豊大先生流・陸上競技のミカタ

陸上競技を見続けて半世紀。「かけっこ」をこよなく愛するオヤジの長文日記です。 (2016年6月9日開設)

元陸上競技王者の、いま

元陸上競技王者の、いま



先週になりますが、30日(土)に日本テレビ系で放映された『坂上忍の勝たせてあげたいTV』という番組を、ご覧になりましたか?
これ、不定期に放送されている競輪の中継&PR番組なので、「陸上ひとすじ」の方のアンテナにはあまり引っ掛かってこないかもしれません。
この日は、武井壮が修善寺にある日本競輪学校をレポート。ほかに千鳥がアニおたの競輪選手を、岡田圭右らがオリンピック代表の渡邉一成選手をレポートしました。

武井壮が訪れた競輪学校で、来年のデビューを目指し訓練に励む男子111期生の面々(規則で全員坊主頭)の中に、ひときわ屈強な体格の、やや年かさの生徒がいました。
名前は野口裕史(33歳)…そう!昨年の日本選手権で、男子ハンマー投に21年ぶりで「室伏広治」以外の優勝者名を刻んだ、あの野口選手です。
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十種競技の元日本チャンピオンとして知られる武井壮ですが、現在は陸上界と特別なつながりはなく、野口もこの時が初対面だったようです。(それとは別に生徒の一団の中には、かつて陸上で武井のコーチを受けていたという人がいました)
そして奇縁なことに、プロデビューを目指して修行中の野口が個人的に「師匠」と仰ぐのが、武井壮の従弟である武井大介選手(86期・千葉・S級1班)。競輪では、基本的にはプロとして拠点とする場所の先輩選手に弟子入りするのが慣例になっているんです。

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ところで、競輪学校への入学は1年度あたり男子70名限定。倍率は約5倍という狭き門です。
入試は自転車競技経験者(技能組)と未経験者(適性組)とで異なり、この111期のうち他競技などから適性を認められて入校した「適性組」は、僅かに5人。番組取材中に行われた1000mTT(タイムトライアル)で野口は自転車の国際大会入賞実績などの若き猛者がひしめく中、全体の6位に入り、潜在能力の高さを証明しました。

32歳(受験当時)での転身は遅過ぎるのではないか、と思われる方もいるでしょうが…
競輪界で、たとえば武田豊樹選手(88期・茨城・S級S班)は2002年ソルトレークシティ冬季五輪のスピードスケートに出場した選手ですが、現在42歳でトップに君臨しています。自転車でオリンピック出場経験のあるグランドスラマー・神山雄一郎選手(61期・栃木)は、「輪界のレジェンド」と呼ばれ48歳にして年間9人しかなれないS級S班の一人です。

投擲選手はパワーばかりでスピードには弱いのでは?と思う人もいるかもしれませんね。
パワーとスピードというのは表裏一体のものです。走ることを専門にしていないというだけで、脚の遅い一流投擲選手なんて、たぶんあまりいないと思います。かつて世界一の力持ちと謳われた重量挙げのヘビー級選手が、100mを10秒台で走ったという有名な話がありますよ。
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おそらく、永年追い続けた「日本一」の称号が、室伏の勇退によってではあるけれども達成できたことで、一つの区切りがついたという心境だったのでしょう。素晴らしい決断、羨ましいほどの夢追い人生だと思います。

我が陸上界からは、すでに1年先輩として短距離・走幅跳で活躍した佐藤友香選手(35歳・110期・青森・女子は全員A級2班)が、ガールズケイリンで今年デビューを果たしています。
これまで2開催に出場して8戦中6戦最下位(現在高知ミッドナイト競輪にも出場中)と非常に苦しいレースが続いていますが、何とか陸上選手の底力を見せてほしいものです。
あの“世界の”中野浩一さんだって、元をただせば陸上競技出身。
三十路を越えてからの輝かしい未来を、応援していきましょう!


