『第51回青梅マラソン』は、一般参加のチェポティピン・エゼキエル(東邦リファイン)が1時間30分49秒で優勝。ギザエ・マイケル(スズキ浜松AC)が2位に続き、注目の神野大地(コニカミノルタ)は1時間31分33秒で、昨年覇者の押川裕貴(トヨタ自動車九州)を振り切って日本人1位(総合3位)は辛うじて確保しました。狭くアップダウンの多い青梅街道に1万人以上がひしめくこのコースは記録が出にくいことで知られるとはいえ、2週前の『香川丸亀国際ハーフマラソン』に比べると少々物足りないタイム、ということになりそうです。
女子は期待の鷲見梓沙(ユニバーサルエンターテインメント)が5kmを過ぎて途中棄権。『選抜女子駅伝北九州大会』でアンカー逆転劇を演じた走りはどうやら本物ではなかった模様で、故障再発が懸念されます。
先週の『全日本実業団ハーフマラソン』を見事なスパートで快勝した宇都宮亜依(宮崎銀行)の双子の妹・亜未(キヤノンAC九州)が1時間46分24秒で優勝。エリートランナーは鷲見と2人だけの出場だったため当然の結果ですが、またまた楽しみな双生児ランナーが出てきたという感じですね。
なお、同日に行われたこれまた伝統の大会・熊日30kmロードレースでは、上野裕一郎(DeNA)が1時間30分17秒の好タイムで2位以下を1分以上ぶっちぎり。もちろん一概には比較できませんが、遠く離れた場所で走った神野に「勝った!」と言える内容だったようです。
高校時代から将来を嘱望された上野も30歳を過ぎ、「箱根黄金世代」の数少ない生き残りという立場。しかしこの1年ほどの充実ぶりには目を瞠るものがあります。マラソンへの再挑戦に、期待しましょう。
■36年前の『青梅』
私が『青梅マラソン』に出場したのは、1981年の第15回大会。大学卒業を目前に控えてのいわば「記念行事」といったノリでの参加でした。
今でこそシーズンともなると、同じ日曜日に全国で何十という市民ロードレースが開催されていますけど、当時は一般ランナーが気軽に出られる大会などほとんどなくて、あっても多くはフルマラソン大会。スチャラカ陸上部員だった高校生の頃にも10km以上走ったことなどまずない私らにとって、それは少し荷が重い、ということで、中学から高校までの陸上部仲間であり大学でも同じサークルで過ごした親友のY君(専門は短距離・走幅跳)とともに、「卒業記念」としての青梅完走を目指すことになりました。
当時「日本一の市民レース」を標榜していただけあって、往復はがきでの参加申し込みは確か 1日か2日で定員(30kmの部は10000名)到達。私たちは申し込み受付開始日の前日に速達ではがきを出したので事無く出場が叶いましたが、その翌年あたりからは今の東京マラソンなどと同じように抽選方式になったはずです。それほどに、市民ランナーの人気を一手に担うという大会でした。
当時、参加者が10000人にも及ぶという大会は、他にありません。
その青梅マラソンが、「世界で初めて採用した」という自慢の装置が、ビデオによる順位・タイム判定機器です。つまり、ゴールインするランナーの映像を後から解析して、全完走者の着順とタイムを判定していく、というものです。このため、参加申し込み後に送られてきた書類の注意事項には、「ゴールの際には両手を下げて、ゼッケンが映るようにしなさい」てなことが書かれていました。
まあ時間も人件費も半端なくかかったんじゃないかとは思いますけど、10000人規模のレースの着順・タイムを判定するのに、当時としては最新鋭の技術だったんですね。こんにちの市民レース全盛は、その後に開発されたランナーズチップの普及なくしてはあり得ないものだった、ということがよく分かります。
青梅マラソンがランナーズチップを採用するのは、2000年の第34回大会からです。
■あのレジェンドが緊急参戦!
