豊大先生流・陸上競技のミカタ

陸上競技を見続けて半世紀。「かけっこ」をこよなく愛するオヤジの長文日記です。 (2016年6月9日開設)

2016年07月

<連載>100m競走を語ろう ⑬~風を味方に走れ



◆超音波式風速計がなかったので…
2013
年、我が国の陸上短距離シーンに「怪物高校生スプリンター」が現れました。4月29日、多くの選手がシーズン初戦に選ぶ『織田幹雄記念国際陸上』の予選で、10秒01(+0.9)の日本歴代2位、日本記録まで100分の1秒という快記録をマークした桐生祥秀選手(洛南高=当時→東洋大)です。
桐生選手は2年生だった前年の秋に、当時の高校記録(大瀬戸一馬選手がその前年に18年ぶりの新記録として出した10秒23)を破る10秒21で走って高校記録保持者となっており、この織田記念大会でも注目される一人には間違いありませんでしたが、まさか一気に9秒台目前の領域まで差し掛かるとはと、誰もが驚愕する疾走劇でした。
決勝でも追い風参考ながら10秒03というハイレベルな記録で、第一人者の山縣亮太選手(慶大=当時→SEIKO)を僅差ながら破って優勝し、実力がホンモノであることを証明してみせました。

日本の短距離界はこの新星誕生に大喝采し、「いよいよ日本人初の、いや黄色人種初の9秒台突入か?」という期待がにわかに高まりました。一般のニュースなどでも大きく取り上げられたりしたため、以後しばらくは桐生選手・山縣選手が試合に出場するたびに大きな注目が集まりました。特に桐生選手のタイムは僅か17歳のスプリンターが記録したものということで、世界的にも話題となり、この年の夏に行われた世界選手権(モスクワ)の100m予選に桐生選手が登場した際には「センセーショナルな若者!」とわざわざ場内アナウンスで紹介されたほどでした。
(結局、いまだ日本人初の9秒台は実現していませんし、黄色人種初の栄誉も、中国のスー・ビンチャン選手に先を越されてしまいましたが…)

当時、世界ジュニア記録(現在は呼称が変わってU-20世界記録)は桐生選手の出したタイムと同じ10秒01でした。しかし、IAAFは桐生の記録を世界ジュニア・タイ記録として認定することはありませんでした。
その理由は、世界記録や地域記録(エリアレコード)として認定する要件の一つである「超音波式風速計による風速計測」が満たされていなかった、というものです。この日の織田記念陸上で使われていたのは、旧式の機械式風速計だったためです。
これは「記録を公認しない」という意味ではなく、「世界(ジュニア)記録としてレコードブックに記載することはできない」ということで、桐生選手の記録はランキングには記載され、またその年に開催された世界選手権の参加標準記録到達については問題なく有効ということ…つまり、桐生選手の記録が「公式記録」であることは間違いないのです。
このように、現在ではIAAFによる世界およびエリア記録の認定には超音波式風速計の使用が必須条件になっていて、この最新機器の普及が2013年春の時点では十分でなかったこと、日本記録の認定など国内記録に関するルールとしてはこうした条件がないことなどから、当日の会場には用意されていなかったのだと思われます。まさか17歳の高校生が10秒01などというタイムで走るとは誰も予想はしていなかったでしょうが、同じレースにはアジア記録更新の可能性を持つ山縣選手なども出場していたのですから、これは日本陸連のうっかりミスだったと言えるでしょう。




◆風速風向計とは?

ここで話題になった「超音波式風速計」とは、どういうものでしょうか?
私は間近で見たことも説明を受けたこともありませんので、またまたおなじみ・セイコータイムシステム株式会社さんのHPなどからおおよそのことをまとめてみることにしましょう。
SEIKO03

 http://www.seiko-sts.co.jp/products/sports/cat02/008.html
 セイコータイムシステム株式会社HPより


原理を整理しますと、こうなります。
風というものは空気の移動ですから、空気を媒介として伝わる音波は風によってその到達速度が変動します。この風速計の先端近くにある突起のようなものの間に超音波を送受信する仕組みがあって、その時間を瞬時に計測することで、ある特定の方向(つまり走路の進行方向)に対する風の方向(順風か逆風かの二元的計測)と風速が換算され、操作盤のモニターに表示される。
…こんなところで合ってるんじゃないでしょうか?

これに対して旧式の機械式風速計というのは、おなじみのくるくると回るプロペラのような装置と矢羽のようなもので実際の風速と風向を計測し、ルールブックに併載されている「換算表」によって進行方向への風速を換算するというものです。つまり、同じ秒速1mの風でも進行方向に対する風向の角度によって異なる風速が換算される、ということです。
超音波式は、そもそも音の伝わる時間を測って風速に置き換えるのですから、風向の角度を気にする必要はない、ということですね。

ちなみに、ルールによると風速計は
「ゴールから50メートル手前、トラックの縁石から2メートル以内の場所に、高さ1.22mで設置する」
ことになっており、
「100m競走の場合はスタートから10秒間、110mH・100mHでは13秒間、200mの場合は先頭走者が直線に差し掛かってから10秒間、走幅跳や三段跳では定点を通過してから5秒間」
計測してその平均値を表示させます。写真の説明で「計測時間は…」云々とあるのは、そのことを言っているのです。
となると、操作方法としては、計測時間をセットして、計測開始のタイミングを間違えずにスイッチを押せば、あとは勝手に機械が正しい風速を弾き出してくれる、ということのようです。

冒頭の「桐生選手の一件」があって以来、陸連は当時まだ国内に何台かしかなかったという超音波式風速計を桐生・山縣などの有力選手が出場する大会には必ず持ち込むようにし、また各地の競技場やこれを所有する自治体などが、争うように最新式の風速計を導入しました。メーカーさんは、時ならぬ「桐生景気」に遭遇したのではないかと拝察します。

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◆風を馬鹿にしちゃいけない

さて、ご存知のように、直走路を片側のみ使う短距離走(100m、200m、110mH 、100mHなど)と走幅跳、三段跳では、2.0m/sを超える追い風が記録されたレースまたは試技での記録は、公認されません。超えてしまった場合の記録は「追風参考記録」となり、競技の順位争いには影響しないものの、公式記録としては残らないのです。

自身で走ってみればよく実感できることですが、陸上に限らず競走競技の記録に、風の影響というのはきわめて重大なものです。
完全な無風状態の場合、ランナーはその時の速度に応じた空気抵抗を受けつつ走ることになります。たとえば私のようなヘナチョコ市民ランナーでも、1㎞あたり5分のペース(12km/h)で走っていれば、正面から3.3m/sの風を受けているのと同じ状態になります。(すいません、ちょっと見栄を張りましたが、最近はランニングをサボっているのでとてもそんなペースじゃ走れません)同じペースでスポーツジムなどのトレッドミル(ランニングマシン)上を走る場合は、この空気抵抗が0になるわけですから、体感の違いは歴然としています。

