豊大先生流・陸上競技のミカタ

陸上競技を見続けて半世紀。「かけっこ」をこよなく愛するオヤジの長文日記です。 (2016年6月9日開設)

連載「100mを語ろう」

<連載>100m競走を語ろう ①

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今年の日本選手権の男子100m、会期前のワクワク感からレースのゴールまで、本当に面白かったですね。
たった10秒間で終わってしまうスポーツ競技なのに、何がこんなに、見る人々を熱くさせるんでしょうか?

人間の持つ測り知れない可能性への憧れ、驚くべき身体能力やパフォーマンスへの素直な賛辞、研ぎ澄まされた精神を外から観察する興味、速報タイマーに刻まれる数字への期待…そういったことはもちろんなのですが、 私は、100m競走という種目が世界のどこでも、人々が最も身近に感じることのできるスポーツだからだ、と思っています。

ところで、世界中で最も競技人口の多いスポーツはサッカーだそうですね。2位はバスケットボールだという人もいれば、いやいや意外にもクリケットだよ、という人もいます。
日本では1にサッカー、2に野球…かと思いきや、ある統計によれば1位はウォーキングで2位はボウリングだとか、ランニング人口は1000万を超えているからこれこそNo.1と主張する向きもあるようです。
これは、「競技人口」という言葉の定義に問題がありまして、競技者として競技団体に登録されている人なのか、公式ではないけれど「試合に出た」経験がある人も含むのか、「学校の授業でやったことがある」程度まで含めるのか、またかつては競技者だったけれど辞めてからもう何年も経つような場合はどうなのか、そういったことでずいぶんと数字が変わってくるのではないでしょうか。ちなみに、「ランニング人口が1000万人」というのは、「1年間で1回以上ランニングをした人の数」だそうで、これだと他のスポーツをやっている人もウォーミングアップにはランニングするでしょうから、ほとんど含まれることになりますよね。

では少し切り口を変えて、「一度でも試合・競争の形でやったことのあるスポーツ」となると、どうでしょう?
やはりサッカー?…しかし、私くらいのロートル世代の日本人の場合、中学校にサッカー部がなかったなどというケースも多く、実は1回もサッカーをゲーム形式でやったことがない、という人が結構な割合でいます。(私自身は、短い期間でしたが部活でやっていたことがあります)
野球は?…これは女性には、少々縁の薄いスポーツということになりそうですね。
そこへいくと、徒競走、かけっこという競争は、男女どの世代でも、そしておそらく世界中ほとんどの(スポーツを楽しむ環境にないという不幸な国や地域は別ですよ)国々でも、ほとんどの人々が「一度はやったことがある」と言えるスポーツではないでしょうか。
100m競走が多くの人々を虜にするのは、そうした「実体験」を重ね合わせて、アスリートの走る姿に素直に感嘆したり、憧れを抱いたりという感情移入が容易にできるスポーツだから、と言えるのではないかと思っています。

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さて、そんな100m競走、たった100mをまっすぐ走るだけ、たった10秒前後ですべてが終わってしまう種目ですが、語り始めたら限りがないほどに、さまざまなエピソードが取り巻いています。

オリンピックでも世界選手権でも、100mはおおむね8日間から9日間ある会期のうちの最初のほうから予選のレースが始まり、2日目、3日目の夜には決勝を迎える、いわばビッグイベントのオープニング・アクトとして位置付けられている花形種目です。
テレビなどでは、スタートの号砲が鳴ればたった10秒で終わってしまうこの花形種目を、何倍にも何十倍にも見せようと、必死に工夫を凝らして盛り上げようと躍起になります。
ところが、テレビを見ていると、あるいは実際にスタジアムのスタンドで生観戦をしていても、
「あれ、ここはどうなってるんだろう?…」
と、ふと疑問に感じられることがたくさん出てきます。観る人によってその感じ方はさまざまでしょうが、とにかくいろいろなことが次々と脳裏を通り過ぎながら、気が付いたらレースが終わって勝者の歓喜の場面に関心は移っていた、という経験を多くの方がされていることと思います。