1967年の第1回大会には東京オリンピックの銅メダリスト・円谷幸吉さん(翌年自殺)が出場したのをはじめ、その後も宇佐美彰朗さん、澤木啓祐さん、山田敬蔵さん、海外からはゴーマン美智子さんやビル・ロジャースさんなど、錚々たるトップランナーも駆け抜けた、今ならIAAFゴールド・レーベル級の大会。
そして、私たちが出場した第15回大会には、前年のモスクワ五輪銀メダリストのヘラルド・ナイブール(オランダ)が招待され、ミュンヘン五輪代表の采谷義秋さんも、すでに全盛期は過ぎていたとはいえ当時のマラソン・ファンにとっては憧れのスター選手の一人として出場してきました。
さらに驚いたことには、大会前日になって、あの瀬古利彦さんが緊急参戦するとの発表!
瀬古さんは私たちよりも1つ年長で、この時は前年に早稲田を卒業してヱスビー食品入社一年目の24歳。モスクワには不運にも出られなかったとはいえ、福岡国際マラソンでそのモスクワ優勝者(前回のモントリオール大会から2連覇)のワルデマール・チェルピンスキー(東ドイツ)を一蹴して3連覇を達成したばかり。この年の春に出場予定のボストン・マラソンへ向けての調整レースとして、実業団ロード(当時はハーフではなく30km)でも熊日でもなく、青梅のタフなコースを選んだのでした。(2か月後のボストンでは当時「世界最強」と言われたビル・ロジャースを破って優勝)
距離こそ30kmですが、ここでナイブールを破ればモスクワの金・銀を連破したことになって、いよいよ「事実上世界一」の称号が近付くことになります。
そんな瀬古選手と同じレース、同じコースを走る!…自宅が遠い(茨城ですから)ためにY君宅に泊まり込んで早めに布団に潜り込みながら、ほとんど一睡もできないほどに心は騒ぎ立っていました。
■“世界の瀬古”とすれ違った!
いよいよレース当日。寝不足もいいところなのに、不思議と眠気もなく身体は軽く感じます。
Y君と数日前に買い揃えたランシャツ、ランパン、シューズ(アシックスの「マラソン・ソーティ」)に身を包み、1万人の群衆の中の一人となって、遥か前方のスタートラインで鳴らされる号砲の音も聞こえないまま、周囲がワサワサっと動き出すのに合わせてスタート。後で知ったのですが、この頃の青梅では危険防止のために「ローリングスタート」方式をとっていて、先頭のランナーたちから順に合図を受けてゆっくりとスタートラインに向かって歩き出した上で、ピストルが撃たれていたのだそうです。
すぐに気付いたのは、スタート付近の街角の電柱に、どれも大きな布団が巻き付けられていたこと。ひしめき合うランナーがぶつかって怪我をしないようにとの、地元住民の方々の温かい心遣いでした。
当時、専門に陸上をやっていたわけでもない私は、キロあたり5分前後のペースで5kmから10kmくらいを走るという、ただそれだけの練習を、しかもその年が明けてからようやく毎日やっていただけでした。
実は、当時の青梅マラソンには、「30kmで2時間30分以内」というタイム制限が設けられていました。今思えば市民ランナーにとっては相当に高いハードルのタイムです。つまりはキロ平均で5分以内。スタートでのロス(この時は2分10秒ほどありました)を考えれば、それ以上に速いペースで行かなければなりません。とりあえずは、キロ5分で何事もなく5km、10kmを走っておけば、後はどうにかなるだろうと、その程度の考えでレースに臨んでいたわけです。大会の数日前には15㎞を1時間13分ほどで走って余裕がありましたから、自信はそこそこあったんですね。
ところが、最初の5kmを通過した時に時計を見ると、長丁場に備えて楽に走っているつもりなのにキロあたりのペースは4分半ほど。これには驚きました。いざレース本番となった時のアドレナリンと、人の壁による空気抵抗の軽減によるんでしょうかねえ、とにかくきわめて快調に走り始めたわけです。
