今回発掘のVHS映像は、1988ソウル・オリンピック代表選考会となった、前年暮の『福岡国際マラソン選手権』です。
前回ご紹介した97年の世界選手権から遡ること10年…ということはですね、テープの状態がかなりよろしくないです。しばしば片伸びや皺による画面の乱れが目立ちますが、まあ何とか鑑賞には耐えました。そもそもこのくらいの時代のマラソン中継ってそれ自体、中継車が揺れるたんびに画面よく乱れましたからね。

1987FUKUOKA01
スタート直前、児玉泰介らと談笑する中山竹通。第一声は
「寒いねぇ~!」だったようです。(口の動きから推察)


1988ソウル五輪の代表選考レースです。この後に行われた、『第9回東京国際マラソン』『第43回びわ湖毎日マラソン』とセットで語る必要がありますので、そちらの方にも若干触れていきます。
なお、福岡国際マラソンは2019年大会が「第73回」と謳われており、その32年前の大会が「第22回」というのは整合しませんが、当時は『国際マラソン』としてリニューアルされた1966年大会を「第1回」とカウントしていたためです。現在では『金栗賞朝日マラソン』として熊本で開催された1947年大会を「第1回」としていますので、その数え方でいうと1987年大会は「第41回」ということになります。
現在同大会の中継放送はテレビ朝日系列が行っていますが、当時(1991年まで)はNHKが中継していました。メイン実況は競泳の名実況者として鈴木大地や岩崎恭子の金メダルを伝えた島村俊治アナ。解説はかつての日本の大エース宇佐美彰朗さん、中継車解説は現役ランナーで福岡出場経験10回を誇る喜多秀喜(神戸製鋼)です。

◇世紀の選考レース、その背景
この頃、日本の男子マラソン界は絶頂期を迎えていました。
陸連が指定する強化選手の最上位に名を連ねた選手たちは「8人のサムライ」などと称され、誰を出しても世界大会の表彰台を狙える実力があったと言われています。
 瀬古 利彦(エスビー食品) 2:08’ 27"
 新宅 雅也(   〃   ) 2:09’ 51"
 宗   茂(旭化成) 2:09’ 05" 6
 宗   猛( 〃  ) 2:08' 55"
 児玉 泰介( 〃  ) 2:07' 35" (NR)
 谷口 浩美( 〃  ) 2:09” 50"
 伊藤 国光(カネボウ) 2:07’ 57"
 中山 竹通(ダイエー) 2:08' 15"

「サブテン」が一つの世界基準と言われた時代ですが、8人の他にも、喜多、仙内勇(ダイエー)、西政幸(旭化成)、阿部文明(NEC)、工藤一良(日産自動車)等々、2時間10~11分台で走る選手はゴロゴロいて、まさに黄金時代でした。
オリンピック前年の暮が近付き、日本陸連は『福岡』『東京』『びわ湖』の3大会を代表選考会としながらも、「有力選手は12月の福岡国際に出場することが望ましい」という指針を表明しました。80年のモスクワ、84年のロスがそうであったように、結果によっては福岡国際一発で3人の代表を決めてしまいたい、という目論見です。大資本や広告代理店の思惑が重要視されていなかった時代のことですから、そうした方針は陸連の意のままだった、と言えます。
ちなみに、この年はローマで第2回世界選手権が開催されていますが、当時は世界選手権の成績を代表選考に反映させるという発想がなく、冬場の選考会シリーズを最大目標とするマラソンの一線級は、すべて敬遠するという傾向がありました。ローマの男子には西、阿部、大須田祐一郎という“Bチーム選抜”3人が代表として参加しますがいいところなく、ヱスビー食品に所属するダグラス・ワキウリ(KEN)が優勝しています。

「事件」は11月に起こりました。
代表最有力候補の一人と見られていた瀬古が、『東日本実業団駅伝』に出場した際、タスキリレーの直後に足首を捻挫、福岡への出場が不可能となってしまったのです。
これを受けて陸連は前言を撤回し、「東京・びわ湖の結果をも選考材料に加える」と大慌ての声明を出しました。つまり、どちらかのレースで一定以上の結果を出せば、代表候補として選考の俎上に載せる、という瀬古のための救済措置です。

幻となったモスクワ五輪の頃から「世界最強」と言われ続けてきた瀬古は、84年ロス五輪で一敗地に塗れた後、結婚や恩師・中村監督の急死といった紆余曲折を経ながらも、ロンドン、シカゴ、ボストンと海外のメジャー大会でことごとく圧勝し、いよいよ日本の大黒柱としての評価を高めていました。加えて代表選考の場となる福岡は、前2回の選考レースを含めて4度優勝している勝手知ったるレース。(多少コースが変わっていますが)当然、本命中の本命と目されていました。