まして100m
10秒で走るスプリンターであれば、平均10m/sの風に相当する空気抵抗を受けることになり、文字通り彼らは「風を切り裂いて疾走する」のですね。

この空気抵抗が、後ろからの風によって和らげられたり、前方からさらに加えられたりするのが、追い風であり向い風で、100m競走の場合にその影響は、風速1m/sにつきプラスマイナス0.050.10秒程度と言われていますが、私の印象ではもう少し大きいのではないかな?という気がします。
むろん、風というものは競走の進行方向に沿って吹くとは限りませんから、風速計(あくまでも進行方向に沿った風力を計測する)には顕れない強い横風によって走りを崩されるなど、風速以上の影響を受ける場合もあるはずです。(嵐のような暴風が吹き荒れていても、進行方向に対しては風速0ということも現実にはあり得ます)

ちなみにハードル競走の場合、走る歩数が決まっているので、追い風に比例してタイムが伸びるということはないようです。強過ぎる追い風は、ハードリングを狂わせてしまいますから。
いっぽうで、200m競走の場合に、ちょうど第4コーナーでの進行方向に沿った斜めからの強めの追い風が吹いていると、風速計に顕れる数字は+2.0以下でもコーナーではより強い追い風を真後ろから受けていることになります。こうした風は「200m風」と呼ばれ、先月の日本選手権で福島千里選手や飯塚翔太選手が好記録を出したレースでは、このような条件に恵まれていたと考えられます。

向い風は100分の1秒を争うスプリンターにとっては地獄だし、強過ぎる追い風もまた、しかり。ゴールの瞬間に表示されたせっかくの好タイムが、次の瞬間追風参考と知った時のガッカリした表情は、あまり見たくないですものね。


ところで風速云々の話からは逸れますが、私は常々、陸上競技においてこの「空気抵抗」という問題があまり取り沙汰されないのはどうしてだろう、と不思議に思っています。

たとえば、競泳ではひと頃、「水の抵抗を軽減する」という特殊素材のスイムウェアが一大ムーヴメントを巻き起こし、実際に“究極の高速水着”が席巻した2009年にはとんでもない頻度で世界新記録・日本新記録が量産され、慌ててFINA(国際水泳連盟)が素材・デザインの規制をかけたほどの事態になりました。
また、陸上競技以上の速度で勝負を競う自転車競技では、この空気抵抗、風圧ということへの対処が、すべてのレースにおいて最重要視される要素になっています。

陸上競技でも、古くは1984年のロサンゼルス・オリンピックあたりで奇抜な「全身スーツスタイル」のウェアが登場し、2000年のシドニー・オリンピックでも地元のヒロイン、キャシー・フリーマンがそうしたコスチュームを着用して話題をまいたことがありましたが、あまり追従する動きはありません。
現在の短距離走者のランニングウェアは、体にフィットした伸縮性の素材が多用されるようになったのは確かですが、いまだに昔ながらのランシャツ・ランパンを風になびかせている人も少なくありません。細かいことを言えば、ウエアと露出した肌の境界ひとつをとっても、微細な空気抵抗の一因にはなっているのではないか、と考えられます。近年流行りの半袖型のウェアを着て首のところを寛げている選手を見ると、「ちゃんと全部閉めればいいのに…」と思います。

また、ロードやオープンレーンの競走では「人の背後について走る」ということが空気力学的に絶対有利なことは明らかなのに、これを戦術として徹底している選手やチームがどれほどあるのか、疑問に感じます。マイルリレーなどで、先行する選手をいち早く抜きにかかって自ら風よけ係になってしまい終盤失速するような選手を見るたび、「・・・・・・・」と思ってしまいます。(当事者にはいろいろとそうする理由もあろうかと思いますが)

もちろん、個々の選手たちは空気抵抗や風との戦いを、それなりに意識して競技しているのだろうとは察しますが、もう少し積極的に、100分の1秒を稼ぐランニングウェアを研究したり、風圧を戦術的に利用することを考えたりすることが論議されてもよいのではないか、とあくまでも外野からの声ではありますが、ここで申し上げておきます。

 

【短期集中連載】オリンピック回想 ④~1976年モントリオール大会



1976年盛夏は私自身は後のない浪人生活真っ最中、ということでさすがの私もオリンピック観戦にうつつを抜かしているばかりにはいかず、残念ながらこの大会についての思い出はあまりたくさんはありません。
当時高校生・受験生の間で人気があったラジオの深夜放送での聴取者投稿(ある設定の下にショート・ギャグ・ストーリーを創作するというコーナー)で、ひと頃やたらとこの大会のエピソードを題材にしたものが多くなったのを記憶しています。
(まあ、この大会と言えば一番の話題は体操のナディア・コマネチでしたがね)

前回急激に勢力を伸ばしてきた東ドイツが、各競技でさらに暴れまくったという印象の大会でした。競泳女子で13種目中11種目の金メダルをさらったのをはじめ、全競技のメダル・テーブルではソ連の金49個に次ぐ40個でアメリカの34個を上回り、陸上競技でも37種目中11種目に優勝、アメリカの金6個に大きな差をつけました。
いっぽうで、こうした東欧諸国のあまりの強さにステート・アマ(純粋なアマチュアリズムを標榜していた当時のオリンピック精神にふさわしくない、国家を挙げて育成・保護・褒賞された実質プロのアスリート)への批判や、国家ぐるみの巧妙なドーピングの疑いが囁かれるようになったのも、この大会からです。

また、大会直前になって南アフリカの人種差別政策に端を発した問題への抗議行動として、アフリカの主要国22か国がボイコットを決めました。ケニア、エチオピアなどの好選手がこぞって出場しないことになった陸上競技での影響は特に甚大で、大会は「四輪ピック」と揶揄され、その後の国際情勢の激動によって多くの国々が参加を見合わせた80年モスクワ大会、84年ロサンゼルス大会と、オリンピックは3大会続けて「ワールドワイド・イベント」の肩書を失ってしまうことになります。
そうした「オリンピックのいかがわしい部分」への忌避感が、私がこの大会をあまり記憶していない理由の一つだったかもしれません。


◆各種目の金メダリストと主な日本選手の成績
*URS=ソビエト連邦 GDR=東ドイツ GER=西ドイツ CZS=チェコスロバキア

<男子>
   100m ヘイズリー・クロウフォード(TTO) 10"06 ※神野正英:1次予選敗退
   200m  ドン・クォーリー(JAM) 20"23
   400m アルベルト・ファントレナ(CUB) 44"26
   800m アルベルト・ファントレナ(CUB) 1'43"50(WR)
  1500m ジョン・ウォーカー(NZL) 3'39"17
  5000m ラッセ・ヴィレン(FIN) 13'24"76 ※鎌田俊明:予選敗退
 10000m ラッセ・ヴィレン(FIN) 27'40"38 ※鎌田俊明:予選敗退
 110mH ギー・ドリュー(FRA) 13"28
 400mH エドウィン・モーゼス(USA) 47"64(WR)
 3000mSC アンデルス・ヤーデルード(SWE) 8'08"02(WR) ※小山隆治:予選敗退
 4×100mR アメリカ 38"33
 4×400mR アメリカ 2'58"65
 マラソン ワルデマール・チェルピンスキー(GDR) 2:09'55"0(OR) ※宗茂:20位 水上則安:21位 
宇佐美彰朗:32位
 20kmW ダニエル・バウチスタ(MEX) 1:24'40"6(OR)
 50kmW ―実施せず―
 HJ ヤチェク・ウショラ(POL) 2m25(OR)
 PV タデウス・スルサルスキー(POL) 5m50(=OR) ※高根沢威夫:決勝8位
 LJ アーニー・ロビンソン(USA) 8m35
 TJ ヴィクトル・サネイエフ(URS) 17m29 ※井上敏明:予選敗退
 SP ウド・バイエル(GDR) 21m05
 DT マック・ウィルキンズ(USA) 67m50(OR)
 HT ユーリ・セディフ(URS) 77m52(OR) ※室伏重信:決勝11位
 JT ミクロシュ・ネメト(HUN) 94m58(WR)
 DEC ブルース・ジェンナー(USA) 8618p.(WR)



