前回予告のとおり、TBSテレビ『消えた天才』に登場したもう一人の陸上選手・飯島秀雄さんについて、ご紹介します。
実を言うと、飯島さんについては現在連載休止中(?)の『100m競走を語ろう』の第19回に取り上げるつもりでいたのですが、事実関係の確認などに手間取っているうちに時間が経過してしまい、現在に至っていました。番組の内容からいくつか新しい情報も得られたので、ここでまとめてみようと思います。

近年未曽有の盛り上がりを見せている男子短距離界の歴史において、先にご紹介した藤井實、吉岡隆徳、人見絹枝といった大先達と並んで欠かすことのできない存在、それが飯島秀雄選手です。
戦前に「世界タイ記録」として記録された吉岡の日本記録を29年ぶりに更新し、世界中のスプリンターが目標とした「100m10秒の壁(手動計時)」に日本人として唯一、挑み続けた男。
1964年東京、68年メキシコシティと2度のオリンピックに出場し、これまた吉岡以来のファイナリストへあと一歩のところまで迫った男。
突如として陸上界からプロ野球界へと転身し、華やかなスポットライトとプロの辛酸という両極端の世界を味わった男。
自身が引き起こした交通人身事故のためにいったんは社会から消え去り、そして再び、陸上の世界に帰ってきたスプリントのレジェンド。
まさしく波乱万丈の人生を歩んできた飯島さんは、現在故郷・水戸市で小さな運動具店を経営しつつ、明るく過去の自分を笑い飛ばし、また将来の大きな夢について語ってくれました。
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飯島さんが短距離選手を志したのは、県立水戸農高に入学してからです。素質を見出されて東京の目黒高に転校し、やがて当時実業団日本一だったリッカーミシンの吉岡隆徳コーチの指導を仰ぐようになります。早稲田大進学後も、練習は主にリッカーのグラウンドに出向いて英才教育を施されました。
「日本記録は自分の育てた弟子に破らせたい」と情熱を注ぐ吉岡にとって、飯島と女子の依田郁子は秘蔵っ子とも呼べる存在となり、二人はともに64年東京オリンピックの短距離最大のホープとして注目を浴びることとなるのです。
東京五輪の年を迎えた4月、飯島は国内で10秒3をマークして師・吉岡の日本記録に並ぶと、6月にはベルリンの競技会で10秒1の日本新記録を叩き出しました。日本記録を一気に0.2秒更新するとともに、当時世界ではアルミン・ハリー(GER=ローマ五輪を制しすでに引退)とハリー・ジェローム(CAN)だけが持っていた10秒0に次ぐ、世界歴代3位タイの記録でした。一躍、東京オリンピックの金メダル候補の一角に名乗り出たのです。

飯島の最大の武器は、吉岡から伝授された鋭いスタートダッシュでした。加えて飯島には吉岡が恵まれなかった176㎝の上背と骨太の体格がありました。筋力を活かしてスタートラインの手前で大きく両手を開き、「用意」で前方にぐいと体重を預ける構えから低い姿勢で飛び出すそのフォームは「ロケットスタート」と命名され、吉岡の代名詞だった「暁の超特急」にあやかって、飯島には「暁のロケット」というニックネームがマスコミによって奉られました。
飯島のスタートは、国際舞台でも前半は確実に海外のスプリンターたちをリードする卓越したものでしたが、その反面、吉岡が1932年のロス五輪で味わったのと同様、後半に伸びを欠いて失速するという弱点をも引き継いでいました。東京、メキシコシティともに危なげなく準決勝まで進出しながら、ファイナルの壁はあくまでも高く厳しく、飯島の前に立ちはだかったのです。
思えば、「あの飯島が超えられなかった壁」が、その後半世紀以上にもわたって日本のスプリント界を呪縛し続けている、そう言っても言い過ぎではないでしょう。

大学3年で迎えた東京オリンピックで、1次予選10秒3(全選手中1位)で1着、2次予選10秒5で3着の後、準決勝はスタート直後から精彩なく10秒6の7着。
その後1966年に2度にわたって10秒1の日本タイ記録で走り、68年のオリンピック(当時は茨城県庁所属)では1次予選10秒24(追風参考・全選手中5位)、2次予選10秒31(追風参考)で3着、準決勝はスタート直後トップに立つも10秒34で8着と敗退しました。このタイムは手動計時であれば10秒1から2に相当するもので、飯島は2度目のオリンピックの舞台で実力を十分に発揮したと言ってよいのですが、電子計時でも9秒台に突入した世界の急速なレベルアップには置いて行かれた形となったものです。
3度にわたって記録した10秒1は、結局そのまま「最後の手動計時日本記録」として、複数の選手にタイ記録で並ばれはしたものの永遠のものとなりました。またメキシコで記録した10秒34は、その後電子計時のみが正式採用されて数年が経過した1984年に至って、改めて「日本記録」として公認されていますが、それまでの間は「10秒3」として扱われていました。

