豊大先生流・陸上競技のミカタ

陸上競技を見続けて半世紀。「かけっこ」をこよなく愛するオヤジの長文日記です。 (2016年6月9日開設)

2020年06月

男子2000m団体はリモートレース~DLオスロ大会・主な結果



昨日告知した、WAダイヤモンドリーグ2020第1戦、ノルウェー・オスロ大会の主な結果です。


◇男子300mH
 ①カルステン・ワルホルム(NOR) 33" 78(WB)

単独走のワルホルムが、特殊種目の世界最高記録を樹立。
従来の記録はクリス・ローリンソン(GBR)が2002年に出した34" 48。ケヴィン・ヤングの400mH世界記録時の300mスプリットタイムは34秒1。

◇女子300mH
 ①サラ・スロット・ペテルセン(DEN) 39" 42
 ②ユエル・アマリエ(NOR) 39" 44
 ③レア・シュプルンゲル(SUI) 39" 86

女子も実力者が出場し、リオ五輪銀メダルのペテルセンが接戦を制しました。ハードル間13歩にチャレンジすると公言したシュプルンゲルは1台目でリズムを崩し、僅差ながら最下位に終わりました。

◇男子2000m/チーム・オスロ
 ①ヤコブ・インゲブリクトセン 4' 50" 01(AR)
 ②ヘンリク・インゲブリクトセン 4' 53" 72
 ③フィリップ・インゲブリクトセン 4' 56" 91
◇男子2000m/チーム・ナイロビ
 ①ティモシー・チェルイヨト 5' 03" 05
 ②エドウィン・メリ 5' 13" 12
 ③イライジャ・マナンゴイ 5' 18" 63

チーム対抗が注目されたこの種目は、どうやらチームごとに別々の場所で同時にレースを走り、3人の合計タイムを競うリモート・レースだったようです。両チームとも、2人のペースメーカーが同走して5人編成です。
ケニア・チームはナイロビ・スタジアムからの参戦。標高1800mの高地の上に雨・強風ということですから、いくら何でも不公平?
勝敗的には、インゲブリクトセン3兄弟の圧勝。コンディションの違いや展開上の機微ということもあるでしょうが、末弟ヤコブのタイムはヨーロッパ新記録ですから、文句なしですね。ちなみに大会記録は、あの懐かしいジョン・ウォーカー(NZL)が持っていた4分51秒52でした。

◇男子25000m
 ①ソンドレ・ノースタット・モーエン(NOR)
   1: 12' 46" 5(AR)

かつて瀬古利彦が世界記録を持っていた特殊種目でヨーロッパ新記録を叩き出したのは、2017年の福岡国際で「白人世界最高記録」をマークしたモーエンです。他に4人の同国選手が出ていましたがいずれもDNF。ペースメーカーだったとも考えられますが、ペース表を見るとモーエンは10000mから、ほぼ独走でこの記録に到達したようです。

◇女子10000m
 ①テレーセ・ヨハウグ(NOR) 31' 40" 67
T,ヨハウグ
 左がヨハウグ。中央はマリット・ビヨルゲン。

個人的に大注目したテレーセ・ヨハウグは、独走で自己ベスト(それまでは32分台)を達成。さすがにクロカン・スキーの世界女王ともなると、このくらいは軽い軽い、というところでしょうか。
考えてみれば、冬のスピードスケート選手が夏の自転車競技に出てくるというのは、橋本聖子大臣の例を見るまでもなく普通にあることなんですが、クロスカントリー・スキーと陸上長距離というのは、なかなかありそうで事例が少ないですね。思い出されるのは、スキーから転向して第一生命などで活躍した野尻あずさ選手くらい。クロカン・スキーでは30秒ごとのインターバル・スタートによるタイムトライアル方式で行うレースもありますから、独走はお手の物でしょう。
この記録ではまだまだ日本選手にも及びませんが、本腰を入れたらどこまで伸びるのか、トライアスロンからマラソンに転向したグエン・ジョーゲンセン(USA)などとともに、今後の動向が楽しみです。

◇男子棒高跳
 ①アルマンド・デュプランティス(SWE) 5m86
 ②ルノー・ラヴィレニ(FRA) 5m81

◇男子円盤投
 ①ダニエル・ストール(SWE) 65m92
 ②シモン・ペテルション(SWE) 64m54

フィールド注目の2種目は、ともにスウェーデン勢の勝利。この状況下で、なかなか仕上げてきていますねえ。

今大会をネット上の情報で見聞する限りでの感想ですが、「勝負と記録」の両面性を持つ陸上競技の新たな一面をプレゼンテーションしてくれたという気がします。
もちろん健全な形で競走種目が開催できればそれに越したことはありません。ですがそれが叶わない現在のような場合、単独走やごく少人数でのレースをタイムトライアル的に行うことで、新しい形の陸上レースが楽しめるのではないか、という興味です。スキーやスケートでは物理的な都合から、こうした形式のレースが主流となっていますが、それを陸上にも応用できるのではないかと。たとえばロードレースをタイムトライアルで行うことで、密集した状況を避けることができます。その形式のレースに独自の強さを発揮する選手というのも現れてくるでしょう。
リモート・レースというのは今回のように条件が違い過ぎるとあまり意味はないようですが、それでも勝敗にこだわる必要がないとなれば、それぞれのレースを満喫する姿を楽しむ、という見方もできます。
柔軟な発想で、選手の活躍の場を提示したオスロの関係者に、またそれに好記録で応えた選手たちに、拍手を送りたいと思います。 

今夜注目(?)のダイヤモンドリーグ初戦



2020DL01

沈黙の続いていた世界の陸上界で、先陣を切って開催されるWAダイヤモンドリーグ・オスロ大会すなわち「ビスレット・ゲームズ」が、本日開催されます。
どうやら昨年までDLシリーズを完全中継していた日テレG+は放送契約更新をしていないようで、残念ながら日本での生中継はなさそうです。また、当然ながらまだほとんどの国で国際大会に選手を派遣できる状況にはなく、したがって今大会はDLポイント云々とはいっさい無関係に、トラック競技は特殊種目を中心に行われるようです。
エントリー・リストに名を連ねているのは地元ノルウェーとスウェーデンの選手が大半を占め、それでも各種目フルエントリーは望むべくもない様子で、「コロナに負けないぞ!」というメッセージを発信する一種のデモンストレーション大会と見るべきでしょう。