<女子>
   100m アンネクレート・リヒター(GER) 11"08
   200m  ベーベル・エッケルト(GDR) 22"37(OR)
   400m イレーナ・シェビンスカ(POL) 49"29(WR)
   800m タチアナ・カザンキナ(URS) 1'54"94(WR)
 1500m タチアナ・カザンキナ(URS) 4'05"48
 100mH ヨハンナ・シャレル(GDR) 12"77
 4×100mRドイツ 42"55(OR)
 4×400mR 東ドイツ 3'19"23(WR)
  HJ ローズマリー・アッカーマン(GDR) 1m93(OR) ※曽根幹子:予選敗退
  LJ アンゲラ・フォイクト(GDR)  6m72 ※湶純江:予選敗退
  SP イワンカ・フリストワ(BUL) 21m16(OR)
  DT エヴェリン・シュラーク(GDR) 69m00(OR)
  JT ルート・フックス(GDR) 65m95(OR)
  PEN ジークルン・ジークル(GDR) 4745p.


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◆新長距離王ヴィレンの2種目連覇
全体を通じて個人2冠に輝いた選手が、3人。このうち男子400mと800mという史上唯一の組み合わせでの2冠となったアルベルト・ファントレナ(CUB)も印象的でしたが、何といっても前回ミュンヘンに続いて長距離2冠を連覇したラッセ・ヴィレン(FIN)の活躍が光りました。

ミュンヘンの10000m決勝の中盤で転倒しながら、ロン・クラークの持っていた世界記録を7年ぶりに更新して優勝したのを皮切りに、かつて1952年ヘルシンキ大会で「人間機関車」の異名をとったエミール・ザトペック(CZS)以来の長距離2冠を達成すると、この大会でも後の世界記録保持者カルロス・ロペス(POR)の作るハイペースを残り1周少々のところで悠然と交わして金メダル。続く5000mでも、この種目ではオリンピック史上初となる連覇を達成しました。
フィンランドは第二次世界大戦以前のオリンピックでは、金メダル通算9個(カール・ルイスと並ぶ陸上競技での最多)を獲得したパーボ・ヌルミをはじめ、長距離王国の名を欲しいままにしていた国ですが、戦後はこれといった選手がなかなか現れず、ようやく「王国復活」の旗頭としてヴィレンの名は世界に轟き渡りました。

驚かされたのは、さらに最終日のマラソンにも登場し、後半まで優勝したチェルピンスキーやショーターらとトップグループで互角に渡り合っていたことです。マラソンを含めた長距離3冠は、かのザトペックただ一人が成し遂げた空前絶後の偉業ですが、さすがに終盤息切れして得意のラスト勝負に持ち込むことなく5位に終わっています。
それでも、10000m・5000mの各予選と決勝、マラソンを合わせた大会中の走破距離は72195mということになります。ザトペックの当時は10000mに予選はなく、現在でも一発決勝で行われるようになっていますから、今後100kmウルトラマラソンなどの新種目が採用されない限り、唯一無二の記録として残ることになりそうです。
(10000m予選は1972年ミュンヘンから2000年シドニーまで実施されました。現在では参加標準記録を厳しくすることによって、出場選手数をコントロールしています)

なお、男子三段跳ではヴィクトル・サネイエフ(URS)がメキシコシティ以来の3連覇を達成しました。これは陸上競技では円盤投アル・オーター(USA)と後年走幅跳で達成するカール・ルイスの4連覇に次ぐ記録で、いまだトラック、ロード競技で達成した選手はいません。リオ大会では、ウサイン・ボルトとシェリー・アン・フレイザー=プライス、ティルネッシュ・ディババの3人が、この偉業にチャレンジすることになります。




◆エドウィン・モーゼス登場

男子400mHでは、20歳の新鋭エドウィン・モーゼス(USA)が世界新記録で優勝し、以後長らく続く不敗伝説の序章を飾ることになりました。
この年の全米選手権に突如現れた無名の新人・モーゼスは、春までに1回しか走ったことのなかった400mHのレースで、当時前例のない全ハードル間を13歩で押し切るという破格のテクニックで優勝をさらい、一躍世界のトップスターに躍り出たのです。以後、決勝レースで107連勝(予選を含めたレースでは122連勝)という無人の野を行くがごとき黄金時代を続け、不参加だったモスクワ大会を挟んで84年のロサンゼルス大会でも優勝しました。もしモスクワ大会にアメリカが参加していれば、前項にある「トラック種目での3連覇」の偉業は、彼によって達成されていたのはまず間違いないところです。
ロス大会では選手宣誓の大役を任され、途中で文言を忘れてしまい場内の笑いを誘った光景が、彼の誠実な人柄とあいまって世界中に好感を与えたことが思い出されます。

 

【短期集中連載】オリンピック回想 ③~1972年ミュンヘン大会



1972年といえば、私は中学3年生。自身も部活で陸上競技に取り組んでおり、また都内近郊で行われる大会には足しげく観戦に訪れていました。
当時はまだ、日本選手権などのビッグゲームはほとんど国立霞ヶ丘競技場で開催されていました。国立が全天候型トラックに改装されるのは翌年のことで、まだ鮮やかな色彩のアンツーカー・トラックでした。そのため、都内に唯一存在した全天候トラックの世田谷総合運動場で時折陸連主催の「記録会」が開催されていて、私はこれにも渋谷から長時間バスに揺られて出かけて行ったものです。
72年のオリンピック最終選考会となった日本選手権も、最終日は雨の中の試合となり、2年前に走幅跳で日本人初の8mジャンプを達成した山田宏臣選手が泥田のような走路に苦渋の表情を浮かべながら敗れ去っていった光景を、よく覚えています。私が大好きだった女子走幅跳の香丸恵美子さん(岡山沙英子選手の母親)も、この試合を最後に引退しました。