「8人のサムライ」のうち、瀬古、宗兄弟、伊藤の4人はモスクワ以来のライヴァルです。一方あとの4人は、ロス五輪以降に台頭してきたいわば新勢力。特にロス五輪直後の福岡で優勝してトップ戦線に躍り出た中山は、外見も経歴も、またそれ以降のレースぶりも、そして言動も、従来のマラソン界の常識を覆す特異な存在として輝いていました。
世界的にも長身ランナーで知られた宗兄弟を上回る180㎝の長身。骨太の体格に、いかつい異相。
高校卒業後に安定した就職先に恵まれず、転々とした末に新設のダイエー陸上部に加入。
そのレースプランは自由奔放で、時に突然集団を置き去りに独り先頭をひた走り、時に集団の中で前後左右に位置を変えながら様子を伺うという破天荒さ。
遠慮のない物言いには不器用さを感じさせる一方で、聴く人によってはその外見と相俟って、「不遜」と捉えられることがしばしばでした。86年には、瀬古が賞金レースであるシカゴマラソンに派遣された一方で自分がソウル・アジア大会代表に指名されたことについて、「不公平感」を匂わせる発言をしたとも言われています。
王者・瀬古の現役時代が「寡黙な修行僧」「謹厳実直な好青年」というイメージに塗り籠められていた(実態は、今と同じく饒舌で駄洒落好きの、明るい若者だったようです)のに対して、アンチテーゼとしての中山には「ヒール」もしくは「ダーティーヒーロー」のレッテルが貼られました。


◇這ってでも出てこい!

その中山こそが、本命の瀬古を脅かす最右翼。すでにマラソンでは1985年のワールドカップで2時間8分15秒のベスト(当時の日本記録)を出して瀬古を上回り、スピードスター瀬古の“勲章”であった10000mの日本記録までも、この年の7月には更新しています。
世間の注目は、「勝つのは瀬古か中山か。3番手は残る4強の中の誰か?」(この時点で宗兄弟は力の衰えが明らかで、自身もセミリタイアのような心境だった模様。宗茂は福岡に出場すらせず引退を表明し、宗猛は招待選手の待遇を辞退しました)という下馬評に沿って集中し、異様なまでの熱気が渦巻き出していました。
その矢先での、瀬古のリタイアでした。

「瀬古よ、這ってでも出てこい!」
瀬古のレース回避とそれに対する陸連の対応について感想を求められた中山がこんなコメントを返したとして、翌日のスポーツ紙の一面には特大の見出しが躍りました。
これについて後年尋ねられるたびに、中山は
「いやあ、僕はそんなこと言ったつもりはないんですが…」
と苦笑を浮かべたそうです。
実際には、中山が発したコメントは
「まあ僕だったら、這ってでも出ますけどね」
というものだったようです。
つまり、陸連の瀬古に対する絶大な信頼と優遇を半ばやっかみつつも、もし悪役イメージの自分が同じ境遇になれば決して救済はされないだろう、だから這ってでも福岡に出る以外に選択肢はない、という感想だったのです。中山にとっての瀬古は常に「雲の上の存在」であり、その背中を目標とするところに己の競技人生がありました。同じ土俵に立つ者として当然の敵愾心はあっても、畏敬の念に変わりはなく、そんな自分がそういう物言いをするわけがない、というのが後年の中山が言いたかったことのようです。
込められた真意はどうあれ、そのコメントは中山のキャラクターに似つかわしく、「這ってでも出ろ!」と過激にアレンジされて公のものとなりました。
マラソンのオリンピック代表選考が紛糾し、その紛糾がマスコミを媒介として形を変え増幅していくという悪しき風潮が、ここに生まれました。(それ以前にも紛糾事例はありましたが、マスコミがここまで介入するようになったのは初めてでしょう)
この現象はその後、4年後のバルセロナ大会(松野明美騒動)に引き継がれ、MGCが考案されるまでのオリンピアード行事となっていくのです。