ノルウェーとスウェーデンばかりとは言っても、近年スター選手を複数擁する両国ですから、そのほぼ全員が顔を見せるとなるとなかなか豪華です。
ノルウェー勢では、カルステン・ワルホルムが300mHに出場。ただし今のところエントリー・リストには彼一人の名前しかなく、まさに顔見世単独走ということになるんでしょうか。
そして何といっても中距離のインゲブリクトセン3兄弟。彼らが出場する2000mはどうやらチーム対抗戦として行われるらしく、3兄弟に対するのは世界王者ティモシー・チェルイヨト率いるケニア軍団。集団駆け引きには定評のあるインゲブリクトセン兄弟ですから、面白そうですね。

そして、女子10000mのリストにとんでもない名前を見つけてしまいました。
テレーセ・ヨハウグ!…といってもピンとこない方が多いかとは思いますが。
ノルディックスキー・クロスカントリーの絶対女王です。
ノルウェーと言えばご存じのとおり、スキー・クロカン王国。少し前まで女子ではマリット・ビヨルゲンという選手が滅茶苦茶強かったのですが、そのビヨルゲンが一線を退いて、後継者の椅子にデンと座っているのが、ヨハウグです。ドーピング違反により2018平昌オリンピックには出られませんでしたが、昨年の世界選手権では10㎞クラシカル、15㎞スキーアスロン、30㎞フリーの3種目でいずれも圧勝しています。
スキー界のアイドル的存在だったヨハウグも間もなく32歳となります。夏冬オリンピックを目指しての本格参戦なのか、あくまでも夏場のトレーニングを兼ねて顔見世の一環なのか、結果が注目されます。(この種目も、エントリーは彼女1人だけ)

スウェーデン勢では、棒高跳の世界記録保持者アルマンド・デュプランティスが特別ゲスト(?)にルノー・ラヴィレニ(FRA)を迎えて豪華なマッチアップ。円盤投にはダニエル・ストールが登場します。

ところで今期のDLには「WANDA」という冠が付いており、これは缶コーヒーのブランドではなくて中国の「大連万達グループ」というコングロマリット企業。威勢のよろしいことで。

↓ DLオスロ大会HP
https://oslo.diamondleague.com/home/

連載「懐かしVHS時代の陸上競技」#5 ~2002年/第22回全日本実業団女子駅伝


まさかの前回からの連作です。同じ大会、1年違いの映像テープが続けて発掘されるとは予期していなかったので、前回少しネタバレなことを書いちゃいましたけど、まあもともとネタバレしてる過去の大会の記事ですから。
岐阜折り返しコース時代の42.195㎞。参加は27チーム。
旭化成、ダイハツ、京セラといった古豪チームが本戦に復帰し、前回初出場で旋風を起こしたグローバリーは連続出場ならず。前回1区区間賞・橋本康子の日本生命と藤川亜希のラララはチームが消滅。またこの頃に盛んにあった金融機関の合併などにより、前回2位の東海銀行はUFJ銀行に、9位の富士銀行はみずほ銀行に名称変更しています。
スタジオ実況・解説は前回と同じ椎野・増田コンビ。ゲストにこの時点でセミリタイア状態にあった川上優子選手(沖電気)。
2002女子駅伝01

◇三井住友海上の3連覇なるか?
言うまでもなく優勝候補の筆頭は、2000年代2戦2勝の三井住友海上。今回も土佐礼子は不在ながら、渋井陽子・坂下奈穂美の両エース健在に加えて、大物ルーキーの橋本歩、大山美樹がスターターとアンカーを固め、チーム事情は前回以上と期待されます。
前回は2枚看板が不発に終わった資生堂は、大卒2年目の加納由理を3区に抜擢してエスタ・ワンジロを1区に投入。豊富な選手層で今度こそはと、悲願の初優勝を狙います。
前回2位のUFJ銀行は、相変わらず2組の双子が主力。この年には大南姉妹の妹・敬美がロッテルダムマラソン優勝(2時間23分43秒)、姉の博美はアジア大会銅メダルと、ともにマラソンで大きく躍進していますが、反面駅伝の距離ではどうかというところ。
前回3位の天満屋。エース松岡理恵と両輪を組むのは、入社4年目の坂本直子。この1か月後には大阪で衝撃のマラソンデビューを果たす逸材が、5区を走ります。
幾多の強豪マラソンランナーを輩出した名門ダイハツは、しばらく競技を離れていた大越一恵が復帰して5区、3区には快速・山中美和子(現監督)が登場します。山中はこの年の『全国女子駅伝』で1区の区間賞を獲得し、翌2003年には同じ区間で、2020年まで破られなかった18分44秒(6.0㎞)の大記録を樹立する、鮮烈な印象を残した名選手です。

◇1区(6.6㎞。以下コース、区間割は前回同様)
超スローペースで始まったレースは、三井の橋本、京セラの阿蘇品照美といった若い選手が堪まりかねて前に立ち、中間にかけて次第にビルドアップする展開。阿蘇品はこの後、日本のトップランカーへと成長する有望株ながら、まだこの時点では実績が足りず、先頭集団の中ではエスタ・ワンジロの力が飛び抜けている感じです。もう一人の有力ランナー、UFJの王春梅は中盤で早くも脱落し、前回2位のチームが早々に苦境に立たされました。デンソーの永山育美も早々に圏外。
そして、4㎞を過ぎたところで橋本の左脚に異変。文字どおりブレーキをかけたような状態になって、大本命の三井もいきなりピンチです。
次第に先頭集団が絞られる中、前の方でじっくりと機を伺っていたエスタが、ゴール前200メートル強でデオデオの選手(名前が思い出せません)が放ったスパートにカウンター・アタック。最後は旭化成の上田美恵との僅差のトップ争いを制して区間賞獲得です。本来なら圧倒的な実力にモノを言わせて大差リードを築きたかった局面ですが、やはり本調子には今一歩だったのでしょう。
3位には後半果敢に先頭を引いた阿蘇品が2秒差に粘り、デオデオが3秒差、那須川瑞穂の積水化学が5秒差、そして前回失速した尾崎好美(第一生命)が6秒差の6位に食い込む大混戦。三井住友海上の橋本は31秒差で16位という、波乱の幕開けとなりました。
2002女子駅伝02
2002女子駅伝03
(上)岐阜コース時代の定番、岐阜城の空撮。長良川に架かるのは金華橋。
(下)1区後半の先頭集団。中央は阿蘇品照美。