さて、ミュンヘン大会の競技を振り返る前に、この大会の開会式での素晴らしい光景をご紹介しましょう。
当時「聖火点灯」と言えば、どちらかと言えば未来を嘱望される無名の若いアスリートが一人で粛々と場内を一周して聖火台に向かう、というセレモニーでした。話題になるのはその人選にまつわるエピソードなどで、たとえば東京大会では原爆投下の日に広島県で誕生した坂井義則選手、メキシコシティ大会では史上初の女性最終ランナーというエンリケタ・バシリオ選手、さかのぼって56年のメルボルン大会では後に長距離王の名を欲しいままにするロン・クラーク、52年のヘルシンキ大会ではかつての長距離王パーボ・ヌルミ、といった具合です。
ミュンヘン大会では、やはり無名のギュンター・ツァーンという青年が最終ランナーに選ばれたのですが、彼が聖火を掲げて入場してくると、その後に4人のランナーが四角形の隊形を作って伴走してくる光景に、目を奪われました。純白のランニングウエアをまとった4人は、アメリカ最強のマイラー、ジム・ライアン、そのライアンを破ってメキシコシティ大会1500mの金メダリストになったキプチョゲ・ケイノ(KEN)、世界で初めてマラソンのサブテン・ランナーとなったデレク・クレイトン(AUS)、そして3大会連続してマラソン代表となった我らが君原健二。
つまり、ツァーン青年を含め、5つの大陸を代表するランナーたちが隊列を組んで聖火をゴール地点の聖火台へ送り込むという、今にしてみれば素朴ながらまことに粋な演出でした。
現在のように、コンピューター仕掛けの大仰な特殊効果に何人もの地元のヒーローが次々にトーチをリレーしていく、といった過剰演出ではありませんけれども、個人的な感想として感動は数倍上だったように思えます。

また、ミュンヘン大会は開催中にパレスチナの過激組織ブラック・セプテンバーによるイスラエル選手団襲撃事件が発生し、陸上競技のコーチ1人を含む11名が殺害されるという痛ましい出来事が語り継がれます。
「オリンピックはテロリズムに屈しない」として1日の中断を経て大会再開を決めたエイヴァリー・ブランデージIOC会長の英断は評価されますが、スポーツ大会の政治的利用がこの頃から暗い影を落とすことになっていきます。

◆各種目の金メダリストと主な日本選手の成績
*URS=ソビエト連邦 GDR=東ドイツ GER=西ドイツ CZS=チェコスロバキア

<男子>
   100m ワレリー・ボルゾフ(URS) 10"14
   200m  ワレリー・ボルゾフ(URS) 20"00
   400m ヴィンセント・マシューズ(USA) 44"66
   800m デーヴィッド・ウォトル(USA) 1'45"86
  1500m ペッカ・ヴァサラ(FIN) 3'36"33
  5000m ラッセ・ヴィレン(FIN) 13'26"42(OR)
 10000m ラッセ・ヴィレン(FIN) 27'38"35(WR) ※澤木啓祐・宇佐美彰朗:予選敗退
 110mH ロッド・ミルバーン(USA) 13"24(WR)
 400mH ジョン・アキー=ブア(UGA) 47"82(WR)
 3000mSC キプチョゲ・ケイノ(KEN) 8'23"64(OR) ※小山隆治:決勝9位
 4×100mR アメリカ 38"19(WR)
 4×400mR ケニア 2'59"83
 マラソン フランク・ショーター(USA) 2:12'19"8 ※
君原健二:5位入賞 宇佐美彰朗:12位 采谷義秋:36位
 20kmW ペーター・フレンケル(GDR) 1:26'42"4(OR)
 50kmW ベルント・カンネンベルク(GER) 3:56'11"6(OR)
 HJ ユーリ・タルマク(URS) 2m23 ※冨澤英彦:決勝19位
 PV ヴォルフガンク・ノルトヴィク(GDR) 5m50(OR)
 LJ ランディ・ウィリアムズ(USA) 8m24
 TJ ヴィクトル・サネイエフ(URS) 17m35 ※井上敏明:決勝12位
 SP ウラディスラフ・コマール(POL) 21m18(OR)
 DT ルドウィク・ダネク(CZS) 64m40
 HT アナトリー・ボンダルチュク(URS) 75m50(OR) ※室伏重信:決勝8位
 JT クラウス・ヴォルファーマン(GER) 90m48(OR)
 DEC ニコライ・アヴィロフ(URS) 8454p.(WR)

  

<女子>
   100m レナーテ・シュテッヘル(GDR) 11"07(WR)
   200m  レナーテ・シュテッヘル(GDR) 22"40(=WR)
   400m モニカ・ツェールト(GDR) 51"08(OR)
   800m ヒルデガルト・ファルク(GER)  1'58"55(OR)
 1500m リュドミラ・ブラギナ(URS) 4'01"38(WR) ※新種目
 100mH アンネリー・エアハルト(GDR) 12"59(WR) ※80mHから変更
 4×100mR 西ドイツ 42"81(WR)
 4×400mR 東ドイツ 3'22"95(WR) ※新種目
  HJ ウルリケ・マイファルト(GER) 1m92(=WR) ※稲岡美千代・山三保子:予選敗退
  LJ ハイデマリー・ローゼンダール(GER) 6m78 ※山下博子:予選敗退
  SP ナゼジデ・チジョワ(URS) 21m03(WR)
  DT ファイナ・メルニク(URS) 66m62(OR)
  JT ルート・フックス(GDR) 63m88(OR)
  PEN メアリー・ピータース(GBR) 4801p.(WR) ※80mH→100mHに変更


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◆世紀の大遅刻
全般にソ連をはじめとする“東側諸国”の躍進が目立ち始めた大会で、金メダル数ではソ連9個に対して王者アメリカは女子で1つも獲れなかったことも響いて6個に留まり、また東西に分かれたドイツ勢の活躍が目立ちました。

ソ連vsアメリカの象徴的な結果となったのが、男子100m。
2次予選に出場するはずのアメリカ3選手が、コーチに間違った時間を伝えられていたことから自分の出るべきレースに「遅刻」してしまい、優勝候補筆頭のエディ・ハートとレイ・ロビンソンが「DNS」の扱いになってしまったのです。ロバート・テイラーを含めた3人は選手村で寛ぎながらテレビを視ていましたが、突然「おい、これ(1次予選の)ビデオじゃないぜ。俺たちのレースだ!」と気付いてスタジアムに駆けつけたものの時すでに遅し…3組のテイラーだけが辛うじて間に合って決勝まで進みましたが、ロシアのボルゾフの前に屈辱の銀メダルに終わりました。
白人選手として1960年ローマ大会のアルミン・ハリー(GER)以来の100m金メダリストとなったボルゾフは、その勢いのままに200mも制して短距離2冠に輝きました。

アメリカvs東ドイツという図式で典型的だったのが、棒高跳。オリンピック不敗を続けてきたアメリカの、16連覇目を前回自らの手で勝ち取ったボブ・シーグレンが遂に東ドイツのノルトヴィックに敗れ、その輝かしい歴史に幕を下ろす役割をも引き受けてしまったのでした…。



◆地元のヒロイン

1960年代後半あたりから、西ドイツの美人アスリートとして人気を博していた“赤毛のハイディ”ことハイデ・ローゼンダールが、熱狂的な応援をバックに大活躍しました。
最初に出場した走幅跳では1回目に6m78を跳んでリードを奪うと、4回目でブルガリアのヨルゴワに1センチ差まで詰め寄られましたが、そのまま逃げ切って金メダルを獲得。

続く五種競技では、2種目めの砲丸投で“本職”のメアリー・ピータースに大差をつけられ、走高跳でも17センチも上を跳ばれて、初日を終わったところで301点差の5位という絶望的な状況…しかし2日目の2種目、得意の走幅跳では自己記録に1センチと迫る6m83、200mではトップのピータースに1秒以上の大差をつける22秒96、最後は10点差まで詰め寄る猛烈な追い上げで銀メダルを獲得しました。

