豊大先生流・陸上競技のミカタ

陸上競技を見続けて半世紀。「かけっこ」をこよなく愛するオヤジの長文日記です。 (2016年6月9日開設)

思い出記事

連載「懐かしVHS時代の陸上競技」#7 ~1983ヘルシンキ世界選手権



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私が初めてビデオデッキなるものを購入したのが1982年のこと。第1号機は、都内市ヶ谷にショールームがあったS社との取引関係のご縁から、展示品を安価で払い下げていただいたもので、3倍速機能も付いてなくて5万円ほどだったと記憶しています。
当時は何しろテープが高価でねえ…。確か120分のが4,000円、画質にこだわるてえと120HG(120分ハイグレード)が4,500円とかで、近所のディスカウントショップで4割引きくらいのを月に2~3本買えるかな、という感じでしたかね。(今回発掘作業を進める中で、やはりHGテープの方が保存状態がよろしいことが分かります。また、メーカーによってもかなり違いますね。テープそのものもさることながら、カセットフレームの性能に差が出ます)
だから、録画したテープを残すか、上書きするか、また不要なCMなどをいかにして省くか、といったことに随分気を遣いながら、ここぞという番組を失敗しないように、神経張りつめて録画してたような覚えがあります。
ハードディスク録画となった現在では、たとえばオリンピックの期間中なんかはほとんど全競技・全種目を録画しまくってます(17日間で軽く1TB超^^)けど、テープ4,000円時代はそういうわけにもいかず、1984年のサラエボおよびロサンゼルス五輪なんかでも、録画するもの、しないものを慎重に計画立てたり、ポーズボタン使いまくって節約したり、期間中にデッキ2台でダビング編集して録画時間の余白を増やしたりと、仕事の傍ら大忙しでした。
本連載の第1~2回でご紹介した1997年世界選手権の頃になると、同じ120HGのテープが200~300円で買えるようになってましたから、状況は随分変わってましたね。その分、残したテープは積み重ねれば何十本も天井まで届くくらいに膨大なものになってしまいましたが。

てなわけで、今回は、おそらく私が所蔵しているVHSテープの中でも最古の部類に入る、1983年モノです。保存状態まあまあ良好。
現在2年ごとに開催されている『世界陸上競技選手権』は、この時が第1回大会で、第3回の1991東京大会までは、オリンピックの前年、4年ごとの開催でした。昨年のドーハ大会が、第17回ということになります。開催地はいにしえの長距離大国、その後やり投王国となったフィンランドはヘルシンキ。2005年の第10回大会と併せ、2度世界選手権を開催した唯一の都市となっています。
意外なことに、オリンピックの基幹競技である陸上競技と競泳は世界選手権の歴史が浅く、競泳のほうは1974年に第1回が行われています。陸上ではオリンピックを別にすると世界的なチャンピオンシップ大会という発想が久しくなくて、1970年代に至り国・地域別対抗形式の『ワールドカップ』(現コンチネンタルカップ)が最高峰の大会として行われるようになり、83年にようやく世界選手権の開催にこぎつけたわけです。

そして、中継放送はテレビ朝日系列。『世界陸上』の中継はこの大会限りで、第2回から第5回までは日本テレビ、第6回以降はTBSへと変遷します。(早く次の変遷、カモン!)
かつて「日本教育テレビ」転じて「NET」と称していた頃のテレビ朝日はスポーツ番組が弱く、アントニオ猪木をメインとするプロレス中継と、「キンシャサの奇跡」以降のモハメド・アリの試合などが目玉だったなあという記憶しかありません。プロ野球中継などもほとんどなかったですし。それが、組織・社名を一新した記念事業としてぶち上げた1980モスクワ五輪の独占放送権獲得で、陸上・競泳をはじめアマチュア・スポーツ番組の開拓にも力を入れるようになりました。肝心のモスクワは日本の不参加という悲劇に泣きましたが、それまでの準備期間で培ったノウハウは無駄にはならず、この世界選手権にも十分活かされています。
今回発掘したテープは、おそらく年末に放送された総集編(約85分)で、『’83ことし世界が沸いた!三大スポーツイベント名勝負名場面・第2部』というタイトルが付いています。(他の2つが何だったのか…やはり第1回開催となった『福岡国際柔道』とゴルフの全英オープンあたりでしょうか)
大会実施期間中に録画したものもどこかに断片的に残っているような気がしますが、今のところ見つかっていません。
実況担当は、三好康之・東出甫のスポーツアナ2枚看板(ご両人とも故人)ほか。解説は、当時陸連の重鎮だった佐々木秀幸さんなどが務めています。総集編につき、小宮悦子アナによるナレーションも付いてます。

◇女子マラソン
翌年のロスでオリンピック初採用となった女子マラソンで、それに先駆けて初代世界チャンピオンが誕生しました。29歳のグレテ・ワイツ(NOR)、タイムは2時間28分09秒。ロスでは圧勝したジョーン・ベノイト(USA)に次ぐ銀メダルでした。(ベノイトはヘルシンキ不参加)
番組では同年の『東京国際女子マラソン』のハイライトを挟む形で構成してあり、こちらの方では佐々木七恵(エスビー食品)が第5回にして日本人選手初優勝。世界選手権には佐々木や増田明美の出場はなく、田島三枝子(旭化成)31位、金子るみ子(住金鹿島)49位という成績でした。当時高卒ルーキーの金子はスタート直後しばらく果敢に先頭を引っ張って、見せ場を作っています。
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仲良く給水ボトルをシェアするワイツとジュリー・ブラウン(USA)。
右端は銅メダルのライサ・スメフノワ(URS)


◇男子マラソン
女子と同じく、同年の『福岡国際マラソン』のハイライト映像(この年の中継局はNHKだがテレ朝の独自実況入り)を挟んでいます。こちらは記憶にも鮮やかな瀬古利彦の必殺スパート。エスビー食品のアベック制覇ですね。
世界選手権の初代チャンピオンは、当時世界最強の評価を瀬古と分け合っていたロバート・ド・キャステラ(AUS)で、2位バルチャ(ETH)に24秒差での快勝。オリンピック連覇のワルデマール・チェルピンスキー(GDR)が3位に入っています。スタート時のヘルシンキは気温15度と涼しい条件で、優勝タイムの2時間10分03秒は20年間大会記録として残りました。
世界一の陣容を誇っていた日本勢は、トップランカーが真夏の世界選手権を敬遠する傾向が長く続き、この大会では西村義弘(新日鉄大分)=35位、喜多秀喜(神戸製鋼)=42位、川口孝志郎(中京高教員)=DNFという結果に終わっています。

◇女子100m
1977年に女子で初めて11秒の壁を突破し、この年6月に10秒81まで更新したマルリース・ゲール、今なお400mの世界記録保持者に君臨するマリタ・コッホ(ともにGDR)、7月にゲールの記録を0.02秒上回ったエヴェリン・アシュフォード(USA)の「3強」対決。
アシュフォードは予選の段階からゴール後に脚を引きずるシーンがあり(この番組、放送時間の都合で採録種目数は限られていますが、一つ一つをかなり濃密に盛り込んでいます。ダイジェスト版にしては珍しく、レース前後の選手の表情などにもかなり時間を割いた編集です)、実況の三好アナが思わず放送禁止用語でその様子を伝えています。
迎えた決勝は、2レーンにアシュフォード、4レーンにコッホ、8レーンにゲール。懸念が的中してしまい、アシュフォードは30mほどの処でいったん跳び上がるようにしてから倒れて無念のDNF。アウトコースから鋭く伸びたゲールが、同僚コッホを0.05秒制して10秒97で優勝しました。
70~80年代、女子のスプリントは東ドイツ勢が圧倒的な強さを誇っていましたが、意外なことにゲール(旧姓エルスナー)が個人種目の世界タイトルを手にしたのは、この1回限りです。(ワールドカップでは2回優勝)

