豊大先生流・陸上競技のミカタ

陸上競技を見続けて半世紀。「かけっこ」をこよなく愛するオヤジの長文日記です。 (2016年6月9日開設)

<再掲載>連載「懐かしVHS時代の陸上競技」#3 ~1987年/第22回福岡国際マラソン



今回発掘のVHS映像は、1988ソウル・オリンピック代表選考会となった、前年暮の『福岡国際マラソン選手権』です。
前回ご紹介した97年の世界選手権から遡ること10年…ということはですね、テープの状態がかなりよろしくないです。しばしば片伸びや皺による画面の乱れが目立ちますが、まあ何とか鑑賞には耐えました。そもそもこのくらいの時代のマラソン中継ってそれ自体、中継車が揺れるたんびに画面よく乱れましたからね。

1987FUKUOKA01
スタート直前、児玉泰介らと談笑する中山竹通。第一声は
「寒いねぇ~!」だったようです。(口の動きから推察)


1988ソウル五輪の代表選考レースです。この後に行われた、『第9回東京国際マラソン』『第43回びわ湖毎日マラソン』とセットで語る必要がありますので、そちらの方にも若干触れていきます。
なお、福岡国際マラソンは2019年大会が「第73回」と謳われており、その32年前の大会が「第22回」というのは整合しませんが、当時は『国際マラソン』としてリニューアルされた1966年大会を「第1回」とカウントしていたためです。現在では『金栗賞朝日マラソン』として熊本で開催された1947年大会を「第1回」としていますので、その数え方でいうと1987年大会は「第41回」ということになります。
現在同大会の中継放送はテレビ朝日系列が行っていますが、当時(1991年まで)はNHKが中継していました。メイン実況は競泳の名実況者として鈴木大地や岩崎恭子の金メダルを伝えた島村俊治アナ。解説はかつての日本の大エース宇佐美彰朗さん、中継車解説は現役ランナーで福岡出場経験10回を誇る喜多秀喜(神戸製鋼)です。

◇世紀の選考レース、その背景
この頃、日本の男子マラソン界は絶頂期を迎えていました。
陸連が指定する強化選手の最上位に名を連ねた選手たちは「8人のサムライ」などと称され、誰を出しても世界大会の表彰台を狙える実力があったと言われています。
 瀬古 利彦(エスビー食品) 2:08’ 27"
 新宅 雅也(   〃   ) 2:09’ 51"
 宗   茂(旭化成) 2:09’ 05" 6
 宗   猛( 〃  ) 2:08' 55"
 児玉 泰介( 〃  ) 2:07' 35" (NR)
 谷口 浩美( 〃  ) 2:09” 50"
 伊藤 国光(カネボウ) 2:07’ 57"
 中山 竹通(ダイエー) 2:08' 15"

「サブテン」が一つの世界基準と言われた時代ですが、8人の他にも、喜多、仙内勇(ダイエー)、西政幸(旭化成)、阿部文明(NEC)、工藤一良(日産自動車)等々、2時間10~11分台で走る選手はゴロゴロいて、まさに黄金時代でした。
オリンピック前年の暮が近付き、日本陸連は『福岡』『東京』『びわ湖』の3大会を代表選考会としながらも、「有力選手は12月の福岡国際に出場することが望ましい」という指針を表明しました。80年のモスクワ、84年のロスがそうであったように、結果によっては福岡国際一発で3人の代表を決めてしまいたい、という目論見です。大資本や広告代理店の思惑が重要視されていなかった時代のことですから、そうした方針は陸連の意のままだった、と言えます。
ちなみに、この年はローマで第2回世界選手権が開催されていますが、当時は世界選手権の成績を代表選考に反映させるという発想がなく、冬場の選考会シリーズを最大目標とするマラソンの一線級は、すべて敬遠するという傾向がありました。ローマの男子には西、阿部、大須田祐一郎という“Bチーム選抜”3人が代表として参加しますがいいところなく、ヱスビー食品に所属するダグラス・ワキウリ(KEN)が優勝しています。

「事件」は11月に起こりました。
代表最有力候補の一人と見られていた瀬古が、『東日本実業団駅伝』に出場した際、タスキリレーの直後に足首を捻挫、福岡への出場が不可能となってしまったのです。
これを受けて陸連は前言を撤回し、「東京・びわ湖の結果をも選考材料に加える」と大慌ての声明を出しました。つまり、どちらかのレースで一定以上の結果を出せば、代表候補として選考の俎上に載せる、という瀬古のための救済措置です。

幻となったモスクワ五輪の頃から「世界最強」と言われ続けてきた瀬古は、84年ロス五輪で一敗地に塗れた後、結婚や恩師・中村監督の急死といった紆余曲折を経ながらも、ロンドン、シカゴ、ボストンと海外のメジャー大会でことごとく圧勝し、いよいよ日本の大黒柱としての評価を高めていました。加えて代表選考の場となる福岡は、前2回の選考レースを含めて4度優勝している勝手知ったるレース。(多少コースが変わっていますが)当然、本命中の本命と目されていました。