スタンドを最高潮に盛り上げたのが、アンカーとして出場した400mリレーでした。
3走からトップでバトンをもらったものの、追走する東ドイツとの差は僅かに1メートルほど。東ドイツのアンカーは、圧倒的なスプリント力で短距離2冠のシュテッヘル…誰もが逆転劇を思い描いたのですが、ローゼンダールは終始1メートルの差を守ったまま大歓声に引っ張られるようにして、金メダルのゴールを駆け抜けました。

ローゼンダールはこの大会を最後に引退しましたが、西ドイツの国民的ヒロインとしてテレビのコメンテーターなどでも人気は高く、2000年代に入って男子棒高跳の6mヴォルター、ダニー・エッカーの母親として再びその名が取り沙汰されました。
Heide_Rosendahl_1972_Umm_al-Quwain_stamp
 
切手にもなったローゼンダール

男子1、女子5つの金メダルを獲得した西ドイツ勢の中で、もう一人ヒロインを挙げるとすれば、16歳で走高跳に1m92の世界タイ記録を跳んで優勝したウルリケ・マイファルトでしょう。
4年前にフォスベリーが初めて披露した背面跳びをいち早く取り入れ、右手を先行させて送り込むスタイルで綺麗な弧を描くフォームは、まだ十分に普及しきっていなかった背面跳びの、既にして“完成型”を思わせるほどのものでした。(この大会の頃はまだまだベリーロールが主流でした)
「天才少女」の名を得たマイファルトでしたがその後は紆余曲折の競技人生を送り、12年後のロサンゼルス・オリンピックで再び世界の頂点に立つことになります。

◆マラソンに怪物ランナー現る
円谷幸吉・君原健二によって2大会連続マラソンのメダルを得た日本では、1970年に宇佐美彰朗が2時間10分台の日本最高記録で福岡国際マラソンに優勝して「世界と戦うエース」の座を不動のものにしていましたが、翌年の福岡でその宇佐美の前に突如立ちはだかったのが、長髪にヘアバンド、口ひげを蓄えたヒッピー(当時の自由放埓な若者風俗)のような風貌のフロリダ大学生、フランク・ショーターでした。

マラソン・レースは東京大会で全行程完全TV中継が実現していましたが、これは日本ならではの優れた中継技術あってのもの、このミュンヘン大会では数か所の定点カメラからの中継が時間を置いて送られてくるというものでした。序盤からショーターの独り旅、期待の宇佐美は遅れているという実況が伝えられ、やがて宇佐美に代わって君原が追い上げてきた、とのレポートに僅かな期待を込めてテレビに見入ったものでした。

いよいよショーターが競技場に近づいたところの実況が始まり、映像がスタジアムに切り替わった時、ハプニングが…マラソンゲートを通って“凱旋”してきたのは、明らかにショーターとは別人。どうやら地元ファンによる人騒がせなジョークだったようで、一瞬スタンドは完全に引っ掛かってこの闖入者に大歓声を送ってしまったのでした。この男が係員に取り押さえられたところで現れた「本物」が、2位のカレル・リスモン(BEL)に2分以上の差をつけてマラソン実力世界一の座に躍り出たのです。 

ショーターはその年の暮れにも福岡にやって来て日本選手を寄せ付けず優勝すると、翌年春には毎日マラソン(現・びわ湖毎日マラソン)に参戦。このレースで復活を期する佐々木精一郎とのトップ争いのさなかに突如沿道の観客から小旗をもぎ取ってコースを離れ、草むらに駆け込んで「大」の用事を済ませると素知らぬ顔でレースに復帰、そのままぶっちぎりで優勝をさらうという怪物ぶりを発揮しました。(折しも、競馬界が「怪物ハイセイコー・ブーム」に沸いていた頃の話です)
さらにショーターは福岡国際での連覇を4にまで伸ばし、76年モントリオール大会での五輪連覇は確実と見られていましたが、なぜかオリンピックのレースだけ快走するワルデマール・チェルピンスキー(GDR)の前に敗れてしまいました。

ショーターが日本のレースにやって来た72年の福岡の後だったでしょうか、私は東京の代々木第二体育館で室内跳躍競技会を観戦していました。そのスタンドにいた私の目の前に、オリンピックのマラソン・チャンピオンが突然姿を現したのです。夢中で手元にあったノートを取り出し、サインを貰った時の信じられないような気持ちは忘れられません。長じて多くの芸能人や著名人と仕事上でお会いする職業に就いた私ですが、そうした方々に私的にサインをねだったことはただの一度もありません。この時の、ショーターのちょっと朴訥な直筆だけが、私の宝物です。
(実はこの大会で、多くの日本の棒高跳・走高跳トップアスリートの皆さんのサインを収集してたんですけどね)
IMG_20160730_0001_NEW
これが「家宝」F.ショーターの直筆本物サイン。2・10・30は72年の福岡でマークした自己最高記録。

ショーターはミュンヘン大会で陸上王国の座をソ連に明け渡してしまったアメリカを救う存在となったわけですが、もう一人、長距離で忘れることのできないアメリカ人選手がいました。5000mで4位になったスティーヴ・プレフォンテインです。
オレゴンの学生だったプレフォンテインは、常に先頭を引っ張り押し切るレース・スタイルで地元のユージーンでカリスマ的な人気を誇っていた選手で、ミュンヘンでも持ち味を遺憾なく発揮したものの僅かにメダルには及びませんでした。
ミュンヘンの3年後、彼は自ら運転する車をクラッシュさせて24歳で夭折します。その名前は、現在のダイヤモンドリーグ・ユージーン大会の固有タイトルである「プレフォンテイン・クラシック」という大会名として残り、3年後にはこの地で世界選手権が開催される予定になっています。

 

【短期集中連載】オリンピック回想 ②~1968年メキシコシティ大会



小学校1年生で地元開催のオリンピックに巡り会ってしまった私は、その4年後のメキシコシティ大会でさらに深くのめり込んでいくことになります。
私たちは「当たり前」のように受け止めていましたが、実は衛星中継で海外の生映像が見られるというのは、ほとんど初めてのことと言ってよかったのです。我が家はまだ白黒テレビだったとはいえ、時差の関係で連日朝のテレビに釘付けになり、後ろ髪を引かれる思いで学校に行き、先生を拝み倒して教室のテレビ(滅多に使われない一斉授業や緊急放送用のもの)で少しだけ競技の模様を見せてもらったりしていました。
いま振り返れば、財政事情の厳しいメキシコという国で、よく開催したもんだなと思わされますが、特に陸上競技においては非常に特異な、また時代の変わり目に位置付けられた大会だったと感慨深いものがあります。


