川内優輝(埼玉県庁)のボストン・マラソン優勝は、日本のマラソン史に、というよりは「川内優輝伝説」に新たな1ページを書き加える快挙となりました。
異常とも思える悪天候でのレース、2時間15分台という低調な記録での勝利を「ラッキー」の一言で片づけることはできません。気候のみならずコース特性や実施時間帯、レース展開のアヤなどあらゆる外的条件が想定されるマラソンという種目で「勝った」ことの意義を、本人同様にしっかりと認識することが大切です。オリンピックなどでも、想定外のレース条件になることは十分にあり得るわけですから。

日刊スポーツWEB記事より
ボストンマラソンは1897年に第1回が行われ、以来122年もの長きにわたり、1度たりとも中止や開催時期の変更なく、4月の「Patriots' Day(愛国者の日)」に開催され続けているという、驚くべき伝統を誇るレースです。
かつては『ポリテニック・ハリヤーズ・マラソン』(別名『ウィンザー・マラソン』。直接のつながりはないが事実上『ロンドンマラソン』の前身)、『コシツェ国際平和マラソン』とともに「世界三大マラソン」として位置付けられていました。
現在はIAAFゴールドレーベル、またワールド・マラソン・メジャーズ8大会に指定され、世界中で最も権威と人気を誇るマラソン大会の一つとなっています。格付け上は『ロンドン』『ベルリン』とともに、現時点での世界3大大会と言ってよいでしょう。
またこの大会は、日本のトップ・ランナーにとっても憧れの対象であり、2月に開催される『青梅マラソン』と姉妹提携を結んでいる(青梅優勝者はその年のボストンに派遣される)こともあって、日本人選手にとって非常に馴染みの深い海外レースと言えます。
今回の報道でたびたび伝えられたように、過去には川内を含め8人の日本人選手が通算9回、優勝者の栄誉に浴しています。
1951年(第55回) 田中 茂樹 2;27'45"
1953年(第57回) 山田 敬蔵 2:18'51"
1955年(第59回) 濱村 秀雄2;18'22"
1965年(第69回) 重松 森雄 2:16'33"
1966年(第70回) 君原 健二 2:17'11"
1969年(第73回) 采谷 義秋 2:13'49" CR
1981年(第85回) 瀬古 利彦 2;09'26" CR
1987年(第91回) 瀬古 利彦 2:11'50"
2018年(第122回) 川内 優輝 2:15'58"
l※第55回から60回までは41.360㎞で実施
日本陸上界にとって第二次大戦後初めてとなる国際大会への選手団派遣となった第55回大会で優勝した田中茂樹は、当時19歳。被爆地にほど近い広島県の出身で、現地の新聞には「アトム・ボーイ(原爆少年)」として紹介され、まるで広島からやって来た亡霊が優勝をさらったかのような衝撃をボストン市民に与えたそうです。
戦後すでにアメリカでは競泳の古橋廣之進らの活躍があって、日本人アスリートの実力に対する認識がまるでないわけではなかったのですが、マラソンという当時としては特殊なスポーツでの日本人の活躍は、それだけインパクトが大きかったということなのでしょう。
もちろん国内でも、この快挙は大いにもてはやされ、田中は古橋や同じ競泳の橋爪四郎、ボクシングの白井義男らと並ぶ「戦後の英雄」として国民に勇気を与える存在となりました。翌年日本大学に進学して、日本が復帰を許された1952年ヘルシンキ・オリンピックでの金メダル候補として期待されましたが、故障に見舞われたこともあり、ボストン以降は成績に恵まれませんでした。

「陸王」を思わせるマラソン足袋を手にポーズする田中
2年後に山田敬蔵がボストンを制した際には、田中の時を上回るフィーバーぶりとなりました。というのは、山田の優勝タイムが当時の世界最高記録(2時間20分42秒)を大幅に上回る快記録だったからです。ただし、後年の再計測によって、田中が優勝した第55回から60回大会まで、フルマラソン・ディスタンスに800m少々足りないコースで実施されていたことが判明して、山田とさらに2年後これに続いた濱村秀雄の“大記録”は取り消されてしまったのですが、当時の熱狂ぶりが伺えます。
“創成期”の優勝者3人のうち、田中はオリンピック代表にはなれませんでしたが、山田はヘルシンキ大会(25位)、濱村は56年メルボルン大会(16位)に出場しています。
私の子供時代、陸上競技について書かれた本を読むと、田中、山田らのボストンでの活躍ぶりは、戦前の織田幹雄、南部忠平、人見絹枝、吉岡隆徳らの名前とともに、必ず紹介されていたものです。
日本人選手として10年ぶりにボストンを制した重松森雄は、当時24歳。いったん実業団を経て福岡大に入学し4年生となった年でした。64年東京オリンピックでは有力な代表候補の一人でしたが出場は果たせず、その翌年の1965年、突如として“覚醒”したかのようにボストンを制し、さらに2か月後にはポリテニック・ハリヤーズ・マラソンで2時間12分00秒の「世界最高記録」でメジャー大会連覇を果たしました。
イギリスでのタイムは東京オリンピックでアベベ・ビキラ(ETH)がマークした2時間12分11秒2を破るという大記録。アベベの人間離れした強さと円谷幸吉の悔しい(競技場内で抜かれての)3位を目の当たりにしたばかりの日本人にとっては俄かに信じられないほどのニュースで、当時一般紙の1面に掲載されていたのを覚えています。(ただし、この記録も後年、片道コースの“追風参考”だったことが検証されています。それでも「日本人男子選手最後のマラソン世界記録」として語り継がれています)