それらは、たとえばサッカーの「オフサイド」のように、あるいは野球の「フォースアウト」のルールのように、知らないでは正しく観戦に入り込めないというほどの疑問ではないのでしょうが、もし知っていれば、たった10秒のスポーツをもっともっと楽しくエキサイティングに見つめることができる要素なのではないかな、という気がします。そうした「100メートル競走の細々とした知識」を、テレビ放送などが紹介してくれることは、まずないと言っていいでしょう。せいぜい、ちょっとしたルールの変更点などを実況の中でアナウンサーがさらりと説明する程度でしょうか。

そんな話を酒のサカナに、友人の前で得々と話し始めたところ、
「そんなに話したいなら語ってみろよ。まんざら興味のない話でもないから、聞いてやるよ」
てなことになりました。
「いいの?一晩中、いや、もっとかかるかもよ」
と返すとさすがに友人の顔がサッと青ざめたような気がしましたが、さて何から語ろうかというと、うまく整理がついていません。
「ん~、ん~…」
と苦吟する当方に、冷ややかな笑みを浮かべた友人、
「ほれ見ろ、たかが100m、されど100m、でもやっぱり所詮はかけっこだろ?そうそう深い話はなさそうだな?」
「いや待て!あまりに語ることが多すぎて、どこからにしようかちょっと迷ってしまっただけだ。…そうだ、どこからと言えばだな、100mのレースはどこからどこまでだか、知ってるか?」
「そんなの決まってるだろ。スタートからゴールまで、ぴったり100メートルの直線コースだ」
「そのとおり!…なんだけど、じゃ、その“スタート”と“ゴール”をどう定義する?」
・・・
と、そんな調子で私の「100m談義」は始まってしまいました。
一晩で終わるものかどうか、ちょっと私自身にも分かりません。
この<連載>は、特筆すべき話題やニュースがない時、合間を縫って投稿してまいります。
あくまでも、外野席から競技を見続けた素人の「100m談義」であることをご承知おきの上、7週間後に始まるオリンピックの陸上競技をより堪能するための準備運動的な読み物として、お楽しみいただければ幸いです。

 

<連載>100m競走を語ろう ②~どこからどこまで100m?



「速い人を決めるコンテスト」を厳密に、公平に実施しようとすればするほど、次から次へと細かい取り決めが必要になってきます。やがて「ルール」としてまとめられたそれらの取り決めは結構膨大なものになって、一般の人々には思いもつかないような約束事までが網羅されてきたりします。特に「記録(タイム)」が重大な関心事になる短距離走では、その記録をどのように正確に公平に取り扱うかが大きな問題点となってくるのです。
100m競走が世界共通のルールのもとで完璧に公平に競われる種目である以上、100メートルという距離の決め方に僅かでも認識の違いがあってはなりません。
では、どこからどこまでを測って、100mレースの舞台と決めているのでしょうか?

少し、100mよりも大きな舞台について語ることをお許しください。
日本国内で記録が公認される(=さまざまな資格記録が認められる、ランキング入りする)ための条件の一つとして、その記録が「公認陸上競技場」で出されたものである必要があります。公認競技場はその規格や設備等によって第1種から第4種までに分類され、日本陸連が主催する大会(日本選手権、国体、インターハイなど)は最高クラスの「第1種公認陸上競技場」で開催することが求められています。この第1種競技場は、2014年現在で全国各都道府県に、69場あります。

第1種の公認を受けるには、さまざまな条件を満たしている必要がありますが、その一つに「第3種以上の補助競技場を備えていること」という項目があります。つまり、ウォーミングアップ用の専用練習場の確保、ということですね。
つい最近まで、この条件を満たしていない巨大スタジアムが存在していました。2020年のオリンピック開催決定でクローズアップされた、国立霞ヶ丘競技場です。すったもんだの末にようやく改築の方向性が決まったのはいいとして、結局肝心の補助競技場は、「オリンピック期間中の仮設」ということになったようです。つまり、2020年以降は再び、国立競技場は第1種の認定を受けられない、主にサッカーやラグビーのための球技場として存続することになるわけです。(素人考えながら、私はスタジアムの地下にサブトラックを作れないものかというアイデアを持っていたんですが、やっぱり無理でしょうかね?)

