(17日間で軽く1TB超^^)けど、テープ4,000円時代はそういうわけにもいかず、1984年のサラエボおよびロサンゼルス五輪なんかでも、録画するもの、しないものを慎重に計画立てたり、ポーズボタン使いまくって節約したり、期間中にデッキ2台でダビング編集して録画時間の余白を増やしたりと、仕事の傍ら大忙しでした。
本連載の第1~2回でご紹介した1997年世界選手権の頃になると、同じ120HGのテープが200~300円で買えるようになってましたから、状況は随分変わってましたね。その分、残したテープは積み重ねれば何十本も天井まで届くくらいに膨大なものになってしまいましたが。

てなわけで、今回は、おそらく私が所蔵しているVHSテープの中でも最古の部類に入る、1983年モノです。保存状態まあまあ良好。
現在2年ごとに開催されている『世界陸上競技選手権』は、この時が第1回大会で、第3回の1991東京大会までは、オリンピックの前年、4年ごとの開催でした。昨年のドーハ大会が、第17回ということになります。開催地はいにしえの長距離大国、その後やり投王国となったフィンランドはヘルシンキ。2005年の第10回大会と併せ、2度世界選手権を開催した唯一の都市となっています。
意外なことに、オリンピックの基幹競技である陸上競技と競泳は世界選手権の歴史が浅く、競泳のほうは1974年に第1回が行われています。陸上ではオリンピックを別にすると世界的なチャンピオンシップ大会という発想が久しくなくて、1970年代に至り国・地域別対抗形式の『ワールドカップ』(現コンチネンタルカップ)が最高峰の大会として行われるようになり、83年にようやく世界選手権の開催にこぎつけたわけです。

そして、中継放送はテレビ朝日系列。『世界陸上』の中継はこの大会限りで、第2回から第5回までは日本テレビ、第6回以降はTBSへと変遷します。(早く次の変遷、カモン!)
かつて「日本教育テレビ」転じて「NET」と称していた頃のテレビ朝日はスポーツ番組が弱く、アントニオ猪木をメインとするプロレス中継と、「キンシャサの奇跡」以降のモハメド・アリの試合などが目玉だったなあという記憶しかありません。プロ野球中継などもほとんどなかったですし。それが、組織・社名を一新した記念事業としてぶち上げた1980モスクワ五輪の独占放送権獲得で、陸上・競泳をはじめアマチュア・スポーツ番組の開拓にも力を入れるようになりました。肝心のモスクワは日本の不参加という悲劇に泣きましたが、それまでの準備期間で培ったノウハウは無駄にはならず、この世界選手権にも十分活かされています。
今回発掘したテープは、おそらく年末に放送された総集編(約85分)で、『’83ことし世界が沸いた!三大スポーツイベント名勝負名場面・第2部』というタイトルが付いています。(他の2つが何だったのか…やはり第1回開催となった『福岡国際柔道』とゴルフの全英オープンあたりでしょうか)
大会実施期間中に録画したものもどこかに断片的に残っているような気がしますが、今のところ見つかっていません。
実況担当は、三好康之・東出甫のスポーツアナ2枚看板(ご両人とも故人)ほか。解説は、当時陸連の重鎮だった佐々木秀幸さんなどが務めています。総集編につき、小宮悦子アナによるナレーションも付いてます。

◇女子マラソン
翌年のロスでオリンピック初採用となった女子マラソンで、それに先駆けて初代世界チャンピオンが誕生しました。29歳のグレテ・ワイツ(NOR)、タイムは2時間28分09秒。ロスでは圧勝したジョーン・ベノイト(USA)に次ぐ銀メダルでした。(ベノイトはヘルシンキ不参加)
番組では同年の『東京国際女子マラソン』のハイライトを挟む形で構成してあり、こちらの方では佐々木七恵(エスビー食品)が第5回にして日本人選手初優勝。世界選手権には佐々木や増田明美の出場はなく、田島三枝子(旭化成)31位、金子るみ子(住金鹿島)49位という成績でした。当時高卒ルーキーの金子はスタート直後しばらく果敢に先頭を引っ張って、見せ場を作っています。
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仲良く給水ボトルをシェアするワイツとジュリー・ブラウン(USA)。
右端は銅メダルのライサ・スメフノワ(URS)


