豊大先生流・陸上競技のミカタ

陸上競技を見続けて半世紀。「かけっこ」をこよなく愛するオヤジの長文日記です。 (2016年6月9日開設)

思い出記事

青梅マラソンのこと…



『第51回青梅マラソン』は、一般参加のチェポティピン・エゼキエル(東邦リファイン)が1時間30分49秒で優勝。ギザエ・マイケル(スズキ浜松AC)が2位に続き、注目の神野大地(コニカミノルタ)は1時間31分33秒で、昨年覇者の押川裕貴(トヨタ自動車九州)を振り切って日本人1位(総合3位)は辛うじて確保しました。狭くアップダウンの多い青梅街道に1万人以上がひしめくこのコースは記録が出にくいことで知られるとはいえ、2週前の『香川丸亀国際ハーフマラソン』に比べると少々物足りないタイム、ということになりそうです。
女子は期待の鷲見梓沙(ユニバーサルエンターテインメント)が5kmを過ぎて途中棄権。『選抜女子駅伝北九州大会』でアンカー逆転劇を演じた走りはどうやら本物ではなかった模様で、故障再発が懸念されます。
先週の『全日本実業団ハーフマラソン』を見事なスパートで快勝した宇都宮亜依(宮崎銀行)の双子の妹・亜未(キヤノンAC九州)が1時間46分24秒で優勝。エリートランナーは鷲見と2人だけの出場だったため当然の結果ですが、またまた楽しみな双生児ランナーが出てきたという感じですね。

なお、同日に行われたこれまた伝統の大会・熊日30kmロードレースでは、上野裕一郎(DeNA)が1時間30分17秒の好タイムで2位以下を1分以上ぶっちぎり。もちろん一概には比較できませんが、遠く離れた場所で走った神野に「勝った!」と言える内容だったようです。
高校時代から将来を嘱望された上野も30歳を過ぎ、「箱根黄金世代」の数少ない生き残りという立場。しかしこの1年ほどの充実ぶりには目を瞠るものがあります。マラソンへの再挑戦に、期待しましょう。

■36年前の『青梅』
私が『青梅マラソン』に出場したのは、1981年の第15回大会。大学卒業を目前に控えてのいわば「記念行事」といったノリでの参加でした。
今でこそシーズンともなると、同じ日曜日に全国で何十という市民ロードレースが開催されていますけど、当時は一般ランナーが気軽に出られる大会などほとんどなくて、あっても多くはフルマラソン大会。スチャラカ陸上部員だった高校生の頃にも10km以上走ったことなどまずない私らにとって、それは少し荷が重い、ということで、中学から高校までの陸上部仲間であり大学でも同じサークルで過ごした親友のY君(専門は短距離・走幅跳)とともに、「卒業記念」としての青梅完走を目指すことになりました。

当時「日本一の市民レース」を標榜していただけあって、往復はがきでの参加申し込みは確か 1日か2日で定員(30kmの部は10000名)到達。私たちは申し込み受付開始日の前日に速達ではがきを出したので事無く出場が叶いましたが、その翌年あたりからは今の東京マラソンなどと同じように抽選方式になったはずです。それほどに、市民ランナーの人気を一手に担うという大会でした。

当時、参加者が10000人にも及ぶという大会は、他にありません。
その青梅マラソンが、「世界で初めて採用した」という自慢の装置が、ビデオによる順位・タイム判定機器です。つまり、ゴールインするランナーの映像を後から解析して、全完走者の着順とタイムを判定していく、というものです。このため、参加申し込み後に送られてきた書類の注意事項には、「ゴールの際には両手を下げて、ゼッケンが映るようにしなさい」てなことが書かれていました。
まあ時間も人件費も半端なくかかったんじゃないかとは思いますけど、10000人規模のレースの着順・タイムを判定するのに、当時としては最新鋭の技術だったんですね。こんにちの市民レース全盛は、その後に開発されたランナーズチップの普及なくしてはあり得ないものだった、ということがよく分かります。
青梅マラソンがランナーズチップを採用するのは、2000年の第34回大会からです。

■あのレジェンドが緊急参戦!
1967年の第1回大会には東京オリンピックの銅メダリスト・円谷幸吉さん(翌年自殺)が出場したのをはじめ、その後も宇佐美彰朗さん、澤木啓祐さん、山田敬蔵さん、海外からはゴーマン美智子さんやビル・ロジャースさんなど、錚々たるトップランナーも駆け抜けた、今ならIAAFゴールド・レーベル級の大会。
そして、私たちが出場した第15回大会には、前年のモスクワ五輪銀メダリストのヘラルド・ナイブール(オランダ)が招待され、ミュンヘン五輪代表の采谷義秋さんも、すでに全盛期は過ぎていたとはいえ当時のマラソン・ファンにとっては憧れのスター選手の一人として出場してきました。

さらに驚いたことには、大会前日になって、あの瀬古利彦さんが緊急参戦するとの発表!
瀬古さんは私たちよりも1つ年長で、この時は前年に早稲田を卒業してヱスビー食品入社一年目の24歳。モスクワには不運にも出られなかったとはいえ、福岡国際マラソンでそのモスクワ優勝者(前回のモントリオール大会から2連覇)のワルデマール・チェルピンスキー(東ドイツ)を一蹴して3連覇を達成したばかり。この年の春に出場予定のボストン・マラソンへ向けての調整レースとして、実業団ロード(当時はハーフではなく30km)でも熊日でもなく、青梅のタフなコースを選んだのでした。(2か月後のボストンでは当時「世界最強」と言われたビル・ロジャースを破って優勝)
距離こそ30kmですが、ここでナイブールを破ればモスクワの金・銀を連破したことになって、いよいよ「事実上世界一」の称号が近付くことになります。
そんな瀬古選手と同じレース、同じコースを走る!…自宅が遠い(茨城ですから)ためにY君宅に泊まり込んで早めに布団に潜り込みながら、ほとんど一睡もできないほどに心は騒ぎ立っていました。