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話を戻します。第1種から第3種までの競技場は、走路の全面を全天候型に舗装していることが求められます。
昔の陸上競技は、国立競技場であっても土のトラックに石灰で白線を引いて行ったものですが、今ではとうぜん、必要なラインやマークはすべて、全天候型(合成ゴムやポリウレjタン樹脂製)のサーフェス(表面)に、あらかじめプリントされています。
最も基本的なマークは、8つまたは9つのレーンを区切る白いライン、そしてホームストレートの終点(=第1コーナーの入り口)に引かれた白いゴールライン(フィニッシュライン)です。すべての競走種目はこのゴールラインを終点とし、ここから逆向きに計測して各種目のスタート位置が決められていくのです。
なお、陸上競技場の競走を規定するライン(上の写真にあるような数字や補助的な目印は別として)は、すべて「幅5センチメートル」と決まっています。

さて、ようやく100mの舞台の話になってきます。
日本の陸上競技場は、おおむねホームとバックの直線部分が80メートル、第1・第2コーナーおよび第3・第4コーナーの円弧部分がそれぞれ120メートル(縁石から30センチ外側の位置で計測)、という設計になっています。したがって、100m競走および女子100mHのスタート位置は、ホームの直線部分をゴールと逆側に、第4コーナーの曲走路を突っ切るようにして20メートル延長した地点に、やはり白いラインで示されています。そのさらに10メートル延長した先に、男子110mHのスタートラインがあります。
レーン(走路)の幅は、1つが122センチメートルです。中途半端な数字と思われるかもしれませんが、これはイギリスで発祥した陸上競技がヤード・ポンド法のもとで行われていたその名残で、「4フィート=121.92センチ」が元になっているのです。ラインの幅の5センチというのも、「2インチ=5.08センチ」なんですね。他にも、ハードルの高さや投擲器具の重さなど、ヤード・ポンド法の名残はあちこちに見られます。

いよいよ、「どこからどこまで」の結論です。
とりあえずの正解は、「スタートラインの手前側の縁の直線から、ゴールラインの手前側の縁の直線まで」です。「とりあえず」と言う意味は、また後ほど説明します。

ここからは、少し数学的なお話になります。「げっ、数学!?」と思う人は逃げて結構です。
数学で言う「直線」とは、いわば空想上の概念みたいなものでして、長さや幅というものがないので、目に見える実体がありません。
「そんなことないよ、現にスタートラインやレーンの直線が見えてるじゃないか」……それは、まっすぐなラインや走路を「直線」という観念で表現しているだけで、実際のラインや走路は「線」ではなく「平面上にある縦横比の極端な長方形」です。
100mのスタートとゴールを規定する「走路と垂直に交わる、正確に100メートル離れた直線」は、直線ですから目に見えません。これを目に見えると感じられるようにしたものが、幅5センチの白いマークです。便宜上(数学上の「線」と区別する意味で)、このマークを「ライン」と呼ぶことにします。
技術的に正確にまっすぐ記されたライン自体は幅を持っている以上、「直線」ではなく「長方形」ですが、その「縁」は、観念上のものである「直線」を目で認識できる部分です。
そして、陸上競技のルールでは、あらゆる競走の「起点」と「終点」を、「ラインの(走者にとって)手前側の縁」と定めているのです。
このことは、陸上競技のレースを厳正に実施するにあたって、とても重要な、しかし明解な決まり事となっています。
少し長くなりましたので、次回はこの続きから、ご説明しましょう。