「8人のサムライ」のうち、瀬古、宗兄弟、伊藤の4人はモスクワ以来のライヴァルです。一方あとの4人は、ロス五輪以降に台頭してきたいわば新勢力。特にロス五輪直後の福岡で優勝してトップ戦線に躍り出た中山は、外見も経歴も、またそれ以降のレースぶりも、そして言動も、従来のマラソン界の常識を覆す特異な存在として輝いていました。
世界的にも長身ランナーで知られた宗兄弟を上回る180㎝の長身。骨太の体格に、いかつい異相。
高校卒業後に安定した就職先に恵まれず、転々とした末に新設のダイエー陸上部に加入。
そのレースプランは自由奔放で、時に突然集団を置き去りに独り先頭をひた走り、時に集団の中で前後左右に位置を変えながら様子を伺うという破天荒さ。
遠慮のない物言いには不器用さを感じさせる一方で、聴く人によってはその外見と相俟って、「不遜」と捉えられることがしばしばでした。86年には、瀬古が賞金レースであるシカゴマラソンに派遣された一方で自分がソウル・アジア大会代表に指名されたことについて、「不公平感」を匂わせる発言をしたとも言われています。
王者・瀬古の現役時代が「寡黙な修行僧」「謹厳実直な好青年」というイメージに塗り籠められていた(実態は、今と同じく饒舌で駄洒落好きの、明るい若者だったようです)のに対して、アンチテーゼとしての中山には「ヒール」もしくは「ダーティーヒーロー」のレッテルが貼られました。


◇這ってでも出てこい!

その中山こそが、本命の瀬古を脅かす最右翼。すでにマラソンでは1985年のワールドカップで2時間8分15秒のベスト(当時の日本記録)を出して瀬古を上回り、スピードスター瀬古の“勲章”であった10000mの日本記録までも、この年の7月には更新しています。
世間の注目は、「勝つのは瀬古か中山か。3番手は残る4強の中の誰か?」(この時点で宗兄弟は力の衰えが明らかで、自身もセミリタイアのような心境だった模様。宗茂は福岡に出場すらせず引退を表明し、宗猛は招待選手の待遇を辞退しました)という下馬評に沿って集中し、異様なまでの熱気が渦巻き出していました。
その矢先での、瀬古のリタイアでした。

「瀬古よ、這ってでも出てこい!」
瀬古のレース回避とそれに対する陸連の対応について感想を求められた中山がこんなコメントを返したとして、翌日のスポーツ紙の一面には特大の見出しが躍りました。
これについて後年尋ねられるたびに、中山は
「いやあ、僕はそんなこと言ったつもりはないんですが…」
と苦笑を浮かべたそうです。
実際には、中山が発したコメントは
「まあ僕だったら、這ってでも出ますけどね」
というものだったようです。
つまり、陸連の瀬古に対する絶大な信頼と優遇を半ばやっかみつつも、もし悪役イメージの自分が同じ境遇になれば決して救済はされないだろう、だから這ってでも福岡に出る以外に選択肢はない、という感想だったのです。中山にとっての瀬古は常に「雲の上の存在」であり、その背中を目標とするところに己の競技人生がありました。同じ土俵に立つ者として当然の敵愾心はあっても、畏敬の念に変わりはなく、そんな自分がそういう物言いをするわけがない、というのが後年の中山が言いたかったことのようです。
込められた真意はどうあれ、そのコメントは中山のキャラクターに似つかわしく、「這ってでも出ろ!」と過激にアレンジされて公のものとなりました。
マラソンのオリンピック代表選考が紛糾し、その紛糾がマスコミを媒介として形を変え増幅していくという悪しき風潮が、ここに生まれました。(それ以前にも紛糾事例はありましたが、マスコミがここまで介入するようになったのは初めてでしょう)
この現象はその後、4年後のバルセロナ大会(松野明美騒動)に引き継がれ、MGCが考案されるまでのオリンピアード行事となっていくのです。


◇もう一つの伝説「雨中の大激走」

中山が発したとされるコメントが長く陸上界に「伝説」となったのとともに、レースそのものも日本マラソン史上に語り継がれるものとなりました。
こうした勝負が重要視されるレースでは、ペースメーカーがいない限りは互いにフロントランナーとなることを避け合い、スローペースで推移するのが通例です。ましてや、当日は冷たい雨が降りしきり、気温7度前後、風速4~5m/sという辛いコンディションでした。
ところがこのレースでは、タンザニアの伏兵ロバート・サイモンがとんでもないペースで飛び出したことと、本命の中山が何食わぬ顔で序盤からそれを掴まえに行ったことが、中盤まで大集団で進むだろうと思われた展開を一変させました。