◇もう一つの伝説「雨中の大激走」

中山が発したとされるコメントが長く陸上界に「伝説」となったのとともに、レースそのものも日本マラソン史上に語り継がれるものとなりました。
こうした勝負が重要視されるレースでは、ペースメーカーがいない限りは互いにフロントランナーとなることを避け合い、スローペースで推移するのが通例です。ましてや、当日は冷たい雨が降りしきり、気温7度前後、風速4~5m/sという辛いコンディションでした。
ところがこのレースでは、タンザニアの伏兵ロバート・サイモンがとんでもないペースで飛び出したことと、本命の中山が何食わぬ顔で序盤からそれを掴まえに行ったことが、中盤まで大集団で進むだろうと思われた展開を一変させました。

5㎞を14分30秒で通過したサイモンを中山が5秒差で追い、これに釣られるようにしてベライン・デンシモ(ETH)、谷口、西、仙内、新宅、そして宗猛といったあたりが棒状の隊形で追走します。
一旦中山らの集団に吸収されたサイモンは、その後もしばしば思い出したようにスピードアップしては独り抜け出し、また吸収されることを繰り返したためペースは落ち付く暇もなく、10㎞を過ぎると谷口以下の追走集団は遅れ始めて3位グループを形成することになります。そこからさらに遅れて、児玉と伊藤を核とする第3グループ。前からこぼれてきた西が吸収され、東ドイツ勢なども含まれ、人数は12、3人というところ。
15㎞あたりで中山は完全にサイモンを振り切り、独走状態になります。途中計時は世界最高、日本最高のそれを大きく上回り、気象条件を考えれば無謀なオーバーペースにも思えます。
やがてサイモンが失速して、2位集団は新宅、谷口、仙内、デンシモの4人。新宅が前を引く時間が多く、この中では最も調子が良さそうな気配。
7位グループは児玉が牽引していましたが次第に切れ味が悪くなり、元気なのが坂口泰、谷口伴之のエスビー勢。これに前年4位と健闘した工藤、
翌年の大会を制することになる渋谷俊浩(雪印)、韓国代表入りを目指している金哲彦(リクルート)などが食い下がって、高速レースならではのハイエナ戦法に望みを賭けます。すでに伊藤は脱落気味、宗猛は圏外に去ってしまいました。
1987FUKUOKA02
サイモン(TAN)を置き去りに独走態勢に入ろうとする中山。

1987FUKUOKA03
追走集団の右から新宅、谷口、デンシモ、仙内

1987FUKUOKA04
さらに後方の追走集団。右から坂口、西、トルスチコフ(URS)、児玉、渋谷、
ハイルマン(GDR)、金。坂口のさらに右には工藤がいます。


中山のハーフの通過は1時間01分55秒。単純計算ならば実に2時間03分台の猛ペースになります。
この時点での世界最高記録はカルロス・ロペス(POR)の2時間07分12秒。これはロス五輪金メダルの8か月後にロッテルダムマラソンで叩き出したもので、序盤は比較的ゆったりとしたイーヴンペースだったため、35㎞までは日本最高記録(児玉の2時間07分35秒)のスプリットタイムの方が速くなっています。ハーフで中山はこのロペスのペースを1分29秒上回っています。
耽々と我が道を行く中山は、そのイメージとは少し異なり、非常に端正でバランスのいい、美しいフォアフット走法で突っ走ります。それは、地道で豊富なトレーニングを雄弁に物語るフォームでした。瀬古が宗兄弟の練習量を聞いて恐れ戦き、その宗兄弟が中山の練習ぶりを見て「俺たちの時代は終わった」と肩を落とした、と言われたのも頷けます。

かつては「海の中道」という博多湾に突き出した砂州の中央を進んでいき「雁ノ巣」という場所で折り返すのが特徴的なコースだったのが、85年大会から手前の「和白丘」折り返しへと変更になり、その分序盤に周回コースで距離を調整しているため、折り返し点は26㎞過ぎの地点。
お互いの差が実感できるここで、中山と2位グループからやや抜け出した新宅、デンシモとの差は1分32秒。以下仙内、谷口、サイモンと続いた後、工藤が引っ張り始めた7位グループは3分04秒差。
もはや、この時点で中山の優勝、2番手の椅子が新宅、谷口、仙内のいずれかというのは確定的な形勢となって、あとは中山の世界最高記録なるかが焦点ということになりました。
1987FUKUOKA05
1987FUKUOKA06
35㎞までは、「世界最高大いに有望」との観測が出ていました。

