豊大先生流・陸上競技のミカタ

陸上競技を見続けて半世紀。「かけっこ」をこよなく愛するオヤジの長文日記です。 (2016年6月9日開設)

2016年09月

<連載>100m競走を語ろう -番外編- 山縣亮太は「神の領域」に?



ここんとこ、仕事が多忙でブログ更新が滞っておりまして、たまに覗きに来ていただける皆様にはまことに申し訳ありません。
「情報更新が命」のブログながら、しばらくはこんな状態が続くかと思いますが、駅伝シーズン突入時にはまたしっかりと気合を入れ直してまいりますので、よろしくお願いいたします。

さて、先週末は国内では『全日本実業団選手権』、海外では『ベルリン・マラソン』などのビッグゲームがあり、決して話題に事欠いていたわけではありません。
(それにしても、実業団のホームページのお粗末さ加減は、何とかならないもんでしょうかね?…リザルトは大阪陸協が担当だったようですけど、海外の陸上関係のHPがほぼリアルタイムで情報ゲットできるのに比べて、アップが遅い上にサーバも貧弱でWi-Fi環境だとなかなかつながらないし、まったく時代に遅れています!) 

中でも、男子100mの山縣亮太(セイコー)、手抜きなしの10秒03(+0.5)!しかもRT0.107秒!!
全般的に低調な記録が目立った「実業団」の中のハイライトでしたね。


RTの0.107秒というのは、「人間の反応時間はどんなに速くても0.100秒以上」というのが現在の運動生理学的知見だとすれば、もはや誇張でなく「神の領域」に近づいていると言えます。
ご承知のように、このRTは「たまたま」のものではなく、山縣自身がリオの個人2レース(予選0.111秒、準決勝0.109秒)で証明しているように、彼にとっては当たり前のパフォーマンスになってきているのです。

今後心配されるのは、
「もしかすると、ガチで0.1秒切ってしまうのではないか?」
という不安に駆られたときに、その最大の武器であるスタートを狂わせてしまうのではないか、ということです。
私はオリンピックの際に、
「山縣の示したパフォーマンスは、IAAF内部の議論の種となるだろう」
てなことを気軽な思いで書きましたが、いよいよ本当にそうなっていてもらわなければ、困ります。
日本陸連に対しても、山縣という特異な反応能力を有するスプリンターの存在をしっかりとIAAFにアピールして、善後策を求めるような政治的配慮を切望します。

仮に今後、研ぎ澄まされた山縣のスタートがとうとう0.1秒の「壁」を突破してしまったとしましょう。
現行の判定システムがリコール音を鳴らしてしまうのは仕方がないとしても、それを以って「一発失格」とするようなことがないよう、今のうちにしっかりと言質を取っておくべきだと思うのです。
もちろん、それに併せて「0.1秒」という基準の見直しを真剣に検討すべき段階に入っていることも、言うまでもありません。
もともと、この「0.1秒」という基準は、幾多の実験を重ねたうえで、「どんなにRTが速い人間でも0.11~0.12秒くらいかかる」という結果に基づいて多少のアロウワンスをとって決められた数値のはずです。そこが覆されようとしているわけですから、一日も早く「新基準」の設定が必要なのです。

それにしても、本ブログで7月14日投稿の「100m競走を語ろう⑧」で問題提起したことが、こんなにも早く現実のものになろうとしているとは、ちょっと信じられない思いです。
山縣は、こうした常識を脅かす反応時間を記録する一方で、日本選手権の3レースやリオでのリレー2レースで示したように、「絶対にフライングをとられてはいけない」場面では0.14秒前後のスタートをきっちりと決めて見せる、そこがまた物凄いスタートの名手ぶりだと思います。



「100m競走を語ろう⑮⑯」で紹介した藤井實さんのエピソードの中で、一つ書き漏らしたことがあります。
それは、彼が短距離走のスタート反応を高めるために、百人一首をトレーニングに取り入れていたという逸話です。
百人一首(読み手が短歌の“上の句”を読むのを聞いて、“下の句”を書いた札を取るゲーム)では、同じ「あ」で上の句が始まる歌が17首ありますが、習熟していくにつれ最初の「あ」の言い出し方だけでどの歌かを判断できるようになり、さらには読み手が読む前の呼吸の整え方一つで反応できるようになる、そこまで藤井は鍛錬を重ねた、というのです。(友人の子息にこの道の高校団体チャンピオン・メンバーがいますので、こんど本当のところを聞いてみようと思います)
その領域に至ったスプリンターは、もしかしたらスターターの指がスタート・ピストルに力を加える瞬間を感知してしまうのではないかと、「神の領域」へのロマンもまた膨らんでいきます。
そんな世界を現実に見せようとしている山縣亮太選手。今季最終戦となる国体でのレースは、絶対に見ものですね!