 

元陸上競技王者の、いま<第2弾!>




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この顔、この名前、陸上競技ファンならば「おぉ!」と膝を叩くでしょうね。
100mHのU-20日本記録(13秒05)保持者であり、ベルリン世界選手権にも出場した元日本チャンピオン、寺田明日香さんです。

恵庭北高時代はインターハイの100mHで3年連続優勝、さらに3年時には100mと400mRも制して今年青山学院大が達成したのと同じ「3連覇・3冠」を達成、日本選手権でも100mH3連覇、とくれば堂々の「トリプル3」。
社会人2年目の2009年には、2度にわたって13秒05をマークして、一躍「12秒台突入」の急先鋒に躍り出ました。100mでもランキング上位にいたため、ヨンケイの代表チームに加わることもありました。当時在籍していた北海道ハイテクACでは、1つ先輩の福島千里と並ぶ2大スター選手であり、掛け値なしに日本短距離界にとって最大のホープだったのです。
2010年、20歳での日本選手権3連覇を最後に精彩を欠くようになり、おそらく度重なる故障のためでしょう、そのままひっそりと名前を聞かなくなっていきました。
その後、結婚して現姓は佐藤、1児の母親になっているとのことです。

その寺田選手の近況が、今週のテレビ朝日系『Get Sports』の中で、ほんの1分ほどではありましたが紹介されました。なんと、7人制ラグビーの日本代表候補として、東京オリンピック出場を目指しているというのです。
故障で陸上生活を断念したとはいえ、彼女の「黄金の脚」をもってすれば、女子ラグビー界のスピードスターとしての大活躍が、もしかすると見られるかもしれませんね。

※なお<第1弾>は、昨年8月2日の投稿で、元ハンマー投チャンピオンの野口裕史選手について紹介しています。

元陸上競技王者の、いま<第3弾!>


昨日は『第31回北海道マラソン』が行われ、男子で村澤明伸(日清食品G.)、女子で前田穂南(天満屋)が、それぞれ日本陸連が設定したMGC出場資格記録を突破して優勝、話題沸騰の東京オリンピック・マラソン代表へ向けて有資格者第1号としての名乗りを上げました。

女子の前田は、序盤の解説にあったとおり、「キロ3分30秒のペースをずっと続けていける強さがある」という武富豊監督の言葉を見事に実践。途中先頭集団から抜け出した野上恵子(十八銀行)のペースアップにも冷静に対処してイーブンペースを守り、夏の北海道では好記録と言える2時間28分48秒でのフィニッシュとなりました。
北海道マラソンと天満屋と言えば、1997年に優勝してブレイクした山口衛里さん(2000年シドニー五輪7位)を思い出しますが、天満屋はその翌年にも松尾和美さんが、また2011年には森本友さんが、タイトルホルダーになっています。まさに、相性抜群の大会と言えるでしょう。
前田選手は、薫英女学院高校が全国高校駅伝を初制覇した2014年の補欠。1年先輩には世界選手権代表となった松田瑞生、2年先輩には学生長距離界のヒロインだった大森菜月(ともにダイハツ)がいます。
比べてこれといって実績のなかった前田がマラソンの英才教育を施され、チームにとってゲンのいい北海道を制したあたりは、4回連続してオリンピックのマラソン代表を送り出したマジシャン武富監督の手腕未だ衰えず、といったところでしょう。山口さんや坂本直子さんがブレイクした時の状況に通じるものがありますし、長身・脚長の体形は小原怜選手を彷彿とさせます。
私にとっても好きなタイプのランナーとなるかもしれません。安藤友香・清田真央に続くニューカマーとして、大いに注目していこうと思います。

村澤は3月の『びわ湖毎日』で、ハイペースの中、日本人トップを引っ張りながらも撃沈してから約半年。思い知らされたマラソンの怖さを十分な教訓として、この日のレースプランにつなげました。
自身が語っていたように、彼がレースで1着になったというのは、本当に久しぶりのことです。おそらく東海大学1年時の箱根駅伝予選会以来ではないでしょうか。 駅伝男としての活躍ぶりは数々印象に残っている一方で、跳びの大きい走法のためラストにスプリントを利かせられないことが、ヨーイドンのレースになかなか勝てない理由でしょう。その意味では、マラソンは彼にとって最適な種目であり、潜在能力からすれば冬場のレースで2時間6分、7分といったタイムで走る可能性は十分だと考えられます。
なかなかマラソンで芽が出ない「箱根のスター」が多い中で、ようやく期待の星が1人、「夢の東京オリンピック代表」を目指して羽ばたこうとしています。