コースは、ゴール付近を除けば片側1車線の青梅街道をひたすら走り、15㎞付近の川井という所で折り返す1本道の往復コースです。全般に往路は登り勾配になる中で、7~8kmの軍畑(いくさばた)というあたりにかかると、かなり急な下り坂があります。ここで調子に乗ってさらにペースが上がり、5kmラップは21分台に跳ね上がりました。後で思えばこれが命取り、帰りの同じ場所で、壁のように立ちはだかる登りにパッタリと脚が止まってしまうことになります。
それはともかく10kmを過ぎてほどなく、11.5kmくらいの地点だったでしょうか、前のほうが何やらザワついてきたなと思うと、白バイのパトランプがまず視界に飛び込んできて、それに導かれる鮮やかなカナディアン・レッドのユニフォームが、まさに風のようにこちらへ向かってすっ飛んできます。
瀬古選手でした。
狭い街道の左側を立錐の余地もないほどにひしめき合っている一般ランナーたちが、次々にセンターライン際に寄り、中にはラインをはみ出す者もいて、瀬古選手に声援を送り、拳を振ってミーハーな応援を繰り出していきます。私も思わず、「セコ、負けるなよ!」とか何とか、叫んでおりました。
ところで瀬古選手とすれ違ったのが11.5km付近…ということは、この時点で私は約7kmも離されていたわけです。「世界の走り」を同じ空気の中で体感するという、得難い経験をさせていただきました。
この大会での瀬古選手は「オープン参加」の扱いで、そのままぶっちぎりのトップでゴールインしたのですが、記録上の優勝者はナイブールで1時間32分34秒。瀬古のタイムは1時間29分32秒。オリンピック銀メダリストに、30kmで実に1㎞もの差をつけての圧勝でした。この記録は「大会記録」として扱われることはありませんでしたが、いまだに青梅マラソンの「コース・レコード」として、36年経った現在でも破られていません。
■市民レース初体験の結果は?
瀬古選手がゴールした頃、私はといえばたぶん20kmに達していたかどうか。その直後に待ち構えていた軍畑の登りに完全KOされ、女性ランナーにも次々と抜かれていく始末でした。曇り空の寒い日でしたが、ラスト5kmあたりからは身体が熱を発しなくなり、走っていながら寒さに震えるという後にも先にも経験したことのない状態を味わいました。完全なエネルギー切れです。
それまでのレースや練習での経験なら、「ラスト1㎞」の標識が見えれば再び元気が出ても良さそうなところ、まったく脚が上がらない状態のまま、這うようにしてゴールイン。
それでも前半の貯金がモノを言って、タイムは何とか制限時間をクリアして2時間21分21秒。順位は3000位を少し超えるあたりでした。陸上の現役を離れて数年、たった1か月半のトレーニングで未知の距離に挑んだにしては、上々の結果だったと言えるでしょう。ま、若かった、の一言に尽きますね。
何よりも、あの瀬古選手とレースを共有できたこと、長距離ランナーが必ず味わう苦しみや心境の一端を垣間見る経験ができたことは、私にとって大きな財産となりました。まだレース経験のある市民ランナー自体が現在の十分の一もいないような時代でしたから、「30kmのレースに出た」というような一般人はちょっと珍しがられて、しばらくは話のネタが尽きませんでしたしね。
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■隔世の感、あれこれ
当時はもちろん、ゴールしてすぐに綺麗なデザインでプリントアウトされた記録証を渡される、なんてことはありません。前述のような「ビデオ判定装置」による膨大な事後作業があって、1カ月ほどしてハガキの裏面に印字された「あなたの成績」なるものが郵送されてきて、それを予め配布されていた台紙に糊でペタリと貼り付けると、立派な記録証の出来上がり、というものでした。
ちなみに、一緒に走ったY君は、もともとスプリンターですから制限時間内での完走などはハナから望むべくもなく、約3時間半かかってのゴールでしたが、それでも途中でゲートアウトされるようなこともなく、成績表もちゃんと送られてきました。どうやら「2時間30分以内」というのは、多すぎる参加希望者に少しでも歯止めをかけるための、単なる“脅し”だったらしいです。