◇2区(3.3㎞)
中盤を過ぎ先頭は資生堂、旭化成、京セラの3チーム。京セラの2区は、あの杉森(現・佐藤)美保です。前年の世界選手権ではマイルリレーの代表になっていたランナーですから、いくら何でも駅伝は厳しいのでは?
後方から第一生命、九電工、積水化学という「黒/イエロー軍団」が猛追して6人の集団になり、そこから第一生命・森春菜が抜け出してトップリレー。大エース羽鳥智子の快走に夢を託します。
3秒差の2位に九電工、4秒差で旭化成、7秒差で積水、資生堂と続いて、さすがに杉森は終盤ヨレヨレ。
三井は大平美樹が区間賞の奮闘を見せて、22秒差の8位と挽回しました。1区24位と出遅れたUFJ銀行は川島真喜子が1つしかランクアップできず、大苦戦です。

◇3区(10.0㎞)
往路のエース区間3区では、この年も華やかな顔ぶれがダイナミックに戦局を動かします。
中継点での上位5チームが形成した先頭集団に、ジェーン・ワンジュグ(松下通信)が一気に追いつき追い越してトップに立つと、さらに後方からは福士加代子(ワコール)、山中美和子(ダイハツ)、渋井陽子(三井)、小鳥田貴子(デオデオ)といった猛者連が差を詰めてくる激しい展開。いったん抜け出したワンジュグも取り込まれて2.5㎞あたりでは10人の大集団になります。
区間中間点では先頭が福士、ワンジュグ、山中、羽鳥の4人となりました。
トレードマークだったチョンマゲを卒業して、ショートヘアをアッシュブラウンに染めた福士は、計時ポイント(5㎞)を前年より11秒遅い15分20秒で通過。20位以下から遮二無二追いかけた前回とは違って、しっかりとペースを刻んでいます。これはどうやら好調そのもの。沿道の応援に満面の笑顔で応え、時折Vサインまで出して見せる余裕の走りです。
やがてワンジュグが、続いて山中も福士のペースについていけなくなり、福士の独走劇が始まる予感が漲りますが、実力者・羽鳥だけが背後にピタリとつけたまま離れずマッチレースに。第3中継所前の熾烈なデッドヒートとなるか…?

2002女子駅伝04
ところが、残り700mを切ったところでアクシデント発生!前後関係にあった両選手の脚が交錯して、福士がばったりと前のめりに転倒、羽鳥も大きく進路を逸れました。起き上がった福士の走りは別人のように左脚を引きずるものとなっており、打撲や擦過傷だけに留まらないダメージを負ったようです。その表情からすっかり笑みが消え去りました。
結果的に、第一生命が2区からの首位を守り切り、福士は山中に追い抜かれて3番手でリレー。それでも32分08秒で区間賞を獲得したのはさすがでしたが、負傷は左膝靭帯断裂という深刻なもので、長期休養を余儀なくされることになります。
三井住友海上は、頼みの総大将・渋井がまったく福士のペースに付いていけず、ようやくワンジュグと並走するところまで粘って37秒差の5位としたものの、ここでついた第一生命との差が致命傷になりました。加納が走った資生堂は、さらに遅れて7位と順位を下げています。ひとつ上の6位はデオデオ、8位以下は積水、九電、天満屋、旭化成と続いて、ここまでが1分17秒差です。
2002女子駅伝05
意外にサバサバした表情でインタビューに答える福士。あれほどの重傷を負っていたとは…。
もちろん羽鳥は恐縮しきり。


◇4区(4.1㎞)
第一生命の4区は萩原梨咲。△の形に口を開きながら粘り強い走りで首位をキープします。
後方では三井の山本波瑠子が区間賞の走りで2位に浮上してきますが、肝心の第一生命とは1秒しか縮まらず。3位にデオデオが躍進し、資生堂の尾崎朱美は4位へと順位を上げながらも首位からは47秒差と、むしろ引き離される展開となりました。

◇5区(11.6㎞)
復路のエース区間では、1分差程度の逆転劇は容易に起こり得ます。あの高橋尚子ですら、必勝と思われた40秒差を川上優子にひっくり返された苦い経験があります。
第一生命は磯貝恵子。実績から言うと、三井のいぶし銀・坂下奈穂美との36秒差スタートは甚だ心許ないリードに思われたのですが、これがまた粘ります。その差はいったん20秒を切るところまで詰め寄られながら、抜けそうで抜けない距離感を懸命に保った結果、坂下の方が音を上げる形となり、最終的には6秒詰められるだけという殊勲賞ものの走りとなりました。
終盤失速した坂下は、ダイハツ大越一恵にも交わされて3位に転落。タイム的には区間賞を獲った前回より34秒も速かったのですが、渋井に次ぐ「大砲不発」の印象を免れませんでした。
この区間の区間賞は、3人抜きの9位でリレーしたあさひ銀行・田中めぐみ。36分13秒は、第16回大会の川上、千葉真子に次ぐ区間歴代3位です。(その後福士が同タイムを記録するも、歴代3位変わらず)
ラララが廃部となった藤川亜希は、走り慣れたこの区間を旭化成のメンバーとして走り、資生堂・弘山と並ぶ区間6位タイの成績。大南博美が区間3位の力走で、UFJは12位まで押し上げてきました。

◇6区(6.595㎞)
大会前はほとんど下馬評に上ることのなかった第一生命には、会社創立100周年という大きなモチベーションがありました。それゆえ、ここまで一人として区間賞がいないながらも、各選手が自分の力を存分に発揮するノーミスの継走で、ミスを重ねた三井住友海上以下の優勝候補をリードしてきたのです。
アンカーは、安藤美由紀。前回は5区を担当しましたが、スプリントの切れ味はトラック勝負向きということで、この年から2010年までほとんどアンカーを務め続けたスペシャリスト。また後には、強豪チームの仲間入りを果たした第一生命のキャプテンとして、毎回存在感を放った美女ランナーです。
三井の大卒新人・大山がダイハツを交わして2位を奪回したものの、それまで。区間タイムは独走態勢をキープした安藤より1秒遅く、ゴール間際の勝負にまで持ち込むことができませんでした。
3位ダイハツ、4位資生堂、5位は終盤の2区間(坂本直子、北山由美子)で上昇した天満屋。続いて旭化成。最後に川島亜希子が区間賞と奮起したUFJ銀行が7位となり、1区・2区の絶望的な状況から入賞にだけは漕ぎつけました。8位の松下通信は、翌年からパナソニックモバイルとチーム名が変わり、さらに2005年からは現在のパナソニック(エンジェルズ)となります。第4中継所で3位、第5で5位と上位を伺っていたデオデオは、この区間で12位にまで急降下しました。
2002女子駅伝06
美し過ぎるアンカー・安藤美由紀。ワイプ画面は5区の磯貝恵子。