 

<連載>100m競走を語ろう ⑯~藤井實とその時代(後篇)



前回の続きです。

藤井實の活躍の舞台となった、「東京帝国大学運動会」の歴史を調べていくと、資料によってさまざまな見解の相違や事実関係の若干の食い違いなどが見つかってきて、どれを「正史」とするかは本論の主旨ではないとはいえ、いささか気にかかります。
紛らわしいのは、「運動会」という名称が、現在も連綿と続いている「一般財団法人東京大学運動会」(発足当初は「社団法人帝国大学運動会」)と混同されやすい点です。この場合の「運動会」とは、他の大学では「体育会」と称されることが多い、学内運動部の統括組織の名称なのです。イベント名称の「運動会」を言う場合は、「陸上運動会」とするのが適切なようです。
このあたりを踏まえて、資料に記載された出来事を、時系列的に少し整理しておきたいと思います。

- 1883年(明治16年)6月16日、イギリス人ストレンジ教師らの尽力により「東京帝国大学運動会」開催
※「論文」6ページに記載も出典不明。ただ当時の名称は「東京大学」であり、「帝国大学」は1886年から、「東京帝国大学」は1897年からの名称なので、疑問符あり。

- 1885年(明治18年)6月6日、いわゆる「御殿下グラウンド」にて「大学・予備門合同の陸上運動会」開催
※「論文」11ページ記載。出典は「スポーツ八十年史」(1958年・日本体育協会)下記の「120年史」に「運動会は帝大発足前にも2回神田一ツ橋で行われた」とあるため、1883年を「(帝大発足前の)第1回」としても事実関係は矛盾しない。

- 1886年(明治19年)10月21日、陸上運動会開催
※「東京大学陸上運動倶楽部(いわゆる東大陸上部)120年史」に記載。同史によればこれを「第1回帝大運動会」とするも、同じ文書に1887年を「第1回」とする記述も混在しており、真偽不明。この年、組織改正により「帝国大学」設立とともに、「社団法人帝国大学運動会」が発足。

- 1887年(明治20年)、春の「水上運動会」(漕艇大会)開催。秋(日程不明)の「陸上運動会」と2大行事に。
※「論文」11ページ。

- 1902年(明治35年)11月8日、100m優勝者競走で藤井實が電気計時10秒24を記録
※「論文」14ページ。本人の手記「思い出」によれば「1904年11月8日」。

- 1904年(明治37年)11月12日、藤井實200mを25秒74で制す
※「論文」13ページ。これにより、電気計時が少なくとも3年がかりで試行されていたのか、100mの「10秒24」もこの年の出来事だったのか、事実認定が難しくなる。

- 1905年(明治38年)11月11日、藤井實、棒高跳で3m66の世界最高記録
※「論文」14ページ。15ページに「思い出」抜粋記事。

- 1906年(明治39年)11月10日、藤井實(OBとして参加)、棒高跳で3m90の世界最高記録

※同上。なお、これら数年の記録より、「陸上運動会」が11月第2土曜日に開催が定着していたことが知れる。藤井の「思い出」で10秒24が「1904年11月8日」とあるのは、年号か日付かどちらかの記憶違いであろう。

と、まあ東大に残る資料からしても当初は記憶頼りのところもあったでしょうし、「事実」を確定するのはなかなか難しいことです。もしこの先、時間がありましたら古い新聞なども調べて、この分野の研究を進めてみたいところです。


◆スプリンターとしての藤井實
「10秒24」という途轍もないレコードが一人歩きするような状況で、スプリンターとしての藤井の実像は幻影に包まれてしまいがちですが、論文「夏目漱石『三四郎』の比較文化的研究」(2011年・土屋知子)の中には、小説『三四郎』の中に突如現れた藤井(がモデルと思われる人物)が1着を占めた競走について、次のように語られていることが紹介されています。

 一番に到着したものが、紫の猿股を穿いて婦人席の方を向いて立ってゐる。能く見ると昨夜の親睦会で演説をした学生に似てゐる。あゝ背が高くては一番になる筈である。計測掛が黒板に二十五秒七四と書いた。書き終わつて、余りの白墨を向へ抛(な)げて、此方をむいた所を見ると野々宮さんであった。・・・
 ※「野々宮さん」のモデルは、電気計時装置の開発で田中舘教授の助手を務めた寺田寅彦。漱石の文学上の弟子格でもあった。