5㎞を14分30秒で通過したサイモンを中山が5秒差で追い、これに釣られるようにしてベライン・デンシモ(ETH)、谷口、西、仙内、新宅、そして宗猛といったあたりが棒状の隊形で追走します。
一旦中山らの集団に吸収されたサイモンは、その後もしばしば思い出したようにスピードアップしては独り抜け出し、また吸収されることを繰り返したためペースは落ち付く暇もなく、10㎞を過ぎると谷口以下の追走集団は遅れ始めて3位グループを形成することになります。そこからさらに遅れて、児玉と伊藤を核とする第3グループ。前からこぼれてきた西が吸収され、東ドイツ勢なども含まれ、人数は12、3人というところ。
15㎞あたりで中山は完全にサイモンを振り切り、独走状態になります。途中計時は世界最高、日本最高のそれを大きく上回り、気象条件を考えれば無謀なオーバーペースにも思えます。
やがてサイモンが失速して、2位集団は新宅、谷口、仙内、デンシモの4人。新宅が前を引く時間が多く、この中では最も調子が良さそうな気配。
7位グループは児玉が牽引していましたが次第に切れ味が悪くなり、元気なのが坂口泰、谷口伴之のエスビー勢。これに前年4位と健闘した工藤、
翌年の大会を制することになる渋谷俊浩(雪印)、韓国代表入りを目指している金哲彦(リクルート)などが食い下がって、高速レースならではのハイエナ戦法に望みを賭けます。すでに伊藤は脱落気味、宗猛は圏外に去ってしまいました。
1987FUKUOKA02
サイモン(TAN)を置き去りに独走態勢に入ろうとする中山。

1987FUKUOKA03
追走集団の右から新宅、谷口、デンシモ、仙内

1987FUKUOKA04
さらに後方の追走集団。右から坂口、西、トルスチコフ(URS)、児玉、渋谷、
ハイルマン(GDR)、金。坂口のさらに右には工藤がいます。


中山のハーフの通過は1時間01分55秒。単純計算ならば実に2時間03分台の猛ペースになります。
この時点での世界最高記録はカルロス・ロペス(POR)の2時間07分12秒。これはロス五輪金メダルの8か月後にロッテルダムマラソンで叩き出したもので、序盤は比較的ゆったりとしたイーヴンペースだったため、35㎞までは日本最高記録(児玉の2時間07分35秒)のスプリットタイムの方が速くなっています。ハーフで中山はこのロペスのペースを1分29秒上回っています。
耽々と我が道を行く中山は、そのイメージとは少し異なり、非常に端正でバランスのいい、美しいフォアフット走法で突っ走ります。それは、地道で豊富なトレーニングを雄弁に物語るフォームでした。瀬古が宗兄弟の練習量を聞いて恐れ戦き、その宗兄弟が中山の練習ぶりを見て「俺たちの時代は終わった」と肩を落とした、と言われたのも頷けます。

かつては「海の中道」という博多湾に突き出した砂州の中央を進んでいき「雁ノ巣」という場所で折り返すのが特徴的なコースだったのが、85年大会から手前の「和白丘」折り返しへと変更になり、その分序盤に周回コースで距離を調整しているため、折り返し点は26㎞過ぎの地点。
お互いの差が実感できるここで、中山と2位グループからやや抜け出した新宅、デンシモとの差は1分32秒。以下仙内、谷口、サイモンと続いた後、工藤が引っ張り始めた7位グループは3分04秒差。
もはや、この時点で中山の優勝、2番手の椅子が新宅、谷口、仙内のいずれかというのは確定的な形勢となって、あとは中山の世界最高記録なるかが焦点ということになりました。
1987FUKUOKA05
1987FUKUOKA06
35㎞までは、「世界最高大いに有望」との観測が出ていました。

その中山のペースは25㎞で初めてラップが15分台に落ち、なおも快走を続けて35㎞まで日本最高、世界最高のスプリットを大きく上回りますが、その辺りから目に見えてスピードダウン。35㎞からの5㎞ではとうとう16分22秒にまでラップが落ち込んで、最後の切り替えもできずに記録更新はおろか自己ベストにも及ばず、大会記録タイ(R.ドキャステラ。コースは異なる)の2時間08分18秒でのフィニッシュとなりました。
このレースで中山は、1回もドリンクを摂っていません。気候・気温を鑑みれば、水分補給という意味ではそれでもよかったかもしれませんが、糖分補給を怠ったことが、最後の最後にエネルギー切れを招いたのではないかという憶測もあります。
とはいえ、そのパフォーマンスはあまりにも衝撃的でした。このコンディションでこの記録は、当時の状況からは破格にして世界トップの実力があることを十分に証明してみせるもので、おそらく瀬古が出ていたとしても敵わなかっただろうと思わされます。