大会史上初めて女性監督(山下佐知子)が率いるチームの優勝となった第一生命は、岐阜コースではこれが唯一の戴冠。会場が宮城県に移った2011年に2度目の優勝を飾っていますが、両方を体験したのはともに1区で出場の尾崎好美のみ。その尾崎をはじめ、田中智美、上原美幸とオリンピアンを輩出した名門チームとして、今なお上位争いの常連チームでいるのはご承知のとおりです。
自らの不振でV3の夢に致命的なダメージを受けた渋井が、後輩(年齢は上)の大山に支えられながら号泣する姿が、印象的でした。この翌年から、再び三井住友海上の快進撃が始まります。

連載「懐かしVHS時代の陸上競技」#4 ~2001年/第21回全日本実業団女子駅伝


今回のお宝映像は、今までよりちょっと新し目の2001年12月収録モノ。私の「VHS時代」は2003年までですから、ほぼ末期作品ですね。
今も昔も私が一番好きな大会の一つ、それが『全日本実業団対抗女子駅伝』であります。ま、どんなにブログをサボってる時でも実業団各チームの新年度戦力特集だけは欠かさないのをご覧いただければ、さもありなん、ですかな。この大会の映像は、たぶんある時期からは欠かさず録画していると思いますので、追々他の年のものもご紹介することになるでしょう。
2001女子駅伝04

◇21世紀最初の女王は?
…などと、TBSの好きそうなフレーズでお恥ずかしい限りですが、こんにち『クィーンズ駅伝』とかって勝手な命名をされて行われている大会、2010年までは岐阜県の長良川競技場を発着点とする往復コースで行われていました。(さらに初期は、コースも距離も異なりました)
距離は今と同じフルマラソン・ディスタンス、6区間になっています。ただ現在の宮城コースは3区が最長区間でエース級が集中するのに比較して、当時は5区の方が長く、ここにいかに信頼できるランナーを投入できるかが勝負の鍵となっていました。また3区と5区は大部分が同じコースの行き帰り、かつほぼ直線の単調なレイアウトだったため、走る選手にとってはむしろタフなコースと言えたのかもしれません。

20世紀の20回を振り返ると、当初は単独でチームを組める実業団がないため、地区対抗戦のような形で実業団女子駅伝の歴史が始まりました。第8回あたりから本格的な企業対抗の様相となり、この大会を目標にチーム編成をする企業も増えてきました。
初期の強豪チームと言えば、山下佐知子や荒木久美を擁した京セラ、宮原美佐子、朝比奈三代子らの旭化成、深尾真美らの三田工業など。1989(平成元)年からはワコールの黄金時代が続き、4連覇を含む5度の優勝、これに対抗したのが小出義雄監督率いるリクルート。90年代後半は川上優子を擁する沖電気宮崎(この大会から沖電気。その後OKI~廃部)が台頭し、4年間で3度の優勝を飾ります。合間の98年には、大南・川島という2組の双子姉妹の活躍で東海銀行が初優勝。そして前回、20世紀最後の大会では、土佐礼子・渋井陽子の二枚看板を揃えた三井生命が初優勝を飾っています。

当時は10月から11月に東日本、淡路島(中部、北陸、関西および中国・四国)、九州で地域大会が開催され、これを予選会として各地区に割り当てられた上位出場枠に入ったチームが、12月第2週の本戦に出場を認められていました。1980年代の好況の波に乗った企業は次々と女子チームを誕生させ、90年代は有森裕子らマラソン選手の世界的活躍が後押しをする形となって、最盛期には40チーム以上が本戦出場を目指す状況となっていきました。

今大会の優勝候補は、2連覇を目指す三井住友海上(この年から合併により社名変更)。エドモントン世界選手権に土佐(銀メダル)、渋井(4位)と2人の代表を輩出して最有力視はされているものの、その片翼・土佐が欠場となった他、実はぎりぎりの6人体制という苦しい状況にありました。
対抗は大エース弘山晴美に加えて日立から移籍のエスタ・ワンジロを迎え、戦力充実の資生堂。
ワコール黄金時代を築き上げた藤田信之監督が立ち上げたグローバリーは、「ハーフの女王」野口みずきを核に淡路島駅伝を初出場で制覇。本戦でも台風の目となることが期待されます。
9月にマラソンの世界新記録を樹立したばかりの高橋尚子は出場ならず、リクルートからチーム体制を引き継いで5年目となる積水化学は苦戦が予想されます。
第一放送車実況は、どこに述語があるのかよく分からない椎野茂アナ。解説はいつもの増田さん。

◇1区(長良川競技場~加納新本町 6.6㎞)
正午、各地区予選会勝ち上がった29チームが一斉にスタート。区間の中ほどに控える金華橋をアクセントとするコースです。
序盤積極的に前を引っ張る構えを見せたのが、21歳の坂本直子(天満屋)、20歳の尾崎好美(第一生命)といった若手勢。後にオリンピック代表となる両者とも、実力・知名度ともにまだまだの時代です。
やがてこの顔ぶれの中では一枚上手の実績を誇る橋本康子(日本生命)が集団を引っ張り始め、縦長となった集団から次々と選手がこぼれていく展開。最後は橋本、川島真喜子(東海銀行)、西村(グローバリー)、小林(デンソー)の争いとなって、川島のラストスパートを冷静に捌いた橋本が、貫禄の区間賞です。3位デンソー、4位グローバリー。
本命の三井は12秒差の5位に付け、その直後に資生堂。積水は苦しい11位発進。6人の先頭集団に残る健闘を見せた尾崎好は、終盤失速して13位に後退し、坂本の天満屋は15位です。
2001女子駅伝01
1区終盤、スパートした川島真を橋本がロックオン。

