いよいよ2017年も押し詰まり、年が明けたと思ったら陸上ファンにとっては至福の三が日、“16時間駅伝漬け”の正月を迎えることになります。
いやあ、駅伝の大会がこんなにも国民的行事になるなんて、私が若い頃には考えられなかったですよ。

私が子供のころから、マラソンは人気スポーツの片隅にありましたけど、それが銭になるスポーツビジネスに発展したのは、ひとえに瀬古利彦さんというスーパーヒーローが現れたからこそ。その瀬古さんの存在をもってしても、当時の箱根駅伝は地味な学生スポーツ・イベントの域を出ないものでした。
1987年に日本テレビが全国中継を始めてから、状況は一変、さらにメディアの多様化や市民マラソンの普及が急速に進むにつれ、『箱根』の人気は加速しました。
まったく、サッポロビールさんのお陰、としか言いようがないですね。

綿密な取材をもとに編成された日テレの番組制作姿勢にも、いつも感心させられます。(日テレのアナウンサー自身による事前取材の緻密さは、『世界陸上』を放映していた頃からの伝統とも言うべきもので、それゆえ「細かすぎる解説」の増田明美さんの出番がないんだそうです)たまに未熟な若手アナウンサーによる空気を読まない暴走実況が水を差しますが、『ニューイヤー駅伝』と比較すると、局としてのスポーツ放送の実力差は明らかだと思います。

その『ニューイヤー』…正式名『全日本実業団対抗駅伝競走大会』もまた、『箱根』と同様に正月の風物詩として定着しました。
こちらは、文字どおり日本の男子トップランナーの大多数が一堂に会するオールスター戦の趣と、『箱根』を熱狂させたスター選手の“その後”を見られるところが人気の理由です。サッポロビールさん同様、山崎製パンさんにも感謝・感謝です。

さて、そんな国民的行事の一つ、『箱根駅伝』について、私なりの見どころ・感じどころを、大会まであと1週間と迫ったこの期に及んで、何回かに分けて記してみたいと思います。ただ現時点でもまだ多忙な仕事の真っ最中ですんで、どこまで書けますやら…ま、書き切れなかったテーマについては、また来年の同時期に続く、ということでよろしく。
初回のお題は、「1区のミカタ」です。

◇1区のスペシャリスト「ロケットスタートの鷲見知彦」
どの駅伝にも言えることですが、1区だけは「ヨーイ、ドン!」あいや、「On your marks、Don!」の一斉スタート。つまりは一般の個人レースと同じです。違うのは、ランナー全員が汗ひとつ浸みていない折り目のついたタスキを背負っていること、すなわち「ただ勝てばいい」のではなくて、レースの流れを作るオープニング区間の担当者として、チームのためにどんな勝ち方、どんな順位の取り方をすればいいかを考えなければいけないことです。
このことは、レース展開に非常にデリケートな、しかし決して小さくはない影響を与えると思います。「ただ勝てばいい」と思って走れば余裕で勝てる力を持った選手が惨敗したり、「勝てないにしてもトップとの差を最小限に」ということだけを考えて追走した選手が意外な好成績を収めたり、ということが頻繁に起こるのです。

多くの場合、駅伝1区のランナーは、力の差が多少あっても大集団が牽制し合いながらスローペースで進行するという展開になります。「区間賞でチームに勢いを」「遅れても何秒以内に」という思惑に囚われる選手がほとんどですから、この展開は必然と言えるでしょう。
稀に、スタートからポンと飛び出し、後続を引き離す独走態勢に持ち込んで、2位以下に大差をつけて2区に貯金を残そうというレースを試みる走者がいます。
あるいは、チームのためというよりも、自身の記録を狙っての(達成できればそれがチームのためにもなる)ハイペース作り、という場合もあります。過日の『女子全国高校駅伝』の田中希実選手(西脇工)がまさにそれでした。田中選手は後続集団に吸収されてからも実力者に相応しい粘りを見せて区間3位に食い込んだのはむしろ見事でしたが、この戦法はまかり間違うと、終盤の大失速を招いてチームに取り返しのつかないダメージを与えてしまうこともあります。
いずれにしろ、1区に起用される選手は「勝負強いこと」「そのためのスピード切り替えができること」「特にラストで他者に対して数秒を稼ぎ出すスパート力を持っていること」などの条件を基準に、選ばれているものと思います。その上で、どんな展開にも対応できる勝負勘・物怖じしないハートといった要素が重要になってきます。
こうした諸条件を兼ね備えるがゆえに、多くの駅伝で1区に起用される「スペシャリスト」と呼ばれる選手も、数多くいます。