『三四郎』に描かれる「帝大運動会」の模様は1907年(明治40年)の設定なのですが、執筆にあたって漱石が取材をしたのは、1903年から06年にかけての何回かの大会であったと考えられます。(1902年12月まで漱石はロンドン在住)
特に冒頭に三四郎が感想を述べる「
大きな日の丸と英吉利の国旗が交叉してある」という光景は、1902年に締結された日英同盟の記念と、イギリスから伝えられた陸上競技の象徴と、2つの意味を持ったアイキャッチャーだったと思われます。
藤井が200mを25秒74で制したのは1904年の大会で、これは記録に残っているようです。いっぽう、100mの10秒24というのは「優勝者競走」(短距離走の優勝者と2着、または優勝者のみで行う記録挑戦のための再レース)で出された記録のため、前述のように1902年のことか04年のことかが判然としない、となってしまっているわけです。

この10秒24を別にすると、100mにおける藤井の数年間の優勝タイムは11秒台後半から12秒台というもので、1912年に日本のオリンピック選手第1号となった、5年ほど後輩の三島弥彦の記録とだいたい同程度だったのではないか、と推測されます。そして、この水準の100mのタイムであれば、200mの25秒74というのはまずまず順当なところ、ということにもなります。
手動計時で1回でも10秒台の記録を残しているのなら「あるいは?」と考えることも可能でしょうが、ただ一度の「10秒24」が突出しすぎているのですね。とはいえ、この「10秒24」という数字の迫力は、現代の日本での100m競走を見慣れている私たちだからこそ感じられる絶妙のもので、そこに測り知れないほどのロマンを感じてしまいますよね。

結論として、スプリンターとしての藤井實は、創成期の日本陸上界にあっては傑出した存在だったとはいえ、「世界」と比べた場合にはすでに10秒台に突入していた100m、1904年セントルイス・オリンピックの優勝記録が21秒6だった200m、ともにやや見劣りがする、そんな水準だったのではないか、と判断されます。



◆ヴォールターとしての藤井實

藤井實02
3m66の世界最高記録を跳び「絵葉書にもなった」という写真。
(「論文」14ページ、出典は「日本スポーツ八十年史」)


前述のように、藤井は大学4年の運動会で3m66、卒業して外務省に入省しOBとしての参加となった1906年には3m90という高さをクリアしています。こちらのほうは、若干の計測精度の不備があったとしても大きな「間違い」とはなりようがなく、掛け値なしの「世界最高記録」だったと思われます。

国際陸連が発足する1912年より以前のため「世界記録」というものは公式に存在していませんが、1905年時点ではアメリカのマックラナンという選手が跳んだ「12フィート(3.6576m)」が最高記録らしいということで、藤井の3m66は僅差で世界最高、またはタイ記録。その後サムスという選手が12フィート487(3.806m)を跳んだのを藤井の3m90が上回ったわけです。ちなみに1904年のオリンピック優勝記録は3m50、1908年でも3m71に過ぎません。

短距離走に抜きんでた実力を持っていた藤井は、跳躍・投擲などにも大活躍したマルチ・アスリートだったに違いなく、中でも設備や用具の点から取っ掛かりの難しい棒高跳という特殊な種目にこれほどまでの情熱を傾けて取り組んでいたことは、瞠目すべき事実だと思います。
その世界的記録の裏付けになったものは、類まれな身体能力とともに、前回ご紹介した「竹製ポール」というオリジナルの用具開発が大きかったでしょう。
3m66を跳んだ1905年より前の3年間の記録が3m075、3m103、3m255だったことから推測して、この1905年に、藤井自ら開発・製作した竹製ポールが3年という乾燥期間を経て投入されたのではないか、と思います。だとすれば、フジイ・オリジナルの竹製ポールが活用されたのは、この年と翌年の、たった2年間…藤井がその後も競技を続けていたならば、どこまで記録が伸びたものか、とうぜん世界初の4mヴォールターの栄誉や、史実より1開催早い1908年での日本人オリンピック初出場・初優勝もあり得たのではないかと、こちらもロマンは限りなく溢れています。

◆藤井實の生きた時代
藤井は1906年の陸上運動会出場、棒高跳での世界最高記録樹立を置き土産に、陸上競技とはすっぱりと縁を絶ち、日本陸連の誕生や後進の指導に携わることもなく、以後は外務官僚として激動の時代を生き抜くことになります。

漱石が目撃し200mの模様を『三四郎』にも書き記した陸上運動会の開催された1904年といえば、歴史好きの方であればすぐにピンと来るでしょうが、日露戦争が開戦したまさにその年です。
夏目漱石、日露戦争、東京帝大というキーワードからは、日本海海戦大勝利の立役者であった秋山真之の名がすぐに連想されます。司馬遼太郎の『坂の上の雲』に描かれたこの時代は、日本にとって深刻な大転換期でもあり、「貧困とひたむきな明るさ」のイメージに彩られた明治期のハイライト的な一時代だったと言えるでしょう。まして陸上運動会の行われた11月は、戦史に名高い旅順要塞の攻防戦が佳境を迎えつつあるという、長閑に運動会で駆けまわったり、女性観客をナンパしたりというには、あまりにも重大な世相が絡んできているはずです。
そうした大変な時代の真っただ中にあって、誰にも邪魔されることもなくスポーツマンとしての活動に没頭し、3年かけて棒高跳のポールを作るような作業に取り組んでいた藤井が、
「こういうことをいつまでもやっているなんて許されない。競技生活は学生のうち限り」
と決意していた心情は、察するに余りあるものがあります。僅かに棒高跳でやり残したことをOB1年目の秋に3m90という大記録で「完遂」した後は、また並々ならぬ決意で外交の世界へと身を投じたものに違いありません。