■“世界の瀬古”とすれ違った!
いよいよレース当日。寝不足もいいところなのに、不思議と眠気もなく身体は軽く感じます。
Y君と数日前に買い揃えたランシャツ、ランパン、シューズ(アシックスの「マラソン・ソーティ」)に身を包み、1万人の群衆の中の一人となって、遥か前方のスタートラインで鳴らされる号砲の音も聞こえないまま、周囲がワサワサっと動き出すのに合わせてスタート。後で知ったのですが、この頃の青梅では危険防止のために「ローリングスタート」方式をとっていて、先頭のランナーたちから順に合図を受けてゆっくりとスタートラインに向かって歩き出した上で、ピストルが撃たれていたのだそうです。
すぐに気付いたのは、スタート付近の街角の電柱に、どれも大きな布団が巻き付けられていたこと。ひしめき合うランナーがぶつかって怪我をしないようにとの、地元住民の方々の温かい心遣いでした。

当時、専門に陸上をやっていたわけでもない私は、キロあたり5分前後のペースで5kmから10kmくらいを走るという、ただそれだけの練習を、しかもその年が明けてからようやく毎日やっていただけでした。
実は、当時の青梅マラソンには、「30kmで2時間30分以内」というタイム制限が設けられていました。今思えば市民ランナーにとっては相当に高いハードルのタイムです。つまりはキロ平均で5分以内。スタートでのロス(この時は2分10秒ほどありました)を考えれば、それ以上に速いペースで行かなければなりません。とりあえずは、キロ5分で何事もなく5km、10kmを走っておけば、後はどうにかなるだろうと、その程度の考えでレースに臨んでいたわけです。大会の数日前には15㎞を1時間13分ほどで走って余裕がありましたから、自信はそこそこあったんですね。
ところが、最初の5kmを通過した時に時計を見ると、長丁場に備えて楽に走っているつもりなのにキロあたりのペースは4分半ほど。これには驚きました。いざレース本番となった時のアドレナリンと、人の壁による空気抵抗の軽減によるんでしょうかねえ、とにかくきわめて快調に走り始めたわけです。

コースは、ゴール付近を除けば片側1車線の青梅街道をひたすら走り、15㎞付近の川井という所で折り返す1本道の往復コースです。全般に往路は登り勾配になる中で、7~8kmの軍畑(いくさばた)というあたりにかかると、かなり急な下り坂があります。ここで調子に乗ってさらにペースが上がり、5kmラップは21分台に跳ね上がりました。後で思えばこれが命取り、帰りの同じ場所で、壁のように立ちはだかる登りにパッタリと脚が止まってしまうことになります。
それはともかく10kmを過ぎてほどなく、11.5kmくらいの地点だったでしょうか、前のほうが何やらザワついてきたなと思うと、白バイのパトランプがまず視界に飛び込んできて、それに導かれる鮮やかなカナディアン・レッドのユニフォームが、まさに風のようにこちらへ向かってすっ飛んできます。
瀬古選手でした。
狭い街道の左側を立錐の余地もないほどにひしめき合っている一般ランナーたちが、次々にセンターライン際に寄り、中にはラインをはみ出す者もいて、瀬古選手に声援を送り、拳を振ってミーハーな応援を繰り出していきます。私も思わず、「セコ、負けるなよ!」とか何とか、叫んでおりました。
ところで瀬古選手とすれ違ったのが11.5km付近…ということは、この時点で私は約7kmも離されていたわけです。「世界の走り」を同じ空気の中で体感するという、得難い経験をさせていただきました。

この大会での瀬古選手は「オープン参加」の扱いで、そのままぶっちぎりのトップでゴールインしたのですが、記録上の優勝者はナイブールで1時間32分34秒。瀬古のタイムは1時間29分32秒。オリンピック銀メダリストに、30kmで実に1㎞もの差をつけての圧勝でした。この記録は「大会記録」として扱われることはありませんでしたが、いまだに青梅マラソンの「コース・レコード」として、36年経った現在でも破られていません。

■市民レース初体験の結果は?
瀬古選手がゴールした頃、私はといえばたぶん20kmに達していたかどうか。その直後に待ち構えていた軍畑の登りに完全KOされ、女性ランナーにも次々と抜かれていく始末でした。曇り空の寒い日でしたが、ラスト5kmあたりからは身体が熱を発しなくなり、走っていながら寒さに震えるという後にも先にも経験したことのない状態を味わいました。完全なエネルギー切れです。
それまでのレースや練習での経験なら、「ラスト1㎞」の標識が見えれば再び元気が出ても良さそうなところ、まったく脚が上がらない状態のまま、這うようにしてゴールイン。
それでも前半の貯金がモノを言って、タイムは何とか制限時間をクリアして2時間21分21秒。順位は3000位を少し超えるあたりでした。陸上の現役を離れて数年、たった1か月半のトレーニングで未知の距離に挑んだにしては、上々の結果だったと言えるでしょう。ま、若かった、の一言に尽きますね。
何よりも、あの瀬古選手とレースを共有できたこと、長距離ランナーが必ず味わう苦しみや心境の一端を垣間見る経験ができたことは、私にとって大きな財産となりました。まだレース経験のある市民ランナー自体が現在の十分の一もいないような時代でしたから、「30kmのレースに出た」というような一般人はちょっと珍しがられて、しばらくは話のネタが尽きませんでしたしね。

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■隔世の感、あれこれ
当時はもちろん、ゴールしてすぐに綺麗なデザインでプリントアウトされた記録証を渡される、なんてことはありません。前述のような「ビデオ判定装置」による膨大な事後作業があって、1カ月ほどしてハガキの裏面に印字された「あなたの成績」なるものが郵送されてきて、それを予め配布されていた台紙に糊でペタリと貼り付けると、立派な記録証の出来上がり、というものでした。
ちなみに、一緒に走ったY君は、もともとスプリンターですから制限時間内での完走などはハナから望むべくもなく、約3時間半かかってのゴールでしたが、それでも途中でゲートアウトされるようなこともなく、成績表もちゃんと送られてきました。どうやら「2時間30分以内」というのは、多すぎる参加希望者に少しでも歯止めをかけるための、単なる“脅し”だったらしいです。

もう一つ。レース後しばらくして、大会関係だという見知らぬ会社から送られてきた郵便物がありました。中を見ると、レース中のランナーを写したベタ焼き写真(フィルムサイズのままプリントした小さな見本写真)が同封されており、「あなたが写っている写真があります。大きいサイズをご希望ならば、1枚いくらで…」といったご案内が。
当時は「ゼッケン」と呼んでいたナンバーカードから個人を割り出して、写真を売りつけるという商売が、そんな昔からあったんですね。とうぜん、そうした個人情報を得るためには大会本部に承認された会社でなければなりませんから、さほどあこぎな商売をしていたわけでもないでしょうが、それにしても世の中には頭のいい奴がいるもんだな、と感心しました。オールスポーツさんあたりも、もとはこうしたところから現在の地位を築き上げたのかもしれませんね。
肝心の写真のほうは、ナンバーの一部が隠れていて残念ながら「人違い」。私が自分の“雄姿”をキャビネサイズで手に入れるのは、7年後に出場した第22回大会でのことになります。