◇男子100m/走幅跳/4×100mリレー
世界陸上競技選手権の歴史が、20世紀を代表するアスリートであるカール・ルイス(USA)およびセルゲイ・ブブカ(URS→UKR)の輝かしい足跡の第1歩とともに始まったのは、実に運命的なものを感じます。以後、10数年の長きにわたってこの両者は、世界選手権およびオリンピックの看板選手であり続けることになります。(今回の映像では、ブブカの棒高跳は収録されていません)

1981年、19歳で低地での男子100m世界最高記録となる10秒00(0.0)をマークしたルイスは、83年を迎えて全米選手権で100、200、走幅跳の三冠を達成、「ジェシー・オーエンスの再来」と世界の注目を集め、100mでは高地以外で初めて10秒の壁を破る9秒97(+1.5)を叩き出しました。
1968年に高地メキシコシティで10秒の壁が破られてからというもの、男子100mではブレイクスルー現象が起こらず、久しく記録の停滞が続いていました。それがルイスの登場によって一気に動き出すと、7月には高地コロラドスプリングスでカルヴィン・スミス(USA)が9秒93(+1.4)の世界新記録を出して、対抗勢力に名乗りを上げます。
このスミスをはじめ、ベン・ジョンソン(CAN)やリロイ・バレル、ジョー・デローチ、マイク・パウエル(以上USA)といった強いライバルたちに恵まれたことが、ルイス伝説を一層華やかなものにしています。
カールことフレデリック・カールトン・ルイス。1961年7月1日生まれ。188㎝/77㎏。均整の取れた彫刻を思わせる体型に愛嬌たっぷりの表情は、見てくれだけでもスター選手の登場を思わせるものでした。陸上選手に「スーパースター」の称号が付与されたのも、勝って国旗を手に“ウィニング・ラン”を行った(翌年のロス五輪)のも、彼が初めてではないでしょうか。

100mでは、予選から通じて、のっそりとした鈍重なスタートから終盤30mくらいで一気に加速、圧倒した後は横を見ながら流す、というレースパターンで悠々と勝ち上がり。本気の決勝は3レーンで中盤からシフトアップすると、あっという間に8レーンのスミスを置き去りにしました。記録は10秒07(-0.3)、2位スミス10秒21、3位エミット・キング10秒24で、アメリカの上位独占です。
4位はモスクワ五輪覇者のアラン・ウェルズ(GBR)。彼を含め、決勝のスタートに白人選手が3人並んでいたことが、時代を感じさせます。また、ベン・ジョンソンは10秒44で準決勝敗退しています。
この大会でルイスは200mにエントリーせず、オーエンス以来の「4冠」への期待は、翌年のロス五輪へと持ち越されました。200はスミスが20秒14(+1.2)で制し、第2回ローマ大会でも連覇を飾っています。

この大会は今から見ると非常に変則的なタイム・スケジュールで、男子スプリント系は最初の2日間で100m決勝までを行った後、3日目に走幅跳と400mリレー予選、4日目に同準決勝と男子400mリレーが同時進行の後にリレー決勝、大会6~8日目に200mとなっています。
三冠を狙うルイスの思惑とは裏腹に、「LJとリレーの掛け持ちはない」ものと前提したかのような編成で、これはルイスのみならず困った選手は多かったでしょう。
しかもリレーの準決勝とLJ決勝の1回目が完全に重なる進行となってしまい、すでに準決勝のオーダーが確定していたルイスは、LJ役員とのスッタモンダの交渉劇の末に何とか試技順の変更を了承させ慌てて第4コーナーに向かう、という一幕がありました。
その1回目で、ジャストミートの踏切りから8m55(+1.2)の大ジャンプ。放送席からは「9メートルラインに仁王立ち!」の名実況が飛び出します。これで優勝を確実にしたルイスは3回目以降のジャンプを棄権して、リレーの決勝へ。
400mリレーでは、「スミス→ルイス」の黄金バトンパスが決まって、WR37秒86での圧勝、難なく3つ目の金メダルを手中にしました。
ちなみにアメリカは、LJでも表彰台独占、200mでも世界記録保持者ピエトロ・メンネア(ITA)の銅メダルを許したのみで金銀独占。68年のメキシコシティ以来、久々にスプリント王国の威信を取り戻す大会となったのです。
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ルイス、9mラインに仁王立ち!


◇女子やり投

フィンランドの国技とも言えるやり投。その象徴は、スタジアムの一角に設けられた高さ72m71の塔で、1932ロス五輪で金メダルに輝いたマッティ・ヤルヴィネンの優勝記録に因むものです。ちょうど、旧国立競技場にあった「織田ポール」と同じようなモニュメントですね。
しかし男子では、1人が予選落ちして決勝に残った2人も4投目以降に進めずという惨敗に終わって、いよいよ期待は国民的アイドル・スロワーのティーナ・リラクにかかってきました。リラクはこの時22歳、直前の6月に、74m76の世界新記録を投擲しています。
1投目で優勝候補のファティマ・ホィットブレッド(GBR)が69m14で先行し、リラクは67m34で追走。5投目にリラクが僅かに記録を伸ばした以外はこのままの状況で最終投擲まで推移します。当時は現在のものより「飛ぶ」やりを使っており、リラク自身は「優勝記録は78m」とまで予想していたほどですから、意外に低レベルの優勝争いとなっていました。
そして6投目。投擲選手としては華奢な身体つき、日本で言う「聖子ちゃんカット」のような髪型のリラクがピットに立つと、場内は「ティーナ、ティーナ…」の大合唱に包まれます。その中、渾身の力を込めたやりが大きな弧を描くと、それが70mラインの向こう側に落下するかしないかのうちに、逆転勝利を確信したリラクがもうトラックの方へ走り出していました。
大会7日目にして、会場が最も興奮の坩堝と化したひと時です。見ている当方も、興奮しました。
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大会随一のヒロインとなったティーナ・リラク

◇男子走高跳
ティーナ・コールの大歓声にすっかり調子を狂わされてしまった、と言われたのが、同時進行で行われていた男子HJの世界記録保持者、朱建華(チュ・ジャンファ=CHN)。スポーツの国際舞台に復帰して間がなかった中国で、初めて現れた世界的陸上選手です。
6月に2m37を跳び、大会後の9月には38、翌年には39と記録を更新した朱はこの大会でも間違いなく大本命でしたが、いつまでも続く場内の興奮に集中力を失ったか、2m32を跳べずに3位に甘んじました。優勝は、その2m32を成功したゲンナジー・アヴディエンコ(URS)です。