藤井は、各地の大使館勤務、大使などを歴任した後、1928年(昭和5年)に日本陸軍の対中国強硬姿勢に反発して外務省を退官、以後は日本外交協会理事として民間の立場から、非戦・対英米協調の姿勢を貫きつつ外交折衝に尽力します。特に陸上競技発祥の地・イギリスでは「世界で最も速く100mを走った人物」としてVIP級の処遇を受け、太平洋戦争開戦時には「あなたの国とこういうことになって非常に残念だ」と言われたということです。

藤井の後年の有名なエピソードとして、1909年のエプソム・ダービー(イギリスのエプソム競馬場で開催される、世界中の「ダービー」の起源となった競馬レース)に優勝した英国王エドワード7世の持ち馬(実際は部下の将校からの借り馬)・ミノルが、藤井の大記録にあやかって命名された、というものがあります。
本当のところは、ミノルが生まれた牧場に働く日本人造園師の息子の名前から採られた、というのが事実らしいのですが、そうだったとしても、「ミノルというのは強い(速い)日本人の名前」という先入観があってのことだったかもしれない、という想像は許されるでしょう。それほどに、藤井實の名はヨーロッパやアメリカのスポーツ界には轟いていたのです。 

藤井は1964年に開催が決まっていた東京オリンピックを心待ちにしていたそうですが、前年の1963年に他界しました。
今後とも、「日本の陸上競技の父」である彼の事績がより詳らかになるよう、私はいろいろと文献や記録を漁ってみるつもりでいます。

 

<連載>100m競走を語ろう ⑮~藤井實とその時代(前篇)



この<連載>も少々不定期な形で続けさせていただいていますが、ここからしばらくは、100m競走を彩ったさまざまな名選手や名勝負を軸に、その歴史を紐解いていこうかと思います。
その皮切りとして、この<連載>の⑪で「余談」としてご紹介した、日本陸上競技史・創成期の偉大なアスリート、藤井實さんについて、より詳しく語ってみましょう。

なお記述に当たり参考にした文献は、保阪正康著『100メートルに命を賭けた男たち』(1984年・朝日新聞社)と、WEB上にある土屋知子著『2011年度大手前大学博士論文『夏目漱石「三四郎」の比較文化的研究』です。前者については刊行当時に何度も何度も読み返した書籍ながら、現在手元に現物がないため記憶に頼るところがありますが、後者ともども多くの資料が『スポーツ八十年史』(1958年・公益財団法人日本体育協会)を原典としていると考えられますので、両者の整合性はとれているように思います。Wikipediaの該当記事も、この両著作を原典としているようです。
また写真も、後者の論文に掲載されているものを借用しています。前者の書籍にも、いくつか同じ写真が掲載されていたと記憶しています。
このほか藤井(以下敬称略)の事績についてはWEB上にいくつかの記事が散見されるものの、多くは事実の一片だけを誇張して記述したものですので、参考とするには値しませんでした。
100mだけでなく日本の陸上史を語る上では決して除外できないほどのアスリートであり、後には吉田茂と「俺、お前」で呼び合う仲の名外務官僚だったのですが、その実像に迫る資料があまり多くないのが不思議です。

藤井實
藤井實(1880または81-1963) ※上記「論文」13ページより)

◆陸上競技大会の始まり
スポーツの伝来については、競技ごとにその来歴がそこそこ明らかに記録されており、たとえば野球の場合は1871年(明治4年)に来日したアメリカ人によって東京開成学校予科(東京大学の前身)に伝えられ、73年頃に初の試合形式で行われた後、78年に最初の本格的球団「新橋アスレチック倶楽部」が誕生…といった具合で、日本におけるメジャーなスポーツは、おおむね明治の初期~中期に諸外国のさまざまな職業にある人々から伝播され、現在の大学にあたる学校の課外活動として歴史の第一歩を刻んでいることが伝えられています。

そこへ行くと、陸上競技の「第一歩」はどこに源流を求めればいいのかが、今一つ判然としません。
それは、イギリスから「陸上競技」として伝来するよりも前から、「駆けっこ」「投げ比べ」程度のゲームが自然発生的に行われていたのは間違いなかろうという推定があるためでしょう。
日本陸連のHPに紹介されている「競技史」も、端緒は初めてオリンピックに2人の代表を派遣した1912年(大正元年)ストックホルム大会からの記述となっており、それ以前については触れられていないのです。

