◆超音波式風速計がなかったので…
2013年、我が国の陸上短距離シーンに「怪物高校生スプリンター」が現れました。4月29日、多くの選手がシーズン初戦に選ぶ『織田幹雄記念国際陸上』の予選で、10秒01(+0.9)の日本歴代2位、日本記録まで100分の1秒という快記録をマークした桐生祥秀選手(洛南高=当時→東洋大)です。
桐生選手は2年生だった前年の秋に、当時の高校記録(大瀬戸一馬選手がその前年に18年ぶりの新記録として出した10秒23)を破る10秒21で走って高校記録保持者となっており、この織田記念大会でも注目される一人には間違いありませんでしたが、まさか一気に9秒台目前の領域まで差し掛かるとはと、誰もが驚愕する疾走劇でした。
決勝でも追い風参考ながら10秒03というハイレベルな記録で、第一人者の山縣亮太選手(慶大=当時→SEIKO)を僅差ながら破って優勝し、実力がホンモノであることを証明してみせました。
日本の短距離界はこの新星誕生に大喝采し、「いよいよ日本人初の、いや黄色人種初の9秒台突入か?」という期待がにわかに高まりました。一般のニュースなどでも大きく取り上げられたりしたため、以後しばらくは桐生選手・山縣選手が試合に出場するたびに大きな注目が集まりました。特に桐生選手のタイムは僅か17歳のスプリンターが記録したものということで、世界的にも話題となり、この年の夏に行われた世界選手権(モスクワ)の100m予選に桐生選手が登場した際には「センセーショナルな若者!」とわざわざ場内アナウンスで紹介されたほどでした。
(結局、いまだ日本人初の9秒台は実現していませんし、黄色人種初の栄誉も、中国のスー・ビンチャン選手に先を越されてしまいましたが…)
当時、世界ジュニア記録(現在は呼称が変わってU-20世界記録)は桐生選手の出したタイムと同じ10秒01でした。しかし、IAAFは桐生の記録を世界ジュニア・タイ記録として認定することはありませんでした。
その理由は、世界記録や地域記録(エリアレコード)として認定する要件の一つである「超音波式風速計による風速計測」が満たされていなかった、というものです。この日の織田記念陸上で使われていたのは、旧式の機械式風速計だったためです。
これは「記録を公認しない」という意味ではなく、「世界(ジュニア)記録としてレコードブックに記載することはできない」ということで、桐生選手の記録はランキングには記載され、またその年に開催された世界選手権の参加標準記録到達については問題なく有効ということ…つまり、桐生選手の記録が「公式記録」であることは間違いないのです。
このように、現在ではIAAFによる世界およびエリア記録の認定には超音波式風速計の使用が必須条件になっていて、この最新機器の普及が2013年春の時点では十分でなかったこと、日本記録の認定など国内記録に関するルールとしてはこうした条件がないことなどから、当日の会場には用意されていなかったのだと思われます。まさか17歳の高校生が10秒01などというタイムで走るとは誰も予想はしていなかったでしょうが、同じレースにはアジア記録更新の可能性を持つ山縣選手なども出場していたのですから、これは日本陸連のうっかりミスだったと言えるでしょう。
◆風速風向計とは?
ここで話題になった「超音波式風速計」とは、どういうものでしょうか?
私は間近で見たことも説明を受けたこともありませんので、またまたおなじみ・セイコータイムシステム株式会社さんのHPなどからおおよそのことをまとめてみることにしましょう。

http://www.seiko-sts.co.jp/products/sports/cat02/008.html
セイコータイムシステム株式会社HPより
原理を整理しますと、こうなります。
風というものは空気の移動ですから、空気を媒介として伝わる音波は風によってその到達速度が変動します。この風速計の先端近くにある突起のようなものの間に超音波を送受信する仕組みがあって、その時間を瞬時に計測することで、ある特定の方向(つまり走路の進行方向)に対する風の方向(順風か逆風かの二元的計測)と風速が換算され、操作盤のモニターに表示される。
…こんなところで合ってるんじゃないでしょうか?