◇女子走高跳
この頃、プロレス風に言うなら「名勝負数え唄」を演じていたのが、女子HJのウルリケ・マイファルト(GER)とタマラ・ブィコワ(URS)です。
マイファルトは無名の16歳で出場した1972ミュンヘン・オリンピックで、1m92の世界タイ記録で優勝。一躍地元のヒロインとなるとともに、まだ歴史の浅かった背面跳びの技術に於いて、「踏切りと同時に右手を振り上げる」という独特のフォームが注目を集めたものです。その後はずっと低迷が続いていましたが、単なる「早熟の天才少女」で終わることなく、81年のワールドカップを1m96で制して見事に「復活」。この時、同記録で2位となったのが、2歳下の新鋭ブィコワでした。
マイファルトは翌82年のヨーロッパ室内を1m99、ヨーロッパ選手権を2m02の世界新で勝ち、かつての天才少女は10年の時を経て、完全に世界のトップに返り咲きました。彼女が初代の世界チャンピオンの座を標的に捉える一方で、ブイコワは常にその後塵を拝しつつも、虎視眈々と力を蓄えます。83年3月、マイファルト不在のヨーロッパ室内で2m03の室内世界新記録。ヘルシンキでは堂々互角の立場で、初代女王の座を争うことになったのです。

1m97までをノーミスでクリアしたブィコワに対し、マイファルトは95、97に2回ずつの試技を要して劣勢でしたが、1m99を一発クリアして逆転。このあたりが名勝負に相応しいドキドキの展開です。
99を2回目で凌いだブィコワが逆に2m01を一発で成功。1回目を失敗したマイファルトは2回目を世界新となる2m03にシフトして、再逆転を狙います。(ブィコワが99の2回目をなぜ敢えて跳んだのかは、今の感覚で言うと少し謎ですね)
結局2m03は両者とも失敗に終わり、ブィコワの初代女王、対マイファルト初勝利が確定しました。
この大会後も2人のデッドヒートは続き、同年のヨーロッパカップでいずれも2m03の屋外世界新記録、試技数差でマイファルトが雪辱を果たすと、その4日後の競技会ではブィコワが2m04と記録を更新してお返し。
翌年のロス五輪での対決も楽しみでしたが、ソ連の不参加により幻となり、マイファルトが2m02のオリンピック新で、陸上界では前例のない3大会ぶり(12年ぶり)の金メダルに輝きました。2つの金メダルは、その時点での種目別最年少・最年長記録(現在の最年長記録はルース・ベイティア)でもありました。しかしながらその直前にブィコワが2m05の世界新を跳んでおり、マイファルトには一抹の敗北感があったかもしれません。
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身長188㎝、長い長い脚。実に格好良かったマイファルト。
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◇女子1500m
この大会で一躍スター選手の仲間入りを果たしたのが、3000mと1500mの2冠に輝いたアメリカの美人ランナー、メアリー・デッカーです。
ヘルシンキ世界選手権は、初めて女子マラソンを世界的に認知させる大会となりましたが、トラックの女子最長距離種目は3000m。女子では1500mですらまだ歴史が浅く、10000mは87年ローマ大会から、5000m(3000mに代わり採用)は95年イェーテボリ大会からとなります。
その、当時の感覚としては「長距離2冠」を制したデッカーの特徴は、スタートから先頭を走り続ける典型的なフロントランナー。勝負どころで他者から競りかけられても強気に先頭を譲らず、しかもゴール前でもう一度ギアチェンジができる驚異的な粘り腰があります。
このレースでも、残り半周で仕掛けたザミラ・ザイツェワ(URS)に競り合いの末いったんは抜かれますが、そこでズルズルと後退することなく、ゴール前で“二の脚”を発揮、焦ったザイツェワが捨て身のダイビング・フィニッシュを試みるも、鮮やかに再逆転してみせました。
地元のヒロインとして迎えた翌年のロス五輪では、ライバルと目されたゾーラ・バッド(GBR)との意地の張り合いが裏目と出て、両者の脚が絡まりデッカーは転倒棄権、バッドも7位に沈むという悲劇的な結末に終わりました。余談ながら、このレースの映像は昨年の大河ドラマ『いだてん』のタイトルバックに使用されていました。
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◇男子400mH
11年間、予選を含めた全てのレースで1着を譲ることがなかったハードルの帝王エドウィン・モーゼス(USA)が、圧倒的な力を示し47秒48で優勝。しかも何と、第10ハードルのところで靴紐がほどけた状態でのこの結果でした。
2着はハラルト・シュミット(GER)。モーゼスの陰に隠れて一度も世界タイトルを得ることはありませんでしたが、常にその次位を確保し続け、100を超えるモーゼスの連勝記録の前後に土をつけた選手として名を残しています。もしもモーゼスがいなければ、この時代のヨンパーの帝王として君臨していたはずです。
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◇男子3000mSC

ダイジェスト版の総集編なのに、8分半のレースをノーカット完全収録。これだけでも感動モンです。生中継の時点でCMを2回(ひどい時には3回)もぶっ込むTBSには、逆立ちしてもできない偉業ですね。
決勝進出の12人のうち、ケニア人選手は1人だけで、あとは全部白人選手です。ケニア勢の活躍は1968メキシコシティ五輪から始まっていますが、この大会と1987年ローマ大会だけは、ポツポツと穴が開いたようにメダルに絡んでいません。ただし、ヘルシンキ決勝で唯一出場した(7位)ジュリアス・コリルは、84年ロス五輪では金メダルを獲得しています。
優勝候補筆頭は、WLのヘンリー・マーシュ(USA)。いつも一人離れた最後方からレースを進める非常に個性的なランナーで、ちょうどこの年、JRA三冠馬を達成したミスターシービーという名馬のレースぶりにオーバーラップして見ていた記憶があります。
このレースでも、マーシュは予定通りに最後方から2000mを過ぎたあたりでじわじわと上位を伺い、残り1周の鐘を聞くと先行集団に上がります。渾身のラストスパートで逃げ切りを図るパトリッツ・イルク(GER)の背後を伺い、直線に入る頃には完全に金メダルを射程圏に捉えたかに見えたのですが、最終障害でまさかの転倒。そのままイルクが逃げ切って、8分15秒06の優勝。2着にはベテランのマミンスキー(POL)が入りました。
マーシュはその後も独特のレース・スタイルで面白い存在をアピールし続けますが、大試合ではロス五輪4位、ソウル五輪6位など結果を残せませんでした。イルクは翌年のロス五輪、ウィルス性疾患のため欠場しています。

◇女子砲丸投
22m45の世界記録保持者でモスクワ五輪優勝のイローナ・スルピアネク(GDR)が1投目に20m56、これを同僚のヘルマ・クノールシャイトが2投目の20m70で上回り、当時としてはやや低調な記録でそのまま推移。6回目、最終投擲者となったヘレナ・フィビンゲロヴァ(TCH)が21m05を投げて大逆転優勝です。歴代2位(現時点では3位)の22m32を持っていたフィビンゲロヴァは34歳となり峠を過ぎたかと思われていましたが、大きな身体を揺らして飛び跳ねる姿は悦びに満ち溢れていました。この試合は大会6日目に行われ、翌日の女子やり投と併せて「最終の大逆転」が印象に残ったものでした。