◇男子マラソン
女子と同じく、同年の『福岡国際マラソン』のハイライト映像(この年の中継局はNHKだがテレ朝の独自実況入り)を挟んでいます。こちらは記憶にも鮮やかな瀬古利彦の必殺スパート。エスビー食品のアベック制覇ですね。
世界選手権の初代チャンピオンは、当時世界最強の評価を瀬古と分け合っていたロバート・ド・キャステラ(AUS)で、2位バルチャ(ETH)に24秒差での快勝。オリンピック連覇のワルデマール・チェルピンスキー(GDR)が3位に入っています。スタート時のヘルシンキは気温15度と涼しい条件で、優勝タイムの2時間10分03秒は20年間大会記録として残りました。
世界一の陣容を誇っていた日本勢は、トップランカーが真夏の世界選手権を敬遠する傾向が長く続き、この大会では西村義弘(新日鉄大分)=35位、喜多秀喜(神戸製鋼)=42位、川口孝志郎(中京高教員)=DNFという結果に終わっています。

◇女子100m
1977年に女子で初めて11秒の壁を突破し、この年6月に10秒81まで更新したマルリース・ゲール、今なお400mの世界記録保持者に君臨するマリタ・コッホ(ともにGDR)、7月にゲールの記録を0.02秒上回ったエヴェリン・アシュフォード(USA)の「3強」対決。
アシュフォードは予選の段階からゴール後に脚を引きずるシーンがあり(この番組、放送時間の都合で採録種目数は限られていますが、一つ一つをかなり濃密に盛り込んでいます。ダイジェスト版にしては珍しく、レース前後の選手の表情などにもかなり時間を割いた編集です)、実況の三好アナが思わず放送禁止用語でその様子を伝えています。
迎えた決勝は、2レーンにアシュフォード、4レーンにコッホ、8レーンにゲール。懸念が的中してしまい、アシュフォードは30mほどの処でいったん跳び上がるようにしてから倒れて無念のDNF。アウトコースから鋭く伸びたゲールが、同僚コッホを0.05秒制して10秒97で優勝しました。
70~80年代、女子のスプリントは東ドイツ勢が圧倒的な強さを誇っていましたが、意外なことにゲール(旧姓エルスナー)が個人種目の世界タイトルを手にしたのは、この1回限りです。(ワールドカップでは2回優勝)

◇男子100m/走幅跳/4×100mリレー
世界陸上競技選手権の歴史が、20世紀を代表するアスリートであるカール・ルイス(USA)およびセルゲイ・ブブカ(URS→UKR)の輝かしい足跡の第1歩とともに始まったのは、実に運命的なものを感じます。以後、10数年の長きにわたってこの両者は、世界選手権およびオリンピックの看板選手であり続けることになります。(今回の映像では、ブブカの棒高跳は収録されていません)

1981年、19歳で低地での男子100m世界最高記録となる10秒00(0.0)をマークしたルイスは、83年を迎えて全米選手権で100、200、走幅跳の三冠を達成、「ジェシー・オーエンスの再来」と世界の注目を集め、100mでは高地以外で初めて10秒の壁を破る9秒97(+1.5)を叩き出しました。
1968年に高地メキシコシティで10秒の壁が破られてからというもの、男子100mではブレイクスルー現象が起こらず、久しく記録の停滞が続いていました。それがルイスの登場によって一気に動き出すと、7月には高地コロラドスプリングスでカルヴィン・スミス(USA)が9秒93(+1.4)の世界新記録を出して、対抗勢力に名乗りを上げます。
このスミスをはじめ、ベン・ジョンソン(CAN)やリロイ・バレル、ジョー・デローチ、マイク・パウエル(以上USA)といった強いライバルたちに恵まれたことが、ルイス伝説を一層華やかなものにしています。
カールことフレデリック・カールトン・ルイス。1961年7月1日生まれ。188㎝/77㎏。均整の取れた彫刻を思わせる体型に愛嬌たっぷりの表情は、見てくれだけでもスター選手の登場を思わせるものでした。陸上選手に「スーパースター」の称号が付与されたのも、勝って国旗を手に“ウィニング・ラン”を行った(翌年のロス五輪)のも、彼が初めてではないでしょうか。