<連載>100m競走を語ろう ③~レースの戦場を明確に

 
前回は、100m競走のスタートとゴールについて、その「とりあえず」の定義についてお話ししました。その続き、もう少し細かいお話です。

◆線に触れたらダメ!
100mの走者たちは、スタートのファーストコール「On your marks/位置について」という合図によって、スタートの構えをとります。この時、クラウチングスタートの姿勢によって、走者の体の部分で最もスタートラインに近い位置で接地するのが、上半身を支える手指の先、ということになります。
ルールをちゃんと知らないとしても、「スタートではラインから前へ出て構えてはいけない」ぐらいのことは、子供でも理解しているでしょう。さらにルールブックには、「走者はスタートラインに触れてはならない」ということが明記されています。
これはどういうことか?…ちょっと前回の「どこから」のお話を思い出していただきたいのですが、「スタートラインの手前側の縁から」ということは、ラインそのものに手を載せた状態では明らかに「手前側の縁を越えている」ということになりますし、「それじゃ、触れる程度ならいいのか?」というと、これもまた同様なのです。手前側の縁に触れるということは、顕微鏡的な細かさで言うと、やはり「縁を越えてしまっている」ことになるからです。ですから、スタートの構えをとった時は、たとえ0.1ミリであっても、明確に「手指がスタートラインから離れていること」が求められます。

もちろんこれは、100mに限らずすべての陸上競技のレースでの共通ルールです。ただ、中長距離走やロードレースなどの場合、100mほどに厳密にチェックされないのが通例で、そのためよく見ると明らかにラインを踏んで構えている選手がいるのを見過ごしてスタートが切られてしまうようなことが、しばしばあります。

◆ゴールは「線」ではなくて「面」??
さて、「どこから」の定義がかなり細かく分かってきたところで、次は「どこまで」です。
ここで、ようやく「とりあえず」の意味を含めて、ご説明することにしましょう。

100メートルのゴールが、ゴールラインの手前側の縁の直線」というのは、実は正確な言い方ではないのです。なぜなら、陸上競技のゴールの瞬間というのは、「四肢および頭部を除く胴体の部分(これを「トルソー」と呼びます)が、決勝線上の空間に到達した時」と定められているからです。つまり、ランナーにとってのゴールは地上にある「直線」ではなくて、その直線上に垂直に立ち上がった目に見えない「平面」であり、しかもそこにトルソーの一部が触れた瞬間が、「ゴールインの瞬間」と見なされるわけです。
この「トルソーの到達」という考え方は、あらゆる競走競技(競泳、自転車競技、漕艇、競馬、スキー、スピードスケートなど)を通じて、陸上競技にしか採用されていない、独特の「フィニッシュ(ゴールイン)についての考え方」と言ってよいかと思います。

たとえば、競泳ではゴールとなる「プールの終点=壁」で競技者が止まることができるため、その壁にタッチした瞬間(厳密には一定以上の圧力が壁に加わってそれにより計時が止まった瞬間)が、フィニッシュとなります。ゴール面(壁)にタッチするのは、自由形におけるターンの場合を除けばほぼ例外なく手指の先端、ということになります。
その他の多くの競走競技では、競技者がかなりのスピードでゴール地点(ゴール面)を「通過する」ことになるため、いったいどの部分がゴール面に達した時をフィニッシュとするのか、という課題が生じます。
自転車や競馬などでは、「乗り物」である自転車の先端や馬の鼻面が到達した瞬間、スピードスケートではブレードの先端、スキーのクロスカントリー競技ではスキー板ではなくブーツの先端、同じスキーでもスキークロスやスノーボードのレースでは、体の一部がゴール面に到達した瞬間、というように、競技によってフィニッシュの解釈は実にさまざまです。

これは、移動の「主体」が選手自身の肉体なのか乗り物や用具なのか、また選手自身だとしてもとにかく体のどこでもいいからゴール面に触れれば勝ちとするのか、それとも体全体の体勢を見るのか、その考え方が競技によって異なるからだと思われます。言うなれば、それぞれの分野で議論され尽し伝統的に培われてきたきわめて哲学的な領域の話ですので、第三者がその是非をとやかく言うことではありません。
で、陸上競技では「トルソーがゴール面に到達した瞬間」を「ゴールイン」と定めているのです。