で、おそらくはの推量となるのですが、形式からして「陸上競技大会」の体をなしているものとしては、1883年(明治16年)6月16日にイギリス人英語教師、フレデリック・ストレンジの肝煎りで開催された「東京帝国大学運動会」が、最も古く確かな記録かと考えられます。
「運動会」と称されるイベントはそれ以前にも存在していた可能性は高いと思われますが、ほぼ現代の陸上競技に特化した種目構成や、外部からの観客を多く集めて開催されたことなどを勘案すると、これ以前には「陸上競技大会」の痕跡は見つからないのです。
参考文献として挙げた「論文」は、表題からも分かるように夏目漱石の『三四郎』についての研究をまとめた文学論で、この小説の中に東京帝大の学生である主人公・小川三四郎が、20世紀初めごろの「運動会」を観戦に出かけている描写について、歴史的事実関係と照合したかなり詳細な考察を行っています。
(つまり、著者の土屋さんは、文学研究者でありながら、この描写の対象となった「運動会」の実態がとても気になったらしく、論文の主旨からすると脱線とも言うべき記述に大きく紙数を割いているのです。陸上競技ファンとしては、これがとても有益な資料となっているのは、ありがたいことです)

三四郎にとっては「運動会」の内容にはまったく興味がない様子で、実はこれを観戦に来ているはずのある女性が目当てです。こうした三四郎の思惑や行動に象徴されるように、当時の「帝大運動会」は、将来を約束された文武両道のヒーローを見たさに若い女性たちが観戦に詰めかけ、それをまた目当てに男たちも群がる、という社交サロンのような役割を果たしていたらしいのです。(美術展やコンサート、ダンスホールのように)
ゴール間近の観客席に目当ての女性を発見した三四郎は、そちらを凝視しているうちに数人の“男ども”がゴールに駆け込んでいくところをたまたま視界にとらえます。三四郎は、突然視線を邪魔するように過った“男ども”について、「どうして、あゝ無分別に走(か)ける気になれたものだろうと」思うくらいに、競走には何の関心も示しません。
この“男ども”の先頭にいた「紫の猿股を穿いた」選手が、(小説の中では明かされていませんが)ヒーローの中のスーパーヒーロー、藤井實だったと考えられています。つまり、漱石が実際に観覧した運動会の模様をそのまま、三四郎という架空の人物の視点から小説の一場面として描写しているわけです。

『三四郎』の時代から遡って、1886年(明治19年)から「東京帝大運動会」は秋の開催が恒例となり、翌87年に始まる漕艇大会(東大と一橋大の対抗戦「東商レガッタ」の前身)とともに、「春のボート/秋の陸上運動会」の2大看板イベントが成立、上に記したように、若い男女の社交場として人気を博していったということです。



◆藤井實の人物

生まれは1880年とも81年ともされ、定かではありません。東京・本郷の出身で、父親は昌平黌(江戸幕府によって設立された、儒学・漢学などの教育機関)の漢学教師だったそうですが、昌平黌は1870年に廃止されていますので、藤井の誕生当時は別の教育機関に何らかの形で関わっていたのではないでしょうか。
いずれにしろ、厳格かつそこそこに裕福な家庭の生まれ育ちと思われ、生家・父の職場・そして實の進路と、東京のあの辺り一帯を「庭」として成長したことは間違いないようです。

第一高等学校(現在の東京大学教養学部に相当)から東京帝大法科へと進んだのが1902年(明治35年)のこと。一高時代から並ぶもののないスーパー・アスリートだった藤井は、この年の秋に行われた「帝大運動会」で、例の「10秒24」という電気計時による快記録を樹立した、ということになっています。

前の記事と重複しますが、この記録の真偽を問うことは、藤井自身の後年の事績や計時装置を開発した田中舘愛橘教授の信望からして、一種のエチケット違反とする考え方が定着しています。心の中で「そんなわきゃーない!」と思っていても、口には出さず、というのが落としどころなのです。(と、思いっきり書いちゃってますが…)
藤井はその前後、つまり一高時代から法科卒業後はOBとして、毎回のように運動会に参加して、短距離走と棒高跳には無類の強さを発揮しました。
自身の述懐によれば、現役時代の体格は「身長5尺9寸5分(約180.3㎝)、体重18貫500匁(約69.4㎏)」とのことで、冒頭の写真からも伺えるように、当時としては並外れてスポーツの資質に恵まれた“巨漢”だったと言えるでしょう。後年、初老に差し掛かった頃に同窓生の吉田茂と並んで写っている写真が前記の『100メートルに命を賭けた男たち』に掲載されていたと思いますが、体つきは吉田より優に二回りは大きく、長い顔が特徴的だったのを覚えています。
もう一度、写真を見てください。ふくらはぎの筋肉の発達ぶりは、素質だけで抜きんでた存在に居座っていたのではないことを、明瞭に物語っています。