■三十路での再挑戦
その後、社会人となった私はますますランニングからは縁遠くなっていきますが、まだまだ若者意識はたけなわで、仕事の合間を縫うようにテニスにサッカーにスキーに、と身体をなまらさない程度のスポーツにはせっせと参加していました。
青梅には何とかもう一度出てみたいとは思いながら、何度か応募した往復ハガキはことごとく「はずれ」の返信ばかりで、ようやく「当たり!」が届いたのは、レースの頃にはとうに三十路を迎えているという1988年の第22回大会でした。
今度の目標は、前回往路までは楽にこなせたキロ4分半のペースで押し通し、2時間15分を切ること。さあ、気合入れて走るぞ!…という決意もむなしく、またもや本格的なトレーニングは年明けからの1か月半のみ。相も変わらず30kmを舐め切ったまま、レース当日を迎えてしまいました。今回は単身での出場。たまたま会社の先輩の自宅が河辺駅の近くだったので、そこをベースキャンプに利用させていただきながらの参加です。

前回の教訓を糧に、当日朝は先輩氏の奥様に餅をたくさん焼いていただき炭水化物を大量摂取。手にはブドウ糖の錠剤を握りしめてのスタートです。今度は騙されないぞ、とばかりに慎重に、軍畑の下りをゆっくり、そーっと駆け降ります。そして復路の軍畑に差し掛かっても、前回のように脚が止まることもなく、25kmでは目標に少し遅れるだけの好ペース。まだ余力もあり、これは最後ビルドアップすれば15分切りも夢じゃない、と勇んだところに思わぬ落とし穴が。
ご存知のように、青梅マラソンでは大会で用意した給水所以外に、地元住民の皆さんのご好意による「私設エイド」があちこちに出ています。その一つで何気なく、美味しそうなリンゴを一切れ貰ってモグモグと食べた途端、急に脇腹に強烈な痛みが起こりました。私はもともと脇腹痛を起こしやすいほうだったので、給水なども控え目に抑えながらレースを進めていたのですが、ここへ来てとてもまともに走れないほどの差し込みに悶絶!とうとう最後の5kmは26分以上もかかってしまい、ゴールタイムは2時間20分40秒。前回の記録を僅かに更新しただけに終わりました。(まあ、今の私からしますと、5kmを26分というのも夢のような速さなんですけど)

結局のところ、青梅を走ったのも、30kmというレースに出たのも、この2回だけ。2時間20分40秒が、私の30kmパーソナル・ベストになりました。
30歳での挑戦以降、私はプッツリと走ることを辞めてしまいました。多摩川の瀬音が心地よい青梅街道はクルマで何十回も行き来しましたが、それはその後に目覚めた趣味の「渓流釣り」に行くためでした。
そんな私も、50歳を過ぎて体力、特に脚力の衰えをひしひしと感じるようになって、ようやくまたランニングを再開しました。ここのところは少しやっては長期間サボり、の連続ですが、いつか、もう一度あの青梅街道を走れる日を迎えられたらいいな、と心の片隅で思ってはいます。

オニツカタイガーよ、永遠なれ



少し前のことになってしまいましたが、先週土曜日にTBSテレビで『ものづくり日本の奇跡 日の丸テクノロジーがオリンピックを変えた』という番組が放送されました。パーソナリティは安住紳一郎アナと綾瀬はるか、そしてビートたけし、ゲストはバドミントンのタカマツペアです。
最初のコーナーでは、陸上競技の長距離走に「革命」をもたらした、鬼塚喜八郎さんのエピソードが紹介されました。
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今では「asics(アシックス)」という社名で知られますが、私たちが現役の陸上部員だったン十年前の昔は、「オニツカタイガー」。当時すでに、アディダス、プーマ(いずれも西ドイツのメーカーで、それぞれの創業者は実の兄弟)と並んで「世界3大スポーツ・シューズ・メーカー」と呼ばれていました。
私たちが学校の部活動として陸上競技を始めるにあたって、先輩に学校指定のスポーツ用具店へ連れて行かれ、当然のように「これを買え」と言われたのが、オニツカタイガーのスパイクシューズとトレーニングシューズでした。まるで、陸上競技には他のメーカーが存在しないかのようでしたが、その前にちょっとだけサッカー部に在籍していた私は、サッカーでは同じようにアディダス一辺倒だったものですから、そんなもんかな、と妙に納得していました。
そのオニツカタイガーを敗戦後の裸一貫から創業し、世界のトップブランドへと育て上げたのが、鬼塚喜八郎さんです。

番組では、「すぐに足裏にマメができてしまうので、長い距離を走り込めない」という悩みを抱える若き長距離ランナー・君原健二さんに、「絶対にマメができないシューズを作る」と請け合って試行錯誤の末にこれを実現、君原選手の愛用シューズとなった「マジックランナー」というブランドの開発秘話をドラマ仕立てで紹介。(いかにドラマとはいえ、君原さんのイメージ違い過ぎです)
スタジオには、マジックランナーとともに前後して走りやすさを追求して開発され、円谷幸吉さんの愛用シューズとなった「マラップ」などが展示されていました。(円谷さんの伝記を見ると、彼が自身の“標語”としていた「青春は 汗と涙と マラップで」という川柳?があります)
マジックランナーのテーマだった「マメのできないシューズ」の最大の特徴は、シューズの内部にこもる熱を逃がすための細かい穴と「ベロ」の部分に施した細工。現代のシューズは素材そのものが通気性の高いトップ、衝撃を吸収するソールになっていますが、当時としてはまさに革命的なアイディアでした。

オニツカタイガーが、「たかがシューズ」にもたらした数々のアイディアは、今も至る所にその名残を見ることができます。代表的なものとして知られるのが、アシックス社のCIともなっている側面のラインです。
二股に分かれる流線形と交差する短い2本の直線…あのラインというのは、単なるブランド・マークではなく、シューズの形状を安定させ、しなやかな変化を実現するための重要な「パーツ」です。後年トップメーカーとなるNIKEをはじめ、プーマやミズノなど、多くのシューズのラインが共通した特徴を持っているのは、偶然ではないのです。1968年のメキシコシティ・オリンピックを見据えて開発されたこのオニツカのラインは当時「メキシコ・ライン」と呼ばれていました。
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下段が「マジックランナー」、中段が「マラップ」、上段が今と同じ「メキシコライン」のシューズ。(たぶん「マラソンソーティ」?)