さて、ここまでは前置きです。


同じ日の夜、TBSテレビで放送された『消えた天才』という番組、ゴールデンタイムの放送でしたからご覧になった方も多いかと思います。
「箱根のスター」と言えば、近年では1、2を争う大スターでありながら、実業団・富士通に入社後は鳴かず飛ばずに終わり、今春27歳の若さで陸上界に別れを告げた柏原竜二さんの近況が紹介されました。
富士通陸上競技部を退部した今、柏原さんは驚いたことにアメリカンフットボール部「富士通フロンティアーズ」のマネジャーとして、一生懸命にスポーツの裏方に励んでいました。(私はまったく知りませんでした)

番組自体は、低俗バラエティそのものの作りでせっかくのイイ話を台無しにしていました(なんで、ああいう無駄な時間ばかりかける演出で視る者をイライラさせるんでしょうかね?特にこの局は『世界陸上』の中継同様ヒドイです)けど、柏原さんのひたむきな仕事ぶりと明るい言動、チームで一番の有名人がマネジャーという状況をプラスの方向に発散している様子などはよく窺い知ることができました。
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「ランナーの将来を潰す」とまで極論する「箱根駅伝有害論」を再燃させるきっかけともなってしまった、柏原さんの引退劇。
事実、「山の神」というビッグネームが途轍もない重圧になっていたことは彼自身も認めていましたが、低迷から引退へと流れるプロセスには、「4年間箱根を走ったから」という因果関係はまったく認められないと思います。あくまでも、柏原さん自身のアスリートとしての幸運が学生時代に集約され、卒業後にお釣りがくるほどの不運に揺り戻された、というよくある事象なのだと思います。
「有害論」を唱える人々は、オリンピックや世界選手権のマラソン・長距離代表選手が、学生時代はスターと呼ばれる存在でなかったにしろ大部分「箱根」出身者であることを、どう説明するんでしょうか?
「箱根」や「都大路」があるから、男子の長距離界には次から次へと有望なジュニア選手たちがその場所を目指して健脚を磨き、スターとしての名乗りを挙げていく、そのどこが「有害」なのか、私には理解できません。
標高864メートルの「箱根」を征服し、さらに高みを目指そうとした選手が、過度のトレーニングに挫折して心身の故障を抱えてしまうことは、「箱根」の存在とはまったく別の問題です。柏原さんやかつての渡辺康幸さんのように挫折のまま無念の終局を迎えるランナーもいれば、村澤選手や大迫傑選手のように再び大輪の花を咲かせようとする選手もいる。それこそ、選手の数だけいろいろな紆余曲折がある。当たり前のことです。

そんなことを考えさせてくれた、久々にTVを通じて見た柏原さんの笑顔。過ぎ去った陸上人生にさまざまな思いはあるでしょうが、溌溂とした現在の境遇を経て、彼ならではの大輪の花を目指してもらいたいものです。

なお、この番組は数名の「天才アスリート」の現在を追いかけた特集番組で、陸上界からはもう一人の「消えた天才」が紹介されていました。そちらについては、また次回<第4弾!>でということで。
(「元陸上競技王者の、いま」は不定期ながらシリーズ読み物として、新たにカテゴリーを設定しました。)

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元陸上競技王者の、いま<第4弾>



前回予告のとおり、TBSテレビ『消えた天才』に登場したもう一人の陸上選手・飯島秀雄さんについて、ご紹介します。
実を言うと、飯島さんについては現在連載休止中(?)の『100m競走を語ろう』の第19回に取り上げるつもりでいたのですが、事実関係の確認などに手間取っているうちに時間が経過してしまい、現在に至っていました。番組の内容からいくつか新しい情報も得られたので、ここでまとめてみようと思います。