◆各種目金メダリストと主な日本選手の成績
*URS=ソビエト連邦、GDR=東ドイツ、GER=西ドイツ、CZS=チェコスロバキア
<男子>
   100m ジム・ハインズ(USA) 9"95(WR)  ※飯島秀雄:準決勝敗退
   200m  トミー・スミス(USA) 19"83(WR)
   400m リー・エバンス(USA) 43"86(WR)
   800m ラルフ・ドーベル(AUS) 1'44"40(OR)
  1500m キプチョゲ・ケイノ(KEN) 3'34"91(OR)
  5000m モハメド・ガムーディ(TUN) 14'05"01 ※澤木啓祐:予選敗退
 10000m ナフタリ・テム(KEN) 29'27"40 ※鈴木従道:19位 澤木啓祐:27位
 110mH ウィリー・ダヴェンポート(USA) 13"33(OR)
 400mH デーヴィッド・ヘメリー(GBR) 48"12(WR)
 3000mSC アモス・ビウォット(KEN) 8'51"02
 4×100mR アメリカ 38"24(WR) ※日本:予選敗退(日本新)
 4×400mR アメリカ 2'56"16(WR)
 マラソン マモ・ウォルデ(ETH) 2:20'27 ※
君原健二:銀メダル 宇佐美彰朗:9位 佐々木精一郎:DNF
 20kmW ウラディミル・ゴルブニチー(URS) 1:33'59"
 50kmW クリストフ・ヘーネ(GDR) 4:20'14"
 HJ ディック・フォスベリー(USA) 2m24(OR)
 PV ボブ・シーグレン(USA) 5m40(OR) ※丹羽清:決勝11位(五輪新)
 LJ ボブ・ビーモン(USA) 8m90(WR) ※山田宏臣:決勝10位
 TJ ヴィクトル・サネイエフ(URS) 17m39(WR)
 SP ランディ・マトソン(USA) 20m54(OR)
 DT アル・オーター(USA) 64m78(OR)
 HT ジュラ・ジボツキー(HUN) 73m36(OR) ※菅原武男:4位入賞
 JT ヤニス・ルーシス(URS) 90m10(OR)
 DEC ビル・トゥーミー(USA) 8193p.(OR)



<女子>
   100m ワイオミア・タイアス(USA) 11"08(WR)
   200m  イレーナ・シェビンスカ(POL) 22"58(WR)
   400m コレット・ベッソン(FRA) 52"03(=OR)
   800m マデリン・マニング(USA) 2'00"92(WR)
  80mH モーリーン・ケアード(AUS) 10"39(WR)
 4×100mR アメリカ 42"88(WR)
  HJ ミロスラヴァ・レスコヴァ(CZS) 1m82
  LJ ヴィオリカ・ヴィスコポレアヌ(ROU) 6m82(WR)
  SP マルギッタ・ギュンメル(GDR) 19m61(WR)
  DT リア・マノリウ(ROU) 58m28(OR)
  JT アンゲラ・ネメト(HUN) 60m36
  PEN イングリット・ベッカー(GER) 5098p.


◆記録ラッシュを生んだ「高地」と「タータン」
前回の東京大会まで、陸上競技は「土のグラウンドで行うのが当たり前」なものでしたが、この大会で初めて導入されたのが合成樹脂製の全天候型走路―その商品名から「タータン・トラック」と呼ばれたサーフェイスのものです。
雨でぬかるむことも度重なるレースで踏み荒らされることもなく、選手はいつでも万全の状態の走路を走ることができるようになりました。
しかも、開催地のメキシコシティは標高2240mの高地で、空気が薄く、それまであまり意識されてこなかった空気抵抗というものがいかに大きいものだったかが、次々と打ち破られる記録によって示されたのです。
短距離や跳躍では、ほとんどすべての種目で世界記録が更新されるという事態になりました。前回から一部種目に導入されていた電子計時が全種目で正式採用され、これによって若干手動計時よりも「損をする」状態だったにも関わらず、です。
(なお、電子計時による100分の1秒単位の記録は当時は公表されず、10分の1秒単位の記録が「公式記録」として採用されていましたが、後年手動計時の廃止とともに、後追い式に電子計時による記録が認定されました)
男子のスプリント種目では、100m10秒、200m20秒、400m44秒というそれぞれの「壁」が、いともあっさりと突き破られてしまいました。

とりわけ世界を驚かせたのは、男子走幅跳でダークホースと目されていたボブ・ビーモンが最初の跳躍で跳んだ「8m90」という大記録でした。
表示された記録を見てその場に泣き崩れたビーモンは、2回目の8m04の後はもう跳ぶことを辞めてしまい、他の選手は毒気を抜かれたといったていでまるで記録を伸ばせず、2位との差は何と71センチもついてしまいました。
「21世紀まで破られない」と言われたビーモンの大記録はしかし、1991年の東京世界選手権で、マイク・パウエル(USA)によって5センチ更新されることになります。とは言っても、現在でも8m30を超えるあたりがビッグゲームの優勝ラインとなっていることからすると、いかに驚異的な記録だったかが偲ばれます。

男子三段跳でも、予選から17m03の世界記録が破られ、決勝ではさらに3度にわたって更新された挙句、ソ連のヴィクトル・サネイエフが6回目に17m39を叩き出して逆転、オリンピック3連覇へのスタートを切ることになりました。最終的には6位までが17mをオーバーし、これには世界記録保持者で3連覇を狙っていたヨーゼフ・シュミット(POL)も、自身のオリンピック記録は超えたものの7位に終わり、お手上げの状態でした。

棒高跳では東京大会の前からポールの材質研究が急速に進み、釣り竿メーカーが参入して開発されたグラスファイバー・ポールの普及によって記録が飛躍的に向上していました。前回フレッド・ハンセン(USA)が死闘の末に記録した5m10のオリンピック記録を11位の丹羽清(法大)までが更新し、優勝争いは5m40をクリアするところまで進んだのです。僅かに試技数の差でボブ・シーグレンが優勝し、アメリカのオリンピック不敗・16連覇を死守しました。




◆「高地民族」見参!

標高の高い場所で開催されたメキシコシティ・オリンピックでは、一転して中長距離走では全く異なる様相の戦いが繰り広げられました。ケニア、エチオピアという東アフリカの高原で暮らすアスリートたちが、突如として世界の頂点に躍り出てきたのです。

初日に行われた男子10000m決勝では、多くの選手が少ない酸素にもがき苦しむ中、最後の1周ではナフタリ・テム(KEN)とマモ・ウォルデ(ETH)が400mレースのようなスパート合戦を演じ、短距離や跳躍の記録ラッシュとはまた違った意味で、世界中を驚かせました。
オーストラリアの長距離王ロン・クラークをはじめ、ゴールした後に倒れ込んで酸素吸入を受ける選手が続出。クラークは5000mにも出場して5位となりましたが、高山病を発症し選手生命を絶たれることになってしまいます。(余談ですが、クラークは晩年ゴールドコーストの市長として活躍し、昨年世を去りました)

そのクラークと東京大会で激しいデッドヒートを繰り広げたモハメド・ガムーディ(TUN)は、10000mで少し遅れた3位に食い込むと、5000mではキプチョゲ・ケイノ(KEN)との接戦をものにして念願の金メダルに輝きました。チュニジアは決して高地と呼べる場所ではなく、ガムーディ自身も東京以降はヨーロッパを活動拠点にしていましたが、前回の悔しさをバネに持ち前のスプリントに磨きをかけた結果、と言えるでしょう。

そのガムーディをガチンコのラスト勝負で破ったこともある澤木啓祐が、この大会では最も期待された日本勢の一人でしたが、高地への対応ができず、またスタート直後の密集の中でスパイクされたこともあって、いいところなく惨敗しました。同じ10000mのレースを走っていたのが、後にダイハツ女子陸上部監督や競歩の山崎勇喜のコーチとして名を挙げる鈴木従道でした。