考えてみれば、陸上競技のスタートでは「手や足の一部たりともスタート・ラインに触れてはならない」のですが、頭や胴体の一部がスタート線上の空間(スタート面)よりも前に出て構えることは、いっこうに差し支えありません。短距離走での「用意!」の姿勢でも、中長距離走の「位置について!」の姿勢でも、ほとんどすべてのランナーの肩、つまりトルソーの一部はスタート面よりも前に出る形になるのです。つまり、接地した身体の部分がスタート・ラインより手前にあることが、スタートの構えの絶対条件で、その上の空間上のことは、何ら問われません。
ところがゴールの判定は、あくまでも「手足や頭」は認められず「トルソー」で、しかも体の接地はまったく関係なく、空中にあるトルソーの先端がゴール面に触れた時、それが「ゴールイン」なのです。
ということはまた、トルソーの「スタートからゴールまでの移動距離」は、その種目の距離に達していないこともあるわけですね。
このあたりの割り切り方が不思議と言えば言えるのですが、まあそこを追求するのはあまり意味がありませんから、このあたりで話を先に進めることにいたしましょう。

以上で100m競走の「始点」と「終点」が細かいところまで明確になりましたが、これだけではありません。

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◆“自分専用”レーンの定義
陸上競技では400メートル以下のレースを「短距離」と呼び、これに出場するランナーは、自分に割り振られたレーンだけを走ることができます。これを、「セパレート・レーン」といいます。(400メートルを超えるレースでは、どのレーンを走ってもよい「オープン・レーン」またはスタートから一定距離のみセパレート・レーンを走ります)

このセパレート・レーン一人分の境界は、どこからどこまでになるでしょうか?

正解は、「内側(ゴールに向かって左側)のラインの外側の縁から、外側(同じく右側)のラインの外側の縁まで」の、1.22メートルの幅です。
ややこしくてすみませんね。言い換えれば、「内側(左側)のラインには触れてはいけない。外側(右側)のラインは、踏んでもよいが踏み越してはいけない」ということになります。これに違反することを「レーン侵害」と呼びます。
ただし、即座にレーン侵害が反則を取られるのは、「レーンの内側を侵害することによってショートカットをしたことになる」曲走路の場合くらいで、それ以外は多少の「はみ出し」があったとしても、他の競技者を妨害する形にならない限りはおおむね見過ごされます。人間には目に見えるラインに沿って走ったり歩いたりする習性があるので、ついついラインぎりぎりのところを走るクセのあるランナーは少なくなく、また高速走行の際中にちょっとしたバランスの崩れがあっても体は大きく想定したラインを逸れてしまうことがあります。正面からスプリンターを捉えた映像では、しばしばラインを踏んでしまっているような光景も、見られます。
そうは言っても、接戦になった際にもしレーン侵害をしていれば、たとえ実害がなかったとしてもそれを理由に相手選手から抗議を受けることがあり得ますから、しないに越したことはないのは言うまでもないことです。

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スタート・ラインとゴール・ライン、そしてレーンを区分するラインによって、100メートル競走を走る選手の「戦場」が明確になりました。選手は、この平面上を何秒で走るか、誰が一番早く駆け抜けるかで、100メートルというレースを競うことになるわけです。

 

<連載>100m競走を語ろう ④~スプリントの生命線「スタート」


◆初め良ければ・・・スタートから目を離すな!