近年未曽有の盛り上がりを見せている男子短距離界の歴史において、先にご紹介した藤井實、吉岡隆徳、人見絹枝といった大先達と並んで欠かすことのできない存在、それが飯島秀雄選手です。
戦前に「世界タイ記録」として記録された吉岡の日本記録を29年ぶりに更新し、世界中のスプリンターが目標とした「100m10秒の壁(手動計時)」に日本人として唯一、挑み続けた男。
1964年東京、68年メキシコシティと2度のオリンピックに出場し、これまた吉岡以来のファイナリストへあと一歩のところまで迫った男。
突如として陸上界からプロ野球界へと転身し、華やかなスポットライトとプロの辛酸という両極端の世界を味わった男。
自身が引き起こした交通人身事故のためにいったんは社会から消え去り、そして再び、陸上の世界に帰ってきたスプリントのレジェンド。
まさしく波乱万丈の人生を歩んできた飯島さんは、現在故郷・水戸市で小さな運動具店を経営しつつ、明るく過去の自分を笑い飛ばし、また将来の大きな夢について語ってくれました。
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飯島さんが短距離選手を志したのは、県立水戸農高に入学してからです。素質を見出されて東京の目黒高に転校し、やがて当時実業団日本一だったリッカーミシンの吉岡隆徳コーチの指導を仰ぐようになります。早稲田大進学後も、練習は主にリッカーのグラウンドに出向いて英才教育を施されました。
「日本記録は自分の育てた弟子に破らせたい」と情熱を注ぐ吉岡にとって、飯島と女子の依田郁子は秘蔵っ子とも呼べる存在となり、二人はともに64年東京オリンピックの短距離最大のホープとして注目を浴びることとなるのです。
東京五輪の年を迎えた4月、飯島は国内で10秒3をマークして師・吉岡の日本記録に並ぶと、6月にはベルリンの競技会で10秒1の日本新記録を叩き出しました。日本記録を一気に0.2秒更新するとともに、当時世界ではアルミン・ハリー(GER=ローマ五輪を制しすでに引退)とハリー・ジェローム(CAN)だけが持っていた10秒0に次ぐ、世界歴代3位タイの記録でした。一躍、東京オリンピックの金メダル候補の一角に名乗り出たのです。

飯島の最大の武器は、吉岡から伝授された鋭いスタートダッシュでした。加えて飯島には吉岡が恵まれなかった176㎝の上背と骨太の体格がありました。筋力を活かしてスタートラインの手前で大きく両手を開き、「用意」で前方にぐいと体重を預ける構えから低い姿勢で飛び出すそのフォームは「ロケットスタート」と命名され、吉岡の代名詞だった「暁の超特急」にあやかって、飯島には「暁のロケット」というニックネームがマスコミによって奉られました。
飯島のスタートは、国際舞台でも前半は確実に海外のスプリンターたちをリードする卓越したものでしたが、その反面、吉岡が1932年のロス五輪で味わったのと同様、後半に伸びを欠いて失速するという弱点をも引き継いでいました。東京、メキシコシティともに危なげなく準決勝まで進出しながら、ファイナルの壁はあくまでも高く厳しく、飯島の前に立ちはだかったのです。
思えば、「あの飯島が超えられなかった壁」が、その後半世紀以上にもわたって日本のスプリント界を呪縛し続けている、そう言っても言い過ぎではないでしょう。

大学3年で迎えた東京オリンピックで、1次予選10秒3(全選手中1位)で1着、2次予選10秒5で3着の後、準決勝はスタート直後から精彩なく10秒6の7着。
その後1966年に2度にわたって10秒1の日本タイ記録で走り、68年のオリンピック(当時は茨城県庁所属)では1次予選10秒24(追風参考・全選手中5位)、2次予選10秒31(追風参考)で3着、準決勝はスタート直後トップに立つも10秒34で8着と敗退しました。このタイムは手動計時であれば10秒1から2に相当するもので、飯島は2度目のオリンピックの舞台で実力を十分に発揮したと言ってよいのですが、電子計時でも9秒台に突入した世界の急速なレベルアップには置いて行かれた形となったものです。
3度にわたって記録した10秒1は、結局そのまま「最後の手動計時日本記録」として、複数の選手にタイ記録で並ばれはしたものの永遠のものとなりました。またメキシコで記録した10秒34は、その後電子計時のみが正式採用されて数年が経過した1984年に至って、改めて「日本記録」として公認されていますが、それまでの間は「10秒3」として扱われていました。

飯島の人生は、メキシコから帰国して間もなく、その年のプロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)から9位指名を受けて「代走専門選手」としてプロ野球入りしたところで急転回を迎えます。
陸上に見切りをつけた理由が「自分の走りでは、新素材のトラックに対応できない」というものだったというのは今回初めて聞いた事情で、驚きました。
今ではスタンダードになっている陸上トラックのゴム・合成樹脂素材は、メキシコシティ・オリンピックで初めて世に出たものです。私が陸上競技を始めたのが1971年で、当時東京では世田谷総合運動場と東京体育館(300m)の2箇所しかタータントラックはありませんでした。世界中のトラックがやがてそうした全天候型舗装に取って代わられることになるとは想像もできなかったのですが、飯島はたった1回オリンピックで走っただけで、自身の将来に見切りを付けたというのです。