私が現役陸上部員だった頃は、まあお金がないこともありまして、あまり使う機会のなかったスパイクシューズは最初に買った一品を最後まで使い倒しました。カンガルー皮革のトップに、着脱可能な6本ピンのもので、確か「ランスパーク」というブランド名だったと思います。私は試合にもほとんど出ることがないほどのトホホな中長距離要員でしたから、レースで1回だけ、6ミリの短ピンを付けて国立霞ヶ丘競技場を走ったことがあるくらいです。(もちろん、短距離の練習も同じシューズでやっていました)
トレーニングシューズのほうは、何足目かに当時のトップブランドだった「マラップ」を買い、その後ブランド名は忘れましたが最新鋭の真っ赤なマラソンシューズに買い替えたのですが、いくらも使わないうちに盗まれてしまい、悔しい思いをしたものです。普段の練習で履くトレーニングシューズと、ロードレースで履くマラソンシューズを分けて使う、などということも経済的な都合で考えられない時代でした。

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ちなみに、当時は「スニーカー」という言葉はまだありません。
運動などに関係なく普段履いているスポーツ用シューズは、バスケットシューズかテニスシューズが主流で、一般名称としては「運動靴」。私が成人するくらいの年代からファッション・アイテムとしての「スニーカー」が登場し、これで一気に業績を拡大したスポーツメーカーも少なくありませんでした。そうした中で、アシックス(ちょうどその頃に社名変更したと思います)のブランド・イメージは、タウン・スニーカーのデザインとしては少々そぐわないものだったかもしれません。

また、私が現役だった頃には「ジョギング」という言葉もありませんでした。
準備運動として行うゆったりとしたランニングや、長い距離をゆっくりと走るトレーニングは「ジョッグ」と呼んでいました。日本全国どこでもそうだったかは分かりませんが、ジョギングという言葉も、スニーカーと同じ頃に「ジョギング・シューズ」「ジョギング・パンツ」といったアイテムとともに登場したファッション用語だったように思います。
ですから、私と同じくらいかそれ以前に学校で陸上をやっていた人間は今でも「ジョッグ」と言い、それ以外の人たちは「ジョグ」と言う。陸上を専門にやった人であれば、伝統として「ジョッグ」という言い方が続いていたでしょうから、年代だけでは分かりませんけどね。たった「ッ」一つがあるかないかで、その人の陸上への関わり方が、少しは見えてしまうというのは確かです。

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陸上競技をする者が、唯一といっていいほど頼りとする用具、それがシューズです。
今では、オリンピックの陸上シーンを見ればわかるように、世界の趨勢はNIKEの圧倒的優勢。続いてボルトの登場で息を吹き返したプーマと、アディダス。日本人以外で日本のメーカーを利用している選手は、残念ながらあまり多くはありません。
もちろんそれは品質への評価云々よりも、営業やマーケティング、広報など、企業の総合的パワーの結果であり、日本の選手ですらご覧のように、契約メーカーは個々で異なります。
けれども、私は(今ではしがない市民ランナーのはしくれとなっておりますが)アシックスのシューズが好きですねえ!
特にロード・ランニングの分野で一時期は世界的にも圧倒的なシェアを誇っていたアシックスは、今でも最高品質の製品でランナーたちをサポートし続けている…そんな「アシックス信者」、もとい「オニツカタイガー信者」が多いのも、私たち古い世代の特徴なのかもしれませんね。 

 

時よとまれ、君は美しい



オリンピック・フィーバーにあやかってか、いまCS日本映画専門チャンネルでは、1972年ミュンヘン・オリンピックの記録映画である『時よとまれ、君は美しい/ミュンヘンの17日』を放送しています。
従来の記録映画とは趣を異にし、世界各国から選ばれた8人の著名な映像作家にテーマの選定から一任したショート・ムーヴィーを組み合わせたオムニバス作品になっていて、8人の中には記録映画『東京オリンピック』(これも絶賛放送中)を手掛けた市川崑氏や、1968年グルノーブル冬季オリンピックの記録映画『白い恋人たち』の監督クロード・ルルーシュ氏らも含まれています。

私はこの映画、公開を待ちきれないとばかりに陸上部仲間と一緒に劇場へ観に行った記憶があります。
その後、リバイバルされたりテレビで放送されることはまずなかったと思いますので、約43年ぶりの再見、ということになりますね。記憶に残っていたシーンはほとんどなくて、スローモーションで描かれた男子100m決勝(ここが市川監督の担当パート)で、1人の黒人選手が脚を傷めて止まってしまったシーンだけが微かに見た覚えがあるな、というくらいです。(ちなみにこの選手はトリニダードトバゴのヘイズリー・クロウフォード選手で、4年後のモントリオール大会の金メダリストです)
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男子100m決勝。“世紀の大遅刻”をやらかしたアメリカ選手は1人しか決勝に進めず、
優勝はワレリー・ボルゾフ(URS)


8人の監督が取り上げるテーマは、同じものが重ならないくらいの調整はされたのでしょうが、基本的には自由だったらしく、全編の半分以上が陸上競技のシーンで占められるというありがたい構成になっています。当時は、オリンピックといったら陸上競技、でしたからね。

「THE FASTEST」と題された市川監督のパートのほか、「THE HIGHEST」(アーサー・ペン監督)は男子棒高跳の熱戦を延々とこれまたスローモーションばかりで(どうも、今見るとこの手法は陳腐なところがありますね)、「THE DECATHLON」(ミロス・フォアマン監督)はその名のとおり十種競技を、「THE WOMAN」(ミヒャエル・フレガール監督)では何人かの女子選手を取り上げた中で女子走幅跳のハイデ・ローゼンダールとハイディ・シュラーの2大アイドル対決や16歳で女子走高跳に優勝したウルリケ・マイファルトを、さらにラスト・パートとしてマラソンの模様を描いた「THE LONGEST」(ジョン・シュレジンジャー監督)、といった具合です。