さて注目の「2番目の椅子」は、こちらも折り返しを過ぎて新宅の独走状態となり、「中山とそれ以外のレース」の中では一枚上手の実力を示しました。
ソウル代表が決定的となった新宅は、モスクワ(不参加)での3000mSC、ロスでの10000mに続いて3大会連続の、それも全て異種目でのオリンピック出場という空前絶後の業績を上げました。ちなみに新宅は、アジア大会でも3大会連続、3000mSC、5000m、10000mでの異種目金メダルという快挙を達成しています。
谷口は新宅らとの2位争いの中で、脚に痙攣を発するなどして終盤得意の粘りを発揮できず6位に沈み、第3グループから追い上げた工藤が日本人3位になって、「残り1枠」の候補者として東京・びわ湖の結果を待つこととなりました。
伊藤は17位。序盤で先頭に食らいつく動きを見せた宗猛は折り返し点でストップ。放送車の解説席で戦況を見守った喜多秀喜とともに、一つの時代の終焉を物語る結果となりました。
1987FUKUOKA07


◇そして、瀬古は…

2月の『東京国際マラソン』には、福岡の結果に悔いを残した谷口浩美など何名かの選手が「追試」に応募したものの、谷口は後半の日比谷付近で早くも失速。結果8位となって、ソウル代表の望みは完全に断たれました。
3月を迎えて、ようやく負傷癒えた瀬古が『びわ湖』に登場。
外国人招待選手の参加はなく、他に有力選手と言えばこれも再挑戦となる西政幸くらい。快晴となったレース当日は早春の日差しがもろに照り付け、気温17度、体感温度は20度を超える、福岡とは真逆の厳しいコンディションとなりました。
おおよそ15分/5㎞の快調なペースを刻んだ瀬古に誰一人ついていくことができず、レースは瀬古自身初めての経験となる序盤からの一人旅になりました。
いつも他人の背中を借りて好結果を出すと言われた瀬古とすれば、真の実力を示す絶好のチャンスとも言えたのですが、高い気温のためか故障明けの調整不足なのか、或いは三十路を過ぎての体力の衰えなのか、後半は著しいペースダウン。福岡で3番手の工藤か記録した2時間11分36秒が一つの目安と言われていながら、独走優勝とはいえゴールタイムは2時間12分41秒に留まりました。
ゴール間近で、汗びっしょりの顔を苦痛に歪める瀬古の姿が大きくテレビに映し出され、この時点で「王者の落日」を感じ取ったファンは少なくありませんでした。直接対決こそ叶わなかったものの、時代は確実に、瀬古から中山へ、禅譲が行われたのです。
瀬古にとっては福岡、ボストン、東京、ロンドン、シカゴに次ぐ6つ目、通算10回目のメジャー・タイトル。しかしこれが、最後の優勝レースとなりました。東京国際マラソン誕生以降、日本国内3大メジャーを全て制したランナーは、後にも先にも誰もいません。

結局、中山・新宅・瀬古と、3人の代表は意外にすんなりと決定されました。
もしも福岡での日本人3番手が工藤ではなく瀬古と同じ候補指定選手の谷口で、そのまま東京に出ることなく静観していたならば、論理的に言って3つ目の切符の行方はもっと紛糾していたことでしょう。瀬古のタイムが悪かったことは気温が高かったこと、2着になった実力者の西に3分近い大差をつけたことが、酌量さるべき情状となり、瀬古の実力は証明された、と陸連は判断したのです。
本番のオリンピック。エースとして臨んだ中山は、前年の世界選手権メダリストの3人(ワキウリ、サラ、ボルディン)とともにメダル争いを繰り広げながら独り取り残されて4位。瀬古はロスに続いて入賞にすら及ばず9位。
己の限界を確かに感じ取った瀬古は、ガッツポーズでのゴールで、12年間のマラソン人生を締めくくりました。

『第105回日本陸上競技選手権』観戦記+α ⑦⑧



ちょっと更新が滞ってしまいまして、気付けば『日本選手権』から2週間以上が過ぎてしまいました。
『ホクレンDC』も今日から終盤戦、そして今日は陸上月刊誌の発売日とあっては、「何を今さら」感は免れませんが、大会中最も印象深かった2つのレースに触れずしてすっとぼけるわけにはいきませんので、「遅い!」を承知の上で書き残しておきたいと思います。

⑦3000mSCの栄光について
男子3000mSCは、現在の男子長距離界最大のホープ・三浦龍司(順天堂大2)が初優勝、2位の山口浩勢(愛三工業)、3位の青木涼真(Honda)ともども標準記録を突破しての代表内定、レースでは12着と惨敗した塩尻和也(富士通)がWR圏内ということで補欠選手に選出される結果となりました。

「転倒しながら日本新・優勝」という三浦選手の強さが大いにクローズアップされたわけですが、彼はまだまだ、こんなもんじゃないですね。
ラスト1周(421m)の“上がり”タイムは、約66秒。コーナーの外周に水濠がある競技場は日本独特みたいなものですから、一概に“世界”との比較がしにくいのですが、5月に国立競技場で最初の日本新をマークした時には内周水濠のコース(390m)で約60秒。「世界標準」は57~58秒といったところで、3000mSCの場合は平場の5000mや10000mのように爆発的なスパートが長く継続する形にはなりにくいため、キプルトやケンボイなど、ケニアのトップ選手でも大体こんなものです。
三浦選手の「鬼スパート」は関東インカレの1500m、5000mや箱根駅伝予選会のハーフマラソン・ディスタンスでも実証済み。もはや日本国内では傑出した瞬発力と言えますし、「世界」に伍しても遜色がないレベルに近付いていると言えると思います。