写真で身に着けているのが、三四郎が目に留めた「紫色の猿股」でしょうか。
当時はもちろん、スポーツ用品店でランパンを買って、などということはあるはずもなく、軽くて着心地のいい生地を見繕って自作したもののようです。母親の着古した着物の生地を利用して手縫いで作った(あるいは母親が作ってくれたかもしれませんが、藤井自身が作った可能性もあります)ものだそうです。
ちなみに、短パンというよりは現代のバスケットボールやサッカーの選手が穿くハーフパンツのような長さですが、これは運動会の規定で「膝丈よりも短くてはいけない」ことによるものです。

ランパンを自作するのは、藤井に限らず当時の陸上選手にとって当たり前のことだったはずです。一方で藤井は、海外のスポーツ雑誌を読み漁り、そこに掲載されていた広告のメーカーからスパイクシューズを取り寄せ(もちろん輸入です)、日本で初めてスパイクを履いてレースに出たアスリートとしても歴史に名を刻んでいます。(このあたりから、「そこそこ裕福な家庭」と想像するわけです)

さらに推測を推し進めれば、日本で初めてクラウチングスタートを行った選手でもあるのではないでしょうか?…世界で初めてクラウチングスタートをした選手は、第1回オリンピック(1896年)の優勝者トーマス・バークだと言われており、研究熱心な上にそうした海外の情報をいち早くキャッチする術に長けていた藤井が、真っ先にこれを模倣した可能性は高いと思います。


もう一つ、得意とした棒高跳では、日本のどこにでも生えている竹のしなりに目をつけ、これをポールにすることを考えつきました。それまで、ポールの素材としてはアメリカンパインという木材が使われていましたが、ほとんど曲がりのない、折れにくい丈夫さ、軽さが取り柄のものでした。
竹の柔軟性と軽さ、強さこそはポールに最適と考えた藤井は、周到・仔細に最適な竹の品種や収穫時期を検討してから自ら竹林に入って手ごろな竹を何本も切り、まず節を抜いて真っ直ぐに成形した後、バランスのいいもの3本だけを選んで、大学の柔剣道場の天井にぶら下げ、虫食いや亀裂が起こらないよう管理しながら3年間乾燥させ、遂に競技に耐えるバンブー・ポールを作り上げることに成功した…いやはや、気の遠くなるような作業を、誰の手も借りずに自分で行っていたわけですね。

この一件からも、藤井がいかに創成期の陸上競技に熱意を傾けて取り組んでいたか、また秀才としての資質を如何なく発揮して創意工夫を凝らしていたか、それだけでも「日本の陸上競技の父」と呼ぶにふさわしい、偉大なパイオニアであったことが知れようというものでしょう。

今さら言うまでもなく、竹製のポールはまず金属製、続いてグラスファイバーやカーボンファイバーなどの新素材の登場によって、戦後まもなく駆逐されてしまいます。けれども、私が中学・高校の陸上競技部に在籍していた当時(1970年代)は、練習用に短めの竹のポールが、ちゃんと倉庫にありましたよ。私は棒高跳は怖くてできませんでしたが、その竹ポールを使って遊びのような跳躍をしてみたことは何度もあります。全然曲がりませんでしたけど。(笑)
こうして19世紀に産声をあげた日本の陸上界では、20世紀に入って藤井が開発したこのポールを使うことで、まず藤井自身が世界記録を樹立し、そしてその後の1932年・36年のオリンピックでは通算3つのメダルを獲得しているのです。

(後篇へ続く)


デカネーション詳報



昨日の「デカネーション」の模様が、IAAFのHPでもニュースとして紹介されています。
例によって、拙い和訳ではありますが…戸田選手のビッグ・サプライズについても軽く触れられています。
(本文、写真とも
https://www.iaaf.org/news/report/decanation-2016-lemaitre-lavillenie-bascouより)

2016リオ・オリンピックの陸上競技でフランスにメダルをもたらした6人が、火曜日(13日)にマルセイユのスタッド・デロートで開催された毎年恒例の「デカネーション大会」に全員顔をそろえ、ホスト国としてチームに8年ぶりの総合優勝を呼び込んだ。
今回の参加チームは、フランス、NACAC(アメリカス)、中国、ウクライナ、日本、そして混成インターナショナル・チーム。アメリカス・チームもオリンピック・メダリストらがなかなか強いところを見せたにも関わらず、最終的にフランスが6ポイント差の115対109で優勝を飾った。