連載「懐かしVHS時代の陸上競技」#6 ~1989東京国際陸上


今回“発掘”されたのは、平成元年5月14日に東京・国立霞ヶ丘競技場で行われた、『三菱電機 ’89東京国際陸上競技大会』です。
これは、どういう趣旨で開催されたものかイマイチよく覚えていません。現在なら『ゴールデングランプリ陸上』が、昔であれば『スポニチ国際陸上』という大会が行われていたのと同じ時期の国際大会ということで、おそらくその替わり目にイレギュラーで特設された大会ではなかったでしょうか?
いずれにしろ、国内のトラック&フィールド大会中継番組としては非常に珍しく、日本テレビによる製作・放映です。タイトルバックCGにも表現されているように、2年後の東京世界選手権の独占放送へ向けての予行演習、という意味合いだと思われます。
前年に開催されたソウル五輪やその直後に行われた『東芝スーパー陸上』の興奮も冷めやらず、フローレンス・グリフィス=ジョイナーがわざわざこの大会で「ラスト・ラン」をするために来日したのをはじめ、カール・ルイスを筆頭に外国人出場者はなかなか豪華です。
解説は高木直正、澤木啓祐、石田義久の各氏、実況は後年アナウンス部長も務めた舛方勝宏アナをメインに、松永、多昌、船越というこれまた後にエース級となる若手を並べています。
約1時間の収録ですが、採録された全種目の概要をお伝えしましょう。
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◇男子100m
2組に分けて行われ、1組はソウル五輪200m金メダルのジョー・デ・ローチ(USA)が10秒43で、2組は同100m王者のカール・ルイスがゴール寸前の逆転で、10秒39(-1.7)で制しました。
両組とも向かい風が強く、記録的には平凡でしたが、日本人選手は1組の鈴木久嗣、2組の松原薫、青戸慎司、不破弘樹、栗原浩司、高野進と当時の一線級がほぼ勢ぞろいする好メンバーでした。
写真はレース後、ルイスのインタビュー。聞き手は2000年シドニー五輪のサッカー中継、「ゴール!!」31連呼で顰蹙を買った船越アナ。オリンピックの実況担当に選ばれるだけでも名誉なことですけどね。
通訳は本連載第1回でご紹介した冠陽子さん。そうそう、この時の通訳で「アゲてる」だの「フォロってる」だのと奇怪なゴルフ用語を連発し、「なんだ、この知ったかぶりオバさんは?」と思ったのでした。この後ジョイナーへのインタビューではとある有望選手の名前を聞き違え(というか、自分でメモに書いたカタカナの字を読み違え)、ジョイナーの目を点にさせています。その後よほどお勉強をしたのでしょう、97年アテネ世界選手権の中継(TBS)時には、すっかり名通訳の貫禄を漂わせています。
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◇男子やり投
ソウル銀メダルで世界記録(87m66)保持者のヤン・ゼレズニー(CZS=次のバルセロナから五輪3連覇)、銅メダルのセポ・ラテュ(FIN)が出場する中、溝口和洋(ゴールドウィン)が6投目に83m52を投げてゼレズニーに逆転勝利。
溝口はこの年シーズンインとともに85m22の日本新記録を投げ、さらにこの大会の13日後には87m60の、今も日本記録リストに残る大記録を投擲しています。(最初の計測で世界記録を上回っていながら、どういうわけかメジャーをスチール製からビニール製に変えて再計測した結果、この記録になったという本人の談話があります)
当時の日本陸上界が誇った大エースは、1日12時間ものハードトレーニングでヘラクレスのような肉体を造り上げ、ワールドクラスの実力を示しました。投げた瞬間「あっ、逃げた!(力が左方向に流れた)」と口走りながらのこの記録。まさに、絶頂期と言えた時期の貴重な映像です。
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◇女子100m
ジョイナー去りしトラックに残されたのは、1984ロス五輪の金メダリスト、エヴェリン・アシュフォード(USA)。この日は室内60mで世界記録を出したネリー・クーマン(NED)の先行を、ラスト10mで差し切って貫禄の勝利です。やはり強い向かい風で記録は11秒34。3位はグレース・ジャクソン(JAM)でした。

◇女子10000m
当時の日本記録保持者・松野明美(ニコニコドー)こそ出ていませんが、荒木久美(京セラ)、朝比奈三代子(旭化成)、真木泉(ワコール)といったトップクラスが登場。この3人をカロリン・シュワロー(AUS)が引っ張る形でレースが進み、この年の大阪国際女子マラソン優勝のロレーン・モラー(NZL)や名古屋国際女子マラソンで2連覇を飾ったばかりの趙友鳳(CHN/東海銀行)、2年後の世界選手権マラソンでメダルを獲得する山下佐知子(京セラ)らが、離れた5位グループを形成します。
終盤はソウル五輪マラソン代表だった荒木と高卒2年目の新鋭・朝比奈の2人に絞られて、残り650mでスパートした荒木が32分59秒28(速報)で優勝。以下朝比奈、趙、真木、シュワローと続きました。
今見ると、小柄ながらどっしりと安定した走りの荒木は、その表情とともに、「女瀬古」のイメージですね。この翌年には北京アジア大会マラソンで趙との一騎討ちになり、19秒差で銀メダルになっています。
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◇男子三段跳

ケニー・ハリソン(USA)が17m45のPBを跳んで優勝。後に東京世界選手権で優勝し、1996アトランタ五輪では史上2人目の18mジャンパーとなる18m09で金メダルを獲得することになるハリソンですが、この大会の時点では、それまでのPBを一気に30㎝も超えて躍り出た新鋭、という位置づけでした。
世界記録(17m97)保持者のウィリー・バンクスはこの時滞日中で、「中京大職員」という肩書での出場でしたが、既に全盛期を過ぎた感は否めず、16m台の記録に終わっています。

◇女子走高跳
直前の静岡国際で1m97のアジア記録(現在でも歴代2位タイ)を出したばかりの金玲(ジン・リン=CHN)が、1m92を余裕でクリアして優勝。日本記録(1m95)保持者・佐藤恵は86を超えたところで膝の故障が悪化して棄権。日本の女子HJが、次から次へと世界と戦える選手を輩出していた時代、懐かしいですね。

◇女子5000mW
増田房子(東京女子体育大)が23分10秒13の日本新記録で優勝。4位までが公認日本記録を上回りました。現在の日本記録は20分42秒25(岡田久美子)ですから、女子競歩創世記といった時代だったんですね。

◇女子やり投
徐徳妹(CHN)が6投目の59m32で逆転優勝。番組イチ推しのビジュアル系アスリート、スエリ・ペレイラ・ドス=サントス(BRA)が58m76で2位、3位は58m28で松井江美(中京大豊田C)。
目にも鮮やかなハイレグ・スーツで度肝を抜いたのがドス=サントス。どんだけイチ推しだったかというと、こーんな写真(PLAYBOY誌に登場!)まで見せてくれたくらいです。この頃の女子やり投には、美人スロワーが多かったですね。
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◇おまけ
大会の最後に、ゲスト参加したフローレンス・グリフィス=ジョイナーが、夫のアル(1984ロス五輪三段跳金メダル)と並んでラストランを披露。トレードマークのワンレガー・スタイルで国立競技場の直線を颯爽と駆け抜け、フィニッシュはソウル五輪のポーズを再現。華麗な現役生活を締め括りました。
この9年後、彼女が突然不帰の客となってしまうとは、思いもよりませんでした。
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連載「懐かしVHS時代の陸上競技」#2 ~1997年世界陸上競技選手権アテネ大会(後編)


<第2回>1997年世界陸上競技選手権アテネ大会(後編)

前編では、競技の内容よりも、このビデオに残された放送番組のありようについて、ちょっと突っ込んだお話を書かせていただきました。
「視聴率を上げる」という民放としては当然の目的に即したこととはいえ、TBSが現場に忠実であるべきスポーツ中継にバラエティ番組の手法を過度に流用し、見るに堪えないほどの低俗番組に仕立て上げていく、その第一歩がこのアテネ大会であったというお話です。
その後TBSでは陸上のみならずこの方針がエスカレートします。プロ野球中継では画面をCGだらけにしてボールがどこにあるのか分からなくなったり、ボクシングでは弁慶の格好で登場させるなどの不粋な演出で某選手を売り出そうと本末転倒、結果社会的問題にまでなった大騒動の一因を作ったりもしたものです。
スポーツ報道の本質を見失った同局の暴走は、もしも同一大会に複数の中継局の参入が許されるものなら真っ先に排斥されると思うのですが、残念なことに陸上競技ファンとしては、不満を抱えながらも『世界選手権』や『実業団駅伝』は同局で見る選択しかできない、というのが現実です。 