100mでは、予選から通じて、のっそりとした鈍重なスタートから終盤30mくらいで一気に加速、圧倒した後は横を見ながら流す、というレースパターンで悠々と勝ち上がり。本気の決勝は3レーンで中盤からシフトアップすると、あっという間に8レーンのスミスを置き去りにしました。記録は10秒07(-0.3)、2位スミス10秒21、3位エミット・キング10秒24で、アメリカの上位独占です。
4位はモスクワ五輪覇者のアラン・ウェルズ(GBR)。彼を含め、決勝のスタートに白人選手が3人並んでいたことが、時代を感じさせます。また、ベン・ジョンソンは10秒44で準決勝敗退しています。
この大会でルイスは200mにエントリーせず、オーエンス以来の「4冠」への期待は、翌年のロス五輪へと持ち越されました。200はスミスが20秒14(+1.2)で制し、第2回ローマ大会でも連覇を飾っています。

この大会は今から見ると非常に変則的なタイム・スケジュールで、男子スプリント系は最初の2日間で100m決勝までを行った後、3日目に走幅跳と400mリレー予選、4日目に同準決勝と男子400mリレーが同時進行の後にリレー決勝、大会6~8日目に200mとなっています。
三冠を狙うルイスの思惑とは裏腹に、「LJとリレーの掛け持ちはない」ものと前提したかのような編成で、これはルイスのみならず困った選手は多かったでしょう。
しかもリレーの準決勝とLJ決勝の1回目が完全に重なる進行となってしまい、すでに準決勝のオーダーが確定していたルイスは、LJ役員とのスッタモンダの交渉劇の末に何とか試技順の変更を了承させ慌てて第4コーナーに向かう、という一幕がありました。
その1回目で、ジャストミートの踏切りから8m55(+1.2)の大ジャンプ。放送席からは「9メートルラインに仁王立ち!」の名実況が飛び出します。これで優勝を確実にしたルイスは3回目以降のジャンプを棄権して、リレーの決勝へ。
400mリレーでは、「スミス→ルイス」の黄金バトンパスが決まって、WR37秒86での圧勝、難なく3つ目の金メダルを手中にしました。
ちなみにアメリカは、LJでも表彰台独占、200mでも世界記録保持者ピエトロ・メンネア(ITA)の銅メダルを許したのみで金銀独占。68年のメキシコシティ以来、久々にスプリント王国の威信を取り戻す大会となったのです。
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ルイス、9mラインに仁王立ち!


◇女子やり投

フィンランドの国技とも言えるやり投。その象徴は、スタジアムの一角に設けられた高さ72m71の塔で、1932ロス五輪で金メダルに輝いたマッティ・ヤルヴィネンの優勝記録に因むものです。ちょうど、旧国立競技場にあった「織田ポール」と同じようなモニュメントですね。
しかし男子では、1人が予選落ちして決勝に残った2人も4投目以降に進めずという惨敗に終わって、いよいよ期待は国民的アイドル・スロワーのティーナ・リラクにかかってきました。リラクはこの時22歳、直前の6月に、74m76の世界新記録を投擲しています。
1投目で優勝候補のファティマ・ホィットブレッド(GBR)が69m14で先行し、リラクは67m34で追走。5投目にリラクが僅かに記録を伸ばした以外はこのままの状況で最終投擲まで推移します。当時は現在のものより「飛ぶ」やりを使っており、リラク自身は「優勝記録は78m」とまで予想していたほどですから、意外に低レベルの優勝争いとなっていました。
そして6投目。投擲選手としては華奢な身体つき、日本で言う「聖子ちゃんカット」のような髪型のリラクがピットに立つと、場内は「ティーナ、ティーナ…」の大合唱に包まれます。その中、渾身の力を込めたやりが大きな弧を描くと、それが70mラインの向こう側に落下するかしないかのうちに、逆転勝利を確信したリラクがもうトラックの方へ走り出していました。
大会7日目にして、会場が最も興奮の坩堝と化したひと時です。見ている当方も、興奮しました。
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大会随一のヒロインとなったティーナ・リラク