◇2区(~岐阜県庁 3.3km)
僅差の首位争いから抜け出したのは、177㎝の藤原夕規子(グローバリー)と152㎝の里村桂(デンソー)という凸凹コンビ。全行程をびっしりと競り合ったまま第2中継所へ飛び込み、最後で僅かに里村が差し切りました。日本生命は後退して東海銀行が3位。後方の集団では三井がしぶとく上位をキープ、資生堂(尾崎朱美=好美の姉)も負けじと食い下がり、さらに後方から追い上げた那須川瑞穂が僅差の6位に積水を押し上げました。
22歳の美人ランナー那須川は区間賞を獲得。その後も駅伝では切れ味鋭いスピードを武器に再三区間賞を獲得することになる彼女が、長きにわたる選手生活で初めて手にした勲章でした。


◇3区(~大垣市林町 10.0km)

デンソー・永山育美とグローバリー・野口みずきが並んでスタート。息つく間もなく、川島亜希子(東海銀行)、渋井陽子(三井住友海上)、エスタ・ワンジロ・マイナ(資生堂)、吉田香織(積水化学)、田中めぐみ(あさひ銀行)、松岡理恵(天満屋)、羽鳥智子(第一生命)…と、まさに百花繚乱、各チームの命運を託されたエース・ランナーが次々に飛び立って行きます。
この時点での下位チームでは、21位で福士加代子(ワコール)、22位で川上優子(沖電気)、25位で高橋千恵美(日本ケミコン)、27位で岡本治子(ノーリツ)らがスタート。こちらのグループには、豪快なゴボウ抜きの期待がかかります。
この大会出場者の中で、福士と吉田はいまだ第一線の現役。大したもんですねえ。

2001女子駅伝02
渋井と野口、豪華な同世代対決。この時は渋井が勝つも、6年後の東京国際女子マラソン
では野口がリベンジ達成。


すでに「ハーフの女王」の異名をとり、3か月後のマラソン・デビューを控えていた野口は、実力者の永山をすぐに振り切ると、今度は7秒後方から突進してきた渋井と肩を並べるデッドヒートを繰り広げます。同学年ながら一足先にマラソン世界デビューを果たしていた渋井が、中間点を過ぎてスパート。やはりこの距離のスピードでは一日の長があり、徐々に野口との差が広がります。
結局盤石の走りで2連覇の軌道に乗った渋井がトップでリレー。野口もずるずると後退することなく傷を最小限に留め、13秒差の2位でこれに続きます。
後方で猛追を見せたのは、女子駅伝の“風物詩”となりつつあった福士加代子のチョンマゲ姿。中間点の5㎞を渋井より9秒速い15分09秒で通過すると、あっという間に3位グループに取りつきました。
最後はラストスパートに定評のある田中が首位から30秒差で3位通過を死守し、東海銀行、ワコール、天満屋、資生堂と第3中継所に雪崩れ込みます。この辺りは、さすがにエース揃いの3区というところ。福士は16人抜きの激走で渋井に25秒差をつける31分36秒の区間賞。区間記録保持者のワンジロはやや精彩を欠いて順位を2つ落とし、資生堂は苦しくなりました。
2001女子駅伝03
区間賞の福士とトップ通過の渋井が並んでインタビュー。渋井は終始浮かない表情。

◇4区(~大垣市総合体育館 4.1km)
マラソンランナーの市河麻由美を短距離区間に充てなければならないところに、三井の苦しい台所事情が伺えました。
追走するグローバリー永井彩子、さらには天満屋の山崎智恵子がともに差を詰め、上位3チームは再び団子状態に接近してきますが、何とか市河が首位を守り切りました。上位チームは多少の順位変動はありながらも、約30秒の間に7チームがひしめく展開に変わりはありません。あさひ銀行が3位から7位に後退。資生堂は嶋原清子の力走で何とか食らいつき、5区・弘山に全てを委ねます。

◇5区(~陽南中学校 11.6km)
先頭・三井住友海上の5区は坂下奈穂美。
とかく「土佐・渋井の2枚看板」と言われる同チームにあって、実は最も監督の信頼厚く、それに応える走りを常に見せてきた駅伝マイスター。事実上、三井大躍進の大黒柱は坂下、というのも過言ではありません。美人の上に佇まいが何とも言えず格好よく、私が大好きな選手の一人でした。
ワコール所属時代にも優勝メンバーとなっており、2チームに跨って優勝に貢献したというのは大会史上初の快挙。後年唯一人、これに並んだのが豊田自動織機とユニバーサルエンターテインメントの新谷仁美。その新谷は、今年積水化学の一員となって前人未到「3チームで優勝メンバー」に挑むチャンスがあります。
なお10位以下のチームでも、北島良子(富士銀行)、安藤美由紀(第一生命)、藤川亜希(ラララ)、小鳥田貴子(デオデオ)、小﨑まり(ノーリツ)と、人気選手が数多く出走していた「華の5区」です。

その坂下が期待どおり、区間賞の走りでグローバリー田村育子以下を突き放し、遂に三井は独走態勢を確立します。
田村は翌年1500mで日本選手権3連覇、1500とマイルの日本記録を樹立する中距離の第一人者ですから、この最長区間は少し荷が重すぎたに違いありませんが、それにしては踏みとどまります。一旦並ばれた天満屋・山本奈美枝も競り落として、2位の座を譲りませんでした。
期待された資生堂の弘山晴美は、3区・ワンジロに続いて不発気味。ワコールを抜いただけで上位進出ならず、優勝はほぼ絶望的。
5区に大砲を置けることが戦略的にいかに重要かを、如実に物語る結果とはなりました。
2001女子駅伝05
第5中継所でチームの優勝に歓喜する、左から4区・市河、5区・坂下、介添の土佐。