どんな競技でも、スタートはスプリント種目の生命線。アスリートは出遅れや失敗がないよう超人的な集中力をここに注ぎ込み、観客はその瞬間を息を呑んで見つめます。

100メートル競走は、たった10秒内外の時間で、すべてが決してしまいます。選手の疾走スピードは最大秒速11メートルを超えるわけですから、100分の1秒といえども移動距離にすれば10センチ以上ということになります。10センチといえば、ゴールを真横から見ていれば肉眼でもはっきりと認識できるほどの差であり、選手にとっては決定的な距離と言えます。

この10センチ、0.01秒を削り出すために、選手は時に己の人生を賭けて努力を積み重ねているのでありまして、特にスタートの成否はこの0.01秒という時間をいとも簡単に稼ぎ出したり、逆に放出してしまうという、極めて重要な局面なのです。


もちろん、「100m競走はスタートがすべて」などと言うつもりはありません。むしろスタートをあまり重要視しないことで好結果に結びつけたというスプリンターの話も、たくさんあります。それはそれとしてまた後述する機会もありましょうが、仮に同じようなトップスピードとスピード持続力を持つ選手が並走したとすると、勝敗を分けるのはやはり、スタートおよびそれに続くダッシュの能力と技術、そしてピストルの音を聞いてから走り出すまでの反応時間、ということになるのです。
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◆スタートにまつわるルール
100mをはじめとする短距離競走では、「スターティングブロック(以降、時々「スタブロ」と略します)を使用し」「両手を地面に着いた姿勢で構える」ことがルールとなっています。すなわち「クラウチングスタート」が義務付けられているのです。逆に、800m以上の中長距離競走では、スターティングブロックの使用も、地面に手を着く構えも認められません。
このルールがいつ明文化されたのかは調査不足で分かりませんが、私が記憶する昔には、「スタートの構えは自由」とされていて、短距離でスタンディングスタートをしても構いませんでしたし、ごく稀にですが800m競走でクラウチングスタートをする(さすがにスタブロは使いませんでしたが)選手をかなり大きな大会で目撃したこともあります。

なぜ「短距離はクラウチングスタートが義務」となったのか?……おそらく、スタートの姿勢そのものよりも、現在では計時システムの重要な1パートとなっているスターティングブロックの使用をマストとする必要からではないか、と思われます。つまり、「フライング判定にスタブロの使用は不可欠」だからです。

スタートの構えが自由だった時代には、「もしかしたらスタンディングスタートの方が有利なのではないか?」という議論が常にありましたし、現在でも上記の縛りがない小学生の競技などでは、このことが話題になります。
クラウチングスタートの原理は、ごく簡単に言ってしまえば「前につんのめる力」を推進力に変えるということで、これにより、緩慢になりがちな「動作の始まり」をスピードアップさせるということです。つまり鋭いスタートダッシュを生むために最適の方法、ということです。
しかしながら、そのためには本当につんのめって転倒してしまわないように、体を支える強い脚力や体幹も必要になります。だから、筋力の十分でない小学生程度の子供では、むしろスタンディングスタートのほうが、初めからランニング・フォームがとれるために滑らかにスピードアップできるとされていて、これを科学的に検証した事例などもあります。

また、スターティングブロックなしにクラウチングスタートを行おうとすると、スパイクシューズを履いていたとしても水平に近い向きに前足を蹴り出す際に滑ってしまい、どうしてもうまくいきません。

「スターティングブロックを用いる」「クラウチングスタートを行う」という短距離走の2つのスタート・ルールは、切っても切り離せない関係になるわけですね。

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◆クラウチングスタートの始まり
クラウチングスタートを初めて世に知らしめたのは、近代オリンピックの第1回・アテネ大会(1896年)で100mと400mの短距離2冠に輝いた、トーマス・バーク(アメリカ)だと言われています。記録は100が12秒0、400が54秒2でした。現在の女子高校生の全国レベルくらいですが、これが当時の世界最高峰でした。
彼が実際にどのようなスタイルのスタートをしていたのかは、残された写真からでしか窺い知ることはできませんが、現在のクラウチングスタートとさほど変わりないように見受けられます。
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左から2人目がバーク選手。隣のレーンの選手が木の杭のようなものを使って構えているのが、面白い光景ですね。
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◆スタブロのない時代