私が『箱根』1区のスペシャリストで強く印象に残っている選手の一人が、第80回大会(2004年・1年生時)から3年続けて起用された鷲見知彦(日本体育大)です。
人呼んで「ロケットスタートの鷲見」。
1区を走った3回とも、午前8時の号砲が鳴るや猛然とダッシュして日比谷通りへ左折し、独りポーンと先頭に立った鮮やかなスタート。2年目以降は、これを見るだけでもドキドキしたものでした。
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 3年にわたって見られた鷲見(日体大)のロケットスタート

実は日体大にはそれより27年も前の第53回大会で、中距離のトップランナーだった石井隆士さんが同じようなロケットスタートを決め、そのまま独走に持ち込んで後続を1分以上ぶっちぎり、チームはそのまま1度も首位を譲ることなく完全優勝を決めたという歴史があります。
1年生の鷲見が放った27年ぶりのロケットスタート(ちなみに石井さんがその年に作った1500mの日本記録は、奇遇なことに27年後の2004年にようやく小林史和さんによって破られました)はしかし、そのまま独走とはならず、いったん集団に吸収されるや、今度は区間賞候補の筆頭と言われていた橋ノ口滝一(山梨学院大)が独り飛び出し、鷲見は追走集団を先頭で引っ張る形でレースは推移しました。
橋ノ口は六郷橋付近で力尽き、集団から抜け出した鷲見が太田貴之(駒澤大)とのデッドヒートを制して、みごとルーキーながら区間賞を獲得したのでした。
解説の瀬古さんが何度も「鷲見のラストは強いですよ、見ててください」と言ったとおりの素晴らしい瞬発力。果敢にして状況判断の確かなこと。まさに、1区のスペシャリスト現る、という感じだったのを覚えています。
この時、鷲見の心中には、
「今回はまだ力不足だったけど、いつかは石井先輩のように、スタートしてそのままぶっちぎるレースをしてみたい」
という気持ちが強く残ったのではないでしょうか。

2年目もロケットスタートから同じようなレース展開になったものの、この年の鷲見はいまいちキレが悪く、終盤のトップ争いにはついて行けなくなり区間3位。
そして3年生となった第82回大会、今度こそ正真正銘のロケットスタートが炸裂しました。スタートでいつものように一気に先頭に立つと、スピードを緩めることなく後続との差を開く、開く…。
一時は2位以下に1分以上の大差をつけ、いよいよ石井隆士さんの再現かと期待された鷲見はしかし、六郷橋を前にして急激にペースダウン。「1区は俺のもの」という自信がなせる先行逃げ切り策だったのでしょうが、完全なオーバーペースでした。
翌年、最後の『箱根』となった大会の1区に鷲見の姿はなく、7区に起用されて2度目の区間賞を獲得。類まれな実力を証明してくれはしたものの、走り終えた鷲見の表情には、どこか「やり残した感」が漂っているような気がしたものです。



◇痙攣しながら区間新!“怪物”佐藤悠基

鷲見が1区から姿を消した第83回大会、とんでもないロケットスタートを見せる選手が現れました。「天才ランナー」と言われ、ルーキーだった前年に3区で区間新記録を叩き出していた佐藤悠基(東海大→現・日清食品G.)です。