東京大会を契機にすっかり人気スポーツとなったマラソンで、“新星”重松への期待は高まりましたが、以後は頭打ちの成績となり、66年猛暑のバンコクで行われたアジア大会で君原健二に続く銀メダルとなったレースが目立つくらいでした。
重松の翌年に優勝者の名前を刻んだ君原健二は、1968年メキシコシティ・オリンピック銀メダルの、言わずと知れた日本マラソン史上のレジェンドです。
金メダルを期待されていた東京オリンピックでの惨敗(8位)で、一時は所属チームに退部届を出すなどすっかり走る意欲をなくしていた君原でしたが、約1年半のブランクを経てこの年の別府(現・別府大分)毎日マラソン3位で実戦に復帰。ボストンでの勝利で自信を取り戻すや、12月のアジア大会制覇まで年間6回ものレースを重ねて“完全復活”を果たし、2年後のメキシコでの快挙へとつなげていきました。
ちなみに、前述の「世界三大マラソン(当時)」のすべてで3位以内になった唯一の日本人選手であり、コシツェ(1970年)のみ惜しくも2位、ボストンとウィンザー(68年)では優勝しています。一昨年、75歳にしてボストン優勝50周年の特別招待者として完走(4時間53分14秒)したことは、記憶に新しいですね。
君原とメキシコシティ大会マラソン代表の座を激しく争い、選考会の結果では明らかに上回っていたにも関わらず落選の憂き目に遭っていた采谷義秋は、失意を振り払って翌年のボストンにチャレンジ、見事に大会新記録で優勝を飾りました。
全盛期はほとんどの大会で3位以内を外さないという非常に安定した実力の持ち主で、72年のミュンヘン大会最終選考会となった毎日マラソン(現・びわ湖毎日)では、序盤明らかに不調な様子で早々に先頭集団から脱落しながらも、驚異的な粘り腰で3位に食い込み遂に悲願のオリンピック出場を果たしました。(本番は36位)
また日体大卒業後は広島の県立高校で教員を務めた「元祖公務員ランナー」。一部の記事には「元祖市民ランナーの星」などという記述も見かけますが、現在の川内とは少し状況が異なります。当時の国内マラソン・レースは「市民レース」という発想のない純然たるエリート・レースでしたし、采谷自身も実業団ランナーの自覚をもってレースに臨んでいたと思われますので、「市民ランナーの星」という言い方は当たりません。
ミュンヘン大会の後、心臓疾患を発症して第一線からは引退。その後、『青梅マラソン』でオープン参加した瀬古利彦が現在も残るコース・レコードを出したレースに出場した姿を(私も出ていましたので)よく覚えています。
そして日本マラソン界最大のレジェンド・瀬古利彦。
早稲田大在学時の1979年に初参加した時は、当時「世界最強」と言われていたビル・ロジャース(USA)に終盤引き離されて54秒差の2位となりましたが、半年前の『福岡国際』で初優勝を遂げた実力がフロックではないことを証明、その名を轟かせると、モスクワ幻の代表騒ぎを経て2年後の81年、4連覇を狙ったロジャースを寄せ付けず優勝、2年前に目前で出された大会記録も1秒破ってのけました。
1987年に2度目の優勝をしたレースは、初めて日本にも衛星中継されるということで非常に話題となりました。
ところが、強風のため中継用のヘリコプターが飛ばせないという事態になり、深夜のテレビに齧りついていた日本のファンは約2時間、延々とスタート付近や定点カメラ前を通過する市民ランナーの映像ばかりを見せられるという、散々な中継になってしまいました。(ヘリコプターを移動中継基地として飛ばすという手法はマラソン中継先進国の日本が東京オリンピックで開発したものでしたが、現在では固定中継基地を細分化することで箱根山中などからのTV中継も支障なく実施されています)
このレースには瀬古とともに「最強」を謳われたロバート・ド・キャステラ(AUS)や世界記録保持者のスティーヴ・ジョーンズ(GBR)などが出場しており、「実力No.1決定戦」の呼び声が高かった世界的にも注目の一戦でした。そのレースで、いつもコバンザメのように集団の後方に位置して終盤抜け出すという戦術を定石としていた瀬古には珍しく、ハーフ過ぎに一気にスパート。名だたる実力者たちを置き去りにするという圧巻の横綱相撲で、改めて「世界一」を証明して見せたのです。
前年のロンドン、シカゴに続くメジャー・レース3連勝で、ロス五輪での惨敗(14位)を完全に払拭した形となったものの、その後の成績からは「瀬古が強かった最後のレース」とも言われます。
そうした瀬古の快走ぶりが、ゴール間際のほんの数分間しかテレビに映らなかったのは、まことに痛恨というほかはありませんでした。
なお、この当時まで海外レースに陸連から派遣されて出場する日本人選手はいずれもナショナル・ユニフォームを着用して走っており、プライベート・チームのユニフォーム姿でボストンを制したのは、川内が初めてではないかと思われます。(一部写真等で確認できないものがありますが)
以上のような先人たちの「偉業」に並んだ、川内の優勝。ボストンのみならず、日本人選手がワールド・メジャー・クラスの大会を制したのは、ベルリン女子での野口みずき(2005年)以来のことではないでしょうか。(2010年に東京マラソンで藤原正和が優勝していますが、当時は一段格下の大会でした)
実に、「快挙」と言うほかありません。