◇6区(~長良川競技場ゴール 6.595km)
2位に59秒の大差をつけて第5中継所に飛び込んだ三井は、アンカーに入社2年目ながらその後長く中心選手として活躍する大平美樹を配して、盤石。興味はむしろ混戦の2位・3位争いとなります。
初出場・初優勝に僅かな望みを繋いだグローバリーは、アンカーの斉藤智恵子が力及ばず陥落。大南博美から大南敬美へ、最強ツインズ・リレーの東海銀行が、38秒差まで詰め寄って第2位。前半に主力選手を並べながらむしろ後半4区、6区の奮闘が目立った(山崎、北山ともに区間賞)天満屋が3位、4位資生堂、5位グローバリーまで、その差は1分04秒に過ぎませんでした。
以下、サニックス、スズキ、あさひ銀行、富士銀行、デンソーと、10位までの順位が続きます。
スズキ(現在はクラブチーム「スズキ浜松AC」として実業団非加盟)は大会の冠スポンサーでもあり、前々回3位、前回2位と躍進が続いてこの大会に期待するところ大きかったと思われますが、エースの松岡範子を故障で欠いたダメージは大きく、上位争いには一度も絡めませんでした。
翌年初優勝を飾る第一生命は12位、期待された積水化学は17位、ワコールは19位と惨敗です。

2000年から2009年までの10年間で実に7度の優勝を飾り、「駅伝女王」の名を欲しいままにする三井住友海上が、翌年小休止を挟むことになるとはいえ、その地盤をしっかりと固めた第21回大会でした。

連載「懐かしVHS時代の陸上競技」#3 ~1987年/第22回福岡国際マラソン



今回発掘のVHS映像は、1988ソウル・オリンピック代表選考会となった、前年暮の『福岡国際マラソン選手権』です。
前回ご紹介した97年の世界選手権から遡ること10年…ということはですね、テープの状態がかなりよろしくないです。しばしば片伸びや皺による画面の乱れが目立ちますが、まあ何とか鑑賞には耐えました。そもそもこのくらいの時代のマラソン中継ってそれ自体、中継車が揺れるたんびに画面よく乱れましたからね。

1987FUKUOKA01
スタート直前、児玉泰介らと談笑する中山竹通。第一声は
「寒いねぇ~!」だったようです。(口の動きから推察)


1988ソウル五輪の代表選考レースです。この後に行われた、『第9回東京国際マラソン』『第43回びわ湖毎日マラソン』とセットで語る必要がありますので、そちらの方にも若干触れていきます。
なお、福岡国際マラソンは2019年大会が「第73回」と謳われており、その32年前の大会が「第22回」というのは整合しませんが、当時は『国際マラソン』としてリニューアルされた1966年大会を「第1回」とカウントしていたためです。現在では『金栗賞朝日マラソン』として熊本で開催された1947年大会を「第1回」としていますので、その数え方でいうと1987年大会は「第41回」ということになります。
現在同大会の中継放送はテレビ朝日系列が行っていますが、当時(1991年まで)はNHKが中継していました。メイン実況は競泳の名実況者として鈴木大地や岩崎恭子の金メダルを伝えた島村俊治アナ。解説はかつての日本の大エース宇佐美彰朗さん、中継車解説は現役ランナーで福岡出場経験10回を誇る喜多秀喜(神戸製鋼)です。

◇世紀の選考レース、その背景
この頃、日本の男子マラソン界は絶頂期を迎えていました。
陸連が指定する強化選手の最上位に名を連ねた選手たちは「8人のサムライ」などと称され、誰を出しても世界大会の表彰台を狙える実力があったと言われています。
 瀬古 利彦(エスビー食品) 2:08’ 27"
 新宅 雅也(   〃   ) 2:09’ 51"
 宗   茂(旭化成) 2:09’ 05" 6
 宗   猛( 〃  ) 2:08' 55"
 児玉 泰介( 〃  ) 2:07' 35" (NR)
 谷口 浩美( 〃  ) 2:09” 50"
 伊藤 国光(カネボウ) 2:07’ 57"
 中山 竹通(ダイエー) 2:08' 15"

「サブテン」が一つの世界基準と言われた時代ですが、8人の他にも、喜多、仙内勇(ダイエー)、西政幸(旭化成)、阿部文明(NEC)、工藤一良(日産自動車)等々、2時間10~11分台で走る選手はゴロゴロいて、まさに黄金時代でした。
オリンピック前年の暮が近付き、日本陸連は『福岡』『東京』『びわ湖』の3大会を代表選考会としながらも、「有力選手は12月の福岡国際に出場することが望ましい」という指針を表明しました。80年のモスクワ、84年のロスがそうであったように、結果によっては福岡国際一発で3人の代表を決めてしまいたい、という目論見です。大資本や広告代理店の思惑が重要視されていなかった時代のことですから、そうした方針は陸連の意のままだった、と言えます。
ちなみに、この年はローマで第2回世界選手権が開催されていますが、当時は世界選手権の成績を代表選考に反映させるという発想がなく、冬場の選考会シリーズを最大目標とするマラソンの一線級は、すべて敬遠するという傾向がありました。ローマの男子には西、阿部、大須田祐一郎という“Bチーム選抜”3人が代表として参加しますがいいところなく、ヱスビー食品に所属するダグラス・ワキウリ(KEN)が優勝しています。

「事件」は11月に起こりました。
代表最有力候補の一人と見られていた瀬古が、『東日本実業団駅伝』に出場した際、タスキリレーの直後に足首を捻挫、福岡への出場が不可能となってしまったのです。
これを受けて陸連は前言を撤回し、「東京・びわ湖の結果をも選考材料に加える」と大慌ての声明を出しました。つまり、どちらかのレースで一定以上の結果を出せば、代表候補として選考の俎上に載せる、という瀬古のための救済措置です。

幻となったモスクワ五輪の頃から「世界最強」と言われ続けてきた瀬古は、84年ロス五輪で一敗地に塗れた後、結婚や恩師・中村監督の急死といった紆余曲折を経ながらも、ロンドン、シカゴ、ボストンと海外のメジャー大会でことごとく圧勝し、いよいよ日本の大黒柱としての評価を高めていました。加えて代表選考の場となる福岡は、前2回の選考レースを含めて4度優勝している勝手知ったるレース。(多少コースが変わっていますが)当然、本命中の本命と目されていました。