この年、大手町のスタートを最初に飛び出したのは同じ2年生の大西智也(東洋大→現・旭化成)でしたが、すぐに佐藤がとって代わると、1㎞を2分50秒前後という猛烈なハイペースで引っ張り始めました。通常3分程度のスローペースで進む区間で、このペースはないだろうということで、ピタリと追走した大西以外の選手はまったく反応しません。
やがて大西をも振り切った佐藤は、10㎞を28分台で通過。無駄のない柔らかなフォームからはそんなスピードが出ているようには見えないのですが、涼しい顔のまま後続を引き離し続けます。
ところが16㎞付近で突如、脚を叩き、腕をさするという異常な動きを見せました。後々佐藤の大成にブレーキをかけ続けることになった、痙攣の発症です。
ゲスト解説を務めていた徳本一善(法政大→当時日清食品G.)によれば、「調子が良すぎて筋肉の負荷が大きくなり過ぎた結果」とのことで、人間の身体の不思議さを見る思いがしたものです。
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 ハムストリングスに痙攣を起こし苦痛に顔を歪める佐藤(東海大)

それでも佐藤は大きくペースダウンすることなく神奈川県に入り、19㎞付近で再び襲った痙攣の発作にも怯まず、ハーフマラソンを超える21.3㎞(当時の計測では21.4㎞)を、1時間1分06秒という区間新記録で走り切り、区間2位に粘った大西に4分ちょうど、3位の髙橋優太(城西大→現DeNA)には4分12秒という空前の大差を造り上げました。痙攣さえなければ、あるいはもう少し距離を踏んでからの発症であれば、60分台は確実、ひょっとしたら59分台という途轍もない記録が生まれていたかもしれません。
この大会は5区で今井正人が3年連続区間賞を獲得し「山の神」の称号を得たレースでしたが、佐藤悠基の圧巻の走り、鷲見の7区での区間賞など、印象深い名シーンが数多く見られたものでした。

◇現王者・大迫傑の『箱根』1区
佐久長聖高校で佐藤の後輩にあたる大迫傑(早稲田大→現NIKE O.P.)も、1年、2年と2度にわたって見事なロケットスタートを決め、大器の片鱗を見せました。特にルーキー・イヤーの2011年・第87回大会では、ここでライバル東洋大学につけた約2分の差が決定的なものとなり、最終的に早稲田は僅か21秒という僅差で東洋を抑え、10年ぶりとなる三冠を達成することになります。
どちらかというと後方から次々と追い抜いていくというレースが似合わない大迫もまた、1区に起用されることの多かったスペシャリストと言ってよいでしょう。


3年時は3区にまわって区間2位となった大迫は、4年時にはみたび1区にエントリー。しかしこの年の1区には山中秀仁(日体大→現Honda)、中村匠吾(駒澤大→現・富士通)、田口雅也(東洋大→現Honda)、文元慧(明治大→現カネボウ)、一色恭志(青山学院大→現GMO)、市田宏(大東文化大→現・旭化成)、松村優樹(順天堂大→現Honda)、潰滝大記(中央学院大→現・富士通)といった錚々たる顔ぶれが揃い、しかもこの年は総合優勝の大本命と呼ばれるチームがいない大混戦の様相を呈していた(結果的には東洋大の圧勝)ために、さしもの大迫も簡単には勝てないだろうと、号砲が鳴る前から実にドキドキするレースが期待されていました。

第90回の記念大会を飾った1区の戦いは、実力者が揃ったレースにふさわしく、例によってハイペースで飛び出した大迫が独走を許してはもらえない展開となりました。
結局序盤に自力を使いすぎた大迫が、六郷橋以降の勝負どころに差し掛かって先頭集団から脱落したのを尻目に、山中、中村、田口、文元が熾烈なデッドヒートを繰り広げた末、山中が区間賞をもぎ取りました。区間タイムは1時間1分25秒と、当時歴代3位になる好記録で、5位に沈んだ大迫も1年時のタイムを上回るパフォーマンスでした。
近年では、最もスリリングで見ごたえのあった1区の戦いだったと言っていいでしょう。

さて、今回の1区では、ロケットスタートを決める選手がいるでしょうか、それとも大集団からスパートの機を伺う展開となるのでしょうか。
どちらにしても、正月だからといって寝坊を決め込んで、8時スタートの1区を見逃しました、なんてことのないように、観る方としてもしっかりとコンディションを整えて臨みたいものです。