飯島の人生は、メキシコから帰国して間もなく、その年のプロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)から9位指名を受けて「代走専門選手」としてプロ野球入りしたところで急転回を迎えます。
陸上に見切りをつけた理由が「自分の走りでは、新素材のトラックに対応できない」というものだったというのは今回初めて聞いた事情で、驚きました。
今ではスタンダードになっている陸上トラックのゴム・合成樹脂素材は、メキシコシティ・オリンピックで初めて世に出たものです。私が陸上競技を始めたのが1971年で、当時東京では世田谷総合運動場と東京体育館(300m)の2箇所しかタータントラックはありませんでした。世界中のトラックがやがてそうした全天候型舗装に取って代わられることになるとは想像もできなかったのですが、飯島はたった1回オリンピックで走っただけで、自身の将来に見切りを付けたというのです。

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さて、飯島ストーリーの第2章…中学時代は野球部に所属していたとはいえ、いわば「ど素人」がプロの世界で何ができるのか…注目を集めた飯島はプロ初試合となった東京スタジアム(現在は消滅)での南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)との2回戦で、同点の9回裏に一塁代走として起用されました。
南海のキャッチャーは、あの「ノムさん」こと野村克也。プロ野球史上ナンバーワンとも評される当時の名捕手です。「野球はど素人」そのままに、リードもせず、投手が投球動作に入ってよほど経ってからスタートを切った飯島はその“変則スタート”ゆえにかえって南海守備陣の度肝を抜き、野村の二塁暴投を招いて一気に三塁へ。次々打者のヒットでサヨナラのホームを踏むという、最高のデビューを飾りました。

デビューこそ華々しく、また飯島見たさに閑古鳥が鳴いていたパ・リーグのスタンドには多くのファンが詰めかけるようになりましたが、その後の成績は振るいませんでした。
結局プロ3年間で盗塁23、盗塁死17、牽制死5、得点46。ひたすら前を見て直線を走ることだけに磨きをかけてきた飯島にとって、投手のモーションを盗み、牽制をかいくぐり、「カニみたいに」横向きにスタートを切ってベースにスライディングするという「プロの走り屋」の世界はあまりに厳しい現実を突きつけたのです。実直な性格の彼が、トリックプレーや口先の騙しに簡単に引っ掛かったというのも、さもありなんという感じがします。とはいえ、3年の間にそうしたプロの技術をほとんど吸収することなく終わったというのも、本人はもとより当時のプロ野球界の悠長さが伺えて、面白さを感じてしまいます。

1971年シーズンを最後にプロ野球界を去ってからしばらくの期間のことについて、今回の放送では何も言及しませんでした。
故郷の水戸に戻って運動具店を開業していた飯島は、1983年、国立霞ヶ丘競技場で行われる陸上競技会に出場する娘の応援に自ら運転してきたクルマで、幼い少女を撥ねて死亡させる人身事故を起こし、交通刑務所に服役しています。事故があった現場はJR四ツ谷駅前の信号で、実は当時私が通っていた会社へ向かう通り道でした。その後何年にもわたって小さな献花が絶えることなく続いていたのを覚えています。その事故の当事者があの飯島であったことを知ったのは、だいぶ後になってからのことです。
スプリンターからプロスポーツへの転身、そして罪を犯しての服役…ちょうど、東京オリンピックの男子100m金メダリスト、ボブ・ヘイズ(USA)が辿ったのと同じような波乱の人生を、飯島は歩んでいました。

その飯島の名前が再び大きく浮上してきたのは、水戸市の陸協に籍を置き、短距離競走の出発係(スターター)として実績を積み重ねた末に、1991年の東京世界選手権で男子100mのスターターを務めるという栄誉に浴した時です。
かつての名スプリンターが名スターターに…それは、かつて師と仰いだ吉岡隆徳の無二の親友でありライバルだった佐々木吉蔵が、飯島も出場した東京オリンピックの100m決勝のスターターとして名を馳せたのと、同じプロセスでした。吉岡と佐々木、戦前を代表する2人のスプリンターの系譜を、飯島はともに受け継いだことになります。

今回の番組と同じような企画のものを、私はこの東京世界選手権の少し前、つまり服役を終えてしばらく経った頃にもTVで見た記憶があります。やはり「あの人は今」的な趣旨のもと、運動具店の奥から現れる演出までそっくり同じでしたが、その頃の飯島さんはまだ壮年のがっしりした体形で、おぐしもフサフサとしていたように覚えています。
今年73歳となった飯島さんは、それでも「3年後の東京オリンピックでスターターをやって、陸上界に恩返ししたい」と、大きな夢を語ってくれました。
日本人初めての100m9秒台。戦後初のオリンピック・ファイナリスト。
その野望を最初に抱いた伝説のスプリンターは、自らの手で打ち鳴らした号砲で飛び出した選手が、己の果たせなかった夢をかなえる瞬間を待ち望んでいるに違いありません。それほど、陸上界に置き忘れてきたものは大きかったということなのでしょう。

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<連載>100m競走を語ろう
http://www.hohdaisense-athletics.com/archives/cat_172993.html