もう一つ。レース後しばらくして、大会関係だという見知らぬ会社から送られてきた郵便物がありました。中を見ると、レース中のランナーを写したベタ焼き写真(フィルムサイズのままプリントした小さな見本写真)が同封されており、「あなたが写っている写真があります。大きいサイズをご希望ならば、1枚いくらで…」といったご案内が。
当時は「ゼッケン」と呼んでいたナンバーカードから個人を割り出して、写真を売りつけるという商売が、そんな昔からあったんですね。とうぜん、そうした個人情報を得るためには大会本部に承認された会社でなければなりませんから、さほどあこぎな商売をしていたわけでもないでしょうが、それにしても世の中には頭のいい奴がいるもんだな、と感心しました。オールスポーツさんあたりも、もとはこうしたところから現在の地位を築き上げたのかもしれませんね。
肝心の写真のほうは、ナンバーの一部が隠れていて残念ながら「人違い」。私が自分の“雄姿”をキャビネサイズで手に入れるのは、7年後に出場した第22回大会でのことになります。
■三十路での再挑戦
その後、社会人となった私はますますランニングからは縁遠くなっていきますが、まだまだ若者意識はたけなわで、仕事の合間を縫うようにテニスにサッカーにスキーに、と身体をなまらさない程度のスポーツにはせっせと参加していました。
青梅には何とかもう一度出てみたいとは思いながら、何度か応募した往復ハガキはことごとく「はずれ」の返信ばかりで、ようやく「当たり!」が届いたのは、レースの頃にはとうに三十路を迎えているという1988年の第22回大会でした。
今度の目標は、前回往路までは楽にこなせたキロ4分半のペースで押し通し、2時間15分を切ること。さあ、気合入れて走るぞ!…という決意もむなしく、またもや本格的なトレーニングは年明けからの1か月半のみ。相も変わらず30kmを舐め切ったまま、レース当日を迎えてしまいました。今回は単身での出場。たまたま会社の先輩の自宅が河辺駅の近くだったので、そこをベースキャンプに利用させていただきながらの参加です。
前回の教訓を糧に、当日朝は先輩氏の奥様に餅をたくさん焼いていただき炭水化物を大量摂取。手にはブドウ糖の錠剤を握りしめてのスタートです。今度は騙されないぞ、とばかりに慎重に、軍畑の下りをゆっくり、そーっと駆け降ります。そして復路の軍畑に差し掛かっても、前回のように脚が止まることもなく、25kmでは目標に少し遅れるだけの好ペース。まだ余力もあり、これは最後ビルドアップすれば15分切りも夢じゃない、と勇んだところに思わぬ落とし穴が。
ご存知のように、青梅マラソンでは大会で用意した給水所以外に、地元住民の皆さんのご好意による「私設エイド」があちこちに出ています。その一つで何気なく、美味しそうなリンゴを一切れ貰ってモグモグと食べた途端、急に脇腹に強烈な痛みが起こりました。私はもともと脇腹痛を起こしやすいほうだったので、給水なども控え目に抑えながらレースを進めていたのですが、ここへ来てとてもまともに走れないほどの差し込みに悶絶!とうとう最後の5kmは26分以上もかかってしまい、ゴールタイムは2時間20分40秒。前回の記録を僅かに更新しただけに終わりました。(まあ、今の私からしますと、5kmを26分というのも夢のような速さなんですけど)
結局のところ、青梅を走ったのも、30kmというレースに出たのも、この2回だけ。2時間20分40秒が、私の30kmパーソナル・ベストになりました。
30歳での挑戦以降、私はプッツリと走ることを辞めてしまいました。多摩川の瀬音が心地よい青梅街道はクルマで何十回も行き来しましたが、それはその後に目覚めた趣味の「渓流釣り」に行くためでした。
そんな私も、50歳を過ぎて体力、特に脚力の衰えをひしひしと感じるようになって、ようやくまたランニングを再開しました。ここのところは少しやっては長期間サボり、の連続ですが、いつか、もう一度あの青梅街道を走れる日を迎えられたらいいな、と心の片隅で思ってはいます。