◇男子走高跳
ティーナ・コールの大歓声にすっかり調子を狂わされてしまった、と言われたのが、同時進行で行われていた男子HJの世界記録保持者、朱建華(チュ・ジャンファ=CHN)。スポーツの国際舞台に復帰して間がなかった中国で、初めて現れた世界的陸上選手です。
6月に2m37を跳び、大会後の9月には38、翌年には39と記録を更新した朱はこの大会でも間違いなく大本命でしたが、いつまでも続く場内の興奮に集中力を失ったか、2m32を跳べずに3位に甘んじました。優勝は、その2m32を成功したゲンナジー・アヴディエンコ(URS)です。

◇女子走高跳
この頃、プロレス風に言うなら「名勝負数え唄」を演じていたのが、女子HJのウルリケ・マイファルト(GER)とタマラ・ブィコワ(URS)です。
マイファルトは無名の16歳で出場した1972ミュンヘン・オリンピックで、1m92の世界タイ記録で優勝。一躍地元のヒロインとなるとともに、まだ歴史の浅かった背面跳びの技術に於いて、「踏切りと同時に右手を振り上げる」という独特のフォームが注目を集めたものです。その後はずっと低迷が続いていましたが、単なる「早熟の天才少女」で終わることなく、81年のワールドカップを1m96で制して見事に「復活」。この時、同記録で2位となったのが、2歳下の新鋭ブィコワでした。
マイファルトは翌82年のヨーロッパ室内を1m99、ヨーロッパ選手権を2m02の世界新で勝ち、かつての天才少女は10年の時を経て、完全に世界のトップに返り咲きました。彼女が初代の世界チャンピオンの座を標的に捉える一方で、ブイコワは常にその後塵を拝しつつも、虎視眈々と力を蓄えます。83年3月、マイファルト不在のヨーロッパ室内で2m03の室内世界新記録。ヘルシンキでは堂々互角の立場で、初代女王の座を争うことになったのです。