さらに、三浦選手は非常にハードリングのセンスがよく、中盤まで省エネの足掛け方式、終盤で綺麗なフォームのハードリングに切り替えるというあたりもスタイリッシュかつ合理的です。
3000mSCの障害飛越技術というのは非常に奥が深くて、飛越そのものにかかる時間的効率と脚への負担、スピードの維持をどう折り合わせるかが、常に重要な課題となります。水濠障害をノータッチで越えたり足を濡らすことなく水濠を跳び越えていったりするケニア人ランナーを「凄い!」と言いますが、逆に水濠の深みに着水したり、遠くへ跳ぶことによって大きなスタミナ・ロスを被ることのデメリットも、併せて考える必要があるのです。通常の置き障害にしても、よほど楽に美しくハードリングをするのでなければ、むしろ一旦足を掛けて勢いをつけることで、スピードを殺さない跳び方をするほうが効率的な場合も、多々見られます。
三浦選手は序盤で障害飛越に関わる疲労と他者との接触のリスクを極力抑え、終盤では走力とともに障害飛越エネルギーをも解放させるため、流れのいいラストスパートを繰り出せるところが最大の武器となっています。


長い間、日本の陸上界にとっては「お荷物」的な存在だった男子3000mSC。特に日本はマラソンに人気があることもあって、この種目に専念するという人材が少なく、将来的にマラソンを見据えた一つのプロセスとして取り組むケースが多くありました。(三浦選手も、いずれはそういうことになるかもしれません)
しかしながら、私が陸上競技を現地で観戦するようになった中学生くらいの頃は、この種目がトラックレースの花形の一つでした。
順大OBの小山隆治(クラレ)が1971年から日本選手権6連覇。もう一人、竹内章(日立造船)というライバルがいて、両者で何度も日本記録を塗り替えながら常に激しいデッドヒートを繰り広げたものです。さらに、『スポニチ国際陸上』などにはキプチョゲ・ケイノ、ベン・ジプチョというケニアのトップ選手が来日し、「世界のサンショー」を披露してくれていました。72年ミュンヘン・オリンピックでは金・銀をケニアのその2人が占め、小山選手は予選で初めて8分30秒を突破する日本新で決勝に進み、9位になっています。これが、オリンピックにおける日本人選手の最高成績です。

小山選手の6連覇の後を承けたのが、新宅雅也選手(日体大~エスビー食品)です。4連覇を含む5度の日本選手権優勝。新宅選手はその後トラックの5000、10000、さらにはマラソンと距離を延ばして、最終的には史上最も激しい代表争いが繰り広げられた、88年ソウル五輪のマラソン代表となりました。アジア大会では3000mSC・5000m・10000mと異種目で3大会連続金メダル。オリンピックでも、不参加のモスクワから3000mSC・10000m・マラソンと異種目で3大会連続代表となった偉大なランナーでした。

「新宅時代」に1度だけ、日本選手権を制しているのが、現在陸連の重鎮であり、また『ホクレンDC』では本日も軽妙なパーソナリティを務めてくださるであろう、河野匡さん(筑波大:当時)です。
河野さんはむしろ、指導者となってから世にその名を知られる存在となった感がありますが、その大大先輩と言えるのが、1947年から日本選手権9連覇を果たした高橋進さん(広島陸協~八幡製鐵)。前の東京オリンピックの時代には君原健二さん(1968年メキシコシティ・オリンピック、マラソン銀メダル)のコーチとして名を馳せ、テレビのマラソン解説者としても1984年のロス五輪あたりまで、唯一無二と言える存在の方でした。
いま、「名選手から名指導者へ」の道を歩みつつあると思われるのが、2001年から5連覇、さらに1年置いて3連覇を重ねた岩水嘉孝さん(順大~トヨタ自動車~富士通)です。まさに三浦選手に破られるまで18年間、日本記録保持者であり続けた21世紀のレジェンドは、今年から資生堂の監督として、「強く、速く、美しい」女子ランナー育成の大任に就いています。
遂に到来!肉も魚も食べるダイエット/ライザップ