さて、それではスタジオトーク部分を綺麗さっぱりカットオフした編集済みBDで、大会そのものを見ることにしましょう。

◇快挙!千葉真子がトラックで銅メダル
1997ATHENS02

前半のハイライトは、当時21歳の「チバちゃん」こと千葉真子(旭化成=所属はいずれも当時)が、4日目に行われた女子10000m決勝で終始先頭集団で積極的にレースを作り、第3位に食い込んだレースです。実況は、長過ぎる修飾節と「~という」が口癖の、椎野茂アナ。解説は増田さん。

この頃は男女の10000mで予選が実施されており、大会初日のレースで日本代表の千葉、高橋千恵美(日本ケミコン)、増田裕美(沖電気宮崎)はいずれも危なげなく突破。特に千葉は前年のアトランタ五輪で5位入賞を果たした日本女子長距離のエース。メダルが期待される一方で、ラスト勝負になるとスプリントが利かない欠点を心配する観測もありました。
当時常に長距離のレースメイク役を買っていたポーラ・ラドクリフ(GBR)が5000mに回ったこともあって、決勝のレースはスローペースの立ち上がりです。急激なスピード変化を不得手とする千葉には不利な展開。そこで彼女は自らレースを動かし、再三先頭に立ってペースアップに努めます。幸運なことに優勝候補筆頭の呼び声高いフェルナンダ・リベイロ(POR)や中国選手らがこれに呼応して、入れ替わり先頭を担うことで中盤からは緩みのないペースが保たれました。

優勝候補の一人、ワミ(ETH)が脚を痛めて倒れ、エレナ・マイヤー(RSA)も集団の中で転倒して脱落、中国選手の二人が“同士討ち”の接触でこれまた脱落。
残り5人の集団にしぶとく残った千葉は、サリー・バルソシオ(KEN)がスパートした直後の9000m手前でアデレ(ETH)、ロルーペ(KEN)とアフリカ勢を次々に交わし、3番手の位置を確保。一旦は2番手のリベイロに背後まで迫る奮走を見せて、31分41秒93で見事に銅メダルに輝きました。
バルソシオの優勝タイムは31分32秒92。前半が16分13秒、後半が15分20秒という超ネガティヴ・スプリットでした。高橋は9位、増田は15位という結果です。

疲れの色もなくインタビューに臨んだ千葉は、「スローペースで『どうしよう、どうしよう』と思いながら走ったが、流れに乗れて運が良かった」と冷静にレースを振り返り、「銅メダルですよ!」と水を向けられると「あそこの…」と表彰台を指さして、「台に乗れることが嬉しいですぅ!」と笑顔を弾けさせました。
いやー、天使のように可愛かったですねえ。

1997ATHNS01
残り3周でペースアップ。テグラ・ロルーペ(KEN)の後方で必死に食らいつく千葉。

◇スーパースターのそれぞれ~男子編
カール・ルイス(USA)が現役を去って最初の世界大会。それでも、この大会には歴史に名を留めるような陸上界のスーパースターが多く集い、レベルは高かったと思います。
ざっと名を挙げても、男子では
100mは群雄割拠の様相から、新鋭モーリス・グリーンがアメリカに王座を取り戻しました。
400mは、マイケル・ジョンソン(USA)が2次予選をすれすれで通過しながらファイナルを快勝。
800mのウィルソン・キプケテール(DEN)
1500mは前王者のヌールディン・モルセリ(ALG)が沈んでヒシャム・エルゲルージ(MAR)が初戴冠。
10000mの“皇帝”ハイレ・ゲブルセラシエ(ETH)
110mHではアレン・ジョンソン(USA)とコリン・ジャクソンの一騎討。
400mRはドノヴァン・ベイリー、ブルニー・スリンの2枚看板を擁したカナダが圧勝。

跳躍に目を転ずると、
走高跳は帝王ハビエル・ソトマヨル
走幅跳は幻の9mジャンパー、イヴァン・ペドロソ
三段跳はヨエルビ・ケサダ
とジャンプ大国キューバが席巻する中で、
棒高跳は33歳のセルゲイ・ブブカ(UKR)が6m01の大会新で第1回大会からの連覇記録を6に伸ばし、自身世界大会最後となる金メダルを獲得。世界陸上競技選手権6連覇は唯一無二の記録です。
大会最終日に行われたこの棒高跳でのマキシム・タラソフ(RUS)との駆け引きの妙は、世界選手権史上に残る飛び切りの名勝負でした。

投擲では前述のようにやり投の王者ヤン・ゼレズニー(CZE)が4投目に進めず解説をしていた故吉田雅美さんの痛罵を浴びた一方で、
円盤投のラルス・リーデル(GER)は4連覇を達成。リーデルは次のセヴィリア大会では惜しくも銅メダルに留まりますが、2001年エドモントン大会で再び王座に返り咲き、6大会連続メダルというブブカに並ぶ記録を打ち建てました。

◇~女子編
この大会で最も注目を集めた一人が、「女カール・ルイス」の異名とともに現れた新星、マリオン・ジョーンズ(USA)。
前年までバスケットボールでオリンピックを目指していたというだけあって雄大な体躯が目を引くとともに、成長途上競技者の粗削りな魅力に満ちていました。
走幅跳ではその粗削りが“凶”と出て、ベスト8に残れず惨敗を喫しはしましたが、それに先立つ100mは10秒83の好記録で快勝し、「フローレンス・ジョイナーの後継者」の期待が高まりました。
この後、セヴィリア、シドニー五輪を経て2001年の世界選手権まで順調にメダルを重ね、セヴィリアでは夫(当時)のC.J.ハンター(砲丸投)とともに世界選手権史上初の「夫婦で金メダル」の栄光に浴したマリオンでしたが、2007年に至ってドーピングが発覚。2000年以降の全記録と栄誉を剥奪された上に、偽証による有罪・実刑判決を受け、陸上界から追放されました。アテネ・セヴィリアでの記録は残されたものの、C.J.ハンターの方がやはりドーピングで後日失格となり、「夫婦で金」の記録もなかったことに。
風のように現れ嵐とともに去っていった感のあるマリオンですが、この大会の時点では紛れもなく女子陸上界のニューヒロインでありました。

なお、100mで0.02秒差の2位となったザンナ・ピンツセヴィッチ(UKR)は200mを制し、2001年大会では100m不敗を続けていたマリオンを破って金に輝くなど、天敵ぶりを発揮しています。
そして、TBSがマリオンの「対抗馬」に推しながら、またもや銅メダル1個を戦績に加えるに留まったのが、おなじみマリーン・オッティ(JAM)、この時37歳。200mでの連続メダルはこれまたブブカに並ぶ6回連続。うち金メダルは2個。52歳でヨーロッパ選手権に出場するまで第一線で活躍し続けた、偉大なブロンズ・コレクターです。

ロング・スプリント界のヒロイン、“走るパリコレ・モデル”マリー=ジョゼ・ペレク(FRA)は200mに絞って出走したものの、2次予選を1着通過したところでリタイア。世界大会で彼女の姿を見ることは、この後ありませんでした。