数多登場する選手たちの中で、いの一番で映画に顔を出すアスリートは、我らが君原健二選手。東京大会8位、メキシコシティ大会銀メダル、この大会でも5位入賞を果たすことになる、日本マラソン界のレジェンドです。今年のボストンマラソンに、1966年の優勝者として50年ぶりに招待され完走したことでも話題になりました。
以前「【短期集中連載】オリンピック回想」でも書きましたように、この大会の開会式での聖火点灯セレモニーは、地元西ドイツの無名のアスリートであるギュンター・ツァーン青年を最終点火者に、その後をアジア・アフリカ・オセアニア・アメリカの各大陸を代表する4人のランナーが付き従うようにしてトラックを走ったのです。その4人が、君原選手のほか、先のリオ五輪開会式で感動的なプレゼンテーションを行ったキプチョゲ・ケイノ(ケニアオリンピック委員会会長。メキシコシティ大会1500mおよびミュンヘン大会3000mSC金メダリスト)、世界初のマラソン・サブテン・ランナーのデレク・クレイトン(AUS)、そして最強のマイラーとして絶大な人気を誇ったジム・ライアン(USA)でした。
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ゲートから聖火入場。右から君原(眼鏡着用)、ツァーン、クレイトン、ケイノ。
(ライアンのみ映らず!)


ハイデ・ローゼンダールは「回想」でもご紹介しましたように、当時の西ドイツの、というより世界の陸上界のスーパーヒロイン。そして同じチームで練習していたハイディ・シュラーは開会式で女性アスリートとしては史上初の選手宣誓を務めた、こちらも人気の美人選手。2人が揃って決勝に進出した走幅跳では、ローゼンダールが国民の期待に応えてみごと金メダル、シュラーは5位でした。
ローゼンダールは五種競技でも銀メダルを獲得、さらに最終日に400mリレーのアンカーとして、スプリント女王のレナーテ・シュテッヘルをアンカーに擁する東ドイツとデッドヒートを繰り広げて金メダルのテープを切り、スタジアムを熱狂の渦に叩き込んだものですが、そのシーンは映画には出てきません。

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男子(当時女子はありません)棒高跳では、前回まで無敗の16連勝を続けてきていたアメリカの期待を一身に担って出場したボブ・シーグレンの表情がたっぷりと堪能できます。
メキシコシティ大会で5m40の同記録ながら東西ドイツの2選手を辛うじて振り切って金メダルに輝いたシーグレンは、自身の連覇と王国アメリカの17連勝を狙うこの年、5m63という当時としては破格の世界新記録を出していました。
ところが、シーグレンの使用していた最新鋭のカーボンファイバー樹脂製ポールがIAAFの認定を受けられず、世界記録も非公認、ミュンヘンには旧式のグラスファイバー・ポールでの出場を余儀なくされたのです。
その結果、シーグレンはメキシコ大会と同じ5m40を跳んだところまでで東ドイツのヴォルフガンク・ノルトウィヒに競り負け、さらにノルトウィヒに「公認」世界新記録の5m50を目の前で跳ばれてしまいました。
競技が終わった後、自分の使っていたポールを役員に差し出し、
「ほら、あんたらのお気に入りの旧式ポールだ。プレゼントするよ」
と皮肉を浴びせたシーンが、描かれています。
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「THE LONGEST」は、選手村を襲ったテロリズム事件のためにレースが1日延期になり、選手村で無聊をかこつ一人のイギリス人ランナーの視点で始まります。
彼、ロン・ヒルは、東京オリンピックにも出場し、1970年にはボストンマラソンをコースレコードで制したのに続いて、コモンウェルズ大会(英連邦大会)で史上2人目の2時間9分台で走ったことで、一躍有力な優勝候補の一人に挙げられるようになっていました。
この大会のマラソンは群雄割拠の様相を呈し、「大本命」には過去2度にわたってサブテンを達成しているデレク・クレイトン、続いて前回メキシコシティの覇者マモ・ウォルデ(ETH)、70年に「世界基準」の2時間10分台に到達していた宇佐美彰朗、そしてヒルらの名前が挙がっており、また日本では前年の福岡に突然現れて宇佐美を破ったフランク・ショーターへの警戒が高まっていました。

ヒルは、東京大会で円谷幸吉と激しいメダル争いを繰り広げたベージル・ヒートリーやブライアン・キルビーといった英国勢の中では目立たない存在でしたが、30歳を過ぎたころから急速に頭角を顕し、当時としては画期的だったメッシュのシャツやサイドスリットが大きく割れたランパンなどの斬新な暑さ対策の出で立ちが少々下品なものと見なされたりして、何かと話題になっていたのを覚えています。


レースは15㎞手前から我が道を行くという感じで集団から抜け出したショーターの独走劇となり、そのまま悠然とゴールまでの独り旅を続けました。2位にカレル・リスモン(BEL)、3位にマモ。序盤で一時先頭にも立った様子が映画の1シーンになっている宇佐美はその後調子が上がらず、後方集団から追い上げた君原が5位に食い込む健闘で、見事に連続入賞を果たしました。当時の感覚で言うと31歳の君原は「盛りを過ぎた大ベテラン」でしたが、3位のマモは36歳、君原に追い抜かれながらも懸命に踏みとどまって同僚ドナルド・マグレガーとの入賞争い(当時は入賞は6位まで)を制したヒルは、34歳でした。

エース宇佐美は結局12位。クレイトンは13位で、メキシコでの7位に続いて遂にオリンピックで栄光の「五大陸代表」の実力を発揮することはできませんでした。
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 5位の君原を追うヒルとマグレガー

映画『時よとまれ、君は美しい』は、私的には作品としてはちょっとどうかな?と思わされるところがありますが、残っている映像資料の少ないミュンヘン大会の雰囲気を、特に陸上競技の様子を知るには貴重なものだと思います。今月5日・17時をはじめ、何度か再放送予定がありますので、未見の陸上ファンには必見ということでご案内する次第です。


【短期集中連載】オリンピック回想 ⑩~2000年シドニー大会



さて、オリンピック始まっちゃいましたね。
当初は前回ロンドン大会の分まで、この【連載】を書き切るつもりでいたんですが、陸上競技以外も寝る暇を惜しんでTV観戦する私としては、そっちに時間を割かねばならないということで、まあちょうど10回目、2000年と区切りのいいところで、今回を「最終回」にさせていただきたく。
それ以降の大会については、比較的最近のこととてご覧になっている方も多いことでしょうし。