この他にも、歴代日本チャンピオンの中には陸上長距離界で名を遺す名ランナーの名が並びます。
1961年優勝は、中央大黄金時代の一翼として箱根路に健脚を誇り、NTVの箱根駅伝解説でもお馴染みだった横溝三郎さん。
64年東京オリンピックの年には、大東文化大監督、関東学連会長、日大監督などを歴任した青葉昌幸さん(日大)。ただし青葉さんは、前述の横溝さんや後述の猿渡さんを含む五輪代表3人の中には選ばれませんでした。
翌65年からは、猿渡武嗣さん(八幡製鐵)が5連覇して、一時代を築きます。確か、66年か70年のアジア大会だったと思いますが、水濠で頭から墜落するように転倒しながら金メダルを獲得したことがあったという記憶があります。
外国人選手も正式参加を認められていた大会で、仙台育英高時代の94年に8分19秒21という大会記録、当時のジュニア世界記録を叩き出したダニエル・ジェンガ選手の走りは衝撃的でした。全国高校駅伝で史上初の3年連続区間賞、流通経済大進学後はさらに日本選手権を2度制覇。後にマラソンに進出し、東京国際マラソンと東京マラソン(初代王者)の両方を制覇した唯一人のランナーとなりました。
岩水さんが連覇中に唯一敗北を喫したのが、2006年、当時中央学院大の篠藤淳選手。今なお残る箱根9区の区間記録保持者です。最後の水濠、乾坤一擲のノータッチ・ハードリングで常勝・岩水を振り切った名勝負でした。2014年に再度王座に就いた、息の長い3000mSC専門ランナーです。

そして、6連覇の小山さん・8回優勝の岩水さん・新王者三浦選手とともに、脈々と伝統を受け継いでいるのが「サンショーの順天堂大」ですね。
88・89年に連覇した山田和人さん、92年優勝の仲村明さんは、86~89年に箱根駅伝V4を達成した順大黄金時代の超強力ツートップ。(ただし2人の4年生時は5連覇を阻まれる)
そして、2016年、順大1年時にリオ五輪代表となり、18年に日本選手権を初制覇した塩尻和也選手(富士通)。
日本記録もまた、小山さんの後、新宅さん(日体大)を挟んで岩水さん、そして三浦選手と、順大の面目躍如たる受け継がれ方をしてきています。

そしてまた、三浦選手の日本人離れしたスパート力も、順大の大・大・大先輩になる澤木啓祐さん以来だと思います。半世紀以上前のヨーロッパのレースでモハメド・ガムーディ選手やキプ・ケイノ選手をバッサリと斬り捨てたと言われる澤木さんのラストスパートもまた、順天堂大のもう一つの伝統として、若き三浦選手に継承されているような気がしてなりません。
そんな日本のサンショーがオリンピックの舞台で世界にチャレンジするのは、陸上競技が始まる7月30日の、しかも“いの一番”のオープニング・レースです!


⑧スプリント・ハードル界にも伝統の風

伝統についてもう一つ。サンショーだけでなく、男子110mHと400mHにも、根強い伝統校の勢力が隠然と残されていますね。
そう、ハードルといえば法政大の伝統です。今回も、110mHには金井大旺選手(法政大~ミズノ)が、400mHは黒川和樹選手(法政大2)がしっかりと名乗りを挙げています。
過去には、400mHで苅部俊二・斎藤嘉彦・為末大・岸本鷹幸と、立て続けに日本のエースを輩出。110mHのほうでは、今世紀初頭に「谷川・内藤時代」を築いた内藤真人さん(法大~ミズノ)、少し間を置いて矢澤航選手がトップで活躍しました。もっと古いところを言えば、1969・70年の日本選手権を勝ち、その後母校の教授・解説者として長く活躍された渡部近志さんという方がいました。3連覇を狙った大会でしたか、私の観戦する目の前で派手に転倒して敗れ去った姿を、よく憶えています。

ヨンパーには順大勢力というのも侮りがたく、山崎一彦・河村英昭・吉澤賢(現競輪選手)といったオリンピアンを輩出していますが、最近は少々低迷気味。
110mHの順大勢はそれに比べるとこれまで劣勢でした。パッと思い浮かぶのは、日本選手権を制し、その後ボブスレーで冬のオリンピックに出場を果たした井上将憲さんくらい。(確か、奥様は鯉川なつえさんでしたか?)
※7/15追記 初めて13秒台の世界を切り拓いた岩崎利彦さんを忘れてましたね!
ところが、その劣勢を一気にひっくり返す大攻勢に出ることになったのが、泉谷駿介選手と村竹ラシッド選手の大活躍でした。

泉谷選手には、たまげましたね。4月の織田記念での金井選手の日本新記録・13秒16にもたまげたもんですが、それを一気に0.1秒も更新して13秒06とは!!
0.1秒“も”更新したのはあくまでも金井選手の記録でして、自身のPBは実に0.24秒も、咋シーズンからは0.30秒も伸ばしちゃったんですから、まさかまさかでした。
その後を追うようにして村竹選手も予選で13秒28。「鉄壁」と思われていた代表候補トリオのうち、調子が今一つ上がってこない高山峻野選手あたりが食われそうな勢いを感じさせました。この時点では、泉谷選手のベストをも上回っています。石川周平選手ともども、決勝のフォールス・スタートは返す返すも残念でした。