男子跳躍のキューバ勢に匹敵する活躍を見せたのが女子中長距離のポルトガル勢。
10000m銀のリベイロは5000mでも銅メダルを獲得。1500mを伏兵と思われたカーラ・サクラメントが制し、さらにマラソンでは前回チャンピオンのマヌエラ・マシャドが銀メダル。
ただ、ポルトガルとしては「リベイロ、マシャドで金3個」を目論んでいたはずで、結果については痛し痒しといったところでしょうか。

女子のスーパースターが集結したのは、走幅跳。
前述のマリオン・ジョーンズを露払い役に、PB7m49のジャッキー・ジョイナー=カーシー(USA)と7m48のハイケ・ドレクスラー(GER)…スーパースターというよりレジェンドですね。20世紀の女子陸上選手で歴代トップ10に入る2人です。
かつての“クィーン・オブ・アスリート”ジョイナー=カーシーは、全米選手権でマリオンに敗れたところで今大会限りでの引退を決意したと言われており、最後の試合もやや精彩を欠きました。一方のドレクスラーはまだまだ意気軒高なところが仕草からも伺えるものの、空回り気味でメダルを逃します。
結局リュドミラ・ガルキナ(RUS)が7m05で制し、地元の大声援を受けたアイドル・ジャンパー、ニキ・クサンスーが銀メダルに続き、フィオーナ・メイ(ITA)が銅。
「スーパースターの落日」を印象付けた結果でしたが、この後しばしの沈黙を経て、ドレクスラーは2000年のシドニー五輪に姿を現すと、見事に2大会ぶりの金メダルを浚ってみせました。

◇終盤を飾る鈴木博美の金メダル
トラック&フィールドの日本勢は、千葉の銅メダルのほか、女子5000mで弘山晴美(資生堂)が8位入賞。後の金メダリスト・高橋尚子(積水化学)は13位の世界デビュー戦となりました。
入賞には一歩及ばなかったものの、男子走幅跳の森長正樹(ゴールドウィン)とハンマー投の室伏広治(日大)が決勝に進出して気を吐いています。100mの朝原宣治(大阪ガス)は、ファイナリストへ希望が見える準決勝敗退。男子の両リレーも、「あと一息」の準決勝敗退でした。
このほかロードでは50㎞競歩で唯一人参加した今村文男(富士通)が6位入賞。現在では陸連競歩部長として、給水所で選手に水などを手渡す姿がお馴染みですが、当時はテレビでダイジェスト版すら放送されることはありませんでした。こんにちの競歩黄金時代の礎を築いた人です。

そんな中で、メダルの期待が一番高かった女子マラソンには、鈴木博美(積水化学)、安部友恵(旭化成)、藤村信子(ダイハツ)、飛瀬貴子(京セラ)、原万里子(富士銀行)の5人が出場。この大会から世界選手権のマラソン・レースがワールドカップ・マラソン(国別対抗戦)を兼ねることになり、5人のエントリーが可能でした。
マラソン発祥の故事に倣い、マラトンの丘からパナシナイコ・スタジアムまでの片道コース。7年後のオリンピック・コースとは少し違いますが、アップダウンの激しいことに変わりはありません。
前年のアトランタで突然現れたファツーマ・ロバ(ETH)がボストンマラソンで実力を証明し、優勝候補の筆頭。そのロバが早くも5㎞過ぎに主導権を握り、10㎞でペースアップすると、先頭集団はあっという間に9人に絞られました。このうち日本勢は安部を除く4人、ルーマニアがシモンとカツナ、テクタの3人、それからロバ、マシャド。15㎞で一旦藤村が遅れながら、しばらくしてドイツのビバ、クロリクとともに集団に復帰します。

20㎞の給水で再び集団の動きが変わると、ハーフ手前で突然ロバが競走中止。脚の故障によるものでした。先頭は鈴木、飛瀬、原、マシャド、シモン、カツナ、クロリクの7人。このあたりは、厳しい上り坂が続きます。
23㎞過ぎにはシモンが走りながら2度、3度と激しく嘔吐。猛暑対策に大量の水分を補給していると、こうしたアクシデントのリスクも高まります。たださすがに実力者シモンはここで落ちることなく、原とクロリクが脱落。
延々と続く上り坂で、完全に主導権を握っていたのが鈴木です。不得手とする下りになる前に、勝負を決めてしまおうという快調な走り。とうとうシモンと飛瀬も26㎞で後退してしまいます。
27.4㎞、スポンジを取るために大きく進路を変えた鈴木でしたが、上手くスポンジを取れません。しかしその勢いのままにペースを上げると、後続の2人は対応できず、ぐんぐんと差が開き始めました。僅か2㎞ほどの間に2位以下とは100m以上の大差がつく独走状態となって、ここに勝負はほぼ決した感があります。
結局、レース途中では2時間31~32分台と予測されたタイムを大きく上回る2時間29分48秒で優勝、2位のマシャドとは1分24秒の大差がつきました。3位にはシモンが巻き返し、僅かに及ばず飛瀬が4位。藤村10位、原19位、安部29位。

1997ATHENS04
係員が邪魔で(?)スポンジを取り落した鈴木が、そのまま「えいやっ!」とスパート。

鈴木は前回イェーテボリ大会で世界選手権史上、日本人女子としては初のトラック&フィールド種目入賞(8位)を果たし、マラソンでは浅利純子(ダイハツ)に続く2人目の金メダリストに。翌年の長野冬季オリンピックでは聖火最終ランナーに抜擢され(点火者は伊藤みどりさん)、一躍ヒロインの仲間入りを果たしました。
世界にその実力を示した日本の女子マラソンはしかし、翌年のアジア大会で起こった「高橋尚子ショック」を機に、一気に新たなステージに駆け上がります。日本記録を4分も縮めた高橋に触発されて、シドニー五輪では2時間22分台でも代表になれない(弘山晴美選手)というブレイクスルー状態になり、鈴木や有森裕子、浅利、安部といったいずれも自己記録が2時間26分台の“旧勢力”は一掃されてしまうのです。
2001年、短距離の伊東浩司(富士通)と結婚・引退。実はイェーテボリ大会のサブトラックで、男子短距離チームが気勢を上げる輪になぜか鈴木選手の姿が一緒にあり、ハハァ、さてはこのあたりから…と下衆の勘繰りをしたものですけど、それはまた別のお話。

<新連載>懐かしVHS時代の陸上競技~第1回「1997年IAAF世界陸上競技選手権アテネ大会」(前編)


さてさて、オリンピック・イヤーだったはずの2020年も半分が経過しようというのに、いまだほとんどのスポーツでシーズンインが迎えられていない現在。
競馬や競輪などの国営・公営競技は一部を除き緊急事態中もひっそりと開催されていましたし、プロ野球が開幕日程を打ち出すなどして、ようやくぼちぼちと動き始めた、という状況。しかしながら、ある意味閉鎖社会の中で運営が可能なこれらのジャンルとは異なり、学校体育や観客との境界線が曖昧な陸上競技が“復活”する日は、まだまだ遠そうな気がいたします。本来ならば代表選考で沸きに沸いていたはずのこの時期、指を咥えるだけでいるのは何とも無念ですが、今しばし、耐えてまいりましょう。