1m97までをノーミスでクリアしたブィコワに対し、マイファルトは95、97に2回ずつの試技を要して劣勢でしたが、1m99を一発クリアして逆転。このあたりが名勝負に相応しいドキドキの展開です。
99を2回目で凌いだブィコワが逆に2m01を一発で成功。1回目を失敗したマイファルトは2回目を世界新となる2m03にシフトして、再逆転を狙います。(ブィコワが99の2回目をなぜ敢えて跳んだのかは、今の感覚で言うと少し謎ですね)
結局2m03は両者とも失敗に終わり、ブィコワの初代女王、対マイファルト初勝利が確定しました。
この大会後も2人のデッドヒートは続き、同年のヨーロッパカップでいずれも2m03の屋外世界新記録、試技数差でマイファルトが雪辱を果たすと、その4日後の競技会ではブィコワが2m04と記録を更新してお返し。
翌年のロス五輪での対決も楽しみでしたが、ソ連の不参加により幻となり、マイファルトが2m02のオリンピック新で、陸上界では前例のない3大会ぶり(12年ぶり)の金メダルに輝きました。2つの金メダルは、その時点での種目別最年少・最年長記録(現在の最年長記録はルース・ベイティア)でもありました。しかしながらその直前にブィコワが2m05の世界新を跳んでおり、マイファルトには一抹の敗北感があったかもしれません。
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身長188㎝、長い長い脚。実に格好良かったマイファルト。
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◇女子1500m
この大会で一躍スター選手の仲間入りを果たしたのが、3000mと1500mの2冠に輝いたアメリカの美人ランナー、メアリー・デッカーです。
ヘルシンキ世界選手権は、初めて女子マラソンを世界的に認知させる大会となりましたが、トラックの女子最長距離種目は3000m。女子では1500mですらまだ歴史が浅く、10000mは87年ローマ大会から、5000m(3000mに代わり採用)は95年イェーテボリ大会からとなります。
その、当時の感覚としては「長距離2冠」を制したデッカーの特徴は、スタートから先頭を走り続ける典型的なフロントランナー。勝負どころで他者から競りかけられても強気に先頭を譲らず、しかもゴール前でもう一度ギアチェンジができる驚異的な粘り腰があります。
このレースでも、残り半周で仕掛けたザミラ・ザイツェワ(URS)に競り合いの末いったんは抜かれますが、そこでズルズルと後退することなく、ゴール前で“二の脚”を発揮、焦ったザイツェワが捨て身のダイビング・フィニッシュを試みるも、鮮やかに再逆転してみせました。
地元のヒロインとして迎えた翌年のロス五輪では、ライバルと目されたゾーラ・バッド(GBR)との意地の張り合いが裏目と出て、両者の脚が絡まりデッカーは転倒棄権、バッドも7位に沈むという悲劇的な結末に終わりました。余談ながら、このレースの映像は昨年の大河ドラマ『いだてん』のタイトルバックに使用されていました。
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◇男子400mH
11年間、予選を含めた全てのレースで1着を譲ることがなかったハードルの帝王エドウィン・モーゼス(USA)が、圧倒的な力を示し47秒48で優勝。しかも何と、第10ハードルのところで靴紐がほどけた状態でのこの結果でした。
2着はハラルト・シュミット(GER)。モーゼスの陰に隠れて一度も世界タイトルを得ることはありませんでしたが、常にその次位を確保し続け、100を超えるモーゼスの連勝記録の前後に土をつけた選手として名を残しています。もしもモーゼスがいなければ、この時代のヨンパーの帝王として君臨していたはずです。
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◇男子3000mSC

ダイジェスト版の総集編なのに、8分半のレースをノーカット完全収録。これだけでも感動モンです。生中継の時点でCMを2回(ひどい時には3回)もぶっ込むTBSには、逆立ちしてもできない偉業ですね。
決勝進出の12人のうち、ケニア人選手は1人だけで、あとは全部白人選手です。ケニア勢の活躍は1968メキシコシティ五輪から始まっていますが、この大会と1987年ローマ大会だけは、ポツポツと穴が開いたようにメダルに絡んでいません。ただし、ヘルシンキ決勝で唯一出場した(7位)ジュリアス・コリルは、84年ロス五輪では金メダルを獲得しています。
優勝候補筆頭は、WLのヘンリー・マーシュ(USA)。いつも一人離れた最後方からレースを進める非常に個性的なランナーで、ちょうどこの年、JRA三冠馬を達成したミスターシービーという名馬のレースぶりにオーバーラップして見ていた記憶があります。
このレースでも、マーシュは予定通りに最後方から2000mを過ぎたあたりでじわじわと上位を伺い、残り1周の鐘を聞くと先行集団に上がります。渾身のラストスパートで逃げ切りを図るパトリッツ・イルク(GER)の背後を伺い、直線に入る頃には完全に金メダルを射程圏に捉えたかに見えたのですが、最終障害でまさかの転倒。そのままイルクが逃げ切って、8分15秒06の優勝。2着にはベテランのマミンスキー(POL)が入りました。
マーシュはその後も独特のレース・スタイルで面白い存在をアピールし続けますが、大試合ではロス五輪4位、ソウル五輪6位など結果を残せませんでした。イルクは翌年のロス五輪、ウィルス性疾患のため欠場しています。