「8人のサムライ」のうち、瀬古、宗兄弟、伊藤の4人はモスクワ以来のライヴァルです。一方あとの4人は、ロス五輪以降に台頭してきたいわば新勢力。特にロス五輪直後の福岡で優勝してトップ戦線に躍り出た中山は、外見も経歴も、またそれ以降のレースぶりも、そして言動も、従来のマラソン界の常識を覆す特異な存在として輝いていました。
世界的にも長身ランナーで知られた宗兄弟を上回る180㎝の長身。骨太の体格に、いかつい異相。
高校卒業後に安定した就職先に恵まれず、転々とした末に新設のダイエー陸上部に加入。
そのレースプランは自由奔放で、時に突然集団を置き去りに独り先頭をひた走り、時に集団の中で前後左右に位置を変えながら様子を伺うという破天荒さ。
遠慮のない物言いには不器用さを感じさせる一方で、聴く人によってはその外見と相俟って、「不遜」と捉えられることがしばしばでした。86年には、瀬古が賞金レースであるシカゴマラソンに派遣された一方で自分がソウル・アジア大会代表に指名されたことについて、「不公平感」を匂わせる発言をしたとも言われています。
王者・瀬古の現役時代が「寡黙な修行僧」「謹厳実直な好青年」というイメージに塗り籠められていた(実態は、今と同じく饒舌で駄洒落好きの、明るい若者だったようです)のに対して、アンチテーゼとしての中山には「ヒール」もしくは「ダーティーヒーロー」のレッテルが貼られました。

◇這ってでも出てこい!
その中山こそが、本命の瀬古を脅かす最右翼。すでにマラソンでは1985年のワールドカップで2時間8分15秒のベスト(当時の日本記録)を出して瀬古を上回り、スピードスター瀬古の“勲章”であった10000mの日本記録までも、この年の7月には更新しています。
世間の注目は、「勝つのは瀬古か中山か。3番手は残る4強の中の誰か?」(この時点で宗兄弟は力の衰えが明らかで、自身もセミリタイアのような心境だった模様。宗茂は福岡に出場すらせず引退を表明し、宗猛は招待選手の待遇を辞退しました)という下馬評に沿って集中し、異様なまでの熱気が渦巻き出していました。
その矢先での、瀬古のリタイアでした。

「瀬古よ、這ってでも出てこい!」
瀬古のレース回避とそれに対する陸連の対応について感想を求められた中山がこんなコメントを返したとして、翌日のスポーツ紙の一面には特大の見出しが躍りました。
これについて後年尋ねられるたびに、中山は
「いやあ、僕はそんなこと言ったつもりはないんですが…」
と苦笑を浮かべたそうです。
実際には、中山が発したコメントは
「まあ僕だったら、這ってでも出ますけどね」
というものだったようです。
つまり、陸連の瀬古に対する絶大な信頼と優遇を半ばやっかみつつも、もし悪役イメージの自分が同じ境遇になれば決して救済はされないだろう、だから這ってでも福岡に出る以外に選択肢はない、という感想だったのです。中山にとっての瀬古は常に「雲の上の存在」であり、その背中を目標とするところに己の競技人生がありました。同じ土俵に立つ者として当然の敵愾心はあっても、畏敬の念に変わりはなく、そんな自分がそういう物言いをするわけがない、というのが後年の中山が言いたかったことのようです。
込められた真意はどうあれ、そのコメントは中山のキャラクターに似つかわしく、「這ってでも出ろ!」と過激にアレンジされて公のものとなりました。
マラソンのオリンピック代表選考が紛糾し、その紛糾がマスコミを媒介として形を変え増幅していくという悪しき風潮が、ここに生まれました。(それ以前にも紛糾事例はありましたが、マスコミがここまで介入するようになったのは初めてでしょう)
この現象はその後、4年後のバルセロナ大会(松野明美騒動)に引き継がれ、MGCが考案されるまでのオリンピアード行事となっていくのです。

◇もう一つの伝説「雨中の大激走」
中山が発したとされるコメントが長く陸上界に「伝説」となったのとともに、レースそのものも日本マラソン史上に語り継がれるものとなりました。
こうした勝負が重要視されるレースでは、ペースメーカーがいない限りは互いにフロントランナーとなることを避け合い、スローペースで推移するのが通例です。ましてや、当日は冷たい雨が降りしきり、気温7度前後、風速4~5m/sという辛いコンディションでした。
ところがこのレースでは、タンザニアの伏兵ロバート・サイモンがとんでもないペースで飛び出したことと、本命の中山が何食わぬ顔で序盤からそれを掴まえに行ったことが、中盤まで大集団で進むだろうと思われた展開を一変させました。

5㎞を14分30秒で通過したサイモンを中山が5秒差で追い、これに釣られるようにしてベライン・デンシモ(ETH)、谷口、西、仙内、新宅、そして宗猛といったあたりが棒状の隊形で追走します。
一旦中山らの集団に吸収されたサイモンは、その後もしばしば思い出したようにスピードアップしては独り抜け出し、また吸収されることを繰り返したためペースは落ち付く暇もなく、10㎞を過ぎると谷口以下の追走集団は遅れ始めて3位グループを形成することになります。そこからさらに遅れて、児玉と伊藤を核とする第3グループ。前からこぼれてきた西が吸収され、東ドイツ勢なども含まれ、人数は12、3人というところ。
15㎞あたりで中山は完全にサイモンを振り切り、独走状態になります。途中計時は世界最高、日本最高のそれを大きく上回り、気象条件を考えれば無謀なオーバーペースにも思えます。
やがてサイモンが失速して、2位集団は新宅、谷口、仙内、デンシモの4人。新宅が前を引く時間が多く、この中では最も調子が良さそうな気配。
7位グループは児玉が牽引していましたが次第に切れ味が悪くなり、元気なのが坂口泰、谷口伴之のエスビー勢。これに前年4位と健闘した工藤、
翌年の大会を制することになる渋谷俊浩(雪印)、韓国代表入りを目指している金哲彦(リクルート)などが食い下がって、高速レースならではのハイエナ戦法に望みを賭けます。すでに伊藤は脱落気味、宗猛は圏外に去ってしまいました。
1987FUKUOKA02
サイモン(TAN)を置き去りに独走態勢に入ろうとする中山。

1987FUKUOKA03
追走集団の右から新宅、谷口、デンシモ、仙内

1987FUKUOKA04
さらに後方の追走集団。右から坂口、西、トルスチコフ(URS)、児玉、渋谷、
ハイルマン(GDR)、金。坂口のさらに右には工藤がいます。