男子110mHという種目は、ここ数年世界的に記録のレベルが停滞していて、先ごろの全米トライアルでは久々に12秒台の声を聞いたとはいうものの、主要な世界大会での優勝タイムは概ね13秒0前後。年間トップリストでも、泉谷選手の13秒06はここ5年間どの年でも世界の4位以内、仮に昨年ならナンバーワンとなる記録でした。
大体のところで言うと、世界大会の決勝進出ラインが13秒2台、13秒0台ならば確実にメダル争いというのが、目安となってきます。
ということは…調子が悪いといっても13秒37でまとめた高山選手(PBは13秒25)までを含め、日本選手は順当にいけば全員準決勝進出はまず安泰。そのまま決勝に3人の名を連ねることも、あながち夢ではありません。そして、再び13秒0台の記録が出るようなら…!
もちろん、五輪の大舞台で実力をまったく発揮できずに終わる、というのが日本人選手の悪しき伝統ではあり、殊にワンミスで奈落に転落するような種目のことですから、過度の期待はするべきじゃないんでしょうけど、でも、期待しちゃいますよねえ。

2004年のアテネオリンピックで谷川聡さんが13秒39を出して準決勝に進出して以降、私は日本の110mHにずっとやきもきし通しで、どちらかというとあんまり見たくない種目の一つになっていました。それが、この3年間で急激にこんな状況になるとは、想像もできませんでした。
世間的には100mの盛り上がりの方が遥かに上ですが、実はそれよりもずっと「世界」に忍び寄っている激熱種目、男子110mH。オリンピック選考会のフィナーレを飾る(実際にはその後、男女の200mが残っていましたけど)に相応しい、素晴らしいリザルトでした。

『第105回日本陸上競技選手権』観戦記+α その⑤⑥



その⑤ 男子4×100mリレー代表選考事情

7月2日、オリンピック陸上競技代表選手の全容が発表されましたね。
発表されてみれば、結局のところ個人種目で資格(標準記録突破またはワールドランキング圏内)を持つ選手は、種目あたり3人を超えない限りは全員が、4人目がいる場合は補欠として、すべて代表に選出されたことになります。( 2日以降にWR圏内に入った3000mSCの塩尻選手も、補欠に追加されました)
実はWRでぎりぎりターゲットナンバーに届かず涙を呑んだ選手の何人かは、今後最終エントリーまでの間に出場辞退を表明する選手が出ると、追加で招集される可能性があります。
女子やり投では、今季ブレイクの上田百寧選手が“次点”の33位。佐藤由佳選手が34位。また男子10000mではTN27に対して田澤簾選手が29位と、このあたりは結構な確率でインヴィテーションが来るのではないでしょうか?ただ女子JTの場合、33位と34位はまったくの同ポイント(ビッグポイントの差)で、32位とは僅か1点差。このまま追加がなかったとしたら、日本選手権の結果が悔やみきれないものとなるでしょうね。(日本選手権で1つでも順位を上げていれば、圏内でした)

またリレー代表としては、事前に陸連が提示した「代表選考要領」のとおりにロジカルな手続きを以て、代表選出となりました。
全体として結果を見ると、女子やり投のように順位がポイントにシビアに影響したケース、およびリレーのような特殊ケース以外は、日本選手権の成績はあんまり関係がなかったのかな、というのが率直な感想です。

この中で一般の方々に分かりにくかった点としては、リレー代表の選考過程でしょうね。
まず、3年前の世界選手権で既に代表権を得ていた男子4×100mRと、今年のワールドリレー・シレジア大会で権利を獲得した男子4×400mRおよび女子4×100mRとでは、選考過程が異なります。また、今大会ではリレーのエントリーについてのWA(世界陸連)ルールが変わり、従来の「1カ国6名」から「5名」に、また4×100mRならば100m、4×400mRならば400mの個人種目で代表に選出されている選手は必ずメンバー入りするというように、編成が条件づけられているのです。

男子4×100mRの場合、これに従って日本選手権で100mの代表内定となった多田・山縣の両選手は、リレーメンバーとしても即日内定。7月2日の時点で3人目の100m代表となった小池選手もこれに加わりました。残る2枠には、第2の選考要綱として「第 105 回日本選手権、参考競技会の成績を総合的に判断し、リレーの特性と戦略を考慮して 選考された競技者」とあり、これに沿って桐生・デーデーが選出され、高校生の桝田選手が補欠となりました。
この第2の選考要綱というのが結構曖昧模糊としていて、陸連幹部による「総合的判断」が働いたであろうことは、仕方がないでしょう。