10000mでラスト1周まで同僚・テムのペースメーカーとして集団を引っ張り、5000mでは僅差の銀メダルを獲得したケイノは、アフリカ勢の中では唯一と言ってよいほど、平地でも実績を積み上げてきた優勝候補の一角でした。ケイノはさらに、終盤に行われた1500mにも登場し、大本命とされていたジム・ライアン(USA)を破って金メダルを獲得しました。4年後のミュンヘン大会では3000mSCに優勝し、ケニア陸上界最大の英雄として長く人気を誇ったケイノは、現在のケニア・オリンピック委員会の会長であり、その名は同国のナショナルスタジアムに冠されているほどです。

最も驚かされたのは、3000mSCでした。ビウォット、コーゴという2人のケニア人選手が、水壕障害を軽々と跳び越え、足を濡らすことなくグングンと他を引き離してワン・ツーを決めたのです。「ケニアのお家芸」となる、伝説の始まりでした。
思えば、高地で開催という恩恵も確かにあったのでしょうが、ちょうど時を同じくして、ケニアという特異な国のアスリートが掛け値なしにその真価を発揮し始めたのがこの大会だった、と言えるのではないでしょうか。

そして、高地勢のトリを務めたのがエチオピアにマラソン3連覇をもたらしたマモ・ウォルデでした。10000mの再現とばかりにテムとのデッドヒートの末にこれを振り切ったマモは、17km地点で故障のため棄権したアベベの代わりに独走態勢を築き、2位の君原健二に3分の大差をつけて優勝したのです。
日本国内の代表選考ですったもんだがあった君原でしたが、この年の1月に突如自ら命を絶った円谷幸吉の遺影に固く誓った「日の丸」の約束を、堂々と果たしてみせました。選考会の成績では明らかに上位だった采谷義秋を措いてまで、君原の耐久力と精神力を買って代表にした陸連の判断もまた、報われたというわけです。


◆初めて「背面跳び」をやった男

男子走高跳は、自ら開発した「フォスベリー・フロップ=背面跳び」を駆使するディック・フォスベリーがオリンピック新記録で優勝しました。
当時HJの主流跳躍法は「ベリーロール」という跳び方でしたが、これを苦手としていたフォスベリーは、昔ながらの「正面跳び(シザース・ジャンプ)」で跳ぶ平凡なジャンパーでした。ある日、シザースの形が崩れて背中から跳ぶような体勢になったことに閃きを得て、この跳び方を考案し、ブラッシュアップしたのだそうです。
背面跳びは用具(着地用マット)の進歩とともに瞬く間に世界中に広まり、その運動力学的優位性が確かなものになると、やがて他の跳び方を駆逐してしまいました。
いま私たちが目にしているハイジャンプのフォームは、こうして半世紀前に生み出されたものだったのです。


◆偉大な女性スプリンター
快記録や高地勢の活躍に沸いた男子に比べ、女子は少々印象が薄い感がありますが、それでもかなりの世界新記録が誕生しています。
前回の東京大会で「スプリント個人3冠」を唯一達成したベティ・カスバート(AUS)を紹介しましたが、これに匹敵する偉業に挑む選手が現れました。200mを世界新で制したポーランドのイレーナ・シェビンスカです。
18歳で出場した東京大会では旧姓のイレーナ・キルシェンシュタインとして、200mと走幅跳で銀メダル、400mリレーで金メダルのメンバーとなっていた彼女は、メキシコシティでは100mで銅メダル、200mで金メダル。さらにミュンヘン大会では200mで銅メダルを獲りましたが100mは準決勝で敗れ、年齢的な衰えを指摘されるようになります。しかし30歳になったモントリオール大会では400mに出場して見事金メダル。
結局、5つの種目で金3、銀2、銅2というメダル・コレクターぶりは、カスバートや往年のファニー・ブランカース・クン(NED)にも勝るオリンピック史上の名スプリンターと言って間違いないでしょう。


【短期集中連載】オリンピック回想 ①~1964年東京大会



リオ・オリンピックの陸上競技開始まで、あと2週間。
そこで、私がTVを通してリアルタイムで見た過去のオリンピックの思い出話を、古い順にご紹介したいと思います。
1964年の東京オリンピックは、ちょうど私が小学生になった年に開催されました。
スポーツ競技というものも、陸上競技というものもまったく知らずにいきなり出くわしたこの“世紀の祭典”にすっかり魅せられた私は、以後半世紀以上にわたって無類の「オリンピックおたく」「陸上競技マニア」という人生を送るハメになるのですが、そうした年齢的な巡り合せのせいか、私の世代にはオリンピックが大好きだという人が少なくないように思われます。また、国際的なスポーツ大会など見たことがなかったという意味では、当時の大人たちも似たり寄ったりでしたから、日本人のオリンピック好きはここに原点がある、と言ってもよいのではないでしょうか。


◆種目別金メダリストと記録、主な日本選手成績
*URSは「ソビエト連邦」、GERは「東西統一ドイツ」。当時入賞は6位まで。
<男子>
   100m ボブ・ヘイズ(USA) 10"0(=WR/OR) ※飯島秀雄:準決勝敗退
   200m  ヘンリー・カー(USA) 20"3(OR)
   400m マイク・ララビー(USA) 45"1
   800m ピーター・スネル(NZL) 1'45"1(OR) ※森本葵:準決勝敗退
  1500m ピーター・スネル(NZL) 3'38"1
  5000m ボブ・シュール(USA) 13'48"8
 10000m ビリー・ミルズ(USA) 28'24"4(OR) ※円谷幸吉:6位入賞
 110mH ヘイズ・ジョーンズ(USA) 13"6
 400mH ウォーレン・コーリー(USA) 49"6
 3000mSC ガストン・ローランツ(BEL) 8'30"8(OR)
 4×100mR アメリカ 39"0 ※日本:準決勝敗退
 4×400mR アメリカ 3'00"7
 マラソン アベベ・ビキラ(ETH) 2:12'11"2(WR) ※円谷幸吉:銅メダル 君原健二:8位 寺沢徹:15位
 20kmW ケネス・マシューズ(GBR) 1:29'34"(OR)
 50kmW アブドン・パミッチ(ITA) 4:11'12"4(WR)
 HJ ワレリー・ブルメル(URS) 2m18(OR)
 PV フレッド・ハンセン(USA) 5m10(OR)
 LJ リン・デーヴィス(GBR) 8m07 ※山田宏臣:決勝9位
 TJ ヨーゼフ・シュミット(POL) 16m85(OR) ※岡崎高之:決勝10位
 SP ダラス・ロング(USA) 20m33(OR)
 DT アル・オーター(USA) 61m00(OR)
 HT ロムアルト・クリム(URS) 69m74(OR) ※菅原武男:決勝13位
 JT パウリ・ネバラ(FIN) 82m66
 DEC ヴィリー・ホルドルフ(GER) 7887p.