中山のハーフの通過は1時間01分55秒。単純計算ならば実に2時間03分台の猛ペースになります。
この時点での世界最高記録はカルロス・ロペス(POR)の2時間07分12秒。これはロス五輪金メダルの8か月後にロッテルダムマラソンで叩き出したもので、序盤は比較的ゆったりとしたイーヴンペースだったため、35㎞までは日本最高記録(児玉の2時間07分35秒)のスプリットタイムの方が速くなっています。ハーフで中山はこのロペスのペースを1分29秒上回っています。
耽々と我が道を行く中山は、そのイメージとは少し異なり、非常に端正でバランスのいい、美しいフォアフット走法で突っ走ります。それは、地道で豊富なトレーニングを雄弁に物語るフォームでした。瀬古が宗兄弟の練習量を聞いて恐れ戦き、その宗兄弟が中山の練習ぶりを見て「俺たちの時代は終わった」と肩を落とした、と言われたのも頷けます。

かつては「海の中道」という博多湾に突き出した砂州の中央を進んでいき「雁ノ巣」という場所で折り返すのが特徴的なコースだったのが、85年大会から手前の「和白丘」折り返しへと変更になり、その分序盤に周回コースで距離を調整しているため、折り返し点は26㎞過ぎの地点。
お互いの差が実感できるここで、中山と2位グループからやや抜け出した新宅、デンシモとの差は1分32秒。以下仙内、谷口、サイモンと続いた後、工藤が引っ張り始めた7位グループは3分04秒差。
もはや、この時点で中山の優勝、2番手の椅子が新宅、谷口、仙内のいずれかというのは確定的な形勢となって、あとは中山の世界最高記録なるかが焦点ということになりました。
1987FUKUOKA05
1987FUKUOKA06
35㎞までは、「世界最高大いに有望」との観測が出ていました。

その中山のペースは25㎞で初めてラップが15分台に落ち、なおも快走を続けて35㎞まで日本最高、世界最高のスプリットを大きく上回りますが、その辺りから目に見えてスピードダウン。35㎞からの5㎞ではとうとう16分22秒にまでラップが落ち込んで、最後の切り替えもできずに記録更新はおろか自己ベストにも及ばず、大会記録タイ(R.ドキャステラ。コースは異なる)の2時間08分18秒でのフィニッシュとなりました。
このレースで中山は、1回もドリンクを摂っていません。気候・気温を鑑みれば、水分補給という意味ではそれでもよかったかもしれませんが、糖分補給を怠ったことが、最後の最後にエネルギー切れを招いたのではないかという憶測もあります。
とはいえ、そのパフォーマンスはあまりにも衝撃的でした。このコンディションでこの記録は、当時の状況からは破格にして世界トップの実力があることを十分に証明してみせるもので、おそらく瀬古が出ていたとしても敵わなかっただろうと思わされます。

さて注目の「2番目の椅子」は、こちらも折り返しを過ぎて新宅の独走状態となり、「中山とそれ以外のレース」の中では一枚上手の実力を示しました。
ソウル代表が決定的となった新宅は、モスクワ(不参加)での3000mSC、ロスでの10000mに続いて3大会連続の、それも全て異種目でのオリンピック出場という空前絶後の業績を上げました。ちなみに新宅は、アジア大会でも3大会連続、3000mSC、5000m、10000mでの異種目金メダルという快挙を達成しています。
谷口は新宅らとの2位争いの中で、脚に痙攣を発するなどして終盤得意の粘りを発揮できず6位に沈み、第3グループから追い上げた工藤が日本人3位になって、「残り1枠」の候補者として東京・びわ湖の結果を待つこととなりました。
伊藤は17位。序盤で先頭に食らいつく動きを見せた宗猛は折り返し点でストップ。放送車の解説席で戦況を見守った喜多秀喜とともに、一つの時代の終焉を物語る結果となりました。
1987FUKUOKA07


◇そして、瀬古は…

2月の『東京国際マラソン』には、福岡の結果に悔いを残した谷口浩美など何名かの選手が「追試」に応募したものの、谷口は後半の日比谷付近で早くも失速。結果8位となって、ソウル代表の望みは完全に断たれました。
3月を迎えて、ようやく負傷癒えた瀬古が『びわ湖』に登場。
外国人招待選手の参加はなく、他に有力選手と言えばこれも再挑戦となる西政幸くらい。快晴となったレース当日は早春の日差しがもろに照り付け、気温17度、体感温度は20度を超える、福岡とは真逆の厳しいコンディションとなりました。
おおよそ15分/5㎞の快調なペースを刻んだ瀬古に誰一人ついていくことができず、レースは瀬古自身初めての経験となる序盤からの一人旅になりました。
いつも他人の背中を借りて好結果を出すと言われた瀬古とすれば、真の実力を示す絶好のチャンスとも言えたのですが、高い気温のためか故障明けの調整不足なのか、或いは三十路を過ぎての体力の衰えなのか、後半は著しいペースダウン。福岡で3番手の工藤か記録した2時間11分36秒が一つの目安と言われていながら、独走優勝とはいえゴールタイムは2時間12分41秒に留まりました。
ゴール間近で、汗びっしょりの顔を苦痛に歪める瀬古の姿が大きくテレビに映し出され、この時点で「王者の落日」を感じ取ったファンは少なくありませんでした。直接対決こそ叶わなかったものの、時代は確実に、瀬古から中山へ、禅譲が行われたのです。
瀬古にとっては福岡、ボストン、東京、ロンドン、シカゴに次ぐ6つ目、通算10回目のメジャー・タイトル。しかしこれが、最後の優勝レースとなりました。東京国際マラソン誕生以降、日本国内3大メジャーを全て制したランナーは、後にも先にも誰もいません。

結局、中山・新宅・瀬古と、3人の代表は意外にすんなりと決定されました。
もしも福岡での日本人3番手が工藤ではなく瀬古と同じ候補指定選手の谷口で、そのまま東京に出ることなく静観していたならば、論理的に言って3つ目の切符の行方はもっと紛糾していたことでしょう。瀬古のタイムが悪かったことは気温が高かったこと、2着になった実力者の西に3分近い大差をつけたことが、酌量さるべき情状となり、瀬古の実力は証明された、と陸連は判断したのです。
本番のオリンピック。エースとして臨んだ中山は、前年の世界選手権メダリストの3人(ワキウリ、サラ、ボルディン)とともにメダル争いを繰り広げながら独り取り残されて4位。瀬古はロスに続いて入賞にすら及ばず9位。
己の限界を確かに感じ取った瀬古は、ガッツポーズでのゴールで、12年間のマラソン人生を締めくくりました。

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