2000年の初秋(現地では早春)に行われたシドニー・オリンピックは、我がニッポン陸上界にとって悲願だった戦後初の金メダリストが誕生した、記念すべき大会となりました。
しかもそれは、「死ぬまでに一度は見たい」と思っていたマラソンでの日本人優勝。すでに世界選手権では、男子の谷口浩美、女子の浅利純子と鈴木博美という金メダルの瞬間を見てきて、「心の準備」は整っていたつもりでしたが、オリンピックで、「優勝候補筆頭」という万人の期待を受けた中で達成されたこの快挙の瞬間ほど、感慨深かったことはありません。
高橋尚子さん、万歳!(あんまりパチンコにのめり込まないようにしてください…)

◆各種目の金メダリストと日本選手の成績
<男子>
 100m モーリス・グリーン(USA) 9"87 ※伊東浩司:準決勝 川畑伸吾:2次予選 小島茂之:1次予選
 200m  コンスタンティノス・ケンデリス(GRE) 20"09 ※伊東浩司・末續慎吾:準決勝
 400m マイケル・ジョンソン(USA) 43"84 ※小坂田淳:2次予選 山村貴彦・田端健児:1次予選
 800m ニルス・シューマン(GER) 1'45"08
 1500m ノア・ヌゲニ(KEN) 3'32"07(OR)
 5000m ミリオン・ウォルデ(ETH) 13'35"49 ※高岡寿成:15位 花田勝彦:予選
  10000m ハイレ・ゲブルセラシエ(ETH) 27'18"20
※高岡寿成:7位 花田勝彦:15位
 110mH アニエル・ガルシア(CUB) 13"00 ※谷川聡:2次予選
 400mH アンジェロ・テイラー(USA) 47"50 ※山崎一彦・河村英昭・為末大:予選
 3000mSC ルーベン・コスゲイ(KEN) 8'21"43
 4×100mR アメリカ 37"61 ※日本(小島・伊東・末續・朝原宣治):6位
 4×400mR ナイジェリア 2'58"68 ※日本:準決勝
 マラソン ゲザハン・アベラ(ETH) 2:10'11" 
川嶋伸次:21位 佐藤信之:41位 犬伏孝行:DNF
 20kmW
ロベルト・コルゼニオウスキー(POL) 1:18'59"(OR) ※栁澤哲:22位 池島大介:27位
 50kmW
ロベルト・コルゼニオウスキー(POL) 3:42'22" ※今村文男:36位 小池昭彦:DQ
 HJ セルゲイ・クリュギン(RUS) 2m35 ※吉田孝久:予選
 PV ニック・ハイソング(USA) 5m90 ※横山学:予選
 LJ イヴァン・ペドロソ(CUB) 8m55 ※森長正樹・渡辺大輔:予選
 TJ ジョナサン・エドワーズ(GBR) 17m71 ※杉林孝法:予選
 SP アルシ・ハリュ(FIN) 21m29
 DT ウィルギリウス・アレクナ(LTU) 69m30
 HT シモン・ジオウコウスキー(POL) 80m02 ※室伏広治:9位
 JT ヤン・ゼレズニー(CZE) 90m17(OR)
 DEC エルキ・ノール(EST) 8642p.
 

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<女子>

 100m なし(1位・2位選手のドーピング失格および疑惑により)
 200m  ポーリン・デーヴィス-トンプソン(BAH) 22"27
 400m キャシー・フリーマン(AUS) 49"11
 800m マリア・ムトラ(MOZ)  1'56"15
 1500m ヌリア・メラー-ベニダ(ALG)  4'05"10
 5000m ガブリエラ・サボー(ROU) 14'40"79(OR)※志水見千子・田中めぐみ・市川良子:予選
  10000m デラルツ・ツル(ETH) 30'17"49(OR) ※川上優子:10位 高橋千恵美:15位 弘山晴美:20位

 100mH オルガ・シシギナ(KAZ) 12"65 ※金沢イボンヌ:準決勝
 400mH イリーナ・プリヴァロワ(RUS) 53"02
 4×100mR バハマ 41"95
 4×400mR アメリカ 3'22"62
 マラソン 高橋尚子(JPN)  2:23'14"(OR) ※山口衛里:7位 市橋有里:15位
 20kmW ワン・リーピン(CHN)  1:29'05"(10kmWから変更)

 HJ エレーナ・エレシナ(RUS)  2m01 ※太田陽子:11位 今井美希:予選
 PV ステーシー・ドラギラ(USA) 4m60(新種目)
 LJ ハイケ・ドレクスラー(GER)  6m99
 TJ テレザ・マリノワ(BUL) 15m20
 SP ヤニナ・コロルチク(BLR) 20m56
 DT エリナ・ズヴェレワ(BLR) 68m40
 HT カミラ・スコリモウスカ(POL) 71m16(新種目)

 JT トリーネ・ハッテスタット(NOR) 68m91(規格変更)
 HEP デニス・ルイス(GBR)  6584p.(JT規格変更)


◆残念なドーピング事件

全般にアメリカ・ロシアの金メダル数争いという様相はすっかりなくなり、ギリシャ、リトアニア、エストニア、バハマ、モザンビーク、アルジェリア、カザフスタン、ベラルーシ、ノルウェー、中国そして日本といった、世界のさまざまな国々の選手が優勝者リストに名を連ねる大会となりました。

地元のヒロインとして聖火点灯者にもなったキャシー・フリーマンやマイケル・ジョンソンを除いては格別に熱狂的支持を受けた選手も少なかった中、花形選手の一人だったマリオン・ジョーンズが大会後7年を経過してから自らの薬物使用を告白し、2008年に至って現役時代のすべての記録が抹消、この大会の100mで2位以下に0.37秒もの大差をつけて勝ち得た金メダルも没収されてしまいました。
また、2位のエカテリニ・タヌー(GRE)も再検査に応じないまま時間が経過し、結局女子100mは「優勝者なし」という前代未聞の結果が公式記録として残ることになりました。(レースで2位のタヌーと3位のタイナ・ローレンス=JAMが銀メダル、4位のマリーン・オッティ=JAMが銅メダルの扱い)

1997年のアテネ世界選手権に颯爽とデビューしたマリオンは、この大会から日本での中継権を得たTBSの「目玉選手」の一人としてプッシュされ、グリフィス-ジョイナーの世界記録に迫る10秒65で走るなどしてメダルを量産し、大いにその期待に応える存在だったのですが、先に世界選手権での金メダルを剥奪された前夫のC.J.ハンター(砲丸投)とともに、ドーピングにどっぷりと浸かった虚飾のアスリートだったことが白日のもとに晒されたわけです。