陸上短距離選手を主人公にして描かれた映画『炎のランナー』(1981年、イギリス)では、1924年のパリ・オリンピックがクライマックスの舞台となっています。
控室からレースのトラックに向かう選手たちの寡黙な表情が迫力たっぷりに描かれているシーンがありますが、どの選手も手に銀色の鏝(こて)のようなものを持っています。
これは、スタートの位置に足を入れる穴を掘るためのスコップなんですね。すでにクラウチングスタートが当たり前になっていたこの当時、どの選手も自分専用の“マイ・スコップ”を持って競技に臨んだ様子がよく分かるひとコマです。スターティングブロックが登場するのは1948年のことですから、戦前はオリンピックといえども常にこうした光景があって、レース前の選手の“儀式”になっていたのです。アテネ大会当時のバーク選手が穴を掘っていたかどうかは写真からは確認できませんが、スタンディングスタートの構えをとる選手の中にも、軽く靴で引っ掻く程度の足場を掘っていたらしき跡は見受けられますね。
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各々の“マイ・スコップ”で足場の穴を掘る選手たち。(映画『炎のランナー』より)



◆木槌の時代

時代が下って記録映画『東京オリンピック』(1965年、東宝)では、100m決勝のスタート位置に集まった選手たちが、地面に木槌を打ち付ける様子がスローモーションで紹介されます。

今でも土のグラウンド用としてありますが、この当時はまだ全天候型トラックがなく、自分の足の位置にスタブロを五寸釘のようなもので地面に固定するという作業が、どんな大きな大会でも短距離のスタート前の“儀式”でした。ただし、スタブロも木槌も、大会側が用意したものです。映画では、釘を打つ金属音が乾いた響きをたてて、独特の緊張感を見事に演出しています。

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スタブロを打ち付けるボブ・ヘイズ。「スタート前の選手たちは、緊張のあまり、むしろ悲しげに見える…」とナレーションが入ります。(記録映画『東京オリンピック』より)

現在の全天候型トラック用のスタブロは、舗装樹脂に押し付けるようにして爪のような金具を食い込ませるだけで、簡単に固定されます。そして、競技で使用されるものの多くは、ケーブルで計時システムに接続されています。したがって、大規模な競技用のスターティングブロックは一般的なスポーツ用具メーカーの製品ではなく、その競技会をサポートする時計メーカーによって製作・提供されているものです。
 

<連載>100m競走を語ろう ⑤~ドッキドキのスタート・アクション



◆「イチニツイテ」「ヨーイ!」

短距離競走では、号砲によるスタート合図の前に、発走の合図をする「スターター(正しくは出発係)」という競技役員によって発せられる、「位置について=On your marks」と「用意=Set」という、二段階の「コール」があります。スタンディングスタートの中長距離走では、「位置について」の一回のみです。(陸上競技にあまり詳しくないと、これを知らない方が
意外に多くて、市井のマラソン大会などで「位置について……ヨーイ!」とやってしまいランナーをずっこけさせる、ということがあります)
以前はこのスタートコールは、「開催国の言語で行う」というルールだったのですが、2007年のルール改正で英語の「On your marks」「Set」に統一され、日本国内でも日本陸連が関与する規模の大会では、すべて英語でコールされることになっています。
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  ※「セイコー陸上競技システム総合カタログ」より

短距離走で「位置について」のコールを受けたら、選手はスタートラインの手前ぎりぎりの所に(ラインに触れないように)両手を着き、あらかじめセットしたスターティングブロックに足を乗せて構えます。この構えで静止した状態が、「位置についた」と判断される体勢です。
スターターは、選手全員が「位置についた」ことを確認した上で、「用意」のコールをします。この合図で選手は腰を上げて体の重心を前に移動させることによって、すぐに全力ダッシュが始められる体勢をとります。
この姿勢を長時間続けることは体力的にも精神的にも困難で、1964年東京オリンピックの男子100m決勝でスターターを務めた故・佐々木吉蔵さんによれば、「『用意のヨ』から『ドン!』までは1.6秒から1.8秒が理想」とのことで、選手によっては「2秒を超えると眠くなる」と言う人もいるそうです。選手はそれほどに極限にまで張り詰めた精神状態に置かれるわけですが、近年はより正確で公平なスタートを期するあまりに少々この「間」が長くなる傾向があるように見受けられます。いずれにしろ、短距離走のスタートを取り仕切るスターターの仕事は、極めて繊細で熟練を要するものであることは確かです。