もともと男子4継は金メダルを目標とする最重点種目であり、最終選考会の結果はもとよりそれ以外の要素も勘案したうえで、最高の布陣を築くことが求められています。純粋にロジカルな選考過程を踏まえなければならない一方で、私が本ブログでも再三指摘してきたように、「100mの走力×4人分が400mRの実力ではない」という、奥深い4継理論を具現化するメンバー選びが必要なのです。つまり、
 ①100m競走の絶対的走力
 ②実際の4継で個々が担当する距離および走路条件を考慮し、200mの走力および走順適性
 ③バトンワークの熟練性…経験値と合同練習の頻度
 ④現時点から本番までの過程における心身のコンディション
 ⑤その他
と、さまざまな要素を加味して検討していくと、まず個人での参加資格を持ちながら個人種目で代表選出が叶わなかった桐生のメンバー入りは問題なく確定。上記では④にやや不安がありますが、その他の要件としては文句なしの有資格者です。
続いて、最終選考会の順位からいうとデーデー選手。実績としてはサニブラウン選手、さらには200mで追加代表となった飯塚および山下選手の比較ということになりますが、当面のメンバー選出としてはデーデー選手で妥当でしょう。
彼は①についての実績がまだまだ不十分ながら、最終的なメンバー選定への選択肢として残しておくためには、ここで「リレー代表」としておかなければなりません。結果的に、日本選手権の100m上位5人がリレー代表となることで、内外の賛同も得られやすい選考と言えます。
サニブラウン選手に関しては、①②の実績では抜きん出ていますが③④に大きな問題があって、「最強メンバー」の名を採るか実を採るかというところで、構想からは外れざるを得ないところがありました。

今後、選出された5人および桝田選手を加えた6人以外に飯塚・山下両選手を含めた中から、5人の最終エントリー・メンバーが絞り込まれ、予選・決勝のオーダーが組まれていくものと思われます。
最終的には代表メンバーの5人がそのままエントリーされると思いますし、全員のコンディションに問題がなければ、決勝のオーダーは「多田-小池-桐生-山縣」ということになるのではないか、というのが私の予想です。バトンワークの予行演習とメンバーの調子の確認の意味で、予選もまた同じメンバーとなることでしょう。
飯塚選手にはチームJAPANのリーダーとして、また桝田選手には将来の幹部候補生として、それぞれチーム内での役割を果たしていただけたら、と思います。
RIO040


その⑥ 男子4×400mR・女子4×100mR選考事情

この両種目の代表選考については、「オリンピック代表候補選手のうち、…」という前提条件が提示されています。この「オリンピック代表候補選手」というのは、「シレジア世界リレー選手権大会(選手権大会ではないんですけど、まあいいか)の日本代表派遣者」および「参考競技会(WAが記録を認定する競技会)でのリレー代表候補選手設定記録突破者」となっており、要は「シレジアでメンバーだったこと」が一つの条件になっています。4×400mRの場合は、混合の代表も含みます。ちなみに後者の「リレー代表候補設定記録突破者」という要件を満たしたのは、女子100mの兒玉選手ただ一人です。

さてここからは、両種目で少し選考要領が異なります。
まず男子マイル継は、「①400m代表選手」「②オリンピックリレー代表候補選手のうち、第105回日本選手権400m/200mの結果から、リレーの特性と戦略を考慮して先行された競技者」となっていて、まず個人枠で代表になったウォルシュ選手が確定。残りの4名は、世界リレーの銀メダル・メンバーがそのまま日本選手権の上位4名を占め、すんなりと決まりました。
もしも5位以下で記録的に図抜けていたり、実績・経験で考慮すべき選手がいれば一考の余地はあったかもしれませんが、まず順当な選出と言えるでしょう。

一方の女子4継は、「①100m代表選手」でこれは該当者なし。で、肝心の②ですが
「オリンピックリレー代表候補選手のうち、シレジア世界リレーに出場し、出場権を獲得した競技者…」云々となっており、これに該当するのが兒玉・鶴田・齋藤・青山の4選手。実際のレース(予選・決勝)に出場できなかった石川選手もまた、代表メンバーです。したがって、こちらもすんなりと、5人のメンバーが確定したと思われます。
ネット・ニュースの書き込み欄などを見ますと、日本選手権100m2位の壱岐あいこ選手や3位の名倉選手が選ばれなかったことについて、「不公正だ」とか「陸連に説明責任を求める」などといったコメントが目につきました。中には「8位の青山選手が選ばれたのはどう考えてもルックス重視」などという声もありましたが、調べればすぐに分かる事情をきちんと調べもしないで、無責任な投稿をするのはいかがなものかと。(とは言うものの、陸連さんの「選考要領」ページ、かなり分かり辛い処にありましたね)
今回、メンバーの1人・鶴田選手が体調万全でなかったために100mを回避、200mで2位になったことで「本番はOK」を証明してみせましたが、もし鶴田選手の脚の状態が深刻なものであれば、100m2位の壱岐(妹)選手は真っ先に選考されたでしょうが、結局補欠登録に留まった事情は、そういうことです。

かつての女王・福島千里選手の全盛期に近い実力を身に着けつつある兒玉芽生選手を筆頭に、学生陣にずらりと実力者が揃う女子短距離は、今季11秒4~5台が7人と、徐々に全体のレベルが上がっています。とりわけ兒玉選手の日本人離れした雄大な(?)下半身や石川、青山両選手の育ち切った(?)長い手足を見ていると、ますます数年後を期待してしまいます。東京大会をステップに、彼女たちが福島選手や髙橋萌木子さん、中村宝子さんらが築いた女子スプリントの財産を受け継いでくれることを、心から願っていますよ!

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