なお、この大会では男子4×400mリレーでも1着のアメリカがメンバーのドーピングにより8年後に優勝を取り消され、マリオンがメンバーとなっていた女子の両リレーについても審議がなされました。(女子両リレーについては現況、成績の剥奪はされていません)
ベン・ジョンソンの失格から12年、スポーツの世界ではこの当時にツール・ド・フランスを7連覇(1999年~2005年)していたランス・アームストロング(USA)に代表されるように、収まることのないドーピング指向と検査・摘発機関とのいたちごっこが激しく再燃し始めた時期だったと言えるでしょう。


◆男子短距離陣奮闘及ばず
2年前のアジア大会で100m10秒00、200m20秒16というアジア・レコード保持者になっていた伊東浩司に決勝進出の期待がありましたが、このシーズンやや精彩を欠いていた伊東は両種目とも準決勝どまりに終わりました。
それでも、若手ホープの末續慎吾が200mでともに準決勝に進出し、100m個人種目に出場した川畑慎吾・小島茂之に“切り札”の朝原宣治を加えた400mリレーには大きな期待が集まりました。残念ながら2走・3走を務めた伊東・末續に連戦の疲労が甚だしく6位に終わった日本チームは、翌シーズンから「アンダーハンド・バトンパスの習得」という新たなテーマへの取り組みを開始し、悲願のメダルへ向けての道のりを歩んでいきます。

一方のマイルリレーでは、予選を1着通過しながら準決勝でバトンを落とす痛恨のミスで敗退。高野進の跡を継いで日本チームのリーダーを務めてきた苅部俊二は、次の世代へ夢を託すことになりました。

オリンピックの常連となった感のある男子400mHでは、世界選手権ではその後、為末大によって2つの銅メダルがもたらされることになるのですが、オリンピックではどうしても「準決勝の壁」が破れずにいます。今季ランク上位に位置する野澤啓佑の、リオでの活躍が期待されます。

トラック長距離では、男子の高岡寿成が10000mに7位入賞を果たし、5000mでも予選を突破する大殊勲を挙げました。10000m決勝の前日に30歳になっていた高岡は、これでトラックでやり残したことはないと以後はマラソンへの挑戦を試み、一時期3000mからマラソンまでの日本記録を独占することになります。アテネ大会の選考会で、2時間7分台で走りながら終盤の競り合いに敗れてマラソン代表の座を逃したのは、残念でした。
これ以後、男子トラック長距離はまったく成績が振るいません。こちらも、海外チーム在籍という新機軸に挑んだ大迫傑らの若い力に期待したいものです。

【短期集中連載】オリンピック回想 ⑨~1996年アトランタ大会



第1回アテネ大会以来100周年―「オリンピック・センテニアル」を謳った大会の開会式では、かつての各大会を象徴するヒーロー・ヒロインたちが1名ずつ登壇するという演出がありました。しかしながら開会式最大のヒーローは、病をおして聖火点灯者の大任を果たした「20世紀のザ・グレーテスト・オブ・アスリート」モハメド・アリだったでしょう。
なお開会式は前回のバルセロナで初めて夜間に行われたのですが、このアトランタ以降も踏襲され、ライティングやレーザー、炎、映像を駆使した大規模な演出が投入されるようになりました。とともに、長時間化による選手のコンディションへの影響や経費の高騰が問題となっていきます。

陸上競技では、世界的には何といってもマイケル・ジョンソン(USA)の異次元の走りやカール・ルイスの走幅跳4連覇が、そして日本選手の中では2大会連続メダルの有森裕子選手がクローズアップされ、大会後に刊行されたグラフィック誌のほとんどで表紙を飾りました。

有森選手の活躍についてはすでに別稿で振り返っていますので、今回は割愛しますが、その女子マラソンでもう一つの話題になったのが、陸上競技では史上初となる女性実況アナウンサーの起用です。
担当したテレビ朝日・宮嶋泰子アナウンサーは、通常の男性アナではとても太刀打ちできないほどに陸上競技に精通した方で、私個人の意見としては既に亡くなっていたTBS・石井智アナと双璧だったと思っています。
東京国際女子マラソンのメイン実況などを経て晴れの実況席に大抜擢され、淀みのないソフトな語り口は非常に良かったと思っているのですが、世間一般にはあまり評判がよろしくなかったらしいです。

私が記憶するオリンピックの女性実況アナは、宮嶋アナの他は1972年札幌冬季大会で女子フィギュアスケートを担当した方のみで、その後も現れていません。
昨今、女子アナと言えば番組のマスコット的役割に特化されて、負担の少ないインタヴュアーなどを任されてもあからさまな勉強不足でスポーツファンをシラケさせるという場面ばかりです。各界における女性の進出は今や当たり前のことなのに、スポーツ実況の分野ではまったく時代遅れの状況にあるのが、たいへん残念だと思っています。

◆各種目の金メダリストと日本選手の成績
<男子>
 100m ドノヴァン・ベイリー(CAN) 9"84(WR) ※朝原宣治:準決勝 土江寛裕:1次予選
 200m  マイケル・ジョンソン(USA) 19"32(WR) ※伊東浩司:準決勝 馬塚貴弘:1次予選
 400m マイケル・ジョンソン(USA) 43"49(OR) ※大森盛一:予選
 800m ヴェービョルン・ロダル(NOR) 1'42"58(OR)
 1500m ヌールディン・モルセリ(ALG)3'35"78
 5000m ヴェヌステ・ニョンガボ(BDI) 13'07"96
  10000m ハイレ・ゲブレセラシエ(ETH)27'07"34(OR) 
※高岡寿成・花田勝彦:予選 渡辺康幸:DNS
 110mH アレン・ジョンソン(USA) 12"95(OR)
 400mH デリック・アドキンス(USA) 47"54 ※苅部俊二・山崎一彦・河村英昭:予選
 3000mSC ジョセフ・ケテル(KEN) 8'07"12
 4×100mR カナダ 37"69 ※日本:予選DQ
 4×400mR アメリカ 2'55"99 ※日本(苅部・伊東・小坂田淳・大森):5位NR
 マラソン ジョサイア・チュグワネ(RSA)2:12'36" 
谷口浩美:19位 大家正喜:54位 実井謙二郎:93位
 20kmW ジェファーソン・ペレス(ECU) 1:20'07 ※池島大介:22位
 50kmW ロベルト・コルゼニオウスキー(POL) 3:43'30" ※小坂忠弘:29位
 HJ チャールズ・オースティン(USA) 2m39(OR) ※野村智宏:予選
 PV ジャン・ガルフィオン(FRA) 5m92(OR) ※米倉照恭:予選
 LJ カール・ルイス(USA) 8m50 ※朝原宣治:予選
 TJ ケニー・ハリソン(USA) 18m09(OR)
 SP ランディ・バーンズ(USA) 21m62
 DT ラルス・リーデル(GER) 69m40
 HT バラス・キシュ(HUN) 81m24
 JT ヤン・ゼレズニー(CZS) 88m16
 DEC ダン・オブライエン(USA) 8824p.
 