◇女子砲丸投
22m45の世界記録保持者でモスクワ五輪優勝のイローナ・スルピアネク(GDR)が1投目に20m56、これを同僚のヘルマ・クノールシャイトが2投目の20m70で上回り、当時としてはやや低調な記録でそのまま推移。6回目、最終投擲者となったヘレナ・フィビンゲロヴァ(TCH)が21m05を投げて大逆転優勝です。歴代2位(現時点では3位)の22m32を持っていたフィビンゲロヴァは34歳となり峠を過ぎたかと思われていましたが、大きな身体を揺らして飛び跳ねる姿は悦びに満ち溢れていました。この試合は大会6日目に行われ、翌日の女子やり投と併せて「最終の大逆転」が印象に残ったものでした。

連載「懐かしVHS時代の陸上競技」#6 ~1989東京国際陸上


今回“発掘”されたのは、平成元年5月14日に東京・国立霞ヶ丘競技場で行われた、『三菱電機 ’89東京国際陸上競技大会』です。
これは、どういう趣旨で開催されたものかイマイチよく覚えていません。現在なら『ゴールデングランプリ陸上』が、昔であれば『スポニチ国際陸上』という大会が行われていたのと同じ時期の国際大会ということで、おそらくその替わり目にイレギュラーで特設された大会ではなかったでしょうか?
いずれにしろ、国内のトラック&フィールド大会中継番組としては非常に珍しく、日本テレビによる製作・放映です。タイトルバックCGにも表現されているように、2年後の東京世界選手権の独占放送へ向けての予行演習、という意味合いだと思われます。
前年に開催されたソウル五輪やその直後に行われた『東芝スーパー陸上』の興奮も冷めやらず、フローレンス・グリフィス=ジョイナーがわざわざこの大会で「ラスト・ラン」をするために来日したのをはじめ、カール・ルイスを筆頭に外国人出場者はなかなか豪華です。
解説は高木直正、澤木啓祐、石田義久の各氏、実況は後年アナウンス部長も務めた舛方勝宏アナをメインに、松永、多昌、船越というこれまた後にエース級となる若手を並べています。
約1時間の収録ですが、採録された全種目の概要をお伝えしましょう。
1989TOKYO00

◇男子100m
2組に分けて行われ、1組はソウル五輪200m金メダルのジョー・デ・ローチ(USA)が10秒43で、2組は同100m王者のカール・ルイスがゴール寸前の逆転で、10秒39(-1.7)で制しました。
両組とも向かい風が強く、記録的には平凡でしたが、日本人選手は1組の鈴木久嗣、2組の松原薫、青戸慎司、不破弘樹、栗原浩司、高野進と当時の一線級がほぼ勢ぞろいする好メンバーでした。
写真はレース後、ルイスのインタビュー。聞き手は2000年シドニー五輪のサッカー中継、「ゴール!!」31連呼で顰蹙を買った船越アナ。オリンピックの実況担当に選ばれるだけでも名誉なことですけどね。
通訳は本連載第1回でご紹介した冠陽子さん。そうそう、この時の通訳で「アゲてる」だの「フォロってる」だのと奇怪なゴルフ用語を連発し、「なんだ、この知ったかぶりオバさんは?」と思ったのでした。この後ジョイナーへのインタビューではとある有望選手の名前を聞き違え(というか、自分でメモに書いたカタカナの字を読み違え)、ジョイナーの目を点にさせています。その後よほどお勉強をしたのでしょう、97年アテネ世界選手権の中継(TBS)時には、すっかり名通訳の貫禄を漂わせています。
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◇男子やり投
ソウル銀メダルで世界記録(87m66)保持者のヤン・ゼレズニー(CZS=次のバルセロナから五輪3連覇)、銅メダルのセポ・ラテュ(FIN)が出場する中、溝口和洋(ゴールドウィン)が6投目に83m52を投げてゼレズニーに逆転勝利。
溝口はこの年シーズンインとともに85m22の日本新記録を投げ、さらにこの大会の13日後には87m60の、今も日本記録リストに残る大記録を投擲しています。(最初の計測で世界記録を上回っていながら、どういうわけかメジャーをスチール製からビニール製に変えて再計測した結果、この記録になったという本人の談話があります)
当時の日本陸上界が誇った大エースは、1日12時間ものハードトレーニングでヘラクレスのような肉体を造り上げ、ワールドクラスの実力を示しました。投げた瞬間「あっ、逃げた!(力が左方向に流れた)」と口走りながらのこの記録。まさに、絶頂期と言えた時期の貴重な映像です。
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◇女子100m
ジョイナー去りしトラックに残されたのは、1984ロス五輪の金メダリスト、エヴェリン・アシュフォード(USA)。この日は室内60mで世界記録を出したネリー・クーマン(NED)の先行を、ラスト10mで差し切って貫禄の勝利です。やはり強い向かい風で記録は11秒34。3位はグレース・ジャクソン(JAM)でした。