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さて、飯島ストーリーの第2章…中学時代は野球部に所属していたとはいえ、いわば「ど素人」がプロの世界で何ができるのか…注目を集めた飯島はプロ初試合となった東京スタジアム(現在は消滅)での南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)との2回戦で、同点の9回裏に一塁代走として起用されました。
南海のキャッチャーは、あの「ノムさん」こと野村克也。プロ野球史上ナンバーワンとも評される当時の名捕手です。「野球はど素人」そのままに、リードもせず、投手が投球動作に入ってよほど経ってからスタートを切った飯島はその“変則スタート”ゆえにかえって南海守備陣の度肝を抜き、野村の二塁暴投を招いて一気に三塁へ。次々打者のヒットでサヨナラのホームを踏むという、最高のデビューを飾りました。

デビューこそ華々しく、また飯島見たさに閑古鳥が鳴いていたパ・リーグのスタンドには多くのファンが詰めかけるようになりましたが、その後の成績は振るいませんでした。
結局プロ3年間で盗塁23、盗塁死17、牽制死5、得点46。ひたすら前を見て直線を走ることだけに磨きをかけてきた飯島にとって、投手のモーションを盗み、牽制をかいくぐり、「カニみたいに」横向きにスタートを切ってベースにスライディングするという「プロの走り屋」の世界はあまりに厳しい現実を突きつけたのです。実直な性格の彼が、トリックプレーや口先の騙しに簡単に引っ掛かったというのも、さもありなんという感じがします。とはいえ、3年の間にそうしたプロの技術をほとんど吸収することなく終わったというのも、本人はもとより当時のプロ野球界の悠長さが伺えて、面白さを感じてしまいます。

1971年シーズンを最後にプロ野球界を去ってからしばらくの期間のことについて、今回の放送では何も言及しませんでした。
故郷の水戸に戻って運動具店を開業していた飯島は、1983年、国立霞ヶ丘競技場で行われる陸上競技会に出場する娘の応援に自ら運転してきたクルマで、幼い少女を撥ねて死亡させる人身事故を起こし、交通刑務所に服役しています。事故があった現場はJR四ツ谷駅前の信号で、実は当時私が通っていた会社へ向かう通り道でした。その後何年にもわたって小さな献花が絶えることなく続いていたのを覚えています。その事故の当事者があの飯島であったことを知ったのは、だいぶ後になってからのことです。
スプリンターからプロスポーツへの転身、そして罪を犯しての服役…ちょうど、東京オリンピックの男子100m金メダリスト、ボブ・ヘイズ(USA)が辿ったのと同じような波乱の人生を、飯島は歩んでいました。

その飯島の名前が再び大きく浮上してきたのは、水戸市の陸協に籍を置き、短距離競走の出発係(スターター)として実績を積み重ねた末に、1991年の東京世界選手権で男子100mのスターターを務めるという栄誉に浴した時です。
かつての名スプリンターが名スターターに…それは、かつて師と仰いだ吉岡隆徳の無二の親友でありライバルだった佐々木吉蔵が、飯島も出場した東京オリンピックの100m決勝のスターターとして名を馳せたのと、同じプロセスでした。吉岡と佐々木、戦前を代表する2人のスプリンターの系譜を、飯島はともに受け継いだことになります。

今回の番組と同じような企画のものを、私はこの東京世界選手権の少し前、つまり服役を終えてしばらく経った頃にもTVで見た記憶があります。やはり「あの人は今」的な趣旨のもと、運動具店の奥から現れる演出までそっくり同じでしたが、その頃の飯島さんはまだ壮年のがっしりした体形で、おぐしもフサフサとしていたように覚えています。
今年73歳となった飯島さんは、それでも「3年後の東京オリンピックでスターターをやって、陸上界に恩返ししたい」と、大きな夢を語ってくれました。
日本人初めての100m9秒台。戦後初のオリンピック・ファイナリスト。
その野望を最初に抱いた伝説のスプリンターは、自らの手で打ち鳴らした号砲で飛び出した選手が、己の果たせなかった夢をかなえる瞬間を待ち望んでいるに違いありません。それほど、陸上界に置き忘れてきたものは大きかったということなのでしょう。

※関連投稿
<連載>100m競走を語ろう
http://www.hohdaisense-athletics.com/archives/cat_172993.html

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