「位置について」の構えは、「用意」で腰を上げた時に最大限の爆発力が得られるよう、体格や体の使い方に合せた姿勢をそれぞれの選手が身に着けていて、それを実現するための手の開き具合と足の位置を決める必要があります。スタートの準備をする選手たちをよく観察していると、スタブロ本体を置く位置、左右の足を置く位置などを慎重に測りながら決めていく人もいれば、大ざっぱに位置決めしてから足を乗せてみて微調整していく人もいるなど、いろいろな流儀があるようです。

たとえば、往年の日本のエース・飯島秀雄さんやドーピングで偉業を台無しにしたベン・ジョンソンが得意にしていた「ロケットスタート」と呼ばれるスタイルでは、両手を大きく開き、足もできるだけ遠めに置いて、まるで地面に這いつくばるような低い体勢からスタートします。よほどの筋力と速いピッチがないと前には進めず倒れてしまったり空転してしまう、極端な前傾スタートです。通常は両手は「肩幅より少し広く」、前足は「ラインから1.5~2足長(「足長」は靴のサイズ)」、後ろ足は「前足から1~1.5足長」といったあたりが標準でしょうか。100m競走のスタート位置に並んだ全選手のスタブロの位置を見比べてみると、人によってかなり足の位置が異なることに驚かれるかもしれません。

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エバニュー(Evernew) スターティングブロック 平行連結式スタブロRST EGA017

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  ベン・ジョンソンのロケットスタートの構え。

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細かいルールになりますが、「位置について」では「少なくとも片方の膝が地面に着いていること」を規定しています。このルールを曲解した審判員によって、2003年のパリ世界選手権でちょっとした「事件」がありました。
この大会で日本人として初めて短距離種目(ハードルを除く)のメダルを獲得することになる末續慎吾選手が、その200m決勝のスタートの際に、「位置についての姿勢がルールに抵触する」と指摘されて注意を受けたのです。末續選手の「位置について」は、左右の足の前後間隔が極端に少ない(つまり前足を極端に後ろに引いている)独特の構えで、このため「位置について」では両脚の膝が地面に着く体勢になります。前記のルールを生半可に理解していた審判が「両膝を着いてはいけない」と勘違いして注意を与えたというアクシデントでした。幸い末續選手は動ずることなく言われたとおりに姿勢を修正し、その慣れないスタートにも関わらず3着に食い込んで銅メダルを獲得しましたが、結果が悪ければ大問題にもなりかねない審判のミステークでした。
末次慎吾
  「なんば」と言われる末續慎吾選手のスタート独特の構え

◆永遠の課題「フライング」の判定
スタートのピストル音(「号砲」と言います)が鳴る前に走者がスタート動作を開始してしまうと、不正スタートとなる……これは常識ですね。
こうした不正スタートは通常「フライング」と呼ばれて、日常会話の中でも、ちょっと逸って行動を起こしたりする場合などに使われる言葉です。ただしこれは和製英語で、自転車競技やモータースポーツ、ヨット競技などの「助走をつけてスタートラインを通過するスタート方式」を表す「フライング・スタート」に由来しています。英語では「false start(フォールス・スタート)」と言うのが一般的で、これにはいわゆるフライング以外の不正スタートの意味も含まれます。

次回はこのフライング=不正スタートについて、ちょっと掘り下げてみましょう。

 
ギャラリー
  • 連載「懐かしVHS時代の陸上競技」#10~1996/第80回日本選手権
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  • 連載「懐かしVHS時代の陸上競技」#9~1991/第10回大阪国際女子マラソン
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