これに対して旧式の機械式風速計というのは、おなじみのくるくると回るプロペラのような装置と矢羽のようなもので実際の風速と風向を計測し、ルールブックに併載されている「換算表」によって進行方向への風速を換算するというものです。つまり、同じ秒速1mの風でも進行方向に対する風向の角度によって異なる風速が換算される、ということです。
超音波式は、そもそも音の伝わる時間を測って風速に置き換えるのですから、風向の角度を気にする必要はない、ということですね。
ちなみに、ルールによると風速計は
「ゴールから50メートル手前、トラックの縁石から2メートル以内の場所に、高さ1.22mで設置する」
ことになっており、
「100m競走の場合はスタートから10秒間、110mH・100mHでは13秒間、200mの場合は先頭走者が直線に差し掛かってから10秒間、走幅跳や三段跳では定点を通過してから5秒間」
計測してその平均値を表示させます。写真の説明で「計測時間は…」云々とあるのは、そのことを言っているのです。
となると、操作方法としては、計測時間をセットして、計測開始のタイミングを間違えずにスイッチを押せば、あとは勝手に機械が正しい風速を弾き出してくれる、ということのようです。
冒頭の「桐生選手の一件」があって以来、陸連は当時まだ国内に何台かしかなかったという超音波式風速計を桐生・山縣などの有力選手が出場する大会には必ず持ち込むようにし、また各地の競技場やこれを所有する自治体などが、争うように最新式の風速計を導入しました。メーカーさんは、時ならぬ「桐生景気」に遭遇したのではないかと拝察します。
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◆風を馬鹿にしちゃいけない
さて、ご存知のように、直走路を片側のみ使う短距離走(100m、200m、110mH 、100mHなど)と走幅跳、三段跳では、2.0m/sを超える追い風が記録されたレースまたは試技での記録は、公認されません。超えてしまった場合の記録は「追風参考記録」となり、競技の順位争いには影響しないものの、公式記録としては残らないのです。
自身で走ってみればよく実感できることですが、陸上に限らず競走競技の記録に、風の影響というのはきわめて重大なものです。
完全な無風状態の場合、ランナーはその時の速度に応じた空気抵抗を受けつつ走ることになります。たとえば私のようなヘナチョコ市民ランナーでも、1㎞あたり5分のペース(12km/h)で走っていれば、正面から3.3m/sの風を受けているのと同じ状態になります。(すいません、ちょっと見栄を張りましたが、最近はランニングをサボっているのでとてもそんなペースじゃ走れません)同じペースでスポーツジムなどのトレッドミル(ランニングマシン)上を走る場合は、この空気抵抗が0になるわけですから、体感の違いは歴然としています。
まして100mを10秒で走るスプリンターであれば、平均10m/sの風に相当する空気抵抗を受けることになり、文字通り彼らは「風を切り裂いて疾走する」のですね。
この空気抵抗が、後ろからの風によって和らげられたり、前方からさらに加えられたりするのが、追い風であり向い風で、100m競走の場合にその影響は、風速1m/sにつきプラスマイナス0.05~0.10秒程度と言われていますが、私の印象ではもう少し大きいのではないかな?という気がします。
むろん、風というものは競走の進行方向に沿って吹くとは限りませんから、風速計(あくまでも進行方向に沿った風力を計測する)には顕れない強い横風によって走りを崩されるなど、風速以上の影響を受ける場合もあるはずです。(嵐のような暴風が吹き荒れていても、進行方向に対しては風速0ということも現実にはあり得ます)
ちなみにハードル競走の場合、走る歩数が決まっているので、追い風に比例してタイムが伸びるということはないようです。強過ぎる追い風は、ハードリングを狂わせてしまいますから。
いっぽうで、200m競走の場合に、ちょうど第4コーナーでの進行方向に沿った斜めからの強めの追い風が吹いていると、風速計に顕れる数字は+2.0以下でもコーナーではより強い追い風を真後ろから受けていることになります。こうした風は「200m風」と呼ばれ、先月の日本選手権で福島千里選手や飯塚翔太選手が好記録を出したレースでは、このような条件に恵まれていたと考えられます。
向い風は100分の1秒を争うスプリンターにとっては地獄だし、強過ぎる追い風もまた、しかり。ゴールの瞬間に表示されたせっかくの好タイムが、次の瞬間追風参考と知った時のガッカリした表情は、あまり見たくないですものね。
ところで風速云々の話からは逸れますが、私は常々、陸上競技においてこの「空気抵抗」という問題があまり取り沙汰されないのはどうしてだろう、と不思議に思っています。
たとえば、競泳ではひと頃、「水の抵抗を軽減する」という特殊素材のスイムウェアが一大ムーヴメントを巻き起こし、実際に“究極の高速水着”が席巻した2009年にはとんでもない頻度で世界新記録・日本新記録が量産され、慌ててFINA(国際水泳連盟)が素材・デザインの規制をかけたほどの事態になりました。
また、陸上競技以上の速度で勝負を競う自転車競技では、この空気抵抗、風圧ということへの対処が、すべてのレースにおいて最重要視される要素になっています。
陸上競技でも、古くは1984年のロサンゼルス・オリンピックあたりで奇抜な「全身スーツスタイル」のウェアが登場し、2000年のシドニー・オリンピックでも地元のヒロイン、キャシー・フリーマンがそうしたコスチュームを着用して話題をまいたことがありましたが、あまり追従する動きはありません。
現在の短距離走者のランニングウェアは、体にフィットした伸縮性の素材が多用されるようになったのは確かですが、いまだに昔ながらのランシャツ・ランパンを風になびかせている人も少なくありません。細かいことを言えば、ウエアと露出した肌の境界ひとつをとっても、微細な空気抵抗の一因にはなっているのではないか、と考えられます。近年流行りの半袖型のウェアを着て首のところを寛げている選手を見ると、「ちゃんと全部閉めればいいのに…」と思います。
また、ロードやオープンレーンの競走では「人の背後について走る」ということが空気力学的に絶対有利なことは明らかなのに、これを戦術として徹底している選手やチームがどれほどあるのか、疑問に感じます。マイルリレーなどで、先行する選手をいち早く抜きにかかって自ら風よけ係になってしまい終盤失速するような選手を見るたび、「・・・・・・・」と思ってしまいます。(当事者にはいろいろとそうする理由もあろうかと思いますが)
もちろん、個々の選手たちは空気抵抗や風との戦いを、それなりに意識して競技しているのだろうとは察しますが、もう少し積極的に、100分の1秒を稼ぐランニングウェアを研究したり、風圧を戦術的に利用することを考えたりすることが論議されてもよいのではないか、とあくまでも外野からの声ではありますが、ここで申し上げておきます。