「Stay Home!」のこの2か月余り、私が何をしていたかと申しますと、古いVHSビデオテープの山を引っ張り出し、通販でHD/BD/VHS一体型の中古ビデオデッキを取り寄せて(いつも使っている録画機はVHS機能がなく、それ以前に使っていたHD/DVD/VHS一体型は故障してウンともスンとも言わないため)、昔録り貯めた懐かしい映像を眺めてはそれをBDに落とし、編集し、保存したら元のテープは廃棄する、といった作業に没頭しとりました。

私の人生最大の趣味は、陸上をはじめとするスポーツを「観る」こと。それに加えて、TV放映された中継番組を「録って」「削って」(保存形態をできるだけスリムにするためCMや織田裕二など不要部分を削除編集)「残して」「時々見る」ことなんです。
もちろん一番思い入れがあるのは陸上競技ですが、競泳・自転車競技・競輪・競馬・モータースポーツ・スピードスケート・ノルディック&アルペンスキー…といった「競走」競技はどれも大好き。加えて格闘技やらボールゲームの一部なども含めて、「録って残したい」スポーツは沢山あります。小学校1年生で遭遇した1964東京オリンピックが原点なもんですから、どれもこれもな感じです。
 
そんなわけで、所蔵しているビデオ映像の量は、膨大と言えるでしょう。2003年からはHD/DVD機器を導入しましたが、それ以前の20年余に録ったアナログ映像テープは、ざっと2000本以上やそこらはあると思います。あの馬鹿デカいテープですから場所も取ります。長年の放ったらかしで、テープの劣化損傷も気になります。そいつらを丹念にチェックしては、自分にとって必要なところをBDに残していく、という作業に熱中していたわけです。スポーツばかりでなく、バラエティ番組やらドラマやら、お宝エロシーンなんかも出てきます。2か月じゃあ、とうてい時間が足りません(笑)

で、新たな競技結果なども当面出てこない昨今、世の陸上ファンのお慰みに、それらの古ビデオから厳選した映像をもとに、懐かしい陸上談義などをお届けしていこうかな、というのが久々に活動再開した当ブログの趣旨であります。
映像をそのままアップ出来たらよいのですが、残念ながら当方そうしたスキルがありませんので、ビジュアルはキャプチャー画像(というか画面をスマホで撮影した写真)でご容赦願います。
また、発掘したVHS映像は時系列的に順序良く並んでいるわけではないため、時代は1980年代から21世紀初頭までの範囲で、あちこちに飛びます。
ご承知おきの上で、お読みいただければなと思います。


第1回 1997年IAAF世界陸上競技選手権アテネ大会
1997ATHENS03.htm

◇物議醸したTBSの初中継
それまで第1回大会をテレビ朝日が、第2回から第5回までを日本テレビが独占中継していた世界選手権を、初めてTBSが制作中継した大会です。
以後現在に至るまで、陸上競技報道に悪名高い歴史を刻み続けた放送の始まり。メインキャスターは以後22年間・12大会にわたり、織田裕二と中井美穂のスチャラカコンビが務めることになります。

案内役やゲストに人気タレントを起用するという民放ならではの手法を、私は否定するものではありません。陸上競技が国内ではまだまだマイナースポーツの域を出なかった当時、それはある意味当然な企画とキャスティングだったでしょう。事実、「織田裕二が出ているから陸上を見るようになった」という知り合い(女性)が、私の身近にいたくらいです。
しかしながら、TBSの制作方針が、「陸上競技をよく知らない人にアピールする番組作り」に偏り過ぎてしまっていたところに、根本的な問題がありました。
とは言えこれもまた、
仕方のない方向性ではあります。深夜に至る時間帯ながら大量の放送時間枠を確保するために社運を賭けるほどの広告営業に奔走し、スポンサーとなった企業への当然の対応として、マイナー競技の視聴率を稼ぐことが至上命題となるのは当たり前のことですから。根本的な問題というのは、その手法と演出能力です。

その第一が、織田裕二。
当時まだ20代の押しも押されもせぬ超人気俳優。精悍で健康的で正義感の強そうなイメージには、世間一般的に高い好感度がありました。この人物をキャスティングしたことは、まずはスタッフの大手柄と言ってよいでしょう。
ところが番組が始まるや、次々と勉強不足を露呈してはトンチンカンなコメントを繰り返し、相方の中井美穂もそれに追従するばかりで、期待されたプロのアナウンサーらしさは微塵も発揮できません。
“陸上素人”なのは見ている方も知ってる事ですから、いくら勉強不足でも本来は気にもならないのですが、「お前ら陸上なんて知らないだろ?僕は詳しいんだぜ」というその知ったかぶりオーラが、もろに鼻につきました。たった1回全米選手権の取材に出かけたことだけを何度も吹聴しては、そこでインタビューしたアメリカ人選手を年来の友達か何かのように、或いは直前に資料で読んだだけの有力選手を長年注目してきたかのように紹介する図々しさに、陸上ファンは思いっきり引いちゃったのです。コメントの端々からヨーロッパやアフリカの陸上事情にはまるで知識がないこと、国内の代表選考大会すら見ていないことなどはバレバレで、だったらもう少し殊勝な態度で、もしくは傍らに専門家を立ててその説明を拝聴しつつナビゲーションできないものかな、と思わされてしまったわけです。

私のもとに残っているビデオでは、早いうちからそういう違和感を覚えていたものらしく、スタジオトークの場面になると一時停止でカットされている部分がほとんどで、正確に織田らが何を喋っていたのかを十分に検証することはできませんが、このアテネ大会は初回ということで、まだまだ大人しめのコメントだったように思えます。

もう一つ、現在も残る“悪癖”が、長距離のレース中に容赦なく挿入されるCMタイムです。
いかにも陸上競技素人、
本質的にスポーツへの愛がない制作者の考えそうなことですが、「どうせ長距離レースなど、視聴者は退屈に違いない」という先入観があるのでしょう。たかだか30分前後の10000mレース中に、90秒のブレイクを5回もぶち込んでいるのです。確かこの後の大会(セヴィリア以降)では、3000mSCで3回CMを挟んだケースがあったと記憶しています。
長距離レースは、たとえ2時間超のマラソンであっても、興味のある者にとっては退屈する場面などありません。(さすがに5時間超の駅伝となると疲れますが)
民放TVの世界でも、サッカーやラグビーなどの試合では、CMはハーフタイムに集中してゲーム実況を寸断するようなことはしなくなりました。おそらく、熱心なファンからの強い抗議が殺到した結果だと思います。
陸上競技には、何もレースを分断せずともプログラムの合間には十分な時間が取られている(むしろこの時間が退屈)のですから、CMチャンスはいくらでもあります。どうしてそこで、不愉快なスチャラカトークやら何度も見たVTR映像を優先するのか?…そろそろ、この長距離レースに対する素人臭い偏見は改善していただきたいものです。

◇まあマトモだった初回の「世界陸上」
以上は番組の編成や構成上の問題。
肝心な中継自体は、ベテランの林正浩アナを中心に正統派の実況が貫かれていて、たとえば今のように『世界陸上』という番組名に固執せず「世界陸上競技選手権…」「陸上競技の世界選手権…」と何度も呼称しているのには好ましいものを感じます。
本来TBSは陸上競技中継には実績があって、実業団の各大会や系列新聞社主催の国際大会などをレギュラー放送していましたし、この時には既に鬼籍に入られていたものの、石井智アナという、全局を通じて最も陸上競技に精通した名アナウンサーもいました。
次のセビリア大会から始まる奇妙奇天烈な「個々の選手のキャッチフレーズ」や、佐藤文康を筆頭とする暴走若手アナによる「絶叫中継」、そして数時間も後の種目を「この後すぐ!」と虚偽告知するといった、耳を覆いたくなるような過剰演出はまだ出てきていません。佐藤アナは棒高跳の実況で、その片鱗を伺わせてはいますけど。