◇女子10000m
当時の日本記録保持者・松野明美(ニコニコドー)こそ出ていませんが、荒木久美(京セラ)、朝比奈三代子(旭化成)、真木泉(ワコール)といったトップクラスが登場。この3人をカロリン・シュワロー(AUS)が引っ張る形でレースが進み、この年の大阪国際女子マラソン優勝のロレーン・モラー(NZL)や名古屋国際女子マラソンで2連覇を飾ったばかりの趙友鳳(CHN/東海銀行)、2年後の世界選手権マラソンでメダルを獲得する山下佐知子(京セラ)らが、離れた5位グループを形成します。
終盤はソウル五輪マラソン代表だった荒木と高卒2年目の新鋭・朝比奈の2人に絞られて、残り650mでスパートした荒木が32分59秒28(速報)で優勝。以下朝比奈、趙、真木、シュワローと続きました。
今見ると、小柄ながらどっしりと安定した走りの荒木は、その表情とともに、「女瀬古」のイメージですね。この翌年には北京アジア大会マラソンで趙との一騎討ちになり、19秒差で銀メダルになっています。
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◇男子三段跳

ケニー・ハリソン(USA)が17m45のPBを跳んで優勝。後に東京世界選手権で優勝し、1996アトランタ五輪では史上2人目の18mジャンパーとなる18m09で金メダルを獲得することになるハリソンですが、この大会の時点では、それまでのPBを一気に30㎝も超えて躍り出た新鋭、という位置づけでした。
世界記録(17m97)保持者のウィリー・バンクスはこの時滞日中で、「中京大職員」という肩書での出場でしたが、既に全盛期を過ぎた感は否めず、16m台の記録に終わっています。

◇女子走高跳
直前の静岡国際で1m97のアジア記録(現在でも歴代2位タイ)を出したばかりの金玲(ジン・リン=CHN)が、1m92を余裕でクリアして優勝。日本記録(1m95)保持者・佐藤恵は86を超えたところで膝の故障が悪化して棄権。日本の女子HJが、次から次へと世界と戦える選手を輩出していた時代、懐かしいですね。

◇女子5000mW
増田房子(東京女子体育大)が23分10秒13の日本新記録で優勝。4位までが公認日本記録を上回りました。現在の日本記録は20分42秒25(岡田久美子)ですから、女子競歩創世記といった時代だったんですね。

◇女子やり投
徐徳妹(CHN)が6投目の59m32で逆転優勝。番組イチ推しのビジュアル系アスリート、スエリ・ペレイラ・ドス=サントス(BRA)が58m76で2位、3位は58m28で松井江美(中京大豊田C)。
目にも鮮やかなハイレグ・スーツで度肝を抜いたのがドス=サントス。どんだけイチ推しだったかというと、こーんな写真(PLAYBOY誌に登場!)まで見せてくれたくらいです。この頃の女子やり投には、美人スロワーが多かったですね。
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◇おまけ
大会の最後に、ゲスト参加したフローレンス・グリフィス=ジョイナーが、夫のアル(1984ロス五輪三段跳金メダル)と並んでラストランを披露。トレードマークのワンレガー・スタイルで国立競技場の直線を颯爽と駆け抜け、フィニッシュはソウル五輪のポーズを再現。華麗な現役生活を締め括りました。
この9年後、彼女が突然不帰の客となってしまうとは、思いもよりませんでした。
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