DecaNation-200m

オリンピック銅メダリスト、クリストフ・ルメートルは200mでフランスに1位のポイントをもたらした。ルメートルは20秒23(-0.4)で快勝、ゴールでは日本の原翔太とアメリカのNCAA三冠王ジャリオン・ローソンに数メートルの大差をつけた。
「いい気分でシーズンを締めくくれた」と、ルメートルは語った。「フランス・チームのために貢献することができて、満足してるよ。シーズンのこの時期としては、タイム的にも安定している。あといくつか試合があれば、もう少しいい記録にいけたかもしれないけど、まあ不満はないね」

2人のオリンピック銀メダリスト、ルノー・ラヴィレニとケヴァン・マイヤーが、ともに棒高跳に出場した。ラヴィレニにしては珍しく、5m00という低いバーから試技を開始。リオの十種競技で最終2位になったマイヤーは、同じバーをクリアするのに3回の試技をかけ、それ以上の高さは越えられなかった。
ラヴィレニはその後、同僚のスタンレー・ジョセフと日本の山本聖途がまだ残っている中で、5m70を2回失敗してプレッシャーに晒された。だが世界記録保持者がこの高さを3回目に成功すると、競争相手は脱落していった。ラヴィレニはさらに5m80に成功し、5m90を3度落として競技を終えた。
「今夜のいちばんの目的は、試合を楽しむことと、観客の皆さんに喜んでもらうことだったんだ」と、ラヴィレニは言う。「絶好調というわけではなかったけど、5m80を跳んで終えることができたのはとてもハッピーだ。この大会は、いつも注目してくれて、精一杯応援してくれるフランスのファンの皆さんといつも以上に交流できるのがいいね」

 

マイヤーは、今週末にタランスで行われる『デカスター大会』に向けての調整で今大会に参加し、オリンピック・チャンピオンのライアン・クラウザーが優勝した砲丸投にも出場して、14m40で7位になった。アメリカの王者は20m61を投げて優勝し、また先立って行われた円盤投にも出場、59m13で2位になっている。

ヨーロッパ選手権覇者のディミトリ・バスクは、110mHで2位にちょうど0.5秒の差をつけて優勝した。オリンピック銅メダリストでもあるバスクは、タイマーを13.24で止め、フランスにもう一つの貴重な勝ち星をもたらした。

同じくフランスのメリナ・ロベール-ミションもまた、快勝だった。オリンピック銀メダリストの彼女は、1投目からリードを奪うと3投目に61m40のベストを投擲して優勝を決めた。
「シーズン最後の試合だと思ったら、なんか調子が狂っちゃったわ」とロベールミションは言った。「マルセイユのお客さんたちに喜んでもらえたなら、いいんだけど」

アメリカス・チームは女子400mと男子100mでもトップを占めた。NCAAチャンピオンのコートニー・オコロは、51秒06でトラックを1周。一方、アサファ・パウエルは-1.9m/sという強い向かい風と格闘の末、10秒20でレースを制した。

この夜最大のサプライズは、男子2000mで起きた。日本選手権1500mチャンピオンの戸田雅稀が5分14秒39で、オリンピックで3つのメダルを持っているマイディーヌ・メキシベナバの5分16秒05に1秒以上の差をつけて優勝したのだ。戸田はレースの序盤から逃げて次第に大きな差を築き、他のランナーたちがその差を挽回しようとした時にはすでに遅過ぎた。

(ジョン・マルキーン)

戸田雅稀、メキシベナバ破る大金星!~デカネーション2016



フランス・マルセイユで行われた『DecaNation2016』の各種目上位結果です。
日本チームは男子400mのウォルシュ・ジュリアン(東洋大)と男子2000mの戸田雅稀(日清食品G)が優勝。
特に今年の日本選手権1500mチャンピオン・戸田の優勝は3000mSCのオリンピック銅メダリスト・メキシベナバを破っての金星で、地元のツィッターにも「サプライズ!」の文字が踊っていました。
また同じ特殊種目2000mの女子では、木村友香(ユニバーサルエンターテインメント)が日本新記録で2位に入りました。

その他は桐生の凡走に代表されるように見るべきところはなく、日本も「世界」も、ショボい記録に留まりました。
(こういう言い方はよくないですね。日本勢にとっては、なにごとも経験値を積むことが大事です)
国別対抗の結果は…どこに出ているのか今のところ分かりません。日本はアメリカ大陸合同チーム、フランス、ウクライナに次いで4位といったところじゃないでしょうか?