<女子>
   100m ワイオミア・タイアス(USA) 11"4
   200m  エディス・マガイアー(USA) 23"0(OR)
   400m ベティ・カスバート(AUS) 52"0(OR)
   800m アン・パッカー(GBR) 2'01"1(WR)
  80mH カリン・バルツァー(GER) 10"5(=WR/OR) ※依田郁子:5位入賞
 4×100mR ポーランド 43"6(WR)
  HJ イオランダ・バラシュ(HUN) 1m90(OR)
  LJ メアリー・ランド(GBR) 6m76(WR)
  SP タマラ・プレス(URS) 18m14(OR)
  DT タマラ・プレス(URS) 57m27(OR)
  JT ミハエラ・ペネス(ROU) 60m54 ※佐藤弘子:決勝7位 片山美佐子:決勝11位
  PEN イリーナ・プレス(URS) 5246p.(WR)


◆スター選手たちの光と影
この大会のハイライトは、何といっても序盤のボブ・ヘイズ、最終盤のアベベ・ビキラという2人のスーパースターだったでしょう。
ヘイズについては別の稿でも触れましたように、100m準決勝で9秒9を記録しながら追風参考、決勝ではこの大会で初めて採用された電子計時のために10秒0の世界タイ記録に留まりましたが、バックアップの手動計時では9秒9。いわば2度にわたって史上初の「幻の9秒台」をマークしたことになります。
男子100mではこの年のWLになる10秒1の日本新記録を出していた飯島秀雄選手に期待が集まりましたが、雨中の1次予選、2次予選は順調に通過したものの、準決勝ではタイムを落として7着。師匠である吉岡隆徳さん以来の決勝進出はなりませんでした。

アベベ・ビキラは、まったく無名だった4年前のローマ大会で、裸足で出場して世界最高記録での優勝を飾り、現在のマラソン王国エチオピアのパイオニアとなった選手です。ところが東京大会の直前に盲腸炎の手術をするという緊急事態に、「裸足の王様」の物語とともに動向が注目されていました。
レースはオーストラリアのロン・クラークが驚異的なハイペースを作り、折り返し手前でこれを振り切ったアベベの独走となり、ローマの記録を3分以上も縮める驚異的記録で優勝、ゴール直後にはフィールドで柔軟体操をする余裕を見せました。
日本勢は、2年前にアベベの世界記録を破った寺沢徹、前年のプレオリンピックで2位に入り、選考会で優勝した君原健二にメダルの期待が集まり、3月にトラックから転向したばかりのスピードランナー円谷幸吉も10000mで入賞した余勢を駆っての活躍が期待されました。結果は、円谷がアベベに次ぐ2位で競技場に現れ、惜しくもB.ヒートリー(GBR)に抜かれはしたもののみごと3位銅メダルを獲得した、あまりにも有名なシーンとなりました。

日本勢で入賞を果たしたのは、この円谷の2種目と、女子80mハードルの依田郁子のみ。依田は予選・準決勝をともに2位で通過し、世界記録に0.1秒と迫る10秒6の持ちタイムからもメダルが期待され、スタートよく最初のハードルをトップで越えたところで場内の興奮は上がりましたが、結局5位となりました。
スタート前に、自分のレーンを竹ぼうきで掃き清め、ジャージを脱ぐとでんぐり返し、逆立ち。こめかみと首筋にサロメチール軟膏をベッタリと塗り付け、レモンをガブリと齧ってレーン表示台に置く…こうした一連の“儀式”は「依田劇場」と呼ばれ、当時では珍しい個性的なパフォーマンスでした。

さて、ここに挙げた、東京大会の陸上競技を象徴するかのような内外のスター選手たちが、その後たどった人生には何やら運命共同体のようなものを感じてしまいます。
ヘイズはプロフットボウラーに転向して快速WRとしてスーパーボウルにも出場するなど相当の活躍をしましたが、麻薬取締法違反で逮捕・服役。同じ100mを走った飯島は、メキシコシティ大会の後にプロ野球入りして代走専門選手として活躍。引退後に交通人身事故を起こしてやはり服役しました。
マラソンの王者・アベベは3連覇に挑んだメキシコシティ大会で途中棄権に終わった直後、交通事故で半身不随となり、それでもパラリンピックなどに元気な姿を見せていた時期もありましたが、1973年に病死。
円谷選手は現役中の1968年、依田選手は引退して幸せな結婚生活を送っていたかに見えた83年、ともに自殺を遂げています。


◆名勝負・名選手・偉大な記録・・・

円谷選手が健闘した男子10000mは、最初の決勝種目であり、私がテレビを通して初めて「陸上競技」というものに接したレースでした。

当時世界記録を持っていたロン・クラークは「オーストラリアの長距離王」と呼ばれ、この後を含め3000m、5000m、10000mの世界記録を何度も更新し、10000mでは史上初の27分台ランナーとなった選手ですが、速いペースで突っ走ることは得意でもラスト勝負のスプリント力に難があるため、大きな大会ではなかなか勝つことができませんでした。そのクラークが、当時の世界記録にも迫ろうかという速い展開に持ち込み「してやったり」と考えたというこのレース、しかし最後まで食らいついて離れなかったのがモハメド・ガムーディ(TUN)とビリー・ミルズ。いずれも、レース前は決して下馬評に上るような存在ではありませんでした。
この3者が演じたラスト1周のデッドヒートは、陸上競技のオープニングを飾るにふさわしい名勝負となり、2度にわたって外に弾き飛ばされかけながら逆転したミルズの走りは、アメリカ・インディアンゆえにいわれのない差別を受け続けたそれまでの経緯などを絡めて、後年映画にもなったほどです。
私にとっても、「陸上マニア」への道を決定づけた、はじめての名勝負でした。

棒高跳の9時間超に及ぶ「死闘」は、決勝進出者が19名もいたことと時間制限がより悠長だった当時のルールゆえですが、最後の跳躍で逆転優勝を決めたハンセンは、これでオリンピック棒高跳でのアメリカの不敗記録(15大会すべてで優勝)を守ったことになります。この熱戦の様子を実況アナウンサーだった羽佐間正雄氏が記したエッセイは、学校の教科書にも採用されたほどに、ドラマチックなゲームとして語り継がれたものです。

女子の種目は当時、ずいぶんと少なかったことが分かります。
この中でも、400mはこの大会から採用された新種目で、800mも前大会から復活したばかりでした。(戦前、人見絹江さんが銀メダルを獲得したレースで「800mは女性にとってあまりにも過酷」ということになり、長い間廃止されていたのです)
その400mで大本命のアン・パッカーを破って優勝したベティ・カスバートは、8年前の地元メルボルン大会で100m、200mの2冠を制しており、「短距離個人3種目制覇」というオリンピック陸上競技史上後にも先にもない偉大な記録を、8年越しで達成しました。
なお敗れたパッカーは、「専門外」の800mでこれまた見事に優勝し、ゴールを駆け抜けたその脚で招集所付近で見守っていた婚約者の胸に飛び込むという、微笑ましい姿で話題になりました。

大記録と言えば、男子円盤投を制したアル・オーターはこれで陸上競技では初となるオリンピック3連覇。次のメキシコシティで、前人未到の偉業に挑むことになります。

その他では、女子砲丸投と円盤投の2冠を制し「女大鵬」と呼ばれたタマラ・プレスと、小柄ながら五種競技(当時は七種ではなかったんですね)に優勝し80mHと砲丸投でも入賞したイリーナ・プレスのプレス姉妹、当時中長距離界に旋風を起こしていたニュージーランド式指導法の申し子だったピーター・スネル、膝の手術を克服して三段跳連覇を達成したヨーゼフ・シュミットなどが話題を集めました。


 
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