実況アナと言えば、この大会での秀逸な企画は、女性の香川恵美子アナの起用で、室伏広治が初出場したハンマー投など投擲3種目を実況しています。上手いとは言えませんが、適宜にユーモアを交えたなかなか味のある実況ぶりで、新鮮でした。
女子アナによるスポーツ実況は、前年のアトランタ・オリンピックでテレビ朝日の宮嶋泰子アナが女子マラソンなどを実況したのと、遥か以前の札幌オリンピックで女子フィギュアスケートを実況していた(アナウンサー名など不明)のが晴れ舞台での実績として残るくらいで、香川アナのその後が大いに期待されたのですが、翌年に結婚(初婚)・退局してしまったこともあって、TBSの果敢なる挑戦はこれ一度きりで終わってしまいました。
なお香川さんは現在、元メジャーリーガー田口壮さんの奥さんです。

総じて、「まともな『世界選手権』中継が見られた最後の大会」と言えますかね。
解説陣は、トラックを懐かしや渡部近志さん(元110mH日本王者・法政大教授)、長距離を増田明美さんや谷口浩美さん、『箱根駅伝』でお馴染みだった碓井哲雄さんら。跳躍は三段跳の日本王者・村木征人さんなど。
そして投擲は、この大会でまさかのベスト8落ちを喫したやり投の帝王ヤン・ゼレズニー(CZE)に対して思わず、
「おいヤン、何してるんだよっ!?」
と痛烈なコメントを発した吉田雅美さん。1984年のロス五輪で5位入賞を果たし、引退後は若くして陸連投擲部長を務めていた方ながら、残念ながらこの3年後に自ら生命を絶ちました。以後、投擲の解説役は、小山裕三さんの名調子に引き継がれます。吉田さんの語り口も小山さんのそれに、よく似ていました。

中継を支えたレポーター陣は、現地通訳兼インタビュアーの冠(かんむり)陽子さん、バックヤード・レポーターの小谷実可子さん、現地キャスターの青島健太さん、スタジオキャスターの進藤晶子アナと、なかなかの役者ぞろい。
中でも冠さんは、スポーツ・インタビュアーとしては別格な存在で、その英語力は言うまでもなく、質問の内容や外国人選手の語り口の描写など、実に的確でした。彼女が初めて陸上の国際大会に登場した時は、「追い風」「向かい風」を「フォロってた」「アゲてた」と訳すなど、変にゴルフ用語の多用が目立ったものでしたが、このアテネ大会の頃には円熟した陸上インタビュアーになってましたね。
そして小谷さんは今でもスチャラカコンビとともに現役バリバリ。今もそうですが、本当に美しくまたウィットに富んだコメント力の持ち主です。2000年代に入ってテレビ朝日が「世界水泳選手権」を放送するようになると、奇数年の夏は立て続けに小谷さんのレポートが楽しめたものです。
青島さんは、面識はありませんが私の大学での同級生。プロ野球からスポーツ・ジャーナリストに華麗なる転身を遂げて、オリンピックになるとBSのキャスターなども務めていました。「アサヒスーパードライ」のCMにも起用されていました。今は何してるんでしょうね?

◇日本勢の活躍、スーパースターの栄光と落日
おっと、前フリばかりで長くなりましたので、続きは次回ということで。
内容的にも見どころの多い世界選手権だった、とだけ書いておきましょう。(続く)

孫英傑のシルエット



2000年代の初頭、マラソン強国の一角にあった中国に、孫英傑(スン・インチェ)という強い選手がいました。
活躍期間は短かったのですが、両腕をダラリと下げ、まるで「気をつけ!」をしているかのようにほとんど腕振りをしない独特のフォームで、強烈な印象を残したランナーです。
2002年プサンのアジア大会では、当時日の出の勢いにあった福士加代子選手をまったく寄せ付けずに長距離2冠を達成します。この時の福士選手のパフォーマンスが5000m=14分55秒19(セカンドベスト)、10000m=30分51秒81(PB・日本歴代2位)というハイレベルなものだったことからも、いかに孫選手の走力が凄まじかったかが伺えます。さらに驚いたことに、アジア大会の翌週には北京国際マラソンに出場して、2時間21分21秒の好タイムで初優勝を飾っているのです。
翌年のパリ世界選手権・5000mで銅メダルを獲得した孫は、その年の北京国際マラソンで2時間19分39秒、これは高橋尚子選手が持っていたアジア・レコードを破る快記録で、2005年に野口みずき選手に更新されるまで記録の上ではアジア最強の女子マラソン・ランナーとして、日本にとって脅威の存在となりました。
2004年のアテネ・オリンピックにはトラックで出場し、同僚の邢慧娜(シン・フイナ)が大番狂わせの金メダルを獲得する一方で6位に終わっています。
7830
http://www.lifeweek.com.cn/2005/1117/13647.shtml より

2005年10月、北京国際マラソンで4連覇を達成した孫は、なんと翌日行われた中国全国運動会の10000mにも出場。ここで、思いもかけない厄災に遭遇します。
レースでアテネ金の邢に次ぐ2着、タイムも31分03秒09とマラソン(2時間21分01秒)の翌日とは思えないタフネスぶりを発揮した孫選手はしかし、ドーピング検査で筋肉増強剤に陽性反応を示して、失格・出場停止処分を受けることになったのです。
後の調べで、チームメイトの某選手が10000mレース当日に孫選手のドリンクに禁止薬物を混入したためと判明したものの、ドーピング管理はあくまでも“自己責任”ということで、孫選手の処分が取り消されることはありませんでした。むろん、北京国際マラソンの時点では検査に引っ掛かることもなく、成績はそのまま残されています。
2008年の北京オリンピックを大きな目標にしていた孫選手は、この2年間の出場停止で競技への意欲を失い、フェードアウトするようにして国際舞台から姿を消していってしまいました。中国マラソン界ではその後継者として、周春秀(2006年アジア大会優勝)、白雪(2009年世界選手権優勝)といった好ランナーが輩出されましたが、現在では日本以上に深刻な低迷状態を迎えています。

あの、孫英傑ほどに極端ではないとはいえ、同じように両腕をダラリと下げる走法の2人の女子ランナー…同じスズキ浜松ACの清田真央と安藤友香が、今日の『名古屋ウィメンズマラソン』の注目選手です。
オリンピック代表を賭けたデッドヒートで名勝負の一つとなった昨年のレースから1年。みごと代表の座を射止めた田中智美(第一生命G.)と1秒差に泣いた小原怜(天満屋)の姿はありませんが、その後に続いた清田、岩出玲亜(ノーリツ)、桑原彩(積水化学)、竹地志帆(ヤマダ電機)、加藤麻美(パナソニック)らがこぞって出場。初マラソン組として、清水美穂(ホクレン)、石井寿美(ヤマダ電機)などとともに、屈指のスピードランナー安藤の名が目を惹きます。成長株の宇都宮亜依(宮崎銀行)や、19位に終わった大阪に続いてチャレンジする新井沙紀枝(大阪学院大)などの若手もいて、なかなか楽しみなメンバーが揃いました。
国内ロードレース・シーズンを締めくくるビッグ・レース、大いに満喫したいものですね。



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