その中山のペースは25㎞で初めてラップが15分台に落ち、なおも快走を続けて35㎞まで日本最高、世界最高のスプリットを大きく上回りますが、その辺りから目に見えてスピードダウン。35㎞からの5㎞ではとうとう16分22秒にまでラップが落ち込んで、最後の切り替えもできずに記録更新はおろか自己ベストにも及ばず、大会記録タイ(R.ドキャステラ。コースは異なる)の2時間08分18秒でのフィニッシュとなりました。
このレースで中山は、1回もドリンクを摂っていません。気候・気温を鑑みれば、水分補給という意味ではそれでもよかったかもしれませんが、糖分補給を怠ったことが、最後の最後にエネルギー切れを招いたのではないかという憶測もあります。
とはいえ、そのパフォーマンスはあまりにも衝撃的でした。このコンディションでこの記録は、当時の状況からは破格にして世界トップの実力があることを十分に証明してみせるもので、おそらく瀬古が出ていたとしても敵わなかっただろうと思わされます。

さて注目の「2番目の椅子」は、こちらも折り返しを過ぎて新宅の独走状態となり、「中山とそれ以外のレース」の中では一枚上手の実力を示しました。
ソウル代表が決定的となった新宅は、モスクワ(不参加)での3000mSC、ロスでの10000mに続いて3大会連続の、それも全て異種目でのオリンピック出場という空前絶後の業績を上げました。ちなみに新宅は、アジア大会でも3大会連続、3000mSC、5000m、10000mでの異種目金メダルという快挙を達成しています。
谷口は新宅らとの2位争いの中で、脚に痙攣を発するなどして終盤得意の粘りを発揮できず6位に沈み、第3グループから追い上げた工藤が日本人3位になって、「残り1枠」の候補者として東京・びわ湖の結果を待つこととなりました。
伊藤は17位。序盤で先頭に食らいつく動きを見せた宗猛は折り返し点でストップ。放送車の解説席で戦況を見守った喜多秀喜とともに、一つの時代の終焉を物語る結果となりました。
1987FUKUOKA07


◇そして、瀬古は…

2月の『東京国際マラソン』には、福岡の結果に悔いを残した谷口浩美など何名かの選手が「追試」に応募したものの、谷口は後半の日比谷付近で早くも失速。結果8位となって、ソウル代表の望みは完全に断たれました。
3月を迎えて、ようやく負傷癒えた瀬古が『びわ湖』に登場。
外国人招待選手の参加はなく、他に有力選手と言えばこれも再挑戦となる西政幸くらい。快晴となったレース当日は早春の日差しがもろに照り付け、気温17度、体感温度は20度を超える、福岡とは真逆の厳しいコンディションとなりました。
おおよそ15分/5㎞の快調なペースを刻んだ瀬古に誰一人ついていくことができず、レースは瀬古自身初めての経験となる序盤からの一人旅になりました。
いつも他人の背中を借りて好結果を出すと言われた瀬古とすれば、真の実力を示す絶好のチャンスとも言えたのですが、高い気温のためか故障明けの調整不足なのか、或いは三十路を過ぎての体力の衰えなのか、後半は著しいペースダウン。福岡で3番手の工藤か記録した2時間11分36秒が一つの目安と言われていながら、独走優勝とはいえゴールタイムは2時間12分41秒に留まりました。
ゴール間近で、汗びっしょりの顔を苦痛に歪める瀬古の姿が大きくテレビに映し出され、この時点で「王者の落日」を感じ取ったファンは少なくありませんでした。直接対決こそ叶わなかったものの、時代は確実に、瀬古から中山へ、禅譲が行われたのです。
瀬古にとっては福岡、ボストン、東京、ロンドン、シカゴに次ぐ6つ目、通算10回目のメジャー・タイトル。しかしこれが、最後の優勝レースとなりました。東京国際マラソン誕生以降、日本国内3大メジャーを全て制したランナーは、後にも先にも誰もいません。

結局、中山・新宅・瀬古と、3人の代表は意外にすんなりと決定されました。
もしも福岡での日本人3番手が工藤ではなく瀬古と同じ候補指定選手の谷口で、そのまま東京に出ることなく静観していたならば、論理的に言って3つ目の切符の行方はもっと紛糾していたことでしょう。瀬古のタイムが悪かったことは気温が高かったこと、2着になった実力者の西に3分近い大差をつけたことが、酌量さるべき情状となり、瀬古の実力は証明された、と陸連は判断したのです。
本番のオリンピック。エースとして臨んだ中山は、前年の世界選手権メダリストの3人(ワキウリ、サラ、ボルディン)とともにメダル争いを繰り広げながら独り取り残されて4位。瀬古はロスに続いて入賞にすら及ばず9位。
己の限界を確かに感じ取った瀬古は、ガッツポーズでのゴールで、12年間のマラソン人生を締めくくりました。