◇女子400mH
 ①55"71 カリース・スペンサー(JAM/アメリカス)
 ②56"48 アンナ・ティティメッツ(UKR)
 ③57"06 久保倉里美(JPN)

◇男子400m
 ①46"09 ウォルシュ・ジュリアン(JPN)
 ②46"48 マムイブラ・アンヌ(FRA)
 ③46"92 ヴィタリー・ブトリム(UKR)

◇女子2000m
 ①5'45"51 アイズナ・プロート(JAM/アメリカス)
 ②5'47"17 木村友香(JPN) ※日本新記録
 ③5'50"68 チャン・シュンヤン(CHN)

◇男子100m(-1.9)
 ①10"20 アサファ・パウエル(JAM/アメリカス)
 ②10"35 桐生祥秀(JPN)
 ③10"53 ZEZE Mickael-meba
DecaNation-100m
https://twitter.com/urun_fr/status/775740949314039808/photo/1

◇女子100m(-0.4)
 ①11"55 POVKH Olesya(UKR)
 ②11"67 ナターシャ・モリソン(JAM/アメリカス)
 ③11"89 齋藤愛美(JPN)

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◇男子円盤投
 ①60m67 ミキタ・ネステレンコ(UKR)
 ②59m13 ライアン・クラウザー(USA/アメリカス)
 ③58m96 DJOUHAN Lolassonn(FRA)
 ④55m23 堤雄司(JPN)

◇女子砲丸投
 ①17m61 クレオパトラ・ボレル(TRI/アメリカス)
 ②17m53 グォ・ティアンキアン(CHN)
 ③16m45 ジェシカ・セリヴァル(FRA)
 ⑥15m37 太田亜矢(JPN)

◇女子走幅跳
 ①6m57(-0.2) エロイーズ・ルシュール(FRA)
 ②6m28(+0.6) マリナ・ベック(UKR)
 ③6m20(-0.5) キンバリー・ウィリアムズ(JAM/アメリカス)
 ⑥5m85(+1.0) ヘンプヒル恵(JPN)

◇男子800m
 ①1'50"16 サミル・ダーマニ(FRA)
 ②1'50"69 チャン・デシャン(CHN)
 ③1'50"91 アヌー・アブデルラーマン(ALG)
 ⑤1'53"22 三武 潤(JPN)

◇女子400m
 ①51"06 コートニー・オコロ(USA/アメリカス)
 ②51"99 フローリア・ゲイ(FRA)
 ③53"21 オルガ・ビビカ(UKR)
 ⑤54"21 青山聖佳(JPN)

◇女子800m
 ①2'03"80 ノーリー・ヤリゴ(BEN/インターナショナル)
 ②2'03"98 ナタリヤ・ルプ(UKR)
 ③2'04"05 ケイティ・マッキー(USA/アメリカス)
 ⑥2'08"50 福田翔子(JPN)

◇男子200m(-0.4)
 ①20"23 クリストフ・ルメートル(FRA)
 ②20"63 原 翔太(JPA)
 ③20"68 ジャリオン・ローソン(USA/アメリカス)

◇女子走高跳
 ①1m88 オクサナ・オクニエワ(UKR)
 ②1m85 ブリゲッタ・バレット(USA/アメリカス)
 ③1m79 マリーヌ・ヴァレット(FRA)
 ④1m76 浅井さくら(JPN)

◇男子2000m
 ①5'14"39 戸田雅稀(JPN)
 ②5'16"05 マイディーヌ・メキシベナバ(FRA)
 ③5'16"61 アンディ・ベイヤー(USA/アメリカス)

◇男子棒高跳
 ①5m80 ルノー・ラヴィレニ(FRA)
 ②5m60 山本聖途(JPN)
 ③5m60 ジョゼフ・スタンリー(FRA/オープン)

◇女子円盤投
 ①61m40 メリナ・ロベールミション(FRA)
 ②57m27 ナタリヤ・セメノワ(UKR)
 ③56m62 チェン・ヤン(CHN)
 ⑤45m27 中田恵莉子(JPN)

◇女子100mH(-0.3)
 ①12"96 ジャクリーン・カワード(USA/アメリカス)
 ②13"08 アンナ・プロティツィナ(UKR)
 ③13"18 シンディ・ビロー(FRA)
 ⑤13"59 木村文子(JPN)

◇男子110mH(-0.1)
 ①13'24 ディミトリ・バスク(FRA)
 ②13"74 矢澤 航(JPN)
 ③13"75 ジェフリー・ジャルニス(HAI/アメリカス)

◇男子三段跳
 ①16m67(+0.2)ハロルド・コレア(FRA)
 ②16m60(0) ウー・ルイティン(CHN)
 ③16m45(0) 山本凌雅(JPN)

◇男子砲丸投
 ①20m61 ライアン・クラウザー(USA/アメリカス)
 ②20m14 フランクリン・エレンバ(COD/インターナショナル)
 ③18m65 フレデリック・ダギー(FRA)
 ⑤17m36 中村太地(JPN)

 
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