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<女子>

 100m ゲイル・ディヴァース(USA) 10"94
 200m  マリー-ジョゼ・ペレク(FRA) 22"12
 400m マリー-ジョゼ・ペレク(FRA) 48"25(OR)
 800m スヴェトラナ・マステルコワ(RUS) 1'57"73
 1500m スヴェトラナ・マステルコワ(RUS) 4'00"83
 5000m ワン・ジュンシャ(CHN) 14'59"88(3000mから変更)※志水見千子:4位入賞 弘山晴美・市川良子:予選
  10000m フェルナンダ・リベイロ(POR)31'01"63(OR) ※千葉真子:5位 川上優子:7位 鈴木博美:16位

 100mH リュドミラ・エンクィスト(SWE) 12"58 ※金沢イボンヌ:1次予選
 400mH ディオン・ヘミングス(JAM) 52"82(OR)
 4×100mR アメリカ 41"95
 4×400mR アメリカ 3'20"91
 マラソン ファツマ・ロバ(ETH)  2:26'05" ※有森裕子:銅メダル 真木和:12位 浅利純子:17位
 10kmW エレーナ・ニコライエワ(RUS) 41'49"(OR) ※三森由佳:DQ

 HJ ステフカ・コスタディノワ(BUL) 2m05(OR)
 LJ チオマ・アジュンワ(NGR)  7m12
 TJ イネッサ・クラヴェツ(UKR) 15m33(新種目)
 SP アストリト・クンバーヌス(GER) 20m56
 DT イルケ・ヴィルダ(GER) 69m66
 JT ヘリ・ランタネン(FIN) 67m94 ※宮島秋子:予選
 HEP ガーダ・シュアー(SYR) 6780p. 


◆M.ジョンソンの“異次元の記録”

エディ・マーフィー似の風貌で、長身ながらスラリと脚が長いわけではなく、重心の低いどちらかと言えば見栄えのよくないピッチ走法で走るマイケル・ジョンソンは、この大会で200mに19秒32、99年の世界選手権では400mに43秒18という世界記録を樹立しました。特に200mの記録は、それまでの自己の記録を0.34秒も破るもので、2位のフランキー・フレデリクス(NAM)も歴代2位の19秒68だったのですが、圧倒的な大差をつけてゴールしました。
私は、80年代に東欧諸国の選手たちによって残された“灰色の”世界記録を別にすれば、この200m19秒32は最も永くレコード・ブックに残る「異次元の記録」だという感想を持ったものです。まさか、わずか12年後の大会で破る人間が出てこようとは、まったく思えなかったのです。
とにかく、この時点でのM.ジョンソンは、カール・ルイスにも比肩する陸上界の“ザ・グレーテスト”であったことは間違いありません。

もう一人、“異次元”の高みにあった選手が、女子走高跳に優勝したステフカ・コスタディノワです。
87年ローマ世界選手権で2m09の世界新記録を出してから、9年の時を経てようやくオリンピックの頂点に立ったのがこの大会でした。近年ようやくブランカ・ブラシッチやアンナ・チチェロワなどが「あと僅か」のところまで迫る記録を跳んでいるものの、それまでは世界歴代パフォーマンスのトップ10はほとんどコスタディノワの記録で占められていました。そして、“異次元の世界記録”は、いまだ燦然と輝いています。

◆走るファッションモデル
女子のスーパースターは、短距離2冠、400m連覇を果たしたマリー-ジョゼ・ペレク。開会式ではフランス選手団の旗手を務め、モデルのような颯爽としたいでたちが鮮烈に記憶に残っています。
400mでは次の大会のヒロインとなるキャシー・フリーマン(AUS)を、200mではマリーン・オッティ(JAM)をねじ伏せるかのような勝ちっぷりとともに、その“たたずまい”の美しさがひときわ輝いていた名選手でした。


◆日本選手健闘
男子短距離シーンには、朝原宣治・伊東浩司という2大エースが現れ、100と200でそれぞれ準決勝進出を果たしました。
朝原はこの頃、走幅跳との「二刀流」でしたね。学生時代に8m13というPBを出して、むしろこちらで先に注目を集めていたものです。前年の世界選手権ではマイク・パウエルとただ2人だけ、「一発で予選記録クリア」を果たして決勝に進出しています。
この大会の100mでは、わずかの差で準決勝5着でした。日本の男子100mが、戦後最もファイナリストに近づいたレースだったでしょう。
伊東はこの大会の2年後に、アジア大会で100と200にアジア記録、特に100mでは場内の速報掲示板に「9.99」の文字を表示させ、日本の陸上界を興奮の坩堝に叩き込んだ準決勝のレースがありました。(正式タイムは10秒00)

その伊東が助っ人参加した男子マイルリレーでは、前回までの大黒柱・高野進が抜けたにも関わらず、現在も残る日本記録3分00秒76というタイムで5位に食い込みました。ヨンケイのほうはバトンミスで失格してしまったとはいえ、いよいよ日本のリレー戦略が本格化してきた大会です。

女子の健闘もなかなかで、マラソン以外でも長距離2種目では3人の選手が入賞を果たしました。
10000m5位の千葉真子は翌年のアテネ世界選手権で銅メダルを獲得し、途中ブランクを経て2003年の世界選手権ではマラソンで銅メダルという、女子選手では唯一の複数種目メダル獲得者になりました。
女子の長距離は現在でも好選手が次々に現れますが、この当時のレヴェルは素晴らしいものがあり、弘山晴美、鈴木博美、千葉、川上優子らがバトルを繰り広げた97年日本選手権の10000m決勝などは、陸上史に残る名勝